明日の田園都市, エベネザー・ハワード

田園都市の歳入――歳出概観


前章の結論部分で出てきた質問――つまり田園都市で使用可能な推定純収入(年間5万ポンド)が自治体としてのニーズを満たすのに充分かどうか――にとりかかるまえに、こうした活動の開始に必要な資金(訳注:つまり初期投資)を調達する方法について、ごく手短に述べよう。そのお金は「B」担保債権の発行で借り入れる(第1章の注を見よ)。そしてこの返済は、「税・地代」から差し引いて行う。ただしこれはもちろん、土地の購入費調達を行った「A」担保債権の金利と積立金をまず払ってから、という条件付きだが(訳注:要するに、劣後債を発行するわけだ)。これはいうまでもないことかもしれないが、土地購入の場合には、その圏域の所有権を獲得したり、あるいはその土地の上で活動を開始したりするには、購入金額の全額、あるいはそこまでいかなくても、そのかなりの部分をあらかじめ調達することが必要になる。でもその土地の上で行う公共工事となると、話はまるでちがって、最終的に必要な金額がすべてそろうまで、工事開始を遅らせるなどということは、必要もないし、また望ましいことでもない。そもそもの発端から、公共工事すべてをまかなうのに必要な、すさまじい金額を調達しなくてはならない、などといううんざりするような条件のもとで作られた町など、一つとしてないだろう。そしてこれからだんだん見えてくるように、田園都市のつくられる条件というのは独特ではあるけれど、その初期費用という点でまで例外的な存在となるべき必要はまったくない。それどころか、町という事業体をすさまじい資金で幾重にも塗り重ねるようなことが、まったく必要でなくなり、つまりは不要になるという、田園都市のきわめて例外的な理由もますますはっきりしてくるだろう。とはいってももちろん、まともな経済がきちんと動けるだけの十分な金額は必要ではある。

これと関連して、町の建設の場合に必要とされる資金量と、たとえば河口に大きな鉄橋をかける場合の資金量とを、きちんと区別しておいたほうがいいだろう。橋の場合には、必要金額を全額事前に調達しておくのがきわめて得策となる。これは、橋は最後のリベット一本が打ち込まれるまで橋とは言えないという単純な理由からくる。さらに橋はその両側で、鉄道や道路と接続されていなければ、収入を生み出す力はまったくない。したがって、その橋が完全に完成するという前提がなければ、そこに投下される資本が回収できるという見込みはほとんどないことになる。だから、投資してくれと言われた側としては、「それが完成するだけの資金を調達できると証明するまでは、そんな事業には投資しないね」と言うのも当然のことだ。

しかしながら、田園都市の敷地開発のために調達しようとしている資金は、すぐに見返りが生じる。それは道路や学校などに費やされる。こうした公共事業は、テナントに貸し出された敷地の数に応じて実施されるし、そのテナントは借りるときに、一定の期日から上物の建設を始める。したがって投下されたお金は、すぐに税・地代の形でリターンを生じるようになる。それは実際には、大幅に改善された地代を反映したものだ。「B」担保債券に資金を出した者には、まさに第一級の保証がついたも同然であり、もっと低い金利で追加資金を得ることもできるだろう。繰り返すが、各区、または市の1/6ごと(図3を参照)が、ある意味で完結した町になっていることが、プロジェクトの重要な一部である。したがって、学校の建物は、初期の段階には単に学校としてだけではなく、宗教的な礼拝場として使われたり、コンサートや図書館や、さまざまな集会場としても使われることもできるだろう。そうすれば、高価な自治体やその他の建物をすべて敷設するのは、後々まで先送りにできるだろう。また事業も、次の区に移る前に、前の区では実質的に完了しているべきだ。そしてそれぞれの区の運営は、順序正しく順番に実施されるべきだろう。そうすれば、市街地になる予定の部分でも、まだ工事が進行していなければ、小農地にしたり、放牧地にしたり、れんが置き場にしたりすることで収入源にできる。

では、目の前の問題に取りかかるとしよう。田園都市を構築するための原理は、その自治体としての歳出に対して何らかの有効性を持っているだろうか。いいかえると、歳入が一定の場合に、通常の条件下よりも大きな結果を生み出すだろうか。こういう疑問への答えは、イエスだ。一ポンド残らず、お金はほかのところよりも有効に使われて、数字で正確に表現はできなくても明らかな経済性をもち、その総額はきわめて大きな額になるのは明らかとなる。

まず認識される大きな経済性は、通常はほとんどが自治体にとっての支出項目となる「地主地代」の費目が、田園都市の場合にはほとんどまったく生じないということだ。あらゆるまともに秩序だった町は、庁舎や学校、水泳浴場、図書館、公園などを必要とする。そしてこれらを含む事業体としての施設が占有する敷地は、ふつうは購入される。こういう場合には、こうした敷地を購入する費用は、地方税の一部を財源として借り入れられる。したがって、地方自治体が徴収する地方税の通常の使途として、これはかなりの部分を占めることになる。これは生産作業に向けられるのではなく、われわれが「地主地代」と呼ぶことにしたものとなる。つまり、購入を行うための資金の金利か、あるいはそのようにして確保した購入費用の元金返済用の積み立て金、つまりは資本家された地主地代だ。

さて、田園都市では、こうした費用は農用地の道路用地を例外としては、すべて手配ずみとなっている。つまり公共公園や学校などの敷地は、地方税の支払い者にとってはコストゼロとなる。というかもっと厳密には、こうした敷地はエーカーあたり40ポンドで購入してあって、それはこれまで見てきたように、住民の各人が地主地代として支払うことになっている一人あたり0.06ポンドの年間支払額でカバーされている。そして町の歳入50,000ポンドは、全敷地購入費の金利と積立金を差し引いた後の、純収入なのだ。したがって50,000ポンドが歳入として十分かを知るためには、自治体用地の購入費をこの金額から差し引く必要はいっさいないのだ、ということは忘れてはならない。

また田園都市と、たとえばロンドンのような古い都市とを比べてみれば、大きな経済性が達成できる費目がもう一つ見つかる。ロンドンはもっと自治体精神をもっと完全に発揮しようと思えば、学校を作ったり、スラムを取り壊したり、図書館や水泳浴場を建てたりすることになる。このためには、まず敷地の占有権(訳注:freehold。freeholdというのは、所有権概念がちょっと日本と英米ではちがうのでめんどうなんだけれど、よけいなひもや制限がついていなくてなんでもしていい権利とでも考えておいて)を獲得するだけでなく、その敷地にそれまで建っていた建物も買い取らなくてはならない。しかもそれを買い取るのは、ひたすらそれを取り壊して敷地を更地にするためだけなのだ。しかも営業中断の補償も必要になることが多いし、さらに紛争解決のための法廷費用も莫大だ。これと関連して、ロンドン学校委員会(London School Board)が創設以来、学校用の敷地取得のためにかけてきた総額(つまり従前建物の購入、営業中断補償、法定費用などすべてを含んだ費用)はすでに3,516,072ポンドというすさまじい金額に達し(原注:ロンドン学校委員会「報告」1897年5月6日、p.1,480を見よ)、さらに委員会の学校建設用地(広さ合計370エーカー)のコストは平均で9,500ポンド/エーカー に達している(訳注:351.6万ポンド/370エーカー という計算)ことは述べておこう。

原注:「全国の公立小学校に可能な限り、半エーカーかそこらの土地を追加で付加しようという昔からの提案が、一度も実行されていないのは大いに残念なことである。学校農園は若者の園芸に対する洞察を養うことになる。これは後の人生でかれらが快適かつ高収益だと知るようになるだろう。食物の生理学上と相対的な価値は、学校のカリキュラムにおいて、若者たちが何年も無駄に時間を費やすほかの科目に比べて、ずっと有益なものであるといえる。そして学校提案は、実地授業として非常に価値の高いものとなるだろう」エコー、1890年11月。

この値段だと、田園都市の学校用地24エーカー は228,000ポンドになるから、田園都市の学校用地の節約分だけで、モデル都市用の敷地がもう一つ丸ごと買えてしまう。「しかし田園都市の学校用地はかなり豪勢に広くて、ロンドンでは考えられないほどのものだし、田園都市のような小さな町と、強大な帝国の裕福な首都ロンドンとを比べるのはそもそも不公平だ」という声があがるだろう。

わたしはこう答える。「確かにロンドンの地価では、このような敷地は豪勢すぎるどころか、不可能となってしまう――4,000万ポンドもかかってしまう――が、まさにこのことが、現在のシステムのきわめて深刻な欠陥、しかもいちばん重要な部分での欠陥を示唆してはいないだろうか。子供は、地価が40ポンドのところよりも9,500ポンドの場所のほうが、教育しやすいのだろうか。ロンドンがその他の目的にとっては真に経済的な価値を持っているかもしれないが――これについてはまた後でふれよう――学校という目的の場合、学校の建つ敷地が薄汚い工場や混雑した中庭や小道に囲まれているメリットというのはいったいなんだろう。銀行にとって理想的な立地がロンバルド街なら、学校にとって理想的な場所は、田園都市のセントラル・アベニューのような公園ではないか?――そして秩序だったコミュニティの第一の懸案事項は、われわれの子供たちの福祉ではないだろうか」

だが、異論もあるだろう。「子供は家の近くで教育を受けなくてはならず、そして家は両親たちの働く場所に近くなくてはならない」。そのとおり。しかしながら、このスキームはきわめて効果的にこれに対応した方式を提供しているし、それにまた田園都市の学校はロンドンのものよりも優れているではないか。子供は、平均で費やす通学時間も短くてすむ。これは教育者たちだれもが認めるように、冬場には特にきわめてだいじになる点だ。

さらにいえば、マーシャル教授も言っているではないか(本章の冒頭の引用を見よ)。「ロンドンの衣服製造業で雇われている15万人ほどの労働者のうち、その大多数はきわめて低賃金で、あらゆる経済的な理由から見て、地代の高いところで行われるべきではないような作業をしている」と。つまり言い換えれば、その15万人はそもそもロンドンにいるべきではないのだ。そして、そういう労働者の子供たちの教育が、すさまじく劣った環境で、とてつもないコストをかけて行われているということを考えると、教授の発言はいっそう重みをますのではないだろうか。もしこの労働者たちがロンドンにいるべきでないなら、かれらの家(いまはあれだけ不衛生なのに、高価な賃料を払っている)もロンドンにあるべきではないのだ。かれらのニーズを満たす商店所有者の一部も、ロンドンにいるべきではないのだ。そして、衣服製造でかれらの稼いだ賃金により雇用が創出されているさまざまな人々も、ロンドンにいるべきではない。

したがって、田園都市の学校敷地とロンドンの学校敷地を比べるのは、まちがいなくフェアだという印象――それもきわめて現実的なもの――はある。というのも、もしこの人たちがマーシャル教授の示唆するようにロンドンから移住すれば、かれらは(わたしが示唆したような、ちゃんとした事前の準備をしておけば)、自分の仕事場の敷地地代を大いに節約できるし、住居や学校やその他の用途の敷地についても地代を大幅に節約できる。そしてこの節約分というのは、もちろんいま支払っている金額と、新しい条件の下で支払われる金額との差から、移転で生じた損害(あれば)を差し引き、さらにそうした移転で得られる大量の利益を足したものだ。

議論をはっきりさせるために、別の形で比較をしてみよう。ロンドンの人々は、ロンドン学校委員会が持っている学校敷地用の支払いとして、全人口(ここでは600万と想定)の一人あたりにして0.58ポンド強の出資金を支払ったことになる。この金額はもちろん、私立学校の敷地は含んでいない。田園都市の住民3万人は、この一人頭0.58ポンド(訳注:原文は11シリング6ペンス)を完全に節約するわけで、これは総額17,250ポンド。利率3%で考えると、これは毎年517ポンドを永遠に払いつづけるのと同じことなので、それが節約できることになる。そして、このように、学校敷地の費用の金利にあたる年517ポンドを節約するだけでなく、田園都市が学校用に確保した敷地は、ロンドンの学校とは比較にならないくらい優れている――町のすべての児童を十分に収容できるだけの広さを持っているのだ。ロンドン学校委員会のように、自治体内の児童の半分にしか対応できないようなものではない。(ロンドン学校委員会による学校の敷地は合計370エーカー、つまり人口16,000人あたり1エーカー となるが、田園都市の人々は、合計24エーカー、つまり人口1,250人あたり1エーカー の敷地を取得している。)言い換えると、田園都市の確保している用地は、ずっと広く、立地もよく、あらゆる意味で教育目的に適しているのに、そのコストは、あらゆる意味でこれより劣っているロンドンの敷地のほんの一部で済んでいるわけだ。

こうして論じてきた経済性は、すでに述べた二つの簡単な工夫から生じているのだ、ということがわかるだろう。まず、移住によって新たな価値が生じる前に土地を買っておくことで、移住してくる人々はきわめて低額で土地を購入し、その後の価値上昇分を自分たちや、あとからやってくる人々のために確保しておける。そして第二に、新しい敷地にやってくることで、古い建物に大金を支払う必要もないし、営業中断の補償や多額の法廷費用も支払わなくていい。この多大なメリットのうち最初のものを、ロンドンの貧しい労働者に提供するのはきわめて有益なことだ。これについて、マーシャル教授は Contemporary Review 誌の記事では一時的に見落としているようだ(もちろんこの可能性についていちばんよく理解しているのは、マーシャル教授自身である。『経済学原理』第二版、第5巻、10章と13章を見よ)。教授はこう書いている。「最終的には、この移住によってあらゆる人がメリットを得るが、中でも最大のメリットを受けるのは、地主たちとその入植地につながる鉄道である」(強調はわたしがつけたものだ)。

それならば、ここで提案された工夫について、以下のことを確認しようではないか。つまり、いまは社会の下層部にいる階級を助けるよう特に設計されたプロジェクトによって、最大のメリットを受けるという地主たちは、まさにその下層部の人々自身である。かれらは新しい自治体のメンバーとなり、そしてかれらが変わるために、強力な支援が追加でさしのべられる。これまでそうした支援がなされなかったのは、単にこれまで組織的な努力がなかったからというだけだ。そして鉄道が手にするメリットといえば、町の建設が敷地を通る鉄道の本線にとって大きなメリットとなるのはまちがいない。でも人々の稼ぎが鉄道の輸送料や扱い手数料で目減りする割合は、ほかのところほどではないというのも、これまた事実なのである(第二章と、第五章の歳出詳細を述べたページを参照)。

ここで経済において、まったく計算不可能な部分について扱おう。これは、この町が完全に計画されているということからくる。このため、自治体の管理運営という問題すべてが、一本の遠大なスキームに基づいて処理できるようになるのだ。最終的なスキームが、一人の頭脳によって考案されるというのは、いかなる意味でも必要ないことだし、それに人間として考えてみてもそんなことは不可能だろう。最終的なスキームは、多くの頭脳の成果となる――エンジニアの頭脳、建築家や測量士、景観造園士、電気技師などだ。しかしこれまでも述べたように、デザインと目的の間の統一性は不可欠である――つまり、町は全体として計画されるべきで、イギリスのあらゆる町(そして多かれ少なかれ、他国の町でも)のような混沌とした成長に任せられるべきではない。町は、花や樹や動物のように、成長のあらゆる段階で統一性と対称性と完全性を備えているべきであり、成長の結果としてその統一性が破壊されてはならず、むしろ成長がその統一性にもっと大きな目的を与えるようにならなくてはならない。対称性が破壊されてはならず、もっと完全な対称性を創り出さなくてはならない。初期の構造の完全性は、後の発展のさらに大きな完全性の一部となるべきなのだ。

原注:一般に、アメリカの都市は計画されていると思われている。これは事実ではあるが、きわめて不十分な意味においてでしかない。アメリカの都市はたしかに、複雑な迷路のような街路でできてはいないし、牛が描き出したかのような線形の道路もない。そしてアメリカの都市は、とても古い町いくつかをのぞけばどこでも、数日滞在すれば、だいたいは勝手がわかるようになる。しかしそれでも本当の意味でのデザインはほとんどないし、あってもきわめて粗雑な代物でしかない。一部の街路が造られて、それが都市の成長にともなって、単に延長されて繰り返され、その単調さはほとんど途切れることがない。ワシントンは、街路のレイアウトという意味ではすばらしい例外だ。でもこのワシントンですら、住民がすぐに自然にアクセスできるようにするといった視点ではデザインされていないし、公園が中心になく、学校などの建物も科学的な方法で配置されてはいない。

田園都市は計画されているのみならず、最新の現代的なニーズまで視野に入れたうえで計画されている。そして古い道具をつぎはぎで変更するよりも、新しい材料で新しい道具をつくりなおしたほうが、明らかに簡単だし、ふつうはずっと経済的であり、完全な満足を得やすい。経済性のこの面については、具体的な例で説明するのがいちばんいいだろう。そして非常に示唆的な一例がここに登場する。

原注:「ロンドンは混乱しきった成長をとげ、デザイン面での統一性は一切なく、建築活動が時代を追って必要になるにつれて、たまたま運良く土地を所有していた適当な人々の気まぐれな判断に任されてきた。時々、偉大な地主がいて、高い階級の住人を広場や庭園や引っ込んだ道などで誘致しようとして、ある一角をレイアウトする。そうした区画は、門や柵で通過交通を排除している。しかしそういう場合ですら、全体としてのロンドンのことは考えられていないし、中心的な大通りは造られていない。そしてその他のもっと数多くある小地主の場合、施主の唯一のデザインというのは、その土地にできるだけ多くの通りと建物を詰め込んで、そのまわりにあるものは一切無視して、オープンスペースや広い街路など一顧だにしないということだ。ロンドンの地図を注意して見れば、その成長過程でここにいかなる計画も一切なかったことがわかるし、都市の全住民の便宜やニーズ、あるいは尊厳や美しさといった配慮が、ほとんどなかったこともわかるだろう。」枢密顧問官 G.J.ショー・ルフェーブル、「ニューレビュー」、1891年、p.435

ロンドンでは、ホルボーンとストランドの間に新しい道路を通すという問題が、何年にもわたって検討されつづけていて、延々と計画が実施され、ロンドンの人々にすさまじいコストをかけている。

「ロンドンの街路地理がこのように変更されるたびに、貧困者が何千人も追い立てられる」――これは1898年7月6日の Daily Chronicle の引用だ――「そして何年にもわたり、すべての公共または準公共の計画は、そうした貧困者をなるべく多く転居させる費用負担を強いられてきた。これはまさにそうあるべきだ。しかしながら公共が実際にその現場にきて、実際に支払いをする段階になると、話がむずかしくなってくる。いまのケースでは、労働者人口三千人が移転しなくてはならない。問題の核心をさぐるうちに、その労働者のほとんどは雇用の面で、いまの住所と密接に結びついていることが判明し、だからかれらを1マイル以上遠くに移転させるのは困難だ、ということになる。結果としては、ロンドン市はかれらを移転させるのに、現金で一人あたり約100ポンド支払わなくてはならない――総額では300,000ポンドだ。一マイル移転してくれという依頼さえ不当だと思われる人々――市場のゴネ屋、その場を離れようとしない人々――の場合、コストはもっと高くなる。かれらは、この大計画自体によってクリアリングされた土地の一区画を必要とすることになるので、結果としてはかれらに260ポンドの立派な家屋を与え、つまり5、6人世帯に一軒1,400ポンドを渡すことになる。

数字を並べるだけでは、あまりピンとこないだろう。1,400ポンドといえば、住宅市場では、年100ポンド近い家賃に相当する。1,400ポンドあれば、ハムステッドに立派どころか豪勢な庭付きの家が買えてしまう。中流階級の上の方にいる人でも大喜びするような家だ。近場の郊外のどこでも、1,400ポンドあれば年収1,000ポンドの人が住まうような家が買える。もっと郊外の、市の事務員が列車で楽に通勤できるようなところまで行けば、1,400ポンドの家というのは大豪邸となる。」

しかしながら、妻と子供四人をかかえたコベントガーデンの哀れな労働者は、どれほど快適に暮らせるというのだろうか。1,400ポンドあっても、これはコベントガーデンではまっとうな快適さをもたらすものではないし、まして豪勢などほど遠い。「この労働者は、最低でも3階建ての住宅の、かなり狭い3部屋しかない、えらく小さな区分所有住宅に住むことになるだろう」。これを、最初から遠大な計画を慎重にたてた新地域で可能なことと比べてみよう。ロンドンで計画されているよりも広幅員の道路が、コスト的にはごくわずかな金額で敷設・建設されるし、1,400ポンドという金額も、一世帯に「最低でも3階建ての住宅の、かなり狭い3部屋しかない、えらく小さな区分所有住宅」を提供するかわりに、田園都市ではすてきな庭付きの快適な6部屋戸建て住宅を、7世帯に提供できる。そして同時に製造業者は専用の区域に立地するよう奨励されるので、各大黒柱は職場から歩いて通勤できるところに住めるのだ。

また、すべての町や都市が満たすように設計すべき、現代的なニーズがある――現代的な衛生観念の発展とともにあらわれたニーズで、近年では発明が急速に進展したことで加速されている。下水処理や雨水排水、上水、ガス、電信電話線、電灯線、動力伝達用の線、郵便用の気送管などは、必要不可欠とはいわないまでも、経済的なものと見なされるようになってきた。でも、これらが古い都市で経済性のもとだというなら、新しい都市でどれほどの経済性をもたらすか考えてほしい。白紙の上ならばその建設に最新の装置を使うのも簡単になるし、こうした地下共同溝が収容するサービスの数が増えるにつれて、共同溝のメリットも増大し続け、人々はそれを最大限に享受することができるようになる。 地下共同溝をつくる前に、かなり大きく深い溝を掘らなくてはならない(訳注:もちろん当時はシールド工法なんかないから、穴は上から掘るしかない)。これを掘るのに、最新の掘削機械が活用できる。古い町では、こういう機械の使用はとても迷惑かもしれないし、下手をすれば不可能かもしれない。だがこの田園都市では、蒸気の工夫たちは人々の住んでいるところには顔を出さず、かれらが共同溝を用意する工事を終えたあとで、人々がそこに住みにやってくるのだ。イギリスの人々が、まさに目の前の実例として、機械が最終的な国の便益だけでなく、人々の直接的で即座のメリットを生み出すために使えるということをまのあたりにできれば、すばらしいことではないか。しかもそのメリットを被るのが、機械を所有したり使ったりする人々だけでなく、その魔法のような支援によって職を得られる人にもメリットがおよぶことが示されれば、すばらしいことだろう。この国の人々、いやこの国に限らずほかの国の人々も、機械の大量使用が職を奪うだけではなく職を与える――労働にとってかわるだけでなく、労働を創り出す――そして人々を奴隷化するだけでなく、解放もしてくれるのだということも、現実の例から学んでくれる日がくれば、なんとすばらしいことか。

訳注:ここらへんの記述はもちろん、ラッダイト運動を念頭においている。

田園都市では、やるべき仕事はたくさんある。それは言うまでもない。さらに言うまでもなく、大量の家や工場が建設されるまでは、こうしたことの多くは実行不可能だし、穴がさっさと掘られて地下溝が完成し、工場や家屋が建設されて、電灯や電力がつけば、生産的で幸せな人々の故郷たるこの町もさっさと建設できるわけだし、他の人たちが他の町の建設にかかるのも早くなる。他の町は、この町と同じようにはならず、だんだんこの町よりずっと優れたものになるだろう。いまの機関車が、機械駆動の初期の粗雑な先駆物と比べてずっと優れているように。

いまやわれわれは、一定の歳入が田園都市では、通常の状況よりも莫大に大きな結果を生み出すのかという、説得力あふれる理由を4つ示したわけだ。

  1. 土地占有について、純歳入を推定するときに挙げた少額以外には、「地主地代」または利子を支払わなくてすむこと。
  2. 敷地には既存の建物や建築物がほぼまったく存在せず、したがってそうした建物を購入したり、事業中断の補償費用を支払ったり、法定費用などの関連支出もほとんど存在しないこと。
  3. がっちりした計画、特に現代的なニーズや必要性に沿った計画から生まれる経済性により、古い都市に現代的なアイデアを調和させようとするときの各種支出が節約できること。
  4. 全敷地が活動のために解放されているので、道路の敷設などのエンジニアリング作業に最新最高の機械を導入できるという見こみ。

読者は読み進むうちに、これ以外の経済性にも気がつくことだろう。しかしおおまかな原理について論じて下地ができた以上、(50,000ポンドという)推定額が十分かどうかを別章で検討する準備も、十分に整ったはずだ。


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