一九四七年一月一日のデイリーヘラルド紙では大見出しに「ヒトラーを擁護する者がここに」とあって、その下に二人のインド人の写真があり、これがブリジュラル・ムケルジーとアンジット・シンで「ベルリンから」来たと説明されている。写真の下のニュース記事では「裏切り者として銃殺される可能性のある四人のインド人」がロンドン・ホテルに宿泊していると続いていて、さらには戦争中にドイツのラジオで放送をおこなっていたインド人グループを「敵国協力者」と表現している。こうしたさまざまな発言にはもう少し詳細に調べるだけの価値がある。
まず始めに、事実誤認が二つあってその一つは非常に深刻なものである。アンジット・シンはナチのラジオで放送をおこなっておらず、イタリアの放送局からおこなっただけである。また「ブリジュラル・ムケルジー」とされている男は戦争の間ずっとイングランドにいたインド人で、私自身も、ロンドンにいる他の人々もよく知る人物だ。しかし、こうした誤りは実のところある思考態度の現れで、それは報道での表現に、より明確に現れている。
何の権利があって私たちはドイツのラジオで放送をおこなったインド人を「敵国協力者」と呼んでいるのだろう? 彼らは占領された国の市民であり、彼らから見て最良のやり方で支配権力への反撃をおこなっていただけだ。彼らが選んだやり方が正しいと言いたいわけではない。インドの独立がこの問題における唯一の目標だと見なす限定的な見地からでさえ、私が思うに彼らはひどい間違いを犯している。なぜなら、もし枢軸国側がこの戦争に勝利したとしても――彼らの取り組みがある程度は枢軸国側の助けとなることは間違いない――インドはただ新しい、前よりひどい主人を持つことになるだけだからだ。しかし彼らが取った方針は完全に誠実なものと考えられ、公正さの点からも、さらには正確さの点からも「敵国協力」とは呼べない。「敵国協力」という言葉はクヴィスリングやラヴァルのような人々に対するものなのだ。それが意味するのは、まず何よりも自分の祖国への裏切りであり、第二に征服者への完全な協力であり、第三に思想的な同意、少なくとも部分的な同意なのだ。しかし、どうすればこれを枢軸国側についたインド人たちに適用できるだろうか? 彼らは自分の祖国を裏切っていないし――それどころか彼ら自身の信じるところではその独立のために尽力している――イギリスに対する義務があるとは思っていないのだ。またクヴィスリングなどと同じやり方で協力しているわけでもない。ドイツ人たちは彼らが独立した放送部署で働くことを許し、そこで彼らは好きなことを話し、多くの場合、枢軸国側のものとは全く異なる政治的方針に従っていた。個人的には彼らは間違いを犯し害をなしたと思うが、道徳的態度や、またおそらくはその行いの影響に関して言えば一般的な背信者とは全く異なる。
一方でこうした種類の物事のインドにおける影響については考慮しなければならない。事の是非はさておき、故郷に戻った時にはこの男たちは英雄として迎えられ、イギリスの新聞が彼らを侮辱した事実が見過ごされることはないだろう。またこの写真のいい加減な扱いも見過ごされはしないだろう。「ブリジュラル・ムケルジー」という説明書きが完全に異なる人物の顔の下に付けられているのだ。この写真が、帰還インド人のために仲間の同国人によってロンドンで開かれた歓迎会で撮影されたものであること、撮影者がミスによって間違った男を撮影してしまったことは疑いようがない。しかし問題の人物がウィリアム・ジョイス(ウィリアム・ジョイス(一九〇六年四月二十四日-一九四六年一月三日)。アメリカ出身のファシスト、反ユダヤ主義者。イギリス・ファシスト連合で活動していたが、その後ドイツへ亡命、第二次世界大戦中はドイツからイギリスに向けてプロパガンダ放送をおこなった。大戦後にイギリスで処刑された。)だったと考えてみて欲しい。その場合には、デイリーヘラルド紙はその写真がウィリアム・ジョイスのものであって別の誰かのものではないとちゃんと確かめるのではないだろうか? しかしこれは一介のインド人に過ぎないのだから、この種の間違いはたいした問題ではない――そう暗黙の了解がなされたのだ。しかもこれが起きたのはデイリー・テレグラフ紙でのことではなく、イギリス唯一の労働党機関紙でのことなのである。
私は手に入れられる人全員にヴィクター・ゴランツが最近出版した「暗黒のドイツにて」を少なくとも一読はしてもらいたいと望んでいる。これは文学書ではなく珠玉のジャーナリズム作品で、この国の一般の人々に衝撃を与えてイギリス占領統治区域に広がる飢餓や病気、混沌、正気とは思えない不適切な統治へいくらかでも意識を向けさせることを意図したものだ。自身の狭い身の回りの外で起きていることに人々の意識を向けさせる仕事は現代における大きな問題のひとつであり、その目的のためには新しい文学手法を発展させる必要があるだろう。この国の人々があまり快適な時間を過ごせていないことを考えれば、別のどこかで起きている苦しみにいくらか冷淡であるからと言って責めることはできないだろうが、なんとかそれに気づかないままでいようとするその強い姿勢は注目に値する。飢餓や破壊された町々、強制収容所、大規模な国外追放、家を失った難民、迫害されたユダヤ人――これら全てがある種の無関心な驚きをもって受け止められる。まるでそんなものについてはこれまで聞いたこともないが、同時に特に興味もわかないというかのようだ。今ではおなじみになった骸骨のようにやせ細った子供たちの写真はたいした感動も呼ばない。時が経って恐るべきものが積み上がっていくに従って、精神はある種の自衛的な無知を分泌しているかのようで、それを貫くために必要となる衝撃はどんどん強くなる。ちょうど薬物への耐性ができてますます摂取する量が増えるようなものだ。
ヴィクター・ゴランツの本の半分は写真で構成されているが、彼はその多くに自分自身を写り込ませるという賢明な予防策をとっている。少なくともこれによってこれら写真が本物であることがわかり、工作員から手にいれた「全くのプロパガンダ」であるというお決まりの非難を切り捨てられる。しかし私が考えるこの本での最高の仕掛けは、「ビスケット・スープ」、ジャガイモやキャベツ、脱脂粉乳や代用コーヒーに頼って生きる人々について数限りなく説明した後、この混乱状態の中で管理委員会に提供されている夕食のメニューを掲載していることだろう。ゴランツ氏が言うには、気づかれずにやれる時には常に彼はメニューカードをポケットへと滑り込ませたそうで、半ダースほどのそれを彼は掲載している。ここにそのリストの最初のものを載せておこう。
ヨーロッパでの飢餓についてのこうした記述は、クリスマス直前のイブニング・スタンダード紙から私が切り抜いた「愛犬家のための今週の手引き」と見出しが付けられたある文章と繋がりを持つように思われる。
もし料理のかけらをたくさん与えて甘やかせば、あなたの犬も「クリスマス後の胃もたれ」気分になるでしょう。ペットに「あらゆる美味」を与えたがる多くの飼い主はクリスマスのお祝いの食事の多くは犬には適していないという事実などお構いなしです。
永続的な害はないでしょうが、もし犬がだるそうで、舌の血色が悪く、呼吸が荒い場合にはヒマシ油を飲ませてやるといいでしょう。
十二時間の断食をし、その後の数日に軽い節食を続ければ、普通はすみやかに回復します――八~十二グレインの炭酸ビスマスを一日三度与えましょう。また犬は普通の水よりも大麦湯を飲んだ方が元気になります。
動物学協会の特別研究員の署名がされている。
ここまでに書いたものに目を通していて、私は自分が「完全に異なる人物」という言い回しを使っていることに気づいた。最初に頭に浮かんだのは、なんと馬鹿げた表現だろうということだった。まるで部分的に異なる人物というものがあるとでも言うようではないか! 今後はこの言い回し(また「非常に異なる人物」や「全くもって異なる人物」)を私の語彙から捨てるつもりである。
しかし明らかにゴミ捨て場へ行くのがふさわしい言葉や言い回しが他にもあるのだが、それらは使いやすい代用品がないように見えるという理由で使われ続けている。その一例が「一定の」だ。例えば私たちは「ある一定の年齢以降、人の髪は白くなっていく」だとか「二月にはある一定の量の雪が降るだろう」といったことを言う。こうした文の全てで「一定の」は不定を意味している。なぜ私たちはこの言葉を二つの反対の意味で使わなければならないのか? しかし、学者ぶって「ある不定の年齢以降」などと言うのでもない限り、必要とされる意味を正確に表現する別の言葉は無いように思えるのだ。