ロンドンの街区を囲む柵についての私の意見に関して読者の一人が投書してきた。
「あなたが言っている街区とは公有のものですか、私有のものですか? もし私有のものであれば、あなたの論評は平たく言って窃盗の推奨か、そう見なさざるを得ないものだと言わなければなりません」
もしイングランドの土地をイングランドの人々へ取り戻させることが窃盗なのだとしたら、私は喜んでそれを窃盗と呼ぼう。私有財産の擁護に熱心な我が投書者は、いわゆる土地所有者がどのようにしてその土地を手に入れたのか考えずには済ませないはずだ。彼らはまさに力によってそれを手に入れ、その後で弁護士を雇って土地に地籍を与えたのだ。一六〇〇年から一八五〇年に進行した共有地の囲い込みの場合には土地強奪者たちは外国征服という言い訳さえしなかった。全く気にすること無く自国民の相続財産を奪い取ったが、その口実はと言えば自分たちにそうするだけの権力があったという他には無かったのだ。
わずかに生き残った共有地、公道、ナショナル・トラストの土地、いくらかの公園、高潮の時には水面下に沈む浜辺を別にすれば、イングランドは一平方インチ残らず、数千の家族に「所有」されている。こうした人々の有益さときたらたくさんのサナダムシほどしかない。人々が自身の住宅を所有することは望ましいし、農業従事者が実際に農業を営めるだけの土地を所有することもおそらくは望ましいだろう。しかし都市部の地主には存在を正当化できる役割も理由も無い。何の見返りももたらさずに一般の人々から収奪する方法を見つけ出した人間に過ぎないのだ。家賃を上げ、都市計画を難しくし、緑地から子供たちを締め出す。収入を得ることを除けば、これこそ文字通り地主がおこなう全てだ。街区から柵を取り除くことは地主に対抗する第一歩である。実に小さな一歩だが、柵が再び姿を現している現在においては重要な一歩でもある。三年あまりの間、街区はおおやけに開かれ、その不可侵たる芝土は労働階級の子供たちの足で踏みしめられ、その光景は配当引き出し人の入れ歯を歯噛みさせた。もしそれが窃盗だと言うのであれば、私に言えるのは、それは実に結構な窃盗だということだけだ。
今回の戦争の後でこの国に旅行客を呼び寄せるための真剣な話し合いがおこなわれていることを再び書いておきたい。それによって喜ばしい外貨の恩恵がもたらされると言われている。しかしこの試みは失敗すると予言しておいた方が良いだろう。他の多くの困難を別にしても、酒類販売許可法と酒の人為相場は外国人を追い払うのに十分である。ワイン一ボトルに六ペンス払うことに慣れた人々が、どうしてビール一パイントに一シリングかかる国を訪れるだろう? しかしこうした価格さえ、外国人を混乱させるという点では、十時半には一杯のビールを買うのを許すが十時二十五分にはそれを禁じるという馬鹿げた法律に比べればまだましだ。こんな法律は、子供を排除することでパブをたんなる酒盛り場に変えるのがせいぜいだろう。
ほとんどの他の国々の人々と比較して私たちがどれほど虐げられているかは、「禁酒」とは縁遠い人々さえ私たちの酒類販売許可法を変えられるとは真剣に思っていないという事実が示している。パブを午後の間ずっと営業できるようにすべきではないかとか、真夜中まで営業できるようにすべきではないかと私が提案すると、いつも同じ答えが返ってくる。「真っ先に反対するのはパブの店主だろう。彼らは一日に十二時間も営業したくはないさ」と。これからわかるように人々は、長かろうが短かろうが営業時間は法律によって定められるべきだと思いこんでいるのだ。たとえ個人事業であってもだ。フランスやその他のさまざまな国では、カフェの店主は自分の都合の良いように店を開いたり閉じたりする。もしそうしたければ店主は二十四時間ずっと営業できるし、反対にもしカフェを閉めて一週間、出かけたければそうすることもできる。イングランドでは、百年ほどの間、そうした自由を私たちは手にしておらず、人々はそれを想像することさえできなくなっているのだ。
イングランドは旅行客を呼び寄せられる国のはずだ。たくさんの美しい風景、穏やかな気候、無数の魅力的な村や中世の教会、おいしいビール、滋味あふれる食材がある。「侵入者は訴追されます」の看板と有刺鉄線で囲い込まれる代わりに好きな場所を歩き回れ、旅宿で出てくる料理が食べるに値するものであることが当たり前になり、土曜日が人為的にひどい一日に変えられていなければ、外国人観光客がこの地にやって来ると期待できる。しかしそうしたものがそのままであれば、イングランドはもはやイングランドではなくなってしまい、想像するに私たちはもっと私たちの国民性に沿った外貨の獲得方法を何か見つけなければならなくなるだろう。
私の反ジャックブーツ・キャンペーン(「気の向くままに」一九四四年三月十七日を参照。)――一度ならずおこなっている――にも関わらず、ジャックブーツは新聞のコラムで以前と変わらず広く使われているようだ。イブニング・スタンダード紙の社説でさえ、最近、いくつかのそれに出くわした。しかし、ジャックブーツとは何なのかについて私はまだ何もはっきりとした情報を手にしていない。それは専制的に振る舞いたい時に履くブーツの一種である。これが人々の知っていることのせいぜいである。
社説で描写される段になると戦争が際立って古風な兵器でおこなわれるようになることを指摘している人々は私以外にもいる。確かに航空機や戦車がときおり姿を現すこともあるが、勇敢な態度が取られるやいなや言及される武装は剣(「剣を鞘に納めるまで」などなど)や槍、盾、バックラー、三叉槍、チャリオット、クラリオンだけになる。こうしたものは全てあきれるほど時代遅れで(例えばチャリオットは西暦五十年頃から後は事実上使われていない)、その中のいくつかは本来の用途を忘れ去られてさえいる。例えばバックラーとは何だろうか? ある学派はそれを小さな丸い盾だと考え、別の学派はベルトの一種だと信じている。クラリオンとはトランペットのことだと私は思っているが、ほとんどの人々は「クラリオン・コール」をたんに大きな音という意味としか考えていない。
初期の世論調査のひとつでジョージ六世の即位式を扱ったものでは「国事行為」と呼ばれるものが決まって古代的な言葉への後退を引き起こしているようだと指摘している。例えば「国家たる船」が公式の場で描かれる時には、それは船首と舵を持った姿で描かれ、現代の船のような艦首や動力は持たない。戦争に適用される場合について言えばこうした言葉遣いがされる動機はおそらく婉曲表現への衝動だろう。「私たちは剣を鞘に納めることはないだろう」は「私たちは大型爆弾の投下を続けるだろう」よりもずっと紳士的に聞こえる。たとえ実際には同じことを意味するとしてもだ。
ベーシック英語を支持する主張のひとつは、標準英語と共存することでそれが政治家や広報担当者の言葉遣いに対する一種の矯正として働き得るというものだ。仰々しい言い回しはベーシック英語に翻訳されると往々にして驚くほど気の抜けたものになる。例えば、私がベーシック英語の専門家に「He little knew the fate that lay in store for him(自らを待ち受ける運命を彼はわずかにしか知らなかった)」という文を示して見せたところ、ベーシック英語ではこれは「He was far from certain what was going to happen(何が起きようとしているのか彼には全くわからなかった)」となると言われた。明らかに印象は弱くなるが意味は同じだ。ベーシック英語では無意味であると悟られずに無意味な言い方をすることはできないのだそうだ――なぜ多くの教師や編集者、政治家や文芸評論家がベーシック英語に反対しているのか説明するにはこれで十分だろう。