最近、スコットランドのホテルで二人のけちなビジネスマンの間で交わされた会話を私は耳にした。彼らのうちの四十五歳くらいの油断ない顔つきをした身なりの良い方は建築家連盟の関係者で、もう一方のかなり歳のいった白髪で訛りの強い方は何かの卸売商だった。彼は食前の祈りの言葉を口にしていた。もう何年も私が目にしたことのなかったものだ。私が思うに、彼らはそれぞれ年収二千ポンドと年収千ポンドの所得層に属しているようだった。
私たちは実に頼りない泥炭の火を囲んで座っていて、石炭不足についての話題から話は始まった。石炭が無いように見えるのはイギリスの炭鉱労働者がそれを掘り出すことを拒否しているためだが、一方でポーランド人労働者を炭鉱に入れないようにするのは重要で、なぜならそんなことをすれば失業問題につながるからである。スコットランドではすでに深刻な失業が起きている。そして年長の方の男がとても満足そうに、労働党が総選挙に勝ったのは実に喜ばしい――「づつによろこばしい」――と口にした。戦争の後始末をしなければならない政府はどんな政府であれ困難に直面する、そして五年に及ぶ配給、住宅不足、非公式なストライキといったものの結果、一般大衆は社会主義者の約束の正体を見抜き、次の機会には保守党に投票するだろう。
彼らは住宅問題について話し始めたが、すぐにポーランド人についての話の合う話題に戻った。若い方の男はちょうどエディンバラで自分のアパートを良い値段で売ったばかりで、これから家を買おうとしているところだった。彼は二千七百ポンドを支払う用意があった。年長の方は自分の家を千五百ポンドで売ってもっと小さな家を買おうとしているところだった。しかし最近では家やアパートを買うのは不可能であるように思える。ポーランド人がそれら全てを買い占めているのだが「どこから金が出ているのかは不明」だ。ポーランド人はまた医療職も侵略していた。彼らはエディンバラだかグラスゴーだか(どっちだったか私は忘れてしまった)に独自の医学校さえ持っていて、大量の医者を養成しているので「私たちの側」は気がついた時には診療所を買えなくなっているのだ。イギリスには必要以上の医者がいることを皆は知っているのだろうか? ポーランド人を自分の国へ帰らせるのだ。すでにこの国には多すぎるほどの人間がいる。必要なのは海外への移民だ。
若い方の男は、自分はいくつかの職業市民団体に入っているがその全てで自分はポーランド人を自分の国へ送還するべきだという決議を提案する努力をしていると口にした。年長の方は、ポーランド人は「道徳的にひどく堕落している」と付け加えた。最近、広まっている不道徳の多くは彼らに責任があるのだ。「彼らのやり方は私たちのやり方とは違う」彼は善意を装いながら締めくくった。ポーランド人が行列の先頭に割り込んだり、明るい色の服を着たり、空襲の時にひどく怯えて見せたことについては触れられなかったが、もし私がそうした話を持ち出して見せたら同意を得られたであろうことは間違いないと思う。
もちろんこうしたものに対してできることはあまり多くはない。これは反ユダヤ主義の現代における等価物だ。一九四七年には、私が描いて見せたような種類の人々は反ユダヤ主義が恥ずべきものであるという事実に気づいて別の所にスケープゴートを探したのだ。しかし現代におけるこうした類型の一部をなす人種的憎悪と集団妄想は、無知によって強められなければもう少しその悪影響の程度を弱められるだろう。例えば戦前であればドイツでのユダヤ人迫害についての事実を広く知らしめれば、ユダヤ人に対する主観的な大衆感情は収まらないにせよ、ユダヤ人難民の実際の扱いはましなものとなっただろう。この国への大規模な難民受け入れの拒否は恥ずべきこととされたはずだ。平均的な人間はさらに難民に対するわだかまりを感じるようになっただろうが、現実問題としてもっと多くの命が救われたはずだ。
ポーランド人についても同じだ。先に述べた会話で最も私を憂鬱にさせたのは何度も口に出された「彼らを自分の国へ送り返せ」という言葉だ。もし私がこの二人のビジネスマンに「こうした人々のほとんどは帰る国が無いのだ」と言ったら、彼らは口をぽかんと開けたことだろう。この問題に関する事実のひとつたりとも彼らは知らないのだ。一九三九年以来、ポーランドで起きているさまざまな事態についても、またイギリスでの人口過密が誤りであることや局所的な失業は全体的な労働力不足と同時に起き得ることも彼らは全く耳にしたことがないのだろう。こうした人々に無知という言い訳を与えるのは間違っていると私は思う。彼らの感情を本当に変えることはできないだろうが、彼らが家を失った難民を私たちの海岸から追い出すよう要求した時に自分たちが何を言っているのか理解させることはできるし、そうした知識があればそのひどい悪意も少しはましなものとなるだろう。
先々週のスペクテイター誌で、ハロルド・ニコルソン氏は自分が六十歳になったことに対して精一杯の励ましを自分自身にしていた。彼が見抜くように、歳を取ることで得られる唯一の肯定的成果は、ある時点以降になるともう誰も再び見られないものを見てきたと自慢できるようになることだ。四十四歳あたりの歳の私自身はどんな自慢ができるだろうかと私は思わず考えを巡らせしまった。ニコルソン氏は大量のコサック兵の護衛に囲まれてネヴァ川に祝福を授けるロシア皇帝を見たことがあるそうだ。私はそれほどのものは一度も見たことがないが、今ではもう伝説的な人物となっているマリー・ロイド(マリー・ロイド(一八七〇年二月十二日-一九二二年十月七日)。イギリスの歌手、コメディアン、女優。)を見たことがあるし、リトル・ティッチ(リトル・ティッチ(一八六七年七月二十一日-一九二八年二月十日)。イギリスのコメディアン。)――一九二八年頃までは生きていたはずだが、引退したのはマリー・ロイドと同じ頃だった――を見たこともある。またエドワード七世以降の王冠をかぶった一連の者たちやその他の有名人も見てきた。しかし当時、自分が何か重要なものを見ていると感じたことはたった二度しかないし、そのうちの一度は状況によってそう思っただけで当の人物が私にそう感じさせたわけではなかった。
その有名人の一人はペタン(フィリップ・ペタン(一八五六年四月二十四日-一九五一年七月二十三日)。フランスの軍人、政治家。第一次世界大戦で活躍して名声を得たが、第二次世界大戦中にヴィシー政権の主席を務めたため戦後に死刑判決を受けた(後に無期禁固刑に減刑)。)だ。一九二九年のフォッシュ(フェルディナン・フォッシュ(一八五一年十月二日-一九二九年三月二十日)。フランスの軍人。第一次世界大戦で連合国軍総司令官を務めた。)の葬式でのことだった。フランスにおけるペタンの個人的名声は非常に高いものだった。ヴェルダンの守護者として彼は高く評価されていて「奴らを通すな(フランスのロベール・ニヴェル中将が第一次世界大戦中にヴェルダンの戦いで掲げたスローガン。その後、スペイン内戦などでも使用された。)」は一般には彼による言葉だと思われていた。葬列の中で彼は自分の前後に数ヤードの間隔を空けさせていた。彼がおおまたで通り過ぎると「Voilà Pétain(ほら、ペタンだ)」というささやきが大群衆の中をさざ波のように走った。彼の姿は私に強い印象を与え、かなりの高齢ではあるがまだ何かしら際立った未来が彼の前にはあると私にはぼんやりと感じられた。
もう一人の有名人はメアリー王妃である。ある日、私は歩きでウィンザー城の前を通りかかったのだが、その時、電撃のようなものが通りを駆け抜けたように思われた。人々が帽子を脱ぎ、兵士は気をつけの姿勢を取った。そして敷石の上を音を立てながら、騎乗御者を乗せた四頭の馬に引かれた巨大なプラム色の無蓋馬車がやって来たのだ。私の人生で騎乗御者を目にしたのは後にも先にもこれが最後だったと思う。後部座席には別の馬手が馬車を背に腕組みをして堅苦しく背を伸ばして座っていた。後部座席に座る馬手は当時はタイガーと呼ばれていた。私は王妃に気づかないところだった。私の目は後部座席の奇妙で古風な姿に釘付けになっていたのだ。蝋細工のように静止していて、その白いズボンはまるで彼がそこに注ぎ込まれたかのようで、被っているシルクハットには花形帽章が付けられていた。その当時でさえ(一九二〇年かそのあたりのことだ)それは窓越しに十九世紀を顧みたような不思議な感覚を私にもたらしたのだった。
文学的情報についてのいくつかの雑記
数週間前にこのコラムでインドのことわざを引用して(「気の向くままに」一九四六年十一月二十九日を参照)、友人の一人が翻訳してくれたものであると間違った説明した。実際にはこのことわざはキップリングからの引用である。私は他の場所でも指摘したことがあるが、これはある事実を示している――キプリングは無意識に引用してしまう作家の一人なのである。
パルチザン・レビュー誌――最も優れたアメリカの高尚な雑誌のひとつで、構成はホライズン誌やポレミック誌と非常によく似ている――が二月からロンドンでも発売されるそうだ。
一年ほど前に私がトリビューン紙で記事にした(オーウェル「書評 E・I・ザミャーチン著『われら』」(トリビューン、一九四六年一月四日)参照)ことがある、ザミャーチンの小説「われら」がこの国で再出版されるそうだ。ロシア語からの新訳がおこなわれているところだ。ぜひこの作品を探してみて欲しい。