気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年9月8日 芸術家の立場、極めて不愉快な写真、ローズベイ・ウィローハーブ


三十二ページの本としては、オズバート・シットウェル卿の「我が息子への手紙」には実に驚くべき量の毒舌が収められている。私が想像するところではこの毒舌、あるいはそれが向けられた人々の地位の高さこそが、オズバート卿に出版社を変えさせたものだろう。しかし、ときおり不公平で時に無分別となる文章の中で彼は、現代の中央集権化された社会における芸術家の立場についてどうにかして一矢報いようと試みている。例として一部を抜粋してみよう。

真の芸術家は常に戦わなければならないが、おまえやおまえの世代の芸術家たちにとってそれはこれまでよりもさらに熾烈な闘争となる、あるいはそうなり得るだろう。今度こそ労働者の待遇は改善され、労働者は報道機関やベヴァリッジの計画による賄賂によっておだてあげられるだろう。なにしろ投票の過半数を握っているのだ。しかしおまえとその運命の面倒を見てくれるのは誰だろうか? 誰が若い作家や画家、彫刻家、音楽家の信念を守る労を取るだろうか? そして劇場やバレエ、コンサートホールが廃墟となっている時に何がおまえにインスピレーションを与えるだろうか? 訓練が中断されたがために数十年の間、偉大な芸術をおこなう者は存在しなくなるのではないか? とりわけ人々がおまえに感じるであろう、まごうことなき嫌悪の量と激しさを見くびってはならない。労働者のことではない。高い教育を受けていなくとも労働者は芸術に対して相応の敬意を払い、先入観を持たない。またわずかに残った貴族のことでもない。そうではなく、その間の巨大な大群、太った中流階級と小人物たちのことだ。ここで私は敵対者としての役人について特に言っておかなければならない……どんなに良くとも、芸術監督や美術館のたかり屋、芸術や文学について書く着飾った格好で忍び笑いする仕立て屋、出版人、ジャーナリスト、有力者(自分を正当化するために彼らが言った通りにおまえが書く場合に限っておまえを助けてくれるだろう)といった狭量だが力を持った権威主義の少数の者――と、おまえが飢えるのを見ても気にも留めず、むしろ喜ぶ膨大な数の残りの者の間でおまえは打ち倒されるだろう。こうした点で私たちイギリス人はユニークである。芸術を生み出す民族であるにも関わらず、私たちは芸術を愛する民族ではないのだ。過去においては芸術は少数の非常に裕福なパトロンに依存していた。彼らが作っていた居留地が再び設立されることは決して無い。「芸術愛好家」という名、まさにそれが悪臭を放っている……今、おまえが手にしている芸術家としての特権はイシュマエル旧約聖書の登場人物。創世記十六章十二節で「人々は皆、彼にこぶしを振るう」と予言される。のそれであり、全ての人がおまえに拳をふるうのである。それゆえ憶えておくがいい。のけ者にされても決して怯えないと。

私の考えはこうしたものとは異なる。これは民主主義の美徳を過小評価し、実際は資本主義に属する特定の長所を封建主義に帰する知的な保守主義者の考え方だ。例えば貴族的なパトロンを懐かしむのは誤りである。こうしたパトロンはBBCと同じくらい人使いの荒い主人になり得るし、あまり定期的に賃金を払ってはくれない。私が思うにフランソワ・ヴィヨンフランソワ・ヴィヨン(一四三一年?-一四六三年以降)。フランスの詩人。殺人や強盗などの罪でたびたび投獄され、一時は死刑判決を受けるがその後、追放刑に減刑されパリを追放される。は現代のどの詩人よりも過酷な期間を過ごしているし、屋根裏部屋で腹を空かせている文士というのは十八世紀の典型的な人物像のひとつである。そうでなくともパトロンの時代においてはシェイクスピアがしたように時間と才能を不快なへつらいに浪費しなければならない。実際のところ、芸術家をイシュマエル、社会に何も負っていない自律的個人だと考えれば、芸術家の黄金時代は資本主義の時代だった。彼はパトロンから逃れながらもまだ役人には捕まっていなかったのだ。彼は――少なくとも作家や音楽家、役者、そしておそらくは画家でさえ――大衆を相手に生計を立てることができた。大衆は自分たちが何を求めているのか定かでないまま与えられたものの大部分を受け取るのだ。実のところ、約百年の間、例えばフローベールやトルストイ、D・H・ローレンス、そしてディケンズさえもがそうしていたように、大衆をあけすけに侮辱することで生計を立てることが可能だったのだ。

しかし、それでもやはりオズバート・シットウェル卿の言うことには注目すべき点が多くある。自由放任的レッセフェール資本主義は過ぎ去ったし、芸術家の独立した立場はそれと共に必ずや消え去るに違いない。芸術家は余暇のアマチュアか役人のどちらかになるに違いない。全体主義国家で芸術に起きていることを見れば、また、同じことがこの地でもさらに遠回しな方法で情報省M.O.I.やBBC、映画会社――こうした組織は見込みのある若い作家を買収して去勢し、馬車馬のように働かせるだけではなく、それぞれの個性的な文学的創作を奪ってある種のベルトコンベア的作業へ変えようとしている――を通して起きているのを見れば、見通しは明るくない。それでも、多くの点で芸術家や知識人に対しては概して手厚かった資本主義が絶望的な状態にあって、いずれにせよ救うだけの価値が無いという事実は変わらない。そうして二つの対極にある事実へと到達するのだ。(1)芸術家の利益となる形に社会を整備することはできない。(2)芸術家無しでは文明は滅びる。このジレンマの解答を私はまだ一度も目にしたことが無いし、それが誠実に議論されることもめったに無いのだ。


私の目の前にあるのは極めて不愉快な写真だ。スター紙の八月二十九日の紙面からのもので、服の一部を剥ぎ取られた二人の女性が、頭を剃られ、その顔には鉤十字が描かれ、にやにや笑う見物人に囲まれてパリの通りを歩かされている。スター紙は――私はスター紙だけを責めているわけではない。報道機関のほとんどが同じように振る舞っている――見た限りでは好意的な調子でこの写真を掲載している。

こうしたことをおこなっているからと言って私はフランス人たちを非難はしない。彼らは四年にわたって苦しんだのであり、彼らが敵国協力者に対してどのように感じているのかは部分的には想像できる。しかし、女性の頭を剃るのは良い行ないであると、この国の新聞が読者に信じ込ませようとするなら話は別だ。スター紙の写真を目にしてすぐに私は「以前、同じようなものを見たがどこだっただろうか?」と思った。それから思い出したのだ。十年ほど前、ナチ体制が勢いを増していた頃、ドイツの都市の通りを歩かされる屈辱的なユダヤ人の非常によく似た写真がイギリスの出版物に掲載されていたのだ――しかし違うのは、その時には私たちはそれに好意など望むべくもなかったことである。

最近、別のある新聞は、ハリコフでロシア人たちによって絞首刑にされたドイツ人の吊るされた死体の写真を掲載し、ご丁寧にも、こうした処刑の様子は撮影されていて、じきにニュース映画で目にできるだろうと読者に報せた(子供の観覧は許されるのだろうか?)。

以前、私が引用したニーチェの言葉があるが(このコラムではなかったと思う)、再び引用しておく価値がある。「あまりに長くドラゴンと戦えば自身がドラゴンとなる。あまりに長く深淵を見つめれば深淵が見つめ返してくるだろう」

この文脈における「あまりに長く」とはおそらくは「ドラゴンが打ち倒された後も」という意味だと考えるべきだろう。


個々に感謝を伝えるには多すぎるほどの投書者が爆撃跡に生える雑草についての私の質問に回答をくれた。ともかくまとめてになるが感謝したい。結論から言うとウィリアム・ビーチ・トーマス卿は正しかった。この植物はローズベイ・ウィローハーブと呼ばれるものだ。私が言及した他の植物の名前は完璧に正確なものではなく、どうやらウィローハーブには九種類あって、これはそのひとつなのだ。ウィスキーが一ビン二十七シリングもするこの時代に役立つかもしれない情報として、ある投書者の「この植物全部を漬け込むと非常に酔いやすくなる」という言葉を伝えておこう。誰か勇気のある者がこれを試したら、その結果をぜひ知りたいものである。


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