気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1946年11月22日 再び陪審員の選出方法、泥炭の利用、新聞の知性と人気の間の関係


二週間前に私が投げかけた、陪審員の選別に使われている方法に関する質問には今週号で寄稿者によって確かな回答がされている。また、かなりの量の投書も来ていてそのほとんど全てに、最近、発行された陪審義務免除のための政府の申請書が同封されていた。私自身もこの申請書を通常の経路で受け取っていたが、すぐに紙くず入れに放り込んでしまっていた。しかし実のところそこには私が欲しかった情報のほとんどが書かれていた。目を通してみて私の興味を惹いたのは「特別陪審員」には資格が必要であることだ。「特別陪審員」が何なのかはともかく、そうなのだ。百聞は一見にしかずである。

以下の陪審員は特別陪審員としての資格を有する。法的に「郷士エスクワイア」、またはそれより高位の称号を持つ者。銀行員と商店主。個人所有の住宅の居住者で、その住宅の純年間価値が、最新の国勢調査による人口で二万人以上の町では百ポンド以上、それ以外の場所では五十ポンド以上の者。農場を除く施設の居住者で、その施設の純年間価値が百ポンド以上の者。農場の居住者で、その農場の純年間価値が三百ポンド以上の者。

この文章を詳細に検討すれば、これは社会的にも経済的にも上流階級に所属していない全ての者を排除することを非常に慎重なやり方で表現しているとわかるだろう。この申請書が配布されたのは圧倒的大多数に支持された労働党政府が政権を握ってから十五ヶ月経った後のことである。

私に投書してきた人々の一部によると、彼らの知る限りでは肉体労働者が完全に、あるいは実質的に陪審員制度から排除されているわけではないそうだ。ある労働党支部の議長を務める投書者の一人が付け加えてきたところによると、問題は肉体労働者が陪審員制度から実質的に締め出されていることではなく、経済的な理由によって可能な時には決まって肉体労働者がそれを避けようとすることなのだそうだ。陪審員には給料が出ないので、陪審員として働けば一、二日分の賃金を失うことになる。ついでに言えば、給料が出ないことが、できるだけこの仕事を手早く終わらせようという強い動機になって、多くの誤審を生んでいることは間違いないだろう。

失った時間の埋め合わせとして全ての陪審員に適切な手数料――例えば一日当たり一ポンド――を支払えばこの問題は実に簡単に解決できるだろう。

私が気がついたところでは、陪審義務を免除されているさまざまな分野の人々の中には「薬剤師協会の認定試験に合格している薬剤師」と調剤師一般が含まれている。ここに「ピクウィック・ペーパーズ」の影響を見て取れるように思う。バーデル婦人の婚約不履行裁判の公判で思い出されるのは、陪審として宣誓している調剤師が「この裁判が終わる前に殺人が起きちまいます」と言い出し、陪審になった後には「店の使いっ走りの小僧だけは放っておくわけにはいかんのですよ。裁判官様、あいつは実にいい子ですが薬の知識があまり無い。私は知ってるんです。あの子の頭の中ではエプソム塩はシュウ酸、センナのシロップはアヘンチンキってことになってるんだ。おしまいですよ、裁判官様」と言う。調剤師が義務を免除されているのは、想像力豊かな役人が偶然にもこの文章を読んだ結果ではないだろうか?


関係する省庁がこれまで家庭用の燃料源として泥炭に注意を向けたことはあるのだろうかと私は考えている。現在、我が家の石炭庫は空っぽで、昨冬の経験から判断すると今後も長い間、空っぽのままだろうが、私は部屋を心地よく暖める泥炭の火の脇でこの原稿を書いている。ロンドンでは泥炭はとてつもなく高価だが、これは価格が統制されておらず、凍えないために人々が何にでもすぐに金を出すからこそ可能な悪徳商法のせいに過ぎない。重さ当たりで見れば、泥炭の価格は石炭のそれよりもいくらか安いのではないかと私は想像している。

スコットランドには膨大な量の泥炭があるし、ウェールズやイングランドの一部にもある。スコットランドでは泥炭は非常に原始的なやり方で採掘されている。人々は鋤の一種を使って小さな塊にして泥炭を掘り出し、その塊を草地に並べて乾かす。乾いたら下になる面を反転させ、これを三回繰り返し、少し経ったら積み上げて小さな山にし、それから大きな山にし、掘り出してから二ヶ月ほどしてようやく家へと運んでいく。こうした作業は春から初夏の間に終わらせる必要がある。他の時期だと雨が多すぎたり、草が伸びすぎたりして泥炭を乾かせないからだ。他に燃料を使わない家庭の場合、乾燥や運搬を含めて一ヶ月分の労働で一年分の燃料を得られる計算になるはずである。

もちろん大規模なやり方で泥炭の採掘をおこなえば、こうした原始的な方法を使ったり、乾燥のために晴天に頼ったりする必要は無くなるだろう。泥炭に慣れていない人々がときおり文句を言うのは、正しい火の付け方を知らなかったり、乾燥した場所に保存しなければならないとわかっていないせいだが、いくつかの簡単な取り扱い説明があれば家庭用燃料として泥炭が簡単に広まることは間違いない。石炭よりも熱は少ないが、ずっと清潔で扱いも容易だし、薪と異なり小さな暖炉にも適している。そうなる可能性は高そうだが、今後、十分な量の石炭を再び手にいれられなくなるのであれば、年間数百万トンの泥炭は大きな違いを生むだろう。


報道機関を調査するという王立委員会について現在の議論で必ず話題となるのが所有者や広告主によってもたらされる低俗化の影響についてである。あまり言われないことだが国家はそれにふさわしい新聞を手にする。確かにこれはいつも真実であるわけではない。報道機関の大部分が一握りの人々に所有されている時には、選択肢はあまりないし、今回の戦争の間に新聞が発行部数を落とさずに一時的に前より知的になったという事実は、一般の人々の嗜好が思われているほど悪くないことを示している。とはいえ、私たちの手にする新聞はどれも同じなわけではない。他より知的なものもあれば、他より人気なものもある。それでは知性と人気の間の関係を研究した時、何がわかるだろうか?

以下に私は二列にして九つの主要な全国日刊紙を挙げている。最初の列は私が判断する限りでの知性の順で並べ、もうひとつの列は発行部数で計った人気の順で並べている。ここでの知性というのは私自身の意見と一致するという意味ではない。ニュースを客観的に提供し、真に重要な物事に光を当て、深刻な問題をたとえそれが退屈なものであろうと議論し、少なくとも首尾一貫した明瞭な政策を指し示す用意があるかどうかという意味である。発行部数に関しては最近の数字はわからないので一、二紙で私は間違いを犯しているかもしれないが、大きく間違ってはいないだろう。

知性人気
一、マンチェスター・ガーディアン一、エクスプレス
二、ザ・タイムズ二、ヘラルド
三、ニューズ・クロニクル三、ミラー
四、テレグラフ四、ニューズ・クロニクル
五、ヘラルド五、メール
六、メール六、グラフィック
七、ミラー七、テレグラフ
八、エクスプレス八、ザ・タイムズ
九、グラフィック九、マンチェスター・ガーディアン

二番目のリストが一番目のものを反転させたものに非常に近い――完全に同じではない。現実とはそんなに簡単なものではない――ことが見て取れるだろう。そしてたとえもし私が完全に正しい順番でこれらの新聞を並べていなかったとしても、全体的な関係はそのままよく成り立つ。真実性に関して最高の評判を持つ新聞であるマンチェスター・ガーディアン紙はそれを称賛する人々にさえ読まれていない新聞なのだ。人々はこの新聞が「全く退屈」であると文句を言っている。その一方で数え切れないほどの人々がデイリー紙を読んでいる――「一文字も信じていない」とあからさまに言いながらだが。

こうした状況では、たとえ所有者や広告主によってもたらされる特殊な種類の圧力が取り除かれたとしても根本的な変化が起きると予測することは難しい。重要なのはイングランドにおいて私たちは確かに法律上の出版の自由を持っていて、それによって比較的小部数の新聞上では真の意見を恐れずに発言できるということだ。これを手放さないことが致命的に重要である。しかしどれほど統制方法を操作しようとも大部数の出版物を現状よりも大きく改善できるような王立委員会は存在しない。私たちが真剣で真実に満ちた人気のある出版物を手にできるとしたらそれは世論が積極的にそれを求めた時だろう。それまではニュースがビジネスマンによって歪められなくとも、それより少しましという程度の官僚によって歪められることだろう。


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