現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

田中内閣に依る衆議院の解散


昭和二年十二月に召集せられた第五十四回帝国議会は、休会明けの第一日即ち本年一月二十一日をもつて解散となつた。この期の議会が遂に解散に終るべきことは、国民の一般に期待して居たところで、それは普通選挙法が発布せられて国民は一日も早くその実施を希望して居たことからいつても、現内閣が衆議院の少数党を基礎とするに過ぎないことからいつても当然のことといふべきである。実をいへば前年の第五十二回議会において既に国民は一般に解散を期待して居たのであつたが、三党首の妥協といふ予想外の出来事が起つたために、それが次の年度まで延期せられたのであつて、それは寧ろ国民の失墜し憤慨するところであつた。その後若槻内閣は枢密院の反対のために辞職を余儀なくせられ、現在の田中内閣がこれに代つたが、それが少数党内閣であることは前と同様であるから、国民は一般に今度こそは必ず解散となるべきことを期待し、又それを希望したのであつた。それであるから解散となつたことそれ自体については、歓迎すべきでこそあれ、敢てこれを非離すべき理由は無い。唯問題は解散の時期と方法とが果して当を得て居るものといひ得べきや否やに在る。しかしてこの点において自分はそれが甚しき非立憲の処置であつたことを遺憾とするものである。


今回の解散が如何にして行はれたかを見ると、開会の劈頭に、反対党から議事日程を変更して内閣不信任決議案を上議せんことを提議し、それが多数をもつて可決せられたに拘らず、政府は議事日程の変更に同意せず、直に総理大臣の施政方針の演説に移り、その演説が終ると、少しの質疑をも許さず即時に解散の命を伝へたのであつた。議事日程の変更に同意を与へなかつたのも可なり怯懦の処置といはれても余儀ないことと思ふが、それは暫く不問に付するとしても、政府の側からのみ施政方針の演説をなし、議員の側からは一言の発言の余地をも与へずして解散の命を下したに至つては、立憲政治の精神を蹂躙するの甚しきもので、政友会の歴史に更に一の汚点を加へたことを政友会のために甚だ遺憾とする。


今回の衆議院の解散の理由とするところは、要するに政友会と民政党との何れが果して国民の信頼する所であるかを輿論の判断に訴へんとすることに在る。政府の自ら発表する所に依つても、反対党が内閣不信任案を提出してこれを可決せんとする形勢が明白であつたから、解散に依つて信を国民に問ふといふのが解散の理由となつて居る。解散の目的が既にここに在るとすれば、内閣の主張を国民の前に明白にすると同時に、反対党の意見をも充分に陳述すべき機会を与へねばならぬことは、いふを待たない当然の事柄である。衆議院の解散において、国民はいはば裁判官であり、政府党は原告であつて、反対党は被告の地位に立つものである。裁判官の公正なる裁判を求むるためには、原告も被告も平等にその述ぶべき事を述べ得られねばならぬ。然るに原告たる政府側だけが、自分の権力者たる地位を利用して、悠々と自分のいはんと欲するところを述べ、被告たる反対党の側には一言の陳述の機会をも与へずして、直に国民の裁判に訴へるのは、如何にしてそれが公正の態度と称することが出来ようか。立憲政治は言論の政治である。封建政治が武力の政治であつたのに対して、立憲政治は飽くまでも暴力政治を排する。言論において敵することが出来ないために、暴力をもつて他の言論を抑圧せんとする者は、実に立憲政治の讐敵である。しかして権力の濫用は一種の暴力に外ならぬ。権力を濫用して反対党の言論を威しながら、自分の主張だけは国民の前に公表し、しかも自ら公言して信を国民に問ふと称するに至つては、これを暴力政治と評しても、弁解の余地は無いであらう。


凡そ立憲政治において衆議院の解散は政府の議会に対して有するもつとも有力なる武器であつて、その実行はもつとも公明正大なることを要する。仮令それは法律上には天皇の大権に属するにもせよ、内閣がこれを奏請するに当つては予め反対党の諒解をも得て、双方の主張を明白にした後にこれを奏請することが当然の処置であらねばならぬ。然るに従来の実際の慣習としては、会期の初において、予め日付の無い解散の詔書についての御裁可を仰いで置き、これを断行すべき時期は内閣に御一任を請ひ、内閣において自ら日付を記入して、その適当と認むる時期にこれを発表する例であると伝へられて居る。自分はこの風説の真似を確しかめる便宜を有たないものであるが、もしそれが事実であるとすれば、それは解散の不意討を前提とするもので、甚だ不当な慣習といはねばならぬ。解散は決して不意討であつてはならぬもので、双方の意見が十分に闘はされ、その相両立し得ないことが明白になつて始めて断行せらるべきものである。今回の解散の如きはその不意打のもつとも甚しい一例で、政党政治が動もすれば国家および国民の福利を度外視してひたすらに政党自身の発展を謀り、党利のためには手段を択ばず国家および国民を犠牲にして憚らないことの一例証を加へたものといはねばならぬ。


社会は伝染性に富む。殊に為政者の行為はそれが権力の衝に当る者であるだけに殊に強い伝染力を有する。もし今回の衆議院の解散によつて暴力をもつて他の言論を抑圧するの風が一層社会に伝播しなければ幸である。

(昭和三年一月三十日発行「帝国大学新聞」所載)