気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1947年3月7日 マイクでの話し方、代表的な英語詩の選集


現在の政府の最大の問題のひとつは、何が起きていて、それはなぜなのかを人々に伝えるのに失敗していることだ。これ自体は広く認められている、何度も言う価値も無いことだ。しかしながら戦時のプロパガンダ装置の大部分が廃止され、報道機関が個人所有者の統制下にあって、しかもそのうちの何人かは全く友好的でない状況では、政府が自身の広報をおこなうのは容易なことではない。ポスター――少なくとも現在のようなポスター――ではたいした効果は得られず、映画は費用がかかり、パンフレットや白書は大衆には読まれない。最も確かな広報手段はラジオだが、私たちはこの国の政治家が全くラジオに意識を向けていないという問題に突き当たっている。

少し前の危機の頃には、あれやこれやの大臣は「マイクに向き合う」べきであるという発言を以前よりもよく耳した。しかしマイクに向き合ったところで話に耳が貸されないのであればあまり意味が無い。BBCで働いていた時に私はよく著名な人物を放送に出演させていたが、強く印象に残ったのは、放送は学ぶべき技芸のひとつであり、演台から話すのとは全く異なると理解している職業政治家が極めて少ないことだった。ある媒体での一流の演者が別の媒体では使い物にならずに再訓練を必要とすることもある。例えばアーネスト・ベヴィンアーネスト・ベヴィン(一八八一年三月九日-一九五一年四月十四日)。イギリス労働党の政治家。は演台の上では優れた演説家だが、放送ではひどいものだ。アトリークレメント・アトリー(一八八三年一月三日-一九六七年十月八日)。イギリス労働党の政治家。第二次大戦後に労働党内閣の首相を務めた。はその声に関して言えばまだましだが、効果的な言葉遣いという点では才能があるようには思えない。チャーチルウィンストン・チャーチル(一八七四年十一月三十日-一九六五年一月二十四日)。イギリス保守党の政治家。第二次大戦中に戦時連立内閣の首相を、戦後に保守党内閣の首相を務めた。の戦時放送は華麗で素晴らしいものだったが、他のほとんどの者とは違ってチャーチルからはマイク・テクニックを学んでいるような印象を受ける。

話者が目に見えないと、たとえ魅力的な容姿を持っていてもそれを利用できないし、さらには論点を強調するための身振り手振りもできない。体で演じることができないのだから、よりいっそう喉頭でおおげさに演じなければならないのだ。マイクでの話し方を改善したい場合に良い練習となるのは自分の演説を録音してそれを聞くことだ。これは驚くべき、衝撃的とさえ言える体験である。外から聞くと頭蓋骨の中で聞こえる音とは完璧に異なって声が聞こえるというだけではない。決まってかなり単調に聞こえるのだ。放送で自然な響きにするには体内で抑揚をつけ、演技過剰なものにしなければならない。日常生活やあるいは演台で話す時のように話すと決まって退屈そうな響きになる。これこそが訓練を受けていない放送演者の大部分、とりわけ台本を読んでいる時のそれから受ける印象である。そして話者の声が退屈そうな時には聴衆もたいていはそれに倣ってしまうのだ。


以前、ある外国からの来訪者に優れた代表的な英語詩の選集を紹介してくれないかと頼まれたことがある。考えてみて気づいたのは自分が満足できるものを一冊たりとも挙げられないことだった。もちろん特定の時期の選集は無数にあるが、私が知る限りでは英語文学全体を網羅しようと試みている物は無いのだ。例外があるとすればパルグレイブの「黄金の宝一八六一年に出版されたフランシス・ターナー・パルグレイブによる「The Golden Treasury of English Songs and Lyrics」を指す。」か、もっと包括的でもっと新しいもので言えば「英語詩オックスフォード・ブック一九〇〇年に出版されたアーサー・キラークーチによる「The Oxford Book of English Verse, 1250-1900」を指す。」だろう。

さて、オックスフォード・ブックが有益なことは否定しない。そこにはたくさんの優れた作品が収録されているし、他にもっと良いものが無ければ全ての学童が一冊は持っておくべきである。しかしそれでも最後の五十ページを見ると、これが英語詩を真に代表していると考えてしまうかもしれない外国人にこんな本を推薦して良いものか考え込んでしまう。実のところ、こうした書籍の分野全体が描き出すのは文学教授が独自に判断をおこなった時にどれほど悲惨なことになるかというその有様なのである。一八五〇年かそのあたりまでは選集を編んでもそうひどいことにはなりようがない。なぜなら結局のところ全体的に見れば生き残ったものが最良の詩だったからである。しかしアーサー・キラークーチ卿アーサー・キラークーチ(一八六三年十一月二十一日-一九四四年五月十二日)。ギリスの小説家、文芸評論家、大学教授。「英語詩オックスフォード・ブック」の編集者。が同時代の詩に到達するやいなや、あらゆる見せかけの審美眼が彼から奪われたのだ。

オックスフォード・ブックは一九〇〇年までで終わっているが、十九世紀の最後の数十年が詩にとって実りの少ない時期だったことは確かだ。とはいえ九十年代にも詩人はいた。アーネスト・ダウスンがいるし――私は「シナラ」を良い詩だとは思わないがヘンリーウィリアム・アーネスト・ヘンリー(一八四九年八月二十三日-一九〇三年七月十一日)。イギリスの詩人、作家。の「イングランド、我がイングランド」よりはこちらを選びたい――ハーディがいる。彼が最初の詩集を出版したのは一八九八年のことだ。ハウスマンがいる。彼は「シュロップシャーのあいつ」を一八九六年に出版した。またホプキンスもいる。彼の詩は全く、あるいは稀にしか出版されないが、アーサー・キラークーチ卿は間違いなく彼を知っているはずだ。こうした人々は誰一人としてオックスフォード・ブックに登場しない。イェイツは当時、すでに多くの作品を出版していたが、ごく手短にしか触れられていないし、選ばれているのも彼の最も優れた詩ではない。キップリングも同じだ。私が考えるところでは彼は本格的な選集に収録されるに足る詩(例えば「セント・ヘレナまでどれくらい」)を一つ、二つ書いているはずだ。その一方で収録されている作品を少し見てみようではないか! 北西戦線で泰然自若としているヘンリー・ニューボルト卿の「クリフトニアン爺さん」、他にはヘンリーやキップリングの愛国的作品、何ページも何ページも続く弱々しい不快で模倣的な詩はアンドルー・ラングやウィリアム・ワトソン卿、A・C・ベンソン、アリス・メネル、その他、今では忘れ去られた者たちによるものだ。ニューボルトとエドマンド・ゴスをシェイクスピアやワーズワース、ブレイクと同じ巻に収録するとは選者はいったい何を考えているのだろう?

おそらくはたんに私が物知らずなだけで、チョーサーからディラン・トマスにいたるまでの全てを扱い、しかもくだらないものは収録していない包括的な選集がすでに存在しているに違いない。しかしもし存在していないなら、今こそそれを編纂する時だと私は思う。少なくともテニスン以降の詩を完全に新しく選び直してオックスフォード・ブックを改訂するべきだろう。

ここまで私が書いてきたことに目を通して、自分がダウスンの「シナラ」に対してひどく見下した話し方をしていることに気づいた。下手な詩だとは思うが、これは上手いやり方で下手になっている、あるいは下手なやり方で上手くなっているものであって、私は自分がこの詩を全く称賛したことがないふりをしようとは思わない。実のところ、この詩は少年時代に私のお気に入りだったもののひとつなのだ。記憶から引用しよう。

私は多くを忘れてしまった。シナラよ! 風と共に去りぬ。
薔薇、薔薇、群衆に混じって乱れ飛ぶ。
踊るのだ。汝の淡い失われた百合の花を忘れ去るために。
しかし、私はわびしく、古き情熱に飽いていた。
そう、ずっと。踊りが続いていたために――
私は汝に忠実だった。シナラよ! それが私のやり方だったのだ。

確かにこうした節は本当に美しいものとは呼べないかもしれないが、しかし少なくともピンクのゼラニウムや糖衣のチョコレート菓子が持つのと同じような魅力を持っているのだ。


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