先週、フランスのジャーナリストであるアンリ・ベローがドイツ人たちへの協力を理由に死刑――後に終身刑に減刑――の判決を受けた。ベローはファシストの週刊新聞「グランゴワール」によく寄稿していたのだが、この新聞は後年、想像し得る限りで最も嫌悪すべきクズ新聞に変わった。イタリアの飛行機からの機銃掃射を受けた哀れなスペイン人難民がフランスへ流れ込んだ時にこの新聞に掲載された風刺画ほど私に怒りを覚えさせた記事は無い。スペイン人たちは人相の悪い男たちの行列として描かれ、その一人一人が宝石や金貨の袋を積んだ手押し車を押しているのだ。グランゴワール紙はほとんど止むこと無くフランス共産党を弾圧するよう叫び続けていたが、それと同時に、最も穏健な左派の政治家に対してさえ同じように苛烈だった。レオン・ブルムが自身の姉妹とベッドを共にしている様子を描いた風刺画を掲載した事実から、この新聞が政治論争をおこなう際の道徳水準を知ることができるだろう。その広告欄は予知能力者とポルノの広告でいっぱいだった。このゴミくずが五十万の発行部数を持っていると言われていたのだ。
アビシニア戦争の際にはベローは暴力的な親イタリアの記事を書いていて、そこで「自分はイングランドを嫌悪している」と宣言し、その理由を述べていた。ドイツがフランスでの報道プロパガンダで利用したほとんどの者がこうした種類の人間、何年も前からファシストへの共感を明らかにしていた人々であることには重要な意味がある。一、二年前にはレイモンド・モーティマー氏が戦争中のフランス作家の活動についての記事を発表しているし、アメリカの雑誌にも同じような記事がいくつかある。それらをひとつにつなぎ合わせて明らかになるのはフランス文学界の知識人たちがドイツ占領下で極めて巧妙に振る舞っていたことだ。イギリス文学界の知識人たちも、ナチスがやって来た時には全体的には同じように巧妙に振る舞うと確信できればいいのにと私は思う。しかし、もしイギリスが同様に侵略された場合には、状況は絶望的で、新たな秩序を受け入れる誘惑がいっそう強いものとなることは確かだ。
二十世紀へは少々謝らなければならないように私は考えている。一八一〇年のクォータリー・レビュー誌についての私の発言(「気の向くままに」一九四五年一月五日を参照)に関して――フランスとの戦争が最高潮に達した時にもイングランドではフランスの書籍は好意的な書評を受けていたと私は指摘したのだが――二人の投書者が手紙で、現在の戦争の間もドイツの科学系出版物はこの国の科学系出版界で適切な扱いを受けていたと教えてくれた。どうやら私たちは全くの野蛮人というわけではないようだ。
しかしそれでもなお私は、自分たちの祖先が私たちよりも戦時において正気を保っていたと感じる。フリート・ストリートをエンバンクメントまで歩く機会があれば、オブザーバー紙のオフィスへ行って、その待合室に保存されている資料を見るといい。一八一五年の六月のある日の(イギリスで最も古い新聞のひとつである)オブザーバー紙の額縁に入れられた一ページだ。印刷の質が少し悪いが、一見すると現代の新聞に非常によく似ていて、そのページには五つだけコラムが掲載されている。使われている最も大きな文字は高さ四分の一インチほどだ。最初のコラムは「裁判と社会」に費やされていて、それに広告欄がいくつか続いているがほとんどは部屋の賃貸広告だ。中ほどにある最後のコラムには「フランドルの流血の戦い。コルシカ人の反乱は完全に失敗」と大見出しが付けられている。これがワーテルローに関する第一報なのだ!
「現在、イギリスでは年六千ポンドを超える純利益を手にしている人間はたった八十人しかいない」(クィンティン・ホッグ議員、パンフレット「我々の生きる時代」)
またイギリスやアメリカの言語には不信を表現する方法が八十ほどある――例えば、garn(やれやれ)、come off it(馬鹿なこと言うな)、you bet(賭けるかい)、sez you(言うねえ)、oh yeah(ああ、そうだろうともさ)、not half(全くありえない)、I don't think(そうは思わない)、less of it(いいかげんにしとけ)、the pudding(やり過ぎだ)といったものだ! しかし先に引用したような発言には「and then you wake up(とっとと目を覚ませ)」というのがまさに適切な答えだと私は考える。
最近、私はエドガー・ウォーレス(リチャード・ホラティオ・エドガー・ウォーレス(一八七五年四月一日-一九三二年二月十日)。イギリスの作家。アメリカに渡って映画脚本家として活躍し、映画「キングコング」の脚本を担当したことで有名。)の伝記を読んだ。数年前にマーガレット・レーンによって書かれたものだ。それはまさに「丸太小屋からホワイトハウスへ」的な物語で、暗に私たちの時代の恐るべき記録となっている。あり得る限りの全ての不利な状況――スラム街の貧しい養父母に育てられた私生児――から出発し、ウォーレスは純粋な能力、進取の気性、猛烈な努力によって上へと登り詰めていく。彼の作り出したものは膨大である。晩年には彼は年に八冊の作品を生み出し、それに加えて演劇脚本、ラジオ脚本、たくさんの記事を書いている。一週間未満で一冊の完全な本を書き上げることを彼はなんとも思わなかったのだ。全く運動もせずに彼はひどく温められた部屋のガラスの壁の向こうで働き、絶えずタバコを吸い、とてつもない量の甘い紅茶を飲んだ。彼は五十七歳の時に糖尿病で死んだ。
彼のより野心的な作品のいくつかを見ればウォーレスがある意味においては自身の仕事を真剣に捉えていたことは明らかだが、彼の第一の目標は金を稼ぐことで、彼はそれをやり遂げた。人生の終わりに向かう頃には年におおよそ五万ポンドほどを稼ぐようになっていた。とはいえそれは全て架空の黄金だった。劇場への融資やめったに勝たない競走馬の所有によって金を失ったことを別にしても、ウォーレスは二十人もの使用人を雇っていた自身の複数の邸宅にとてつもない金額を費やしていた。ハリウッドで唐突な死を迎えた時には、彼の借金が十四万ポンドもあり、一方で流動資産が実質的にゼロであることがわかった。しかしながら彼の作品の売り上げはとてつもなく大きく、その死後二年間で印税は二万六千ポンドに上った。
興味深いのはこの完全に無為な人生――ほとんどの時間を空気のよどんだ部屋に座り込んで、数エーカー分の紙をいくぶん有害なたわ言で埋め尽くす人生――が数年前に「元気づけられる物語」と呼ばれていたことである。スマイルズの「自助論」以来、あらゆる「やるか、さもなくば去れ」式の本がおこなうよう教えることをウォーレスはおこなった。そして生きている間も死んだ後も世界は彼が求めたであろう、いわば見返りを与えた。遺体が故郷へと運ばれた時のことだ。
彼はベレンガリア号で運ばれた……ユニオンジャックがその体の上に広げられ、花が彼を覆った。花輪の重みの下、誰もいない社交室に彼は一人横たわっていた。これほど静かな威厳と荘厳さの中で彼が旅したことはこれまでなかった。船がサウサンプトン・ウォーターへ差し掛かった時には半旗にされた船の旗がはためき、サウサンプトンの旗は彼に敬意を表するためにそっと降ろされた。フリート街の鐘が鳴り響き、ウィンダムズ劇場の灯りが落とされた。
それに加えて年に五万ポンドもである! さらにウォーレスには飾り盾が贈られ、それはラドゲート・サーカス(ロンドン中心部のフリート街の東端の交差点付近の地名。)の壁に飾られた。しかしロンドンはフリート街でウォーレスを、ケンジントン公園でバリーを追悼できるのに、ランベスにブレイクの記念碑を建てるにまでは至っていないのは実におかしなことに思える。