新聞や雑誌との関係は人間との関係よりもずっと気まぐれで間欠的なものだ。人間は時に髪を染めたりローマ・カトリックへ改宗したりするが根本から自分を変えることはできないのに対して、定期刊行物は同じ名前の下で一連の非常に多くの異なる存在に変化していく。トリビューン紙はその短い歴史の中で三つとは言わないまでも二つのはっきりと異なる新聞であったし、私自身との関係にも急速な変化があった。私の記憶が正しければその関係は軽い一撃から始まったのだった。
一九三九年のある時点まで私はトリビューン紙の存在を知らなかった。その発行が始まったのは一九三七年のことだったが、そこから戦争が勃発するまでの三十ヶ月の間、私は五ヶ月間を病院で、十三ヶ月間を海外で過ごしていたのだ。最初にそれに対する私の注意を引かせたのは私の小説への全く好意的でない書評だった。一九三九年から一九四二年の間の時期に私は三、四冊の本を出版し増刷していたのだが、私がその編集部の一員になるまでトリビューン紙には「好意的」書評と呼べるようなものは一度も掲載されていなかったことは間違いないように思う(言うまでもないがこの二つの出来事の間に繋がりは無い)。いくらか後になった一九三九年の寒い冬に私はトリビューン紙で記事を書くようになった。とはいえ実に奇妙なことに最初は定期購読もしていなかったし、それがどういった種類の新聞なのかもはっきりとわかっていなかった。
当時の編集だったレイモンド・ポストゲートが小説の書評をするようときおり私に依頼してきたのだ。原稿料は無く(左派の新聞では寄稿者に原稿料を支払うのは最近になるまで珍しいことだった)、私がその新聞を目にするまれな機会があるのはロンドンに行ってロンドン・ウォールの近くにある殺風景でほこりっぽいオフィスにいるポストゲートを訪ねる時だけだった。トリビューン紙(かなり後になるまで誰もが「ザ」・トリビューンと呼んでいた)は当時、困難な状況にあった。トリビューン紙はまだ工場労働者をメインターゲットにした三ペンスの安新聞で、レフトブッククラブや社会主義同盟と関係を持つ人民戦線を多かれ少なかれ支持していた。戦争が勃発するとその発行部数は深刻な打撃を受けた。最も熱心な支援者の中にいた共産主義者や親共産主義者がそれを広める手助けを拒むようになったからである。そのうちの一部は寄稿を続けたが、紙面上ではこの戦争の「支持者」と「反対者」の間での無益な論争が巻き起こり、それはドイツ軍が春季攻勢(一九四〇年四月のドイツの西部方面侵攻を指すものと思われる。)のために集結しつつある間中、続いた。
一九四〇年の始め頃に公会堂での大きな会合が開かれた。会合の目的はトリビューン紙の将来と労働党左派の政策の両方について議論することだった。こうした場合にはよくあることだがはっきりとしたことは何も語られず、私の記憶に主に残っているのは内部の情報源から手に入れた政治的内情についてだった。ノルウェーの戦いは悲惨な結果に終わっていて、私は陰鬱なポスターの前を通ってその公会堂へと歩いて行った。名前は書かないが二人の国会議員がちょうど議事堂から到着したところだった。
私は尋ねた。「チェンバレンを退陣させられる公算はどれくらいあるのでしょう?」
「望みはないでしょう」ふたりともが言った。「彼は頑固だ」
日付は憶えていないが、たしかチェンバレンが首相の座を降りるほんの一、二週間前のことだったと思う。
その後、トリビューン紙は私の意識から二年近くの間、消えていた。私は爆撃とあらゆる無秩序の中で生計を立て、本を書くのにとても忙しく、また空いた時間は、いまだ素人軍隊で、その構成員による膨大な仕事を必要としていたホーム・ガードに費やされていた。再びトリビューン紙に気づいた時には私はBBCの東洋部局で働いているところだった。その時にはトリビューン紙はほとんど完全に別の新聞になっていた。異なる構成で価格は六ペンスとなったそれは主に外交政策を扱っていて、急速に新しい読者層を獲得しつつあり、そのほとんどは貧しい中流階級に属していたと言える。BBC職員の間での評判は非常に際立っていた。コメンテーターたちがこぞって通う図書室で、それは最も人気のある定期刊行物のひとつだった。なぜならヨーロッパについて直に何かを知っている人々によって大部分が執筆されているだけでなく、当時は政府を批判する立場を取る唯一の新聞だったからだ。おそらく「批判する」というのは手ぬるすぎる言葉だ。スタッフォード・クリップス卿(スタッフォード・クリップス(一八八九年四月二十四日-一九五二年四月二十一日)。一九三九年に労働党を除名、一九四〇年にチャーチルの戦時政府でソ連大使に任命、その後、航空機生産大臣などを歴任し、一九四五年に労働党に再入党。)が政府に加わったので、激しやすい性格のアナイリン・ベヴァン(アナイリン・ベヴァン(一八九七年十一月十五日-一九六〇年七月六日)。労働党左派の政治家。一九四五年から労働党政府で保健大臣を務め、国民保健サービスを導入したことで知られる。)がこの新聞にそうした調子を与えていたのだ。ある一度などは「トーマス・レインズボロ」と名乗る何者かによるチャーチルへの驚くほど暴力的な非難が掲載されたこともあった。この名前は明らかにペンネームで、私は、ゲシュタポに雇われた文芸批評家が匿名のパンフレットに対してやっていると言われるように、文体の痕跡からこの著者を特定しようと午後いっぱいをかけて試みたものだ。最終的に私は「トーマス・レインズボロ」は間違いなくW氏であると結論した。数日後、私はヴィクター・ゴランツと会ったのだが彼がこう言った。
「あのトリビューンのトーマス・レインズボロの記事を書いたのが誰か知ってますか? さっき聞きましたよ。W氏だそうです」
これにはぎょっとしたが、さらに数日後、私たち二人ともが間違っていたことを私は知った。
こうした期間も私はときおりトリビューン紙に記事を書いていたが、時間も気力も少なかったのでそれも長い間隔をおいてのことだった。しかし一九四三年の終わりにかけて私はBBCでの職を辞そうと決め、その頃、トリビューン紙の文芸編集の職を引き継ぐよう頼まれた。その職にあったジョン・アトキンスに召集がかかりそうだったのだ。私は文芸編集者として仕事を始め、このコラム「気の向くままに」も書くようになり、それは一九四五年の始めまで続いた。楽しくはあったが、誇りを持って振り返ることのできる期間ではない。私が編集に向いていないことは事実だ。前もって計画を立てるのは嫌いだし、手紙に返事を書けないという精神的障害、さらには肉体的障害さえ持っている。最も忘れられない当時の記憶は、あちらこちらの引き出しを開けるたびにそこに数週間前には処理しておかなければならないはずの手紙や原稿が詰まっているのを見つけ、慌てて再び閉じるというものだ。また私には、とうてい出版できないとよくわかっている原稿を受け取ってしまう致命的な癖もある。誰であろうとフリーランス・ジャーナリストとして長い経験を持つ人間が編集者になれるかはおおいに疑問である。それは監房から解放するという判決を受けて、刑務所の所長にされるのと実によく似ている。だがよく言われるように「何事も経験」であるし、気持ちの良い記憶もある。裏庭に面した窮屈で小さなオフィス、V1飛行爆弾が音をたてて近づいて来ると部屋の隅にうずくまる同じ部屋にいる私たち三人、爆弾が爆発するとまもなく再び始まる平穏なタイプライターのカタカタという音。
一九四五年の始め頃には私はオブザーバー紙の特派員としてパリへ行った。パリでトリビューン紙はちょっと驚くほどの評判を得ていて、それは解放以前からのことだった。購読は不可能で、イギリス大使館が毎週受け取っていた十部は建物の外には出ていなかったはずだ。しかしそれでも私が会ったフランスのジャーナリストの全員がそれについて耳にし、それがイングランドで唯一の、政府を無批判に支持せず、戦争に反対せず、ロシアの神話を鵜呑みにしない新聞と知っているようだった。当時は「リベルテ」という名の週刊新聞があり――今もまだ存在していると確認できればいいのだが――これはトリビューン紙とだいたい同じ内容を掲載していて、占領の間はパリザー・ツァイトゥング(第二次世界大戦中にドイツ占領下のフランスで発行されていた日刊紙。ドイツ占領軍の代弁者的な役割を担っていた。)紙を印刷しているのと同じ印刷機で密かに作られていた。
一方ではド・ゴール主義者に、また一方では共産主義者に反対していたリベルテ紙は、ほとんど資金も無く、自転車に乗った志願者の集団によって配達されていた。週によっては検閲によって何が書かれているかわからないほど台無しにされることもあったし、「インドシナの真実」と言ったようなタイトルとその下の完璧に空白となった欄以外には記事が残らず消されていることもしばしばだった。パリに到着して数日後に私はリベルテ紙の支持者たちによる半公式の会合に出席する機会があったのだが、彼らの半数ほどが私とトリビューン紙についてよく知っているとわかって驚かされた。黒いコーデュロイのズボンを履いた大柄な労働者が私に近づいて来て、「Ah, vous êtes Georges Orrvell!」と叫ぶと、私の手の骨を握りつぶさんばかりに握手した。彼が私のことを耳にしていたのはリベルテ紙がトリビューン紙の抜粋をよく翻訳して掲載していたからだ。編集者の一人が毎週のようにイギリス大使館に行って新聞を見せるよう要求していたのだろう。知らぬ間にこんな風に人々の間で有名になることもあるのだと知って私はなんとなく感慨深く思ったものだ。一方で、ホテル・スクリーブに宿泊する、きらびやかな姿で途方もない給料を貰っているアメリカ人ジャーナリストの大部隊の中ではトリビューン紙のことを耳にしている者に出会うことは一度も無かった。
一九四六年の夏の六ヶ月の間、私はトリビューン紙の執筆者であることやめて一読者になったが、間違いなく、ときおりはまた同じことをするだろう。しかしトリビューン紙との関係が長く続くことを私は望んでいるし、一九五七年にはまた記念記事を書くことができればと望んでいる。とはいえその時までにトリビューン紙が全てのライバル紙を片付けることまでは望まない。世界を形作るにはあらゆるものが必要で、こうした物事に取り組んでみれば〇〇〇さえも有用な目的に資するとわかるだろう。そしてまたトリビューン紙自体も完璧ではない。それは内部から見ていた私もよく知っている。しかしそれが進歩的であると同時に人間的あろうと――つまり急進的な社会主義方針と言論の自由や文学・芸術への文明的な態度を結びつけようと――誠実に努力している唯一の現存する週刊新聞であると私は強く確信している。そしてまた、それが比較的人気があり、さらには現在の形で五年以上生き残っていることは希望を持てる兆しであると私は思う。