私は大いなる興味を持って、少年時代にお気に入りだった「オレ・ルーク・オイエ」の「緑の曲線」を再読しているところだ。「オレ・ルーク・オイエ」はスウィントン少佐(後のスウィントン大将)のペンネームで、私の記憶が正しければ彼は数え切れないほど大勢いる戦車の発明者とされる人々の一人のはずだ。一九〇八年頃に書かれたこの本で語られる物語はボーア戦争や日露戦争から教訓を得た知的な職業軍人の出現を予言するもので、それをその数年後の実際の出来事と比較すると実に興味深いのだ。
一九〇七年の始め頃に書かれたある話では空襲が描かれている(当時は数秒を越えて実際に離陸できる航空機は存在しなかった)。その航空機は八ポンドの爆弾を積み込んでいるのである! 同じ年に書かれた別の話ではイングランドに対するドイツの侵略を扱っていて、この話の中ですでにドイツ人が「フン族」とあだ名されていることに気づいて私は実に興味深く思った。私はドイツ人に対する「フン族」という言葉の使用はてっきりキップリングに由来するものかと思っていた。先の戦争の最初の週に発表された詩で確かに彼はその言葉を使っていたのだ。
いくつかの新聞の努力にも関わらず今回の戦争では「フン族」は流行らなかったとはいえ、私たちは他の侮辱的なあだ名を十分に持っている。循環論法的な名前や蔑称の使用、またそれによって政治的論争を曖昧にする効果については価値ある研究論文を書けるだろう。そうなればある興味深い事実が取り上げられるはずだ。侮辱する意図を持つ名前を、受け入れたり、自分自身に使うと最後にはその侮辱的な性質が失われてしまうのだ。これは、すでにほとんど褒め言葉のようになっている「トロツキスト」で起きているように思われる。また先の戦争の間の「Conchy(良心的兵役拒否者)」についても同様だ。さらに例を挙げれば「Britisher(イギリス野郎)」だ。この言葉は長年、軽蔑的な言葉としてイギリス嫌いのアメリカの報道機関で使われていた。その後になってノースクリフやその他の人々が帝国主義的で好戦的愛国主義的な響きを持つ「Englishman(イングリッシュマン)」の代用物を探している時に手近なところにあった「Britisher(イギリス野郎)」を見つけ、それを乗っ取ったのだ。以来、この言葉は土着的愛国心のオーラをまとうようになり、「あの土人どもには断固とした対応が必要だ」と言うような人物が自分は「イギリス野郎であることを誇りに思う」と言うようになった――これは中国人ナショナリストが自分のことを「Chink(中国野郎)」と呼ぶのと同じようなことだ。
最近、友情平和委員会から受け取ったリーフレットには、もしソビエト連邦の占領地域から全てのポーランド人を排除し、その代償にポーランドが占領したドイツの一部から全てのドイツ人を排除するという現在の計画が実行に移されれば「それには七百万以上の人々の移送をともなうだろう」とある。
別の推計によればそれよりも多かったと私は思うが、仮に七百万としてみよう。これはオーストラリアの全人口、あるいはスコットランドとアイルランドを合わせた人口を退去・移住させることに等しい。私は輸送や住宅の専門家ではないので、誰かに精度の良い推計を聞きたいのだが(a)この七百万の人々、それに加えて彼らの家畜や農機具、家財の輸送にはどれだけの数の無蓋貨車と機関車がどれだけの期間必要なのか、あるいは(b)もし家畜など無しにたんに彼らを送り出した場合にそのうちのどれほどが飢餓と雨風によって死ぬのだろうか。
私が想像するに(a)の答えによって、このとてつもない犯罪はたとえ始めた所で実際には完遂できず、混乱や苦しみ、解決のつかない憎悪の種をまく結果になることが証明されるだろう。それと同時にイギリスの人々はできるだけ具体的な形で自分たちの選んだ政治家がどのような種類の政策をおこなっているのかを理解しなければならない。
そう遠くない爆発が建物を揺らし、窓がかたかたと鳴って隣室の一九六四年卒業生(生後九ヶ月になるオーウェルの養子リチャードを指す。一九六四年に二十歳となり学校を卒業するため、このように呼んでいる。)が目を覚まし、少し泣き声をあげる。これが起きるたびに私は自分が「こんな精神錯乱を抱えて人類は長く存続できるのだろうか?」と考えていることに気づいた。全くの所、最近では、ごく近い将来に再び戦争が起きることはないと思っている人を見つけるのは難しい。
ドイツは今年中に敗北するだろうし、ドイツが片付けられれば日本がイギリスと合衆国の連合した力に耐えることはできないだろう。そうして消耗状態の平和が訪れ、ごく小規模で非公式な戦争があらゆる場所で起きるにせよ、この平和と称される状態が数十年にわたって続くかもしれない。しかしその後、実際に世界がどうなっていくかを考えると戦争が永久的なものになる可能性は十分にあり得る。すでにかなりはっきりとしてきて、多かれ少なかれ私たち全員が認めるように、世界は二つか三つの巨大な超国家へと分断されつつある。ジェームズ・バーナムが「経営者革命」で予言した通りのものだ。その正確な境界はいまだ描けないが、どの地域がそれらを構成するかは多かれ少なかれ見て取れる。そしてもし世界がこうした形に落ち着けば、必ずしも熾烈で凄惨な戦争とはならないかもしれないが、そうした巨大国家は互いに永久的な戦争を続ける可能性がある。そうした国家の抱える問題は経済的であれ心理的であれ、V1飛行爆弾が多かれ少なかれ常にあちらこちらを飛び回るようになれば、かなり単純化されるだろう。
こうした二つか三つの超国家が樹立されれば、そのそれぞれは征服不可能なほど大きく、また互いに貿易をおこなう必要が無く、その国民の間のあらゆる接触を阻むものとなるだろう。すでに十数年前から、表向きは平和なものの、地球の広い地域が互いに切り離されているのだ。
数ヶ月前にこのコラムで私は現代の科学的発明は国際的コミュニケーションを増加させるよりもむしろ阻む傾向があると指摘した(「気の向くままに」一九四四年五月十二日を参照。)。これに対して読者から怒りの手紙が何通か届いたが、私の言ったことが誤りであると証明できたものは一通も無かった。もし私たちが社会主義を手にすれば航空機やラジオなどが間違った使い方で悪用されることはないだろう、と反論するだけだったのだ。全く正しいが、とはいえ私たちは社会主義を手にしていない。実際のところ、航空機は主に爆弾を落とすためのものだし、ラジオは主にナショナリズムを煽り立てるためのものなのだ。今回の戦争の前でさえ、地球上の人々の間の接触は三十年前に比べて大幅に減っていたし、教育は歪められ、歴史は書き換えられ、思想の自由は以前の時代には夢にも思わなかったほど抑圧されていた。そしてこうした傾向のどれひとつとして反転する兆しが無いのだ。
おそらく私は悲観的になっているのだろう。しかしいずれにせよ、霧の向こうからV爆弾の爆発音が響くたびにこうした考えが私の頭を(そして他の大勢の人々の頭でも、と私は信じているのだが)よぎるのである。
ある本で出くわした小話。
ある人物がライオン・ハンティングの招待を受けた。「だけど」彼は叫んだ。「私はライオンなんか失くしちゃいないぞ!(ハンティング(hunting)に「狩り」と「探す」の両方の意味があることをかけたジョーク)」