タイプライターがとても手に入りにくくなっている昨今、ひとつ気づいたことがある。ほとんど全ての人の手書きの文字が驚くほど下手になっているのである。
目に美しく、かつ読みやすい手書きの文字は現在ではとても珍しくなっている。これを改善するには、かつて私たちが手にしていて今では失われた、広く受け入れられる筆記の「書体」を考案しなければならないだろう。
中世の数世紀間はそれを職業とする写字生が優美な筆記体の文字、あるいは非常に長くつながった筆記体文を書いていて、それらは今、生きている者には到底真似できないものだった。その後、手書きの文字は衰退したが、鉄筆が発明された十九世紀になると再びよみがえった。当時、好まれた書体が「カッパープレート体」だ。整った判読しやすいものだが不必要な線がいっぱいで、できる限り装飾を排するという現代の傾向には合わなかった。それから子供に筆記体を教えることが流行したが、たいていは悲惨な結果に終わった。本当に整った筆記体を書くには実質的には絵を描くことを学ばなければならない。また筆記体以上に高速に文字を書くことは不可能である。多くの若者やそれより少し年長の人々は現在、筆記体とカッパープレート体のぎこちない中間物を使っているが、実のところ、正しく「型」に沿った手書きの文字を書けない大人や立派な教育のある人々が大勢いる。
整った手書き文字と読み書き能力の間に何らかの関係があるかは興味深い問題である。私が思いつける限りの現代の例からは、それをはっきり証明することはできないように思えると言わざるを得ない。レベッカ・ウェスト嬢は優美な手書きの文字を書くし、ミドルトン・マリー氏も同様だ。オズバート・シットウェル卿、スティーブン・スペンダー氏、イーヴリン・ウォー氏は全員、できる限り言葉を選んで言っても手書き文字が上手いとは言えない。ラスキ教授の文字は見た目は魅力的だが判読が難しい。アーノルド・ベネットは美しい小さな文字を書くがそこには大変な苦労がうかがえる。H・G・ウェルズの文字は魅力的だが乱れた走り書きだ。カーライルはひどい悪筆で、それを組版する仕事から逃げ出すためにある植字工がエディンバラから引っ越したと言われている。バーナード・ショー氏は小さな、明瞭ではあるがあまり優美とは言えない文字を書く。そして現在生きている英語小説家の中で最も有名で尊敬されている人物に関してだが、その手書き文字がどうだったかと言うと、私がBBCにいた頃、月に一度、彼を番組に出演させる名誉にあずかったことがあるのだが、その手書き原稿を解読できた筆記担当者は局全体でたった一人しかいなかったのである。