気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1946年11月29日 平均的な一日の記録、価格上昇の動き、パレスチナへのユダヤ人の帰還


以下は一九四六年十一月の平凡な何事もない日の朝刊の第一面に関する分析である。

大見出しは国連の会議についてだ。この会議でソビエト連邦は旧敵国や連合国に存在するイギリス・アメリカ軍の戦力の調査を要求している。これがソビエト連邦内に存在する戦力の調査の要求を未然に防ごうと意図してのことなのは明らかだ。そしてこうした議論をしたところで非難の応酬とどちらの側に勝利の栄誉が帰されるかを除けば何も得るものは無く、真の国際的な合意に向かう進歩も、何らかの進歩の試みももたらされないことは容易に見て取れる。

ギリシャでの戦いはさらに深刻さを増している。合法的野党はますます反政府勢力の支持に振れており、一方で政府はいわゆる反政府勢力は実のところ国境を越えて活動するゲリラであると主張している。

インド憲法制定議会の招集はさらに遅れていて、ガンジー氏は心配になるほどの状態まで断食をおこなっている。

アメリカの炭鉱でのストライキは続いていて「世界の穀物供給に破滅的影響を与える」可能性がある。最近の別のストライキのせいで合衆国は二百万トンの鋼鉄のイギリスへの引き渡しを取りやめ、それがイギリスの住宅問題をさらに悪化させている。またグレートウエスタン鉄道での非公式な「運行遅延」運動もある。

エルサレムではまた爆発が起きて多くの犠牲者が出た。これに加えてさまざまな小規模で避けがたい災難のニュースもある。飛行機事故、イングランド全土での洪水の可能性、マージー川での船同士の衝突といったもので、最後のものではおおよそ百頭ほどの畜牛が失われた。これは約四万の人々の肉の配給一週間分ほどであるように思う。

第一面には完全に良いニュースは全く無い。十月はイギリスの輸出が増えたといった記事はあって、一見すると良いことのように見えるかも知れないが、それを解釈できるだけの十分な知識を持っていれば悪いことだとわかるだろう。またドイツの占領軍はまもなくより良い合意に達する「だろう」という趣旨の短い声明もある。しかしこれは確証の無い、実現の見込みの薄い願望という以上のものではない。

このページいっぱいの大惨事が、特に何も起きていないある平均的な一日の記録に過ぎないことを私は繰り返しておく。さらに言えば、これは他のほとんどの新聞と比較しても物事の良い面を取り上げようとしている新聞のものなのだ。

一九三〇年頃以来、いかに事態が進んだかを考えると、文明が生き延びられていることが容易には信じられなくなる。だからと言って私は、現実政治に願いを託して人里離れた場所へ引きこもり、個人の救済や原子爆弾がその役割を果たしたその日に備えた自助共同体を作り上げることに専念する他ないと主張したいわけではない。私は政治的闘争を続けなければならないと考えている。それはおそらくは死ぬであろう患者の命を救うために医者が努力しなければならないのと同じことだ。しかし政治的行動の大部分は不合理であること、世界はある種の精神的な病に苦しんでいてそれを治すためにはまず診断が必要なことを最初に理解しなければ私たちはどこへもたどり着けないだろうと私は指摘したい。重要なのは私たちに起きている災難のほとんど全てが全く不必要なものであることだ。人類が求めているものは安楽であると広く思われている。さて今や私たちは安楽に過ごすための力を手に入れている。私たちの祖先は手にしていなかったものだ。時に地震や竜巻でやり返してくるが、全体的には自然はやり込められているのだ。しかし全ての人のために全ての物が十分にある、あるいはあり得るというまさにその瞬間に、ほとんど全てのエネルギーを互いの領土や市場、資源を奪い合うことに費やさなければならないのである。富が広く行き渡って政府が強力な反対者を恐れる必要がなくなったまさにその瞬間に、政治的自由は不可能であると宣言され、世界の半分が秘密警察によって支配されているのである。迷信が崩れ去ってこの世界に対する理性的な態度が実行可能となったまさにその瞬間に、自分の考えを持つ権利が史上初めて否定されたのである。もはや戦う理由が無くなった時になって人類は互いに真剣に戦いを始めたというのが事実なのである。

現在、世界を支配している人々の振る舞いに直接的な経済的説明をつけることは容易ではない。富への欲求よりも純粋な権力への欲求の方がずっと大きいように思える。たびたび指摘されてきたことではあるが、実に興味深いことに権力への欲求は食物への欲求と同様にあらゆる時代に等しく見られる自然の本能であると思われているようだ。実際のところはそれは生物学的必要という意味においては酒を飲んだり賭け事をしたりすることほどにも自然なものとは言えない。そして私が考えるようにもし現代において狂気が新しい水準に達したのだとしたら、次のような疑問がわく。すなわち、衝動的に他の者を虐げることを人間の主要な動機にしてしまう現代生活に特有の性質とは何なのだろう? この――めったに問われず、調査されたことの無い――疑問に答えられれば、ときおりは朝刊の第一面に多少の良いニュースが載ることもあるだろう。

とはいえ外観に反して私たちが暮らす時代はこれまでの他の時代と比べてもそう悪くないし、さらには大きく異なってさえいないという可能性は常にある。少なくとも、以前、友人の一人が翻訳してくれたインドのことわざについて考える時にはこの可能性が私の頭に浮かぶのだ。

四月にはジャッカルが生まれ、
六月には雨を集めた川が氾濫する。
「決して無かった、私の生涯で」ジャッカルは言った。
「こんな大洪水を見たことは」


時計や腕時計の不足は誰の責任でもないと私は思っているが、ここ一、二年に起きているような価格上昇の動きは必然的なものなのだろうか?

今年の始めに私は軍放出品の腕時計がひとつ当たり四ポンドより少し低い値段でショーケースの中に飾られているのを見た。一、二週間後、私はそのひとつを五ポンドで買うことに成功した。最近ではその値段は八ポンドにまで上がっているようである。一、二年前、当時でも許可無しでは買えなかった目覚まし時計はひとつ当たり十六シリングで売られていた。これは統制価格で、推測するに製造業者が実際に被っている損失に応じたものではなかった。先日、私は四十五シリングの非常によく似た時計を見かけた――百八十パーセントの上昇である。原価がそれに相当して上昇したなどということが本当にあり得るのだろうか?

ちなみに、もし電話を持っていれば四十五シリングで電話交換手に毎朝電話をかけてくるよう十八ヶ月間近く手配できる。これは平均的な目覚まし時計の寿命よりもずっと長いものだ。


サミュエル・バトラーは自身の「雑記録」で「パレスチナへのユダヤ人の帰還」という表題の下に次のように書き記している。

先週、一人の男が私を訪ねてきて、ニューボンドストリートに住むユダヤ人である彼の友人が思いついたアイデアについての本を書くようにと真剣な様子で提案してきた……私が手助けすれば、パレスチナへのユダヤ人の帰還は確実で容易なものになるだろう。哀れなユダヤ人たちについては何の問題もない。いつだろうと彼らを帰還させる方法については彼はわかっているのだ。難しいのはロスチャイルド家やオッペンハイム家といったものについてだが、私の助力があれば、やり遂げることができるだろう。

失礼を承知で私はこの計画への参加をお断りさせていただいた。ロスチャイルド家やオッペンハイム家がパレスチナに帰ろうが帰るまいが、私には何の関心もなかった。これは面倒なことになると感じた。しかし次の瞬間に彼は私に関心を向けさせようと説得を始めたので、もちろんのことだがすぐに私は彼を追い出すことになった。

これが書かれたのは一八八三年のことだ。それにしても誰が予見できただろうか。わずか六十年後にヨーロッパ中のほとんど全てのユダヤ人が自発的にパレスチナへ帰ろうとし、一方で他のほとんど全ての者がそれを止めようとしているなどと?


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