現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

警察検束の限界


この十日ばかり行政料の口述試験のために大学を欠勤して居た間に、新聞紙の報道によれば、大学の正門内において大学の学生が警察官によつて検束せられたものが有つたといふことで、如何なる理由が有つたかは知らぬが、自分はその空前の出来事に驚かされた。自分は敢てここにこの問題を論議しようとするのではない。唯警察検束は性質上行政訴訟等によつて争ふことの出来ないもので、仮令それが違法に濫用せられたとしても、刑事問題として告訴告発し得る外には、被害者は全く救済を求むる途が無いために、もつとも濫用せられ易い傾が有り、往々にして人権蹂躙の非難を聞くことが少くない。若しそれが濫用せられるとすれは、警察官の専断によつて実質上ほとんど刑罰に等しいものを課し得るものとなり、憲法上の人身の自由の保障は、ほとんど効果を失つてしまはねばならぬ。随つて警察検束については、殊にそれが法律上如何なる限度に許さるるかの限界を明瞭にし、これを一般人民の普通智識となし、もつてその濫用を抑制することが必要である。自分は敢て今回の事件について警察を非難せんとする者ではないが、唯この機会において一般の問題として、ここに行政法講義の中から警察検束に関する一節を抄録し、その限界を明白にして、一般の参考に供したいと思ふ。


警察検束は行政執行法第一条を根拠としてのみ行はれ得るもので、それは刑法及刑事訴訟法とは全く無関係な純然たる行政権の作用である。等しく警察官吏に依つて行はるるものでも、犯罪の嫌疑の為又は現行犯罪に因り拘引し留置するのは、司法権の作用であつて、専ら刑事訴訟法に依るものであるが、警察検束はそれとは全く性質を異にし、犯罪のためではなく、行政権の専断に依つて、ある期間人身の自由を拘束し、その総ての活動を不可能ならしむるものである。実質において司法権の発動に等しいことを行政権の専断に任かせて居るのであるから、それは厳重に法律の定めて居る限界内においてのみ行はれ得るもので、もし其の限界を超ゆるならば、その限界を超えた警察官吏及之に命令を下した上官は、刑法上瀆職罪として処断せられねばならぬ者である。

先づ行政執行法第一条の明文を掲げると、

当該行政官庁ハ泥酔者瘋癲者自殺ヲ企ツル者其ノ他救護ヲ要スト認ムル者ニ対シ必要ナル検束ヲ加ヘ戎器兇器其ノ他危険ノおそれアル物件ノ人仮領置ヲ為スコトヲ得暴行闘争其ノ他公安ヲ害スルおそれアル者ニ対シ之ヲ予防スル為必要ナルトキ亦同シ

前項ノ検束ハ翌日ノ日没後ニ至エウコトヲ得ス又領置ハ三十日以内ニ於テ其ノ期間ヲ定ムヘシ

この規定において殊に大切なのは二の点にある。その一は目的の制限であり、他の一は期間の制限である。


警察検束の許さるるのは唯二の場合に限られて居る。その一は本人自身の保護のためにする場合で、之を保護検束と謂ふことが出来る。法律には泥酔者、瘋癲者、自殺を企つる者をその例として挙げて居る。これ等はそのまま放つて置けば本人自身の生命が危いおそれが有り、延いては他の人々にも迷惑をおよぼすから、主として本人自身を保護する目的をもつて、これを検束することが許さるるのである。他の一は公安保持のためにする場合で、之を予防検束と謂ふことが出来る。法律には暴行闘争その他公安を害するおそれある者といつて居る。

これ等のうち、第一の場合は本人自身の利益のためにするのであるから、その濫用のおそれも少く実際に問題を生することもまれである。濫用のおそれの多いのは第二の場合で、この場合について殊にその限界を明白にすることが必要である。

法律は広く公安を害するおそれある者といつて居り、文字からいへば頗る広い意味に解せらるるやうであるが、しかしそれが警察検束の原因として規定せられて居ることの結果として、二の点において限定して解せられねばならぬ。


第一に、そのいわゆる「おそれある者」とは単に可能性が有るといふだけの者であつてはならぬ。単に公安を害する可能性が有るといふだけで検束が許されるとすれば、それはほとんど誰を検束してもよいといふのと同じに帰するであらう。「おそれある者」とは普通の社会見解において公安を害すべき確実の蓋然性あるものと認識せられ得べき者のみを意味するのである。法律が暴行闘争を例として挙げて居るのを見ても、既に暴行闘争の準備をなして居つて、若し検束をしなければ必ず暴行又は闘争をなすべきことが常識から見て確実である場合に限ることが知られる。何等確実なる根拠なくして、みだりに公安を害するおそれある者と認定して之を検束することは法律の許さざる所である。

「おそれある者」といふ以上は、将来において公安を害すべき行為をなすべきおそれある者に限るべきことはいふまでもない。過去において公安を害する行為が有つたとしても、既にその行為を終了して将来にこれを継続するおそれの無い者は、固よりこれを検束し得べきものではない。法律が「之を予防する為」といつて居るによつても、今後においてもしこれを放つて置けば公安を害すべき所業をなすべきことが予想せられる者でなければならぬことが明白である。

実際の例を見ると、警察官が演説会の解散を命じたやうな場合に、往々その場から何人かが検束せられたことを聞くことが有るが、もしそれが単に従順に解散の命令に従はなかつたといふだけの理由で検束せられたものとすれば、それは明に違法である。警察官は唯演説会の解散を強制し得るのみで、もし解散の命に従はない者が有れば、実力をもつてもその反抗を制してこれを退散せしむることが出来るけれども、それ以上に出でてこれを検束することは検束の目的に反し、検束をもつて過去の行為に対する制裁たらしむるものといはねばならぬ。


第二に、その所謂「公安を害す」とは、広く公共の安寧を害する総ての場合を意味するのではなく、一方には本人を検束しなければ公安を維持することの出来ぬ性質のものであることを要し、一方には又一昼夜だけ本人を検束すればそれによつて公安維持の目的を達し得べき場合であることを要する。仮令公安を害する所業をなす者であつても、通常の場合には唯その行為を禁止し得るのみで、それが犯罪である場合に刑事訴訟法により検挙し得ることの外に、行政権によつてはこれを検束し得べきものではない。これを検束することを得るのは、唯その者の身体の自由を容認して置くこと自身が公安上忍ぶべからざる場合でなければならぬ。一方にはその検束は唯一昼夜に限りて許さるるのであるから、公安を害する行為を為すべきおそれが目前に迫つて居り、少くとも一昼夜以内に起らんとする場合に限るべきことは当然である。単に平生危険思想を抱いて居る者とか、犯罪の危険性の有る者とかいふやうな理由をもつて、検束をなし得べきものではない。


警察検束には第二に期間の制限が有る。即ち如何なる事情が有らうとも翌日の日没までには必ず解放せねばならぬのである。これは警察検束が行政権の専断に依つて実質上刑罰に等しいことを行ふものであることから生ずる結果で、特にその期間に厳重なる制限を設け、もつてその濫用の危険を少からしめて居るのである。その制限は絶対であつて、仮令翌日の日没に至つて公安を害するおそれが未だ止まない場合であつても、尚必ずこれを解放することを要するのである。

あるひはこれに反して、一旦これを解放しても若し検束を要する事情が尚継続して居れば、直にその再検束をなし、何回でもこれをくり返して、事実上何日にわたつても検束を継続することが出来るといふ説をなす者が有るけれども、さういふ解釈が許すべからざることは、法律の精神から見て更に疑を容れぬ。若し此の如き解釈が許され得るとすれば、法律が翌日の日没までに解放するを要するものとして居る精神は全く失はるるの外は無い。法律は唯一夜のみを限つて、検束を許して居るのであつて、新に発生した別個の理由に基くに非ざれば、再検束を為し得べからざることはもちろんである。


そもそも各人の身体の自由は、総ての自由のうちでももつとも根本的のもので、人間の総ての活動はこれを基本としてのみ行はれ得る。故に刑法は正当な法律上の権能に基くに非ずして他人の身体の自由を拘束する行為は、不法監禁罪として処罰すべきものとして居る。警察官といへども固よりこの制限を免るることを得べきものではなく、若し法律に違反して検束を為すならば、不法監禁罪としての責任を負はねばならぬものである。

固より保護の必要ありや否や、公安を害するおそれありや否やの認定権は、警察官憲に存するのであるから、その認定を誤まつたとしても、その認定権の範囲に属する限りは、刑事犯罪を構成するものではないが、しかし警察官の認定権といへども決して無制限なものではなく、社会的の普通見解をもつてその認定の標準と為すべきことは、法律の当然要求する所である。若し警察官憲が普通人の注意を怠り、社会的常識において右述ぶる如き意義においての公安を害するおそれありと認むべからざる者を、そのおそれある者と認定して、これを検束するならば、等しく刑法上の責任を免れ得ない。

況んや左の三の場合においては明白なる刑法上の犯罪である。

一、警察官憲が自ら検束を為し得べき場合に該当せざることを意識しながら、その検束をなしたるとき

二、警察官憲が法律の不知又は誤解に基き検束をなし得べからざる場合に拘らずこれをなし得べきものと誤認して検束をなしたるとき

三、翌日の日没までに釈放せず、又は形式上釈放するも新に発生した別個の理由に基くに非ずして直に再検束をなし、事実上二夜以上にわたり検束を継続せるとき

警察官の検束が刑事犯罪に該当する場合は、固より正当なる職権の行使と見るべきものではなく従つて被検束者はこれに対し正当防衛の権利を有することはもちろんである。

(昭和二年十二月二十一日発行「帝国大学新聞」所載)