気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年10月27日 キリスト教護教論者、モズレーの釈放


一、二週間前、C・S・ルイス氏の最近出版された本「個性を越えて」(これは神学についての放送を書籍化したシリーズである)を読みながら、その本のカバーの宣伝文で、分別あると思われ実際そうである、ある批評家が以前の本「悪魔の手紙」を「天路歴程イギリスのジョン・バニヤンによって一六七八年から一六八四年にかけて出版された宗教書。キリスト教信仰者の人生における苦難を寓意的に描き、多くのプロテスタント教徒に読まれた。」になぞらえていることを知った。「ルイス氏の傑作を『天路歴程』と比較することに私はなんのためらいもない」というのが引用された文句だった。後の本から実に良い見本となるものを挙げてみる。

人間的な水準においてさえ、ご存知のように二種類の見せかけがあります。悪い種類のものでは見せかけは本物の代替物で、ちょうどあなたを本当に助ける代わりに助けるふりをする人間がいる時などがそうです。しかしまた良い種類のものもあり、そこでは見せかけは本物への導きとなるのです。とりわけ友好的な気分ではないが、しかしそうでなければならないとわかっている時、可能な最良の振る舞いは友好的な態度を装い、実際の自分よりもずっと好ましい人物であるかのように振る舞うことです。そうすると数分のうちに私たち誰もが気がつきます。本当に前よりも友好的な気分になっているのです。ある資質を手に入れる唯一の方法がすでにそれを持っているかのように振る舞うことなのは実によくあることです。これこそ子供の遊びが大事な理由なのです。子供たちはいつも大人の真似をします――兵隊ごっこやお店屋さんごっこをするのです。しかしその間ずっと彼らはその筋肉を鍛え、その知力を研ぎ澄ませます。そうしたわけで大人であるふりをすることは実に子供たちの助けとなるのです。

この本はずっとこんな調子で、ルイス氏とバニヤンを同列に扱うことにはほとんどの人が長いためらいを見せるのではないかと私は思う。これらエッセーが放送を再録したものだということで人は大目に見るだろうが、放送であっても「ご存知のように」「注意して欲しいのですが」といったくだけた文句や、あるいは「恐ろしく(awfully)」「全くもって(jolly well)」、「特に(especially)」の代わりの「とりわけ(specially)」、「こけた頬(awful cheek)」といったエドワード朝的な俗語で聞き手を馬鹿にする必要は本当は無いのだ。もちろん、こうしたアイデアは疑り深い読者や聞き手に、キリスト教徒であることと「陽気で善良な人間」であることは両立できると説得するためのものだ。こうした試みが大成功したとは私は思わないし、いずれにせよ、BBCが話し手の口に詰め込む脱脂綿は神学上の問題の真剣な議論を正統な観点からさえ不可能にするものだ。しかし現在のルイス氏の人気、彼の言葉が放送に乗る時間や彼が受けている大げさな称賛は悪い兆候で注目に値する。

大衆宗教の弁証学研究者は、この本を読めば「数年おきに現れる明らかに簡略化された独自の宗教を持つ人々」というお仲間や、不信心は「時代遅れ」「古風」などなどであるというさまざまなほのめかしにすぐに気がつくだろう。そして十五年前にはロナルド・ノックスが、二、三十年前にはR・H・ベンソンが全く同じことを言っていたと思い出し、ルイス氏が配置されるべき分類棚がわかることだろう。

実に六十年にわたってイングランドにはびこっている本の一種に賢しげで馬鹿げた宗教本がある。そうした本が従っている原則は、地獄を信じない者を脅すのではなく、そういう者を明晰な思考ができず、自分の言ったことが既に以前に言われて反証されていることも知らない不合理な馬鹿者であるように描くというものだ。こうした文芸の一派は、私が思うに、一八八〇年頃に書かれたW・H・マロックの「新しい共和国」から始まり、追従者の長い系譜を持っている――R・H・ベンソン、チェスタートン、ノックス司祭、「ビーチコマー」といった者たちで、そのほとんどはカトリックだが、シリル・アリントン博士や(私が思うに)ルイス氏当人といったようにイギリス国教会教徒の者もいる。攻撃のやり方は決まって同じだ。あらゆる異端は以前に口にされていて(以前に反証されたことも言外にほのめかされる)、神学を理解できるのは神学者だけである(考えることは司祭に任せておくべきと言外にほのめかされる)。こうしたやり方に従えば、確かに「いい加減な考えを正し」、これこれは西暦四百年(あるいはいつだろうと)にペラギウスが言ったことに過ぎないだとか、ともかく化体という言葉を間違った意味で使っていると指摘しておおいに楽しむことができる。こうした人々がとりわけよく標的にするのはT・H・ハクスリーやH・G・ウェルズ、バートランド・ラッセル、ジョード教授といった大衆の頭の中で科学や合理主義と結び付けられている人々だ。彼らはこうした者たちを全く苦もなく論破して見せる――しかし私が気づいたところでは論破された者のほとんどは依然としてそこに存在し、一方でキリスト教護教論者自身の一部は次第に影が薄くなっているように見える。

こうした人たちが出版業界で決まって途方もない後押しを受けるひとつの理由はその政治的な繋がりが必ず反動的なものであることにある。彼らの一部は、そうしても安全とみるやファシズムの露骨な称賛者となった。これこそ、C・S・ルイスやこれからもさらに続くことは疑いない彼の親しげで取るに足らないラジオでのおしゃべりに警戒するよう私が言う理由なのだ。それらは意図された外観ほどには非政治的なものではない。それらはエルトン卿やA・P・ハーバート、G・M・ヤング、アルフレッド・ノイズ、その他のさまざまな者たちが過去二年にわたっておこなっている左派への大反撃における側面包囲行動なのである。


私が気がついたところでは、彼の新刊本「アダムとイブ」でミドルトン・マリー氏はモズレーの拘禁からの釈放に反対する騒ぎをこの国における全体主義、あるいは全体主義的な思考習慣の増大の兆候の例として挙げている。一般の人々はいまだ全体主義を嫌悪していると彼は言うが、さらに後の脚注でモズレーの問題はこうした考えをいくらか揺るがしたと付け加えている。彼が正しいのかどうか、私は考えを巡らせている。

表面的にはモズレーの釈放に反対するデモは非常に悪い兆候だ。実のところ、人々は人身保護令状に対しても騒ぎ立てていた。一九四〇年においてはモズレーの拘禁は完璧に適切な行動だったし、個人的には、ドイツ人たちがイギリスに足を踏み入れたなら彼を銃殺することも全く適切であるだろうと思う。国家存立に問題がある時にはどんな政府も法律の条文に従い続けられはしない。さもなければ潜在的な売国者は正式に起訴されるような犯罪の実行を避けるだけで自由の身でいられ、敵の元に行く準備をしたり、彼らが到着するやいなやその大管区指導者ガウライターを務めることができてしまう。しかし一九四三年においては状況は全く異なる。深刻なドイツによる侵略の可能性は消え、モズレーは(いつか将来――私はそれを予言するつもりはないが――復活するかもしれないとはいえ)たんなる静脈瘤持ちの滑稽な失脚した政治家に過ぎない。裁判無しで彼の投獄を続けることは、私たちがそのために戦っている、あらゆる原則に対する侵害である。

しかしまた、モズレーの釈放に対してはそれに反対する強い大衆感情が存在するが、私が考えるところではそれはマリー氏が示唆するようなひどく邪悪な理由によるものではない。最もよく耳にする意見は「彼が金持ちだからそうするのだ」というもので、これは「階級特権が再び頭をもたげている」を簡略に言い換えたものだ。一九四〇年に成し遂げたかに見える政治的進歩が再び次第に私たちから盗み去られていると広く考えられているのだ。しかし、そうしたことが起きていると一般の人間が考えているにも関わらず、奇妙にもそれに対抗できないのだ。足場となるものがどこにも無いように思えるのだ。ある意味で政治は静止している。総選挙はおこなわれず、有権者は自分たちの議員に影響を及ぼせないと思っていて、議会は政府を制御できていない。こうした事態の進行は気に食わないかもしれないが、それに対していったい何ができるだろうか? もっともらしく抗議できる具体的な法令は存在しないのだ。

しかし、ときおり何か、明らかに全体的な動向を示す何かが起きる――するとその周囲で、存在している不満が結晶化するのだ。「モズレーを閉じ込めろ」は好ましい反発の声なのだ。実際のところ、モズレーは象徴なのである。ベヴァリッジの宣伝写真や一九四二年のクリップスがそうであったのと同じことだ。この出来事の言外の意味についてマリー氏が思い悩む必要があるとは私は思わない。起きたこと全てに反して、この国の一般の人々の間に、真に全体主義的な考え方が根付かなかったことはこの戦争における最も驚くべき、そして勇気づけられる現象のひとつである。


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