気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年10月20日 日射病についての迷信、書籍用の紙の不足


今年の始めにビルマで戦死したウィンゲート准将オード・チャールズ・ウィンゲート(一九〇三年二月二十六日-一九四四年三月二十四日)。イギリスの軍人。近代ゲリラ戦の創始者の一人とされる。についての本を最近読んでいて、一九四三年に上ビルマを行軍したウィンゲートの「チンディット」が、よくある不格好な目立つ探検帽でなくグルカ連隊がかぶるようなスローチハットをかぶっていたという記述を私は面白く思った。実にささいな点に聞こえるだろうがこれは大きな社会的意味を持っていて、二十年前、いや十年前でさえ、あり得なかったことだ。多くの医者を含め、ほとんど全ての人が、そんなことをすれば大勢が日射病で死ぬと予測したはずだ。

最近になるまでインドに住むヨーロッパ人は熱卒中、いわゆる日射病に対して基本的には迷信的な態度を取っていた。ヨーロッパ人にとっては何か危険なものであるが、アジア人にとってはそうでないと思われていたのだ。ビルマにいた時、私は、インドの太陽は最も涼しい時でも奇妙な致死性を持っていて、それを避けるにはコルクか植物の髄でできた探検帽をかぶるしかないと断言されたことがある。「土人」は頭蓋骨が分厚いのでそうした探検帽を必要としないが、ヨーロッパ人の場合にはフェルト製の帽子を二重にかぶっても確実な守りにはならないと言うのだ。

しかし、なぜビルマの太陽は明らかに涼しい日でさえイングランドのそれより致死的なのだろう? それは相対的に赤道に近く、日光がより垂直に差すからだ。これには実に驚かされた。日光が垂直に差すのは正午頃だけであることは明らかだからだ。早朝、太陽が水平線をはいのぼり、日光が地面と水平に差す時にはどうなのだろうか? その時こそがまさに最も危険なのだと私は教えられた。しかし、何日も太陽をめったに見ない雨季はどうなのだろう? そうした時でも長年の在住者は「決してトーピーを忘れてはならない」と私に言うのだ(探検帽はヒンドゥスターニー語で「帽子」を意味する「トーピー」と呼ばれている)。致死的な日光は雲の幕を変わらず透過するので、曇りの日でもそれを忘れれば危険にさらされるのだ。屋外で一瞬でもトーピーを脱げば、それが一瞬であっても、死んでしまう可能性がある。中にはコルクや植物の髄では満足せずに、赤いフランネル生地の不可思議な力を信じて、それで上椎骨を覆うように小さな当て布をシャツに縫い付ける人々もいた。地域のユーラシア人の人々は自身の白人の血筋を強調しようとイギリス人のそれよりも大きくて分厚いトーピーを当時よくかぶっていた。

ある日、こうしたもの全てに対して私自身に疑念が起きた。その日、私はかぶっていたトーピーを風で飛ばされて小川に流されたが、そのまま無帽で何の支障もなく一日中歩き回ったのだった。しかし、そのうちに私はこの広まっている考えと矛盾する事実に他にも気づいた。最初は一部のヨーロッパ人(例えば操船して働く船乗りたち)が日常的に無帽で太陽の下を行き来していることだった。また日射病が起きた場合にも(確かにそれは起きていたのだが)、それが起きるのはその患者が帽子を脱いだ時だとは断定できないように思えた。ヨーロッパ人と同様にアジア人にも起きたし、一番よく起きるのは日光ではなく恐ろしい熱にさらされる蒸気船の火夫であると言われていた。最後の一撃は、インドの太陽に対する唯一の守りであると思われているトーピーがごく最近に発明されたものであると知ったことだった。インドに住む初期のヨーロッパ人はそんなものを全く使わなかった。端的に言ってこうしたものは全て嘘八百なのである。

しかしインドに住むイギリス人はなぜ日射病についてのこの迷信を作り上げなければならなかったのだろうか? それは「土人」と自身の間の違いを無限に強調することが帝国主義の必要不可欠な道具立てのひとつだからなのだ。自身が極めて少ない少数派に属している時にはとりわけそうなのだが、被支配民族を支配できるのは自分たちが人種的に優越していると心から信じている場合だけで、それには被支配民族は生物学的に異なっていると信じることがおおいに助けとなるのだ。インドに住むヨーロッパ人は何の根拠もなくアジア人の身体は自分たちと異なると信じていて、その信じ方は実に多様だった。非常に大きな解剖学的な違いさえ存在するとされていた。しかしヨーロッパ人は日射病にかかるが東洋人はかからないというこのナンセンスは、中でも最も深く信じられていた迷信だろう。薄い頭蓋骨は人種的優越の印であり、植物の髄でできたトーピーは帝国主義のある種のエンブレムだったのだ。

こうしたわけで私には、イギリス人、インド人、ビルマ人といった者からなるウィンゲートの部隊が普通のフェルト製の帽子をかぶっていることが変化の兆しに思われたのだ。彼らは赤痢やマラリア、蛭やシラミ、蛇や日本人に苦しんでいるが、日射病の記録は無いようだ。そしてなにより、トーピーの放棄が白人の威信に対する潜在的な打撃になるという公式の抗議も、そうした感覚も無かったようである。


スタンリー・アンウィンスタンリー・アンウィン(一八八四年十二月十九日-一九六八年十月十三日)。指輪物語を出版したことで知られるイギリスの出版社「アレン・アンド・アンウィン」の創業者。氏の最近のパンフレット「平時と戦時の出版」には、さまざまな目的のために政府によって割り当てられた紙類の量に関する興味深い事実が記載されている。

新聞二十五万トン
政府刊行物発行所十万トン
定期刊行紙(概算)五万トン
書籍二万二千トン

とりわけ興味深いのは政府刊行物発行所に十万トンが割り当てられ、戦争省は書籍出版業全てを合わせたよりも多い二万五千トンを下らない量を得ていることだ。

私個人が目にしたことは無いが、戦争省やさまざまな省庁で紙類の浪費がおこなわれていることは想像できる。BBCで起きていることなら私も知っている。例えば放送される全てのラジオ番組、コメディアンのおしゃべりといった信じがたいごみくずにさえ、少なくとも六冊――時には十五冊ほど――の台本が用意されていると聞いたら信じられるだろうか? 過去何年分かのこれらごみくずの全てがどこか巨大な倉庫に保管されている。それと同じ時に書籍用の紙の不足によって最もよく読まれる「古典」さえ絶版になりがちで、多くの学校で教科書が不足しており、新人作家はデビューの機会を失い、実績のある作家でさえ書き上げた作品の出版先を見つけるのに一、二年の期間を覚悟しなければならないのだ。そしてついでに言えば、英語の書籍の輸出はその大部分がアメリカによって飲み込まれている。

アンウィン氏のパンフレットでのこの部分は憂鬱な物語になっている。彼はもっともな怒りの筆致で、さまざまな政府部局が見せる書籍への見下した態度を書いている。しかし実際のところ、イギリス人は全体的に言えば――この点に関して言えばアメリカ人よりはいくらかましだが――書籍へあまり敬意を払わない。一人当たりの書籍消費量が最大になるのはフィンランドやオランダといった小さな国々でのことなのだ。戦争の始まる数年前にレイキャビクのような遠く離れた町で、イギリスの同じ大きさのどの町よりも豊富にイギリスの書籍が見られたと言われるのは実に恥ずかしいことではないだろうか?


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