気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1947年2月21日 イギリスにおける検閲の不条理さ


ここ数か月で二回目のことだが、舞台での上演が禁じられた演劇がBBCによって放送されること(それによって、上演された場合よりもずっと多くの聴衆を獲得することだろう)はイギリスにおける文学検閲を支配する規則の不条理さを再び浮き彫りにさせた。

公開前に検閲を受けなければならないのは舞台演劇と映画だけだ。書籍に関して言えば訴追のリスクを引き受ければ好きなように出版できる。従ってグランヴィル・バーカーの「消耗」やバーナード・ショーの「ウォレン夫人の職業」は書籍の形であれば訴追の危険無くただちに公開できただろうし、事前に起きた騒動の影響で非常によく売れたであろうことは疑いない。公平を期して言えば、どこかしらが優れているものであれば発禁処分を受けた演劇も普通は遅かれ早かれ日の目を見る。性的にだけでなく政治的にも問題となった「消耗」でさえ、それが書かれてから三十年後、その魅力の多くをもたらしていた時事的話題が消えた時には最終的に公開を許されたのだ。

チェンバレン卿の演劇に対する検閲が抱える問題はそれが起きることではなく、それが野蛮で馬鹿げたものであり、明らかに文学的訓練を受けたことの無い官僚によっておこなわれていることなのだ。もし検閲があるのなら、それは事前におこなわれた方が良いし、そうすれば著者が自分の立ち位置を知ることができるだろう。イギリスでは書籍が発禁処分を受けることはめったにないが、下される時にはその発禁処分のほとんどは全く恣意的である。例えば「さびしさの泉一九二八年に出版されたラドクリフ・ホールの小説。女性同士の同性愛を扱っている。」は規制されたが、一方で同時期に公開されて出回っていた同じテーマの別の書籍は気づかれもしなかった。

この作品は、ひどく無知な役人の注意をたまたま引いたために規制を受けたのである。おそらく現在出版されている小説の半数は偶然にでもしかるべき者の手に渡れば同じ運命に苦しむだろう。実のところ私は疑っているのである。もし私たちの国の治安判事や警察官がもっと読書家だったとしたら――死者は常に敬意を払われるものだが――ペトロニウスやラブレー、あるいはシェイクスピアが無削除版のまま残っていただろうかと。


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