気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1947年2月27日 人種的な偏見


最近、子供のアルファベット絵本に目を通していた時のことだ。今年、出版されたもので「旅行アルファベット」と呼ばれているものだ。以下が三つの文字J、N、Uに添えられた詩である。

Jはジャンク船JunkのJ、支那人チャイナマンが発明した
なんでも運べて実に便利

Nは原住民NativeのN、アフリカの大地に住んでいる
槍を握ってとっても恐ろしげ

UはユニオンジャックUnion JacksのU、パムとジョンが持って歩く
やさしいハリーおじさんとのハイキング

描かれている「原住民」はいくつかのブレスレットと豹の皮の切れ端を身に着けただけのズールー族だ。ジャンク船の方はと言うと、その絵の細部は非常に凝っているが、そこに描かれている「支那人」たちは弁髪を結っているように見える。

おそらくユニオンジャックの存在にはたいして反対の声は上がらないだろう。現代は競争的ナショナリズムの時代なのだ。私たちが自分の象徴を他のものと並べて飾ったとして誰が責めるだろう? だが一九四七年にもなって子供たちに「原住民」だの「支那人」だのといった表現を使うよう教える必要が本当にあるのだろうか?

最後に挙げた言葉は少なくとも十年ほど前から中国人によって侮辱的であると見なされていた。「原住民」の方はと言うと、インドにおいてさえ二十年近く前には公式に望ましくないものとなっていた。

インド人やアフリカ人にとって「原住民」と呼ばれた時に侮辱的と感じるのは幼稚なことだという答えは役に立たない。形はどうあれ私たちの全員がこうした感情を持っている。中国人が支那人ではなく中国人と呼んで欲しいと思うなら、スコットマンがスコットマンと呼ばれることに反対するなら、あるいはニグロNegroが最初の文字を大文字のNにするよう要求するのなら、頼まれた通りにするのがごく普通の礼儀なのだ。

このアルファベットの本で悲しむべきは、明らかにその著者には「下等」人種を侮辱しようという意図が無いことだ。ただ、こうした人々が私たち自身と同じ人間であることを十分に理解していないだけなのである。「原住民」はわずかな布を身に着けただけの愉快な黒い人間であり、「支那人」は弁髪を結ってジャンク船に乗っている――これはイギリス人はシルクハットを被ってハンサム馬車に乗っているという程度には正しいだろう。

こうした無意識に見下す態度は子供時代に学習され、そしてまた、ここに述べたように新世代の子供たちに受け継がれている。そしてときおり極めて進歩的な人々の間で問題となって当惑させる結果を生むのだ。例えば一九四一年の終わり頃に中国が公式に連合国側に加わった時、開局十周年を祝うBBCは本社ビルの上に中国の国旗を掲げてそれを祝ったのだが、その旗は上下が逆さまになっていたのだった。


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