一九三六年の終わり頃、パリを経由してスペインへと向かう途中、私は知らない番地にいるある人を訪ねなければならず、そこにたどり着く一番手っ取り早い方法はタクシーに乗ることだと考えた。ところがタクシー運転手もその番地を知らなかった。ともかく私たちは車で通りへ出て、近くにいた警察官に質問した。すぐにわかったのだが、探している番地はほんの百ヤードほど向こうだった。そこで私はタクシー運転手にタクシー乗り場へ戻させて運賃、イギリスの貨幣で言えば三ペンスほどを支払おうとした。
タクシー運転手は猛烈に怒った。実に攻撃的な態度で大声をあげて「わざとやったに違いない」と言って私を責めたてた。私はこの場所がどこか知らなかったし、もし知っていればタクシーに乗らなかったことは明らかだと抗議した。「ちゃんと知ってたに違いない!」と彼は私に怒鳴り返した。年老いて白髪交じりのずんぐりとした男で、みすぼらしい白髪交じりの口ひげを生やし、実に独特な、悪意に満ちた顔をしていた。最後には私も堪忍袋の緒が切れ、怒りのあまりフランス語を話す力を取り戻して彼に叫んだ。「年寄りだから私があんたの顔を殴らないと思っているんだろう。それはどうかな!」タクシーを背に、彼は怒鳴り声をあげて、戦う気満々だった。六十歳にもなろうというのにだ。
それから支払いとなった。私は十フラン紙幣を取り出した。「つり銭がない」金を見た途端、彼は叫んだ。「自分で細かくして来るんだな!」
「どこで両替できるんだ」
「俺の知ったことか。自分でなんとかするんだな」
そこで私は通りを渡ってタバコ屋を見つけ、両替するはめになった。戻ると私はきっちり運賃分だけタクシー運転手に支払った。支払いながら、そうした振る舞いの後では多少なりとも余分に支払う理由は無いと思うと相手に告げたので、支払いの後でさらにいくらかの罵り合いを私たちはした。
この下劣な言い争いのせいで私は当時は激しく怒っていたし、少し経つと悲しく不愉快になった。「どうして人々はあんな振る舞いをしなければならないのだろうか?」私は思った。
しかしその夜には私はスペインに向けて出発した。ゆっくりと走る列車はチェコ人やドイツ人、フランス人で一杯で、全員が同じ使命のために結束していた。列車のいたる所で、ヨーロッパのあらゆる国のアクセントで、ひとつのフレーズが何度も繰り返されるのが聞こえた――「là-bas(あそこで降りる)」私の三等客車はとても若い、信じられないほど見掛け倒しな服――私が初めて目にした合成布の服だった――を着た、金髪のやせこけたドイツ人で一杯だった。彼らは停車場に着くたびに安いワインを買いに外に駆け出し、その後は客車の床でピラミッドのようになって眠りに落ちていた。フランスからの旅の中頃には普通の乗客は誰もいなくなっていた。私のような特徴の無いジャーナリストはまだいくらかいたが、列車は実質的には兵員輸送車となっていて、沿線の住民もそれをわかっていた。朝になると、南フランスをのろのろと進む私たちに、あたりの畑で働く小作農たち全員が厳粛な面持ちで直立して反ファシストの敬礼を送った。まるで儀礼式典の衛兵のように、何マイルも何マイルも挨拶をしていたのだ。
それを見ながら私はあの年老いたタクシー運転手の振る舞いが次第に納得できてきた。そこで私は彼をあれほどいたずらに攻撃的にさせたものを理解したのだ。これは一九三六年、あの大規模ストライキのあった年のことで、ブルム(レオン・ブルム(一八七二年四月九日-一九五〇年三月三十日)。フランスの政治家。第二次世界大戦中はヴィシー政権によって排斥され、ナチス・ドイツの強制収容所に収容されるものの生還し、大戦後に政界に復帰した。)政府がまだ政権を握っていた。フランスを横断した革命的感情の波は、工場労働者と同じようにタクシー運転手といった人々にも影響を与えていたのだ。イギリス的なアクセントの私は彼から見ればせいぜいフランスを美術館と売春宿の合いの子へ変えることしかしない、暇なで偉そうな外国人観光客なのだった。彼の目に映るイギリス人観光客はブルジョアジーなのだ。普段であれば雇い主である寄生者に彼はちょっとした仕返しをしていたのである。そして私は思い当たったのである。この列車を埋める複数言語が交じる軍隊、畑のあちらこちらで拳を突き上げる小作農の動機、そしてスペインへ向かう私自身の動機、あの私を罵った年老いたタクシー運転手の動機はその根底では全て同じものであったことに。
V1飛行爆弾についての公式声明は、チャーチルの以前の声明を合わせて考慮しても、あまりはっきりとしたものではない。影響を受けている人々の数について明確な数字が示されていないからだ。私たちに知らされているのは、一日当たりにロンドンへ落ちている爆弾は三十発をいくらか下回る程度であることだけだ。私が目撃した「事例」だけに基づいた私独自の見積もりでは、ロンドンに落ちるV1飛行爆弾一発ごとに平均して三十の家屋が居住不可能にされ、毎日、五千人もの人々が家を失っている。この数字から言えば過去三ヶ月で二十五万から五十万の人々が爆撃で家を追い出されていることになるだろう。
ビリヤードの上手い者は突く前にキューにチョークを塗り、下手な者は後で塗ると言われている。同様に、それが起きた後ではなく前にそれぞれの種類の爆撃に備えれば私たちはこの戦争ですばらしく上手くやれるはずだ。戦争が勃発する少し前、ロンドンでの他の役人との会議から戻る途中のある役人が私に、当局は空襲による犠牲者が最初の一週間で二十万人程度になると覚悟していると教えてくれた。折りたたみ式のボール紙の棺桶の膨大な供給が整えられ、大量の墓穴が掘られつつあった。また精神疾患の大幅な増加に備えた特別な準備もとられていた。始まってみると犠牲者は比較的少なく、精神疾患は私が信じるところでは実際は減少した。その一方で、爆撃を受けた人々が家を失って食料や衣服、避難所、金銭を必要とするだろうことを当局は予測できなかった。また焼夷弾を予測していたにも関わらず、主水道が爆弾で爆破された場合に代替となる給水設備が必要となるだろうことにも気がつかなかったのだ。
一九四〇年の爆撃への備えが完全に整ったのは一九四二年のことだった。避難所設備が増え、火災が起きた時に、まだ存在していれば歴史的建築物を救うための貯水槽がロンドン中に点在するようになった。そして次にV1飛行爆弾が現れた。それは三つ、四つの家屋を吹き飛ばして消し去る代わりに、内装を多かれ少なかれ無傷のままに大量の居住不可能な家屋を作り出した。そうして、また別の予測外の頭痛の種ができた――家具の保管である。V1飛行爆弾に襲われた家屋の家具はたいていは運び出されたが、その保管場所や運ぶための労働力を探し出すことはほとんどの場合、地方当局には荷が重かった。たいていは見捨てられた無防備な家屋に捨て置かれざるを得ず、盗まれなかった場合でも湿気でだめになってしまうのだった。
ダンカン・サンズ(エドウィン・ダンカン・サンズ(一九〇八年一月二十四日-一九八七年十一月二十六日)。イギリス保守党の政治家。戦時中にチャーチル内閣で軍需省の政務次官を務める。)の演説における最も重要な数字は連合国の防衛手段について扱ったものだ。例えば、ドイツ人たちが八千のV1飛行爆弾、あるいは八千トン弱の榴弾を撃ち出したのに対して、私たちは相手の基地に十万トンの爆弾を落とし、さらに四百五十の航空機を損耗させ、何十万、何百万もの対空砲弾を撃ち落としたと彼は言っている。現在のところはおおまかな推計しかできないが、V1飛行爆弾は次の戦争で大きな役割を果たすことになりそうである。これを大間違いだと切り捨てる前に、大砲はクレシーの戦い(百年戦争初期の一三四六年にフランス北部クレシーでおこなわれたイングランド軍とフランス軍の間の戦い)では限られた成果しか上げなかったことを思い出した方が良いだろう。