気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年10月6日 ジャーナリズムの学校、鉄道の長旅


ある投書者の許しを得て、彼女がある有名なジャーナリズムの学校から受け取った指導の手紙の一節を引用する。その「講座」を受ける際に指導員は彼女に自分の経歴や経験についての必要最低限の情報を提供するよう求め、その後で興味がある題材に関してサンプルとなるエッセーを一つ、二つ書くよう指示したことを言い添えておく。炭鉱労働者の妻だったので、彼女は石炭掘りについて書くことにした。ここに記すのは自分を「研究部門のアシスタント・ディレクター」と称する何者かから彼女が受け取った返事である。少し長くなるが引用させてもらう。

あなたの二つの習作を入念に興味深く読ませていただきました。あなたは取り上げた題材について熟知しているのでしょうが、過度に関心を奪われることには注意しなければなりません。苦境に立たされているのは炭鉱労働者だけではありません。熟練の炭鉱労働者よりも稼ぎの少ない若い海軍将校はどうでしょう――こうした人々は我が家と家族から離れて三、四年を、雪国や熱帯で過ごさなければなりません。わずかな年金や手当に頼る多くの引退生活者はどうでしょう。手にした二、三ポンドは所得税によって半分に減らされるのです。今回の戦争で私たち全員が犠牲を払っています――そしていわゆる上流階級も間違いなく大きな打撃を受けているのです。

社会主義の新聞のためのプロパガンダを書く代わりに――専業主婦たちのために――炭鉱の村での生活がどのようなものかを描いた方がよいでしょう。所有者や経営者に敵対するような脇道に逸れてはいけません――彼らは私たちと同じ、ごく普通の人間なのです――とはいえ、もしどうしても不平を述べるのであれば、できるだけ穏便にして、本筋やテーマに合うようにしましょう。

あなたの読者の多くは雇用主を奴隷監督と見なしたり、資本主義者を社会的悪党と見なしたりは全くしない人々でしょう……長々しい単語や文を使おうとせずにシンプルで自然な文章を書きましょう。あなたの仕事は楽しませることであると憶えておいてください。大変な一日の仕事の後で誰か他人の苦労の羅列を読んで頭を悩ませようという読者はいないでしょう。炭鉱での「不正」について書く自分の傾向を厳しく見張っておかなければなりません。自分たちの息子や夫がドイツ人と戦っている間に炭鉱労働者たちがストライキをしたことを忘れないであろう人々が何百万もいるのです。軍隊が戦うことを拒否したら炭鉱労働者たちはどうなるでしょう? 私がこう言うのはあなたが冷静に物事を見られるよう手助けするためです。激しい論争になっていることについては書かないようおすすめします。そうしたものはほとんど売れません。炭鉱での生活の素朴な説明の方がずっと見込みがあります……平均的な読者は他人がどのように暮らしているのかという事実を読みたがります――ただし愚か者か卑しい者でもなければ、一方的なプロパガンダを聞こうとはしないでしょう。ですから不平は忘れて、典型的な炭鉱の村であなたがどのようにやりくりしているのかについてを私たちに教えてください。女性誌のひとつがこの題材についての専業主婦向けの記事を検討するだろうと私は確信しています。

この講座に先払いで十一ポンドを支払っていたらしいこの投書者は私に手紙を送って質問してきたのだ。この指導員は彼女の書き物に無難な政治的傾向を与えようと感化することを試みていると思うか? 社会主義者のような書き方をやめるよう彼女を説得しようとしているのだろうか?

もちろんその通りだと私は思うが、この投書の意味することはそれよりも悪いものである。これが労働者に麻酔をかけようという狡猾な資本主義者の策略であるというわけではない。このいい加減な手紙の書き手は邪悪な策略家ではなく、たんなる馬鹿(文体から言って馬鹿な女性)であり、何年も続いている爆撃や欠乏に何の感想もわかない人物なのだ。これが証明しているのは戦前の思考習慣の克服不能な、雑草のような根強さである。この書き手は、見ての通り、ジャーナリズムの唯一の目的は退屈しているビジネスマンのポケットから金銭をせびることで、そのための最良の方法は現代社会の不都合な真実を告げることを避けることだと考えているのだ。つまり一般読者は考えさせられることを好まないと彼(もしくは彼女)は判断していて、それゆえ一般読者を考えさせようとしない。大金の後を追いかける他には考えることなど無いというわけだ。

フリーランス・ジャーナリズムの「講座」に少しでも関わったことのある者、あるいは今は亡きライター誌や作家・芸術家年鑑を調べて彼らに近づいたことがある者であれば誰しもこの手紙の論調には見覚えがあるだろう。「あなたの仕事は楽しませることであると憶えておいてください」「大変な一日の仕事の後で誰か他人の苦労の羅列を読んで頭を悩ませようという読者はいないでしょう」「激しい論争になっていることについては書かないようおすすめします。そうしたものはほとんど売れません」商業的な観点から見てさえこうしたアドバイスは誤解を招くものである事実には目をつぶろう。重要なのは「何事も変化することはない」「大衆はいつも変わらず麻酔を欲しがる愚か者の群れであるに決まっている」「正気の人間であれば売り物になるたわ言を生み出すこと以外の目的でタイプライターの前に腰を下ろそうなどと思うはずがない」といった前提なのである。

私が著作を始めた頃、おおよそ十五年前にはさまざまな人々が――お返しに私から十一ポンドをせしめることはできなかったにせよ――先に引用したようなものとほとんど完全に同じアドバイスを私にした。どうやら当時も大衆は失業といった「不都合」なことについては聞きたがらず「論争」的な題材の記事は「ほとんど売れなかった」ようだ。フリーランス・ジャーナリストのわびしい界隈、家具付きワンルーム・アパートやレンタルのタイプライター、返信用封筒の世界は「あなたの仕事は楽しませることである」という論理に完全に支配されていた。しかし当時はいくらかの言い訳があった。まずは広がっていた失業で、あらゆる新聞や雑誌がいくらかでも小銭を稼ごうと必死に奮闘する素人の大群に包囲されていた。加えて報道機関は今とは比較にならないほど愚かだったので、編集者は「暗い」寄稿は掲載しないという主張にもいくらかの真実が含まれていた。著作をたんなる金儲けの手段としか見ていないのであれば元気が出るようなものこそが一番の狙い目ではあるだろう。世界が――ジャーナリズムの学校が――いまだ同じところに立ち止まっているのを目にするのは気が滅入ることだ。爆弾は何も変化をもたらさなかったのだ。実際のところ、この手紙を読んだ時に私が感じたのは戦前の世界が私たちの元に戻って来ていることで、それは少し前に私がある礼拝所の部屋の窓越しに見た人物、明らかに喜んだ様子で実に入念にシルクハットを磨くその人物を見た時に感じたのと同じことなのだ。


最近では鉄道の長旅は楽しいものではない、と言うと言いすぎかもしれないが、人々が被らざるを得ないさまざまな苦痛については鉄道会社を責めることはできない。軍隊が車両のほとんどを独占している時期にあちらこちらへ動き回る膨大な数の民間人の行き来があることも、イギリスの鉄道客車が可能な限りの空間を浪費して作られているように見えることも、彼らの手落ちではない。しかし、しばしば六時間も八時間もの間、ごった返す通路に立ち続けなければならない旅路はわずかな改良でもう少し耐えやすいものにできるだろう。

まずは一等席というナンセンスを完全にお払い箱にすること。第二に、赤ん坊を連れている女性は優先的に座れるようにすること。第三に、夜間も待合室を開けたままにすること。第四に、時刻表通りに運行できない場合には荷物運搬人やその他の職員は正しい情報を把握して、現在のように「出来なきゃ出来ない、出来れば出来る」などと言わないこと。また――平時でも十分にひどいが現在ではさらにひどくなっていることなのだが――大都市を移動する時に手荷物を運ぶ安価な手段が存在しないのはどうしたわけだろうか? パディントン駅からカムデン・タウンへ重いトランクを運ばなければならない場合にはどうすればよいのか? タクシーを拾う。ではタクシーには収まりそうもなかったら、どうすればよいのか? 手押し車を借りてくるか、危なっかしく乳母車の上でトランクのバランスを取るのだ。なぜ人間の乗客のためのバスがあるのに安価な荷物運送ワゴンが無いのだろう? あるいはなぜ荷物を地下鉄で運べるようにできないのだろう?

今日の夕方、戻ってきた疎開者の一群がキングス・クロス駅から吐き出される中、私はある男女を見かけた。明らかに長旅で疲れ切った様子でバスに乗ろうとしていた。女性はひどく泣く赤ん坊を抱いて、もう一方の手で六歳くらいの子供と手を繋いでいた。男性の方はロープを巻いて留めた壊れかけのスーツケースと上の子のための折り畳み式ベッドを運んでいた。彼らは次々にバスに乗車拒否されていた。もちろんのことだが、折り畳み式ベッドを乗せられるバスは無い。どうしてそんなことができようか? しかし一方で、こうした人々はどうやって自宅にたどり着けばよいのだろう? 結局、女性はふたりの子供とバスに乗り、男性は折り畳み式ベッドを運びながらその後を追って行った。私にわかるのは、彼は目の前の道を五マイルは歩いただろうということだけだ。

戦時にはこうしたことも覚悟しなければならない。しかし問題は、こうした人々が平時に似たような荷物を持って同じような旅をしても、その苦労は全く同じであることなのだ。

雨は毎日降っている十九世紀イギリスの判事であるチャールズ・ボウエンによると言われる詩。
正しき者にも、悪しき者にも
だけど正しき者がよく濡れる
悪しき者が正しき者の傘を手にしてるから

私たちの社会は金があればそれで贅沢品を買えるというだけではない。結局のところ、それは何のための金なのか。金を持っていなければ、そのために四六時中せせこましい屈辱と全く不必要な不愉快を支払うことになるのだ――例えば、たった半クラウンあれば五分でたどり着けるだろうに、指に食い込むスーツケースを持って家まで歩かなければならないという様に。


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