少し前に投書者が、ドイツの残虐行為の様子を示した蝋人形の展示を見たことがあるかを手紙で尋ねてきたことがある。一、二年前からロンドンで開催されているものだ。会場の外には次のような宣伝文句が書かれている。「強制収容所の恐怖。入場して真のナチの拷問を目にしてください。鞭打ち、はりつけ、ガス室など。子供用娯楽スペースは追加料金無し」
ずっと以前に私は出かけて行ってこの展示を見たが、全くがっかりさせられるものだったとこれから行くつもりの人には警告したい。第一に、人形の多くは原寸大ではなかったし、いくつかは本物の蝋細工ですらなく、仕立て屋のマネキンに新しい頭を取り付けただけのものではないかと私は疑っている。第二に、拷問の様子は外のポスターで期待させられるほどには恐ろしくない。展示全体が薄汚く、不自然で、気を滅入らせるものだ。しかし私が思うに主催者は最善を尽くしたのだろうし、説明文にはサディズムとマゾヒズムへ訴えかけようとする彼らの完璧なまでの率直さが見られて興味深い。戦争の前であれば、なんでもありの格闘技に没頭したり、あるいは鞭打ち廃止に反対して抗議のために議員に手紙を書いたり、あるいは「拷問室の喜び(「The Pleasures Of The Torture Chamber」(John Swain, 1931))」といった本を探して古本屋をさまよえば、非常に不愉快な疑いの目を向けられたはずだ。さらに言えば、おそらく自身の動機に気づいて何かしら恥ずかしく思ったことだろう。しかし今では、罪悪感を覚えないばかりか、称賛に値する政治的行動をおこなっていると感じながら拷問や虐殺のひどく嫌悪すべき描写に耽ることができるのだ。
ナチの残虐行為の話が真実でないと言っているわけではない。そのかなりの部分について私は真実だと考えている。こうした恐ろしい出来事は戦前のドイツの強制収容所では確かに起きていたし、以降、それらが停止されたと考える理由は無い。しかしそれらが大きく扱われているのは、それが新聞にとってポルノを掲載する口実となるからだ。今朝の朝刊にはナチの残虐行為に関する公式なイギリス軍の報告が書きたてられていた。裸の女性たちが鞭で打たれていたと詳しく報告され、時には大見出しでその詳細にスポットライトが当てられている。責任者であるジャーナリストたちは自分が何をしているのか十分にわかっている。拷問、とりわけ女性に対する拷問について考えることで無数の人々がサディスティックな興奮を得ていると彼らは知っていて、この広まった神経症から金銭を引き出しているのだ。感じるべき良心の呵責は無い。なぜならこうした行いは敵対者によって犯されていて、そこから得られる楽しみは非難の声に偽装できるからだ。そしてまた、邪悪な人々に対する正当な罰と考えられるのであれば、これとよく似た興奮を味方によって犯された野蛮行為から得ることもできる。
実際には私たちはまだローマ剣闘士の見世物という所にまでは至ってないが、もし必要な言い訳がたつならそうなるだろう。例えば、主要な戦争犯罪者たちがウェンブリー・スタジアムでライオンに食われる、あるいは象に踏み殺されると告知されれば、その見世物は非常に多くの観衆を集めるだろうと私は想像する。
ワールド・レビュー誌の今の号に掲載されている「ミハイロヴィッチについての真実?」と題された記事(ついでながら著者はトリビューン紙でも記事を書いている)を紹介したい。記事はミハイロヴィッチ(ドラジャ・ミハイロヴィッチ(一八九三年四月二十七日-一九四六年七月十七日)。ユーゴスラビア王国の軍人、武装抵抗組織「チェトニック」の指導者。)をドイツの工作員と決めつけるイギリスの報道やBBCでのキャンペーンについて扱っている。
ユーゴスラビア政治は非常に入り組んでいるし、私は自分がその専門家であるふりをするつもりはない。私にわかるのは、ソビエト連邦と同様にイギリスの一部がミハイロヴィッチをけなしてチトーを支持しているのは間違いないということだけだ。しかし気になるのは、ひとたび決定が下されるや、ほんの数ヶ月前には支援していた男の信用を失墜させるために名声あるイギリスの新聞が共謀してかなりの量の捏造をおこなったその迅速さである。そうしたことがおこなわれたのは疑いない。この記事の著者は多くの実例のひとつについて詳しく述べていて、そこでは重要な事実が極めて厚かましいやり方で抑え込まれていた。ミハイロヴィッチがドイツの工作員でないことを証明する非常に強力な証拠が挙げられているが、我が国の新聞の大部分はそれを掲載することを拒んで以前と同じように裏切りへの非難を繰り返している。
スペイン内戦の期間にも非常によく似たことが起きていた。当時、フランコだけでなくスペイン共和国政府の公式な政治方針にも反対していた無政府主義者やトロツキストといった者たちは、ファシストに買収された裏切り者であると非難されていた。共和派に共感を寄せる様々なイギリスの新聞がこの非難を後押しし、まるで見てきたかのように尾ひれを付けてその非難を繰り返し、同時に、投書という形でさえ、どのような反論であっても掲載することを拒んだのである。スペイン共和国は命をかけて戦っている最中で、その内輪の揉め事をあまりに率直過ぎるやり方で論じると、この国の親ファシストの報道機関に主導権を与えることになる、そう彼らは言い訳した。そうして事態をいっそう混乱させ、無実の人々に対する全く根拠の無い非難をおこなったのだ。今も当時も抗議に対する返答は同じである。まず第一にそうした非難の内容は真実であり、第二に仮に真実でないとしても、こうした人々は政治的に好ましくないので受けた非難に値する、と言うのだ。
こうした主張の説得力については私も認識している。ファシズムに対する戦いでは常にクインズベリー・ルール(十九世紀に初めてボクシングに定められたルールで、グローブの着用、つかみ合いの禁止、一ラウンド三分など、現代のボクシングのルールの基礎となる規則が定められた。)に従えるわけではないし、時に嘘をつくことはほとんど避けられない。不利な発言を見つけようとあら探しする恥知らずな反対者は常にいるし、一部の問題では真実があまりに複雑であるために事実を率直に述べると、たんに一般の公衆をミスリードするだけになることもある。しかし過去二十年の歴史から見て、論争における全体主義的方法――歴史の改竄、個人への誹謗中傷、反論に公平に耳を傾けることの拒絶といったもの――は概して左派の利益に反することを示せるように私は思う。
嘘はブーメランとなって時に驚くほど速やかに戻ってくる。スペイン内戦の頃、ある左派の新聞がスペインのトロツキストに対する非難を「書き立てる」ために、とあるジャーナリストを雇い、このジャーナリストはかなりの無節操さでそれをおこなった。少なくともその当の新聞のコラムで彼に反論することは不可能だった。それから三年も経たないうちにこの男は別の新聞に雇われて、フィンランドに対するロシアの戦争の間、最悪の部類に入る「反赤色」プロパガンダをおこなったのだ。そして私が思うに、彼が一九四〇年についた反ロシアの嘘はよりいっそう大きな影響力を持っていた。なぜなら一九三七年に彼がついた親ロシアの嘘は暴かれていなかったからだ。
ワールド・レビュー誌の同じ号で、エドワード・ハルトン氏が全く賛同できないというように「アテネの小さな都市にはロンドンよりはるかに多くの日刊紙がある」と言っていることに私は気づいた。私に言えるのは「アテネに幸いあれ!」ということだけだ。真実を知るチャンスがあるとすれば、それはあらゆる傾向を表現する膨大な数の新聞がある時だけなのだ。夕刊紙を含めてもロンドンには十二の日刊紙しか無く、それがイングランド南部の全域、そして北は遠くグラスゴーまでを扱っている。それら全てが同じ嘘をつこうと決めた時に検査役を務める少数派報道機関は存在しないのだ。戦前のフランスでは報道機関の大部分は腐敗して口汚いものだったが、イギリスの報道よりも多くのニュースをそこから探り出すことができた。なぜなら全ての政治派閥が自身の新聞を持ち、全ての観点に耳が傾けられていたからだ。どうやら私たちが押し付けようとしているらしい種類の政府(ドイツ撤退後にギリシャに進駐したイギリスは左派勢力の排除に乗り出すがギリシャの左派組織「民族解放戦線」が抗議し、騒乱状態を経て一九四四年十二月にいわゆる「十二月事件」が起きる。騒乱はその後、ギリシャ内戦へと発展した。)の下でアテネがその新聞の多様性を保てたなら私は驚かされるだろう。