現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

選挙権の要件としての住居


=学生選挙権の問題=

日本の普通選挙法の著しい欠点の一は、選挙人名簿調製の期日前引続き一年以来その市町村内に住居して居ることを選挙権の要件として居ることに在る。

尤も法律の明文の上には、それは選挙権の要件とはせられず、法律には年齢二十五歳以上の日本臣民たる男子は凡て選挙権を有するものと明言して居るけれども、一年以来その市町村内に住居して居るものでなければ選挙人名簿に登録せらるる資格の無いものとして居るのであつて、而して選挙人名簿に登録せらるる資格の無い者は即ち選挙権を有しないものでなければならぬ。選挙権を有つて居ながら然も選挙人名簿に登録せられ得ないといふことは明白なる自家撞着であつて、さういふことは法律上有り得ないことである。それであるから法律が二十五年以上の日本臣民たる男子は凡て選挙権を有すといつて居るのは、実は虚偽であつて、年齢に於いても選挙人名簿調製の期日までに二十五年に達した者だけが選挙権を有するものである外に、尚同じ期日までに一年間同じ市町村内に住居して居ることが、選挙権享有の要件とせられて居るのである。


併しながら是は二の点に於いて大なる欠点を有するものである。

その一はその期間の長きに失することである。或る期間同じ市町村内に居住して居ることを選挙権の要件とすることは、外の国にも例の有る所であるが、それは専ら選挙人名簿調製の必要から来ることで、調製期日の間際に移転して来た者は、之を調査して登録することは甚だ困難であるから、調査の必要上多少の余裕を見込み、或る期間継続してその市町村内に居住して居る者に限りて選挙人名簿に登録するものとすることは、已み難い必要である。随つてその期間は調査の為に必要なだけの最少の期間に限られねばならぬ。之を一年間といふやうな長い期間にして居るのは、必要の程度を超えて居るもので、普通選挙の本旨に反するものと言はねばならぬ。併し是は今ここに述べようとする点ではない。


他の一の欠点は、日本の現在の制度に於いて「住居」の事実が甚だ明確を欠き、選挙権の要件を定むる標準として頗る不適当な嫌を免れないことに在る。

選挙権の有無及び選挙人の所属すべき市町村別は、出来るだけ明白にして疑を生ずべき余地の無いものでなければならぬ。若しそれが不明瞭であれば、選挙人名簿の調製が甚だ困難となり、而もそれには多くの誤を生じ、争訟の原因となることを免れないのみならず、正当なる権利者で人名簿に登録せられない為にその権利を行使し得ないものが多く、反対に誤つて二以上の市町村で重複して人名簿に登録せられ、二重にその権利を行使するやうな者も生じ得る。

然るに「住居」といふ事実は形式的に住居を登録する制度なく、専ら事実に付いて判断するのであるから、頗る不明瞭で、どこに住居が有るかは、しばしば争の問題となるを免れない。殊に新選挙法には民法の「住所」といふ用語を棄てて、故更に「住居」といふ文字を用いた為に一層疑ひを生ずることとなつた。


此の欠点は従来の制度に於いても存して居た所で、市町村会府県会などの選挙に付いて行政訴訟の問題となるのは、住所争ひが其の一大部分を占めて居たのであるが、普通選挙になつて納税資格が撤廃せられた為に、納税に依つて住所を推定することが出来なくなり、選挙人名簿の調製に一層大なる困難を生ずるに至つた。

学生の選挙権を何処の市町村で行使し得るかの問題が争はれるのも、この欠点の一の現はれに外ならぬ。

同様の問題は官吏、会社員、被傭人、労働者等凡て本籍地を離れて勤務に従事して居る者に付いて起り得る所で、寧ろ学生よりも是等の者に付いて多く問題を生ずるのである。学生は年齢二十五歳を超えて居る者が比較的少数であるが、是等の者は勿論多くはその年齢に達して居るのであるから、一層問題が適切である。


一体住居を以て選挙権の要件とし、住居地の市町村に於いてのみ選挙権を行使し得るものとすることは、農業経済時代の遺想で、今日の時代には適応しないものと信ずる。

農業時代には各人の生活は土地に定着して居り、住居はその人の社会的地位を表はす最も重なる外形的標準であつた。今日に於いては、少くとも勤労階級労働階級に於いては、土地に定着する生活を為す者ではなく、その住居も何時移転するかも知れぬ状態に在るものである。斯かる状態に於いて、「住居」を以て選挙の要件となし、一たび住居を他の市町村に転ずれば、そのたび毎に一時選挙権を失ふものとなすことは甚だ不合理であると言はねばならぬ。


自分はこれ等の総ての欠点を除くが為には、住居を以て選挙権の要件となし、住居地の市町村においてのみ選挙人名簿に登録せられ得るのとする制度を全廃し、戸籍および寄留籍を以て選挙権の標準となすべきことを主張する。

詳しく言へば、凡て住所寄留の届出をなさない者は、本籍地の市町村においてのみ選挙人名簿に登録せられ得べく、従つて又本籍地においてのみ選挙権を行使し得べきものとする。本籍地外において選挙権を行使せんと欲する者は、住所寄留の届出をなすことを要し、而してその寄留届をなした者は寄留地市町村において選挙人名簿に登録せられ選挙権を行使し得べきものとするのが、自分の主張せんとするところである。

これは第一に選挙人名簿の調製を容易ならしめ、選挙権の所在を明白にし、疑義を除くの利益が有るのみならず、第二に調査の必要から或る期間継続して同じ市町村に住居して居ることを選挙権の要件となすことの必要を除き、従つて単に転居しただけの理由を以て選挙権を喪失するやうな不合理な結果を除去する長所がある。一方に於いては戸籍及び寄留籍を従来の如き単純な形式的のものたらしめず之を有意義ならしむることに於いても、間接の利益あるものと信ずる。

広く識者の攻究を希望する。

(昭和二年十二月十九日発行「帝国大学新聞」所載)