気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年12月29日 徒手格闘、ベンボウ提督、ギリシャにおけるインド人部隊


ドワイド・マクドナルド氏のある記事には借りができた。ニューヨークの月刊誌であるポリティクス誌の九月号に掲載されたもので、レックス・アップルゲート少佐著「殺すか――さもなくば殺されるか:近接格闘マニュアル」からの引用がいくつか掲載されているのだ。

この書籍は半官的なアメリカの出版物で、「徒手格闘」という見出しの下に並ぶナイフ格闘や絞め技といったさまざまな恐ろしげなものについての幅広い情報を与えてくれるだけではなく、兵士が市街戦の訓練を受ける戦闘訓練学校についても説明している。ある指導例を紹介しよう。

……トンネルに入る前に教官はダミー人形Aを提示し、訓練生はそれに対してナイフを使う。訓練生はターゲット1からターゲット4まで進み、その間、拡声器からは「ゲシュタポ拷問場面」や「イタリア語の罵声」のシーケンスが流れる……ターゲット9は暗闇の中にあり、訓練生がこの小部屋に入ると「ジャップによるレイプ」シーケンスが使用される……教官が訓練生の拳銃を再装填している間は「あのアメリカ人のろくでなしをやっちまえ」シーケンスが使用される。教官と訓練生がカーテンをくぐって次の小部屋へ入ると、死体代わりの、背中にナイフが刺さったダミー人形と向き合うことになる。このダミー人形は緑色のライトで照らされていて、訓練生はそれを撃ってはいけないのだが、実際は全ての訓練生が撃ってしまう。

マクドナルド氏によるコメント:「このコースの運営ではひとつ非常に興味深い問題がある。著者は決して直接的には言わないが、訓練生の抑制が完全に破壊されて付き添っている教官を撃ったり刺したりしてしまう危険があるようなのだ……『いかなる瞬間』でも銃を握る訓練生の腕をつかめる位置を保つように教官は忠告される。順路に沿って三体のダミー人形を刺した後、『事故を防ぐためにナイフは訓練生から取り上げられる』。最後に『指導教官が訓練生の近くにいる間は、順路上に完全な暗闇となる場所は存在しない』」

イギリス軍でのこれに似た戦闘訓練は今では廃止されたか推奨されなくなっていると私は信じているが、軍事的能力を欲する場合にこうしたものが避けがたいことは憶えておく価値がある。これの完全な代用品となるような思想や「戦う目的」の自覚は存在しないのだ。数百万の人間に対するこうした意図的な残忍化は現代の形態における社会的代償の一部である。ちなみに言えば日本人はこうした種類の物事に関しては数百年の歴史を持つ専門家である。過去においては支配階級の子息は非常に幼い頃から処刑を見させられていて、どの少年であろうがわずかでも嫌悪の様子を見せれば、即座に血の色で染められた大量の米を飲み込まされた同様の話がラフカディオ・ハーンの著作『心』(一八九六年)の「ある保守主義者」に見られる


イギリスの一般の人々は軍事的栄光の大いなる愛好者というわけではないし、私が別の場所でも指摘したように、戦争詩が真に広い人気を勝ち取る時にはそれは普通は勝利ではなく敗北を扱うものだった。しかし先日、これに関して同じことを私が繰り返していた時、私の頭にかつての流行歌のことが浮かんだ――どこかの蓄音機会社が録音する労を取れば再び流行するかもしれない――「ベンボウ提督」だ。この極めて好戦的愛国主義的なバラッドは私の理論と矛盾するように思われるが、私が思うに、この歌の人気は当時それが階級闘争的な観点から理解されていた事実にいくらかを負っているのだろう。

ベンボウ提督はフランスとの戦闘に赴く時に、突然、部下の艦長たちに見捨てられて強敵との戦いの場に取り残される。バラッドはそれを次のように歌っている。

カービィはウェイドに言った。「俺たちは逃げよう、俺たちは逃げよう」
カービィはウェイドに言った。「俺たちは逃げよう」
面目が潰れたりしやしない
立場だって失いやしない
敵と向き合ったりしない
あいつの鉄砲にも、あいつの鉄砲にも

ベンボウは一人きりの戦いに取り残され、勝利したものの彼自身は戦死する。血なまぐさいが、おそらく確かなものであろう彼の死についての描写がある。

勇敢なるベンボウは両足を失った。鎖弾で、鎖弾で
勇敢なるベンボウは両足を失った。鎖弾で
勇敢なるベンボウは両足を失った
そして這いつくばって乞い願った
「戦え、我がイギリスの男ども
それが我らが定め、それが我らが定め」

軍医が彼の傷の手当をし、ベンボウは叫んだ、ベンボウは叫んだ
軍医が彼の傷の手当をし、ベンボウは叫んだ
「今、寝台を急いで
後甲板に置け
敵とまみえん
私が死ぬその時まで、私が死ぬその時まで」

問題はベンボウが下士官から昇格を遂げたごく普通の水兵だったことだ。彼は船上給仕係から出発したのだ。そして配下の艦長たちが戦闘から逃げ出したのは全くの平民の司令官が勝利を勝ち取るのを見たくなかったからだと思われる。私が想像するに、こうした言い伝えこそがベンボウを人気のある英雄に祭り上げ、ついにはバラッドはもちろん無数のパブの看板でまでその名が追悼されるようにさせたのではないだろうか?

この歌の録音が存在するとは思えないが――私が放送をおこなっていて五分の埋め草に同じような作品を使おうとした時に気づいたところによると――この曲は録音が無い古い流行歌や民謡の長いリストの中のひとつにすぎない。いずれにせよ、ごく最近になるまで「トム・ボウリング」や「グリーンスリーブス」さえ、曲はもちろん歌詞さえも記録されていなかったように私は思う。他に私が見つけられていないのは「すてきな藁葺き屋根の小屋」や「イグサの緑が生い茂る、ああ」「朝露を吹きとばせ」「おいで娘さんと若者たち」だ。他のよく知られた歌のいくつかは全くひどいやり方で録音されている。普通はプロの歌手によって気の抜けたおざなりなやり方で歌われていて、その録音からはまるでウィスキーとタバコの煙の匂いがするようだ。録音された賛美歌のコレクションもまた実に乏しい。私が思うに「吟遊詩人と小間使い」や「遠き聖堂の銀の灯火のように」「富める人とラザロ」、その他の古くからの人気曲は手に入れられないはずだ。一方で「樽を転がせ」「おっと、デイジー」などの録音が欲しければ、実に多くのさまざまに演出されたものから選び出せることに気づくだろう。


十二月十五日のトリビューン紙で、ある投書者が、インド人部隊がギリシャ人たちに対して使われていると聞いた時に感じた「嫌悪と吐き気」を述べて、これをムーア人部隊をスペイン共和国に対して使ったフランコによる戦闘と比較していた。

この古色蒼然とした目くらましを論争の場に引きずり出さないことが重要であるように私には思われる。まず第一に、このインド人部隊は厳密にはフランコのムーア人部隊と比較できるものではない。反動的なムーアの首長たちは確かにインドの大公がイギリス保守党と結んだのと同じ関係をフランコと結んでいたが、彼らは民主主義を破壊するという自覚的な目標をもって自分たちの国民をスペインに送り込んでいた。インド人部隊は傭兵であり、最近ではおそらく彼らの一部は自身をインド軍、未来における独立インドの国軍の中核と考え始めているであろうにせよ、彼らは一家の伝統や職業的理由でイギリスのために働いているのだ。アテネにおける彼らの存在が何か政治的重要性を持つことはありそうにない。たんに一番近くにいる利用可能な部隊だっただけのことだろう。

しかし加えて、最も重要なのは社会主義者が肌の色に対する偏見を持たないようにすることである。多くの場面――例えば一九二三年のルール占領やスペイン内戦――で「有色人種部隊の使用」への批判の声が上がった。まるでインド人や黒人に撃たれることはヨーロッパ人に撃たれるよりも悪いことだとでも言うかのようだ。ギリシャにおける私たちの罪はギリシャの内政問題に干渉したことである。その命令を実行したのが有色人種の部隊かどうかは関係無いことだ。ルール占領の場合にはセネガル人部隊を使ったことへの抗議は正当化できるだろう。なぜならそれによっておそらくドイツ人たちはさらなる屈辱を感じただろうし、フランス人たちが黒人部隊を使ったのはまさにそのためだったからだ。しかしこうした感情はヨーロッパ全体に共通するものではなく、際立って統率の取れたインド人部隊に対して何か偏見を持つような地域があるのか私は疑問である。

投書者が指摘しているのは、こうした種類の出来事に、自分たちがどんな汚れ仕事に巻き込まれているか理解していない、政治的に無知な植民地の部隊を特別に使うという点なのかもしれない。しかし少なくとも、アテネに彼らがいるのはイギリス人がいるよりもどことなく不快であると言って私たちにこのインド人たちを侮辱させるようなことはすべきではない。


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