現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

治安維持法改正の緊急勅令


緊急勅令の内容

治安維持法の改正は、いよいよ昭和三年六月二十九日の日附を以て、憲法第八条第一項に依る緊急勅令として、同日の官報号外を以て公布せられ、公布の即日から施行せらるることとなつた。若し此の日以後に勅令所定の行為を為した者が有れば、此の緊急勅令に依つて処断せらるべきものとなつたのである。

改正の要点は三点あるが、主要なものは其の第一点で、それは従来の治安維持法第一条は国体の変革を目的とする結社と私有財産制度の否認を目的とする結社とを、共に同じ規定を以て支配するものとして居たのを改めて、此の両者を区別し、国体の変革を目的とする結社に付いては、特に重く之を罰するものとしたことに在る。

第二の点は、従来の法律は結社を組織した者と情を知つて結社に加入した者とを同じ規定を以て支配し、同じ刑に処すべきものとして居つたのを改めて、国体の変革を目的とする結社に付いては、結社を組織した者、結社の役員、其の他指導者たる任務に従事したる者を、其の他の結社加入者とは区別して特に極刑に処すべきものと定めたことに在る。

第三の点は、従来の法律には結社の組織者と加入者とを挙げて居るだけであつたのに対し、加入者の外に尚結社の目的遂行の為にする行為を為した者をも同一の刑に処するものと定めたことに在る。

要するに改正の目的とする処は、国体の変革を目的とする結社に付いて、従来よりも遥に刑罰を苛重にし、極刑を以て之を威嚇し予防せんとすることに在る。従来は十年以下の懲役又は禁錮に処すべきものとせられて居たので、即ち裁判官の宣告し得べき最長期を定めただけで、最短期には何等の制限もなく事情に依つては一ヶ月の禁錮に処するだけに止めることも出来たのであるが、緊急勅令に依れば、

国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

とあつて、裁判官の宣告し得べき刑の最短期をも限定し、而して最大の刑としては死刑をも宣告し得るものと為して居るのである。

此の緊急勅令は公布の即日より施行せらるるのであるから、唯公布の日以後に行はれた行為に適用せられ得るに止まり、過去の行為に遡つて適用せらるるものでないことは言ふまでもないが、唯其の以前に結社を組織し又は加入した者であつても、其の以後に於て尚引続き其の役員其の他指導者たる任務に従事した者、又は引続き結社の目的遂行の為にする行為を為した者は、一個の連続犯を旧法時代から新法時代まで継続して居る者で、刑法学者に聞いて見ないと確かな事は断言し難いが、新法に依つて処断せらるるのではなからうかと思ふ。

緊急勅令に対する二様の反対論

此の緊急勅令の発布に対して、世論の反対が極めて甚しかつたことは、何人も知る通りである。緊急勅令といふ制度は、甚だ濫用せられ易い制度で、殊に日本では是れ迄にも濫用と認むべき場合が甚だ屢々しばしば有つたが、併し緊急勅令の発布に対して、輿論の反対の斯くまでに激しかつたのは、是れまで嘗て例を見なかつた所である。

反対論の趣意は自ら二つに分れる。一は其の実質に付いての反対であり、一は其の形式に付いての反対である。

実質に付いての反対は、死刑の如き極刑を以て結社行為を処罰することを不当なりとする説である、形式に付いての反対は、緊急勅令を以て此の如き事項を定むることを不当なりとする説である。

実質に付いての反対説は、形式論よりも遥に強い根拠を有つて居るものであるが、併しそれに付いては世論は必ずしも一致したものとは言ひ難く、緊急勅令の発布に反対した者でも、実質上には之を以て適当な改正と認めて居つた者が尠くなかつたやうである。

併し実質上は敢て之に反対しない者であつても、正式に議会の議決を経るの手続を取らず、緊急勅令の形式を以て之を定めることに付いては、殆ど一致して之に反対したと言つても可い程で、政府与党の間に於いても、政府部内の政務官及び事務官の間に於いても、直接に其の立案に与つた閣僚を除くの外は、殆ど挙つて之に反対したといふことである。

併し実を言へば、若し実質上適切な改正であり、輿論の賛成を得ることが確実であるとすれば、緊急勅令の形式を以て之を定めることが、手続上不穏当であるとしても、それ程に強く反対すべき理由も無いのである。是れ迄の実例に付いて見ても、単に形式上から言つて、緊急勅令発布の憲法上の要件を欠いて居たものと認むべき事例は、必ずしも稀ではない。例へば韓国併合の際に朝鮮の新制度を定むる為に発布せられた多くの緊急勅令の如き、又日独講和条約の結果として発布せられた混合仲裁裁判所令の如き、果して公共の安全を保持する為の緊急の必要の有つたものと言ひ得べきや否やは、甚だ疑はしい。しかも当時之に対して別段の反対の声も起らず、議会でも異議なく之に事後承諾を与へたのは、其の実質に於いて当然の事柄を定めたもので、実質上に之に反対すべき理由が無かつた為である。

独り今回の緊急勅令に付いてのみ、斯く輿論の反対が激しかつたのは、表面上は其の反対が緊急勅令の形式の点に集中したやうであつたとは言ひながらも、実は暗黙の内に実質が輿論の承認を得なかつたことを証明するものと言ひ得るであらう。

唯実質に付いての非難の声がそれほどに高まらず、形式についての反対論のみが強く唱へられたのは形式論の方が実質論よりも遥に明瞭であつて、容易に理解せられ易く、又之を証明することも容易であり、反対論として有利の条件を備へて居るが為に外ならぬ。

緊急勅令の形式に対する反対論

(一)緊急の必要なきこと

緊急勅令の形式を以てすることに対する反対論には、凡そ三個の論点を挙げることが出来る。

第一の論点は、憲法第八条に定めて居る「公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要」といふ条件を欠いて居るといふことで、是が反対説の最も強い理由である。

之に対して政府は頻に其の緊急の必要である所以を弁明せんと試みたけれども、それは要するに共産党の残員が尚頻に潜行的運動を続けて居ること、第三インタナショナルの干渉煽動が尚引続き行はれて居ること、対支出兵に際し反対の宣伝が行はれたことなどを挙げ得たに止まる。それ等は凡て前期議会の開会当時から既に行はれ又は少くとも予想せられ得た事件であつて、前議会の閉会後に新に起つた不慮の事変と見るべきものではない。緊急勅令発布の要件としての「緊急の必要」とは、単に急を要するといふだけの意味ではなく、前期の議会が閉会した後に予期せられない不慮の事変が起つて、それに応ずる為に必要を生じた場合であることを意味する。何となれば緊急勅令は本来は議会の議決を経て始めて定め得べき事項を定むるもので、議会の議決を経ることの不可能な場合に限つて発し得るものであり、而して若し議会の開会中に既に其の必要の起つて居たものとすれば、政府は当然議会に提出して其の協賛を求めねばならぬからである。然るに治安維持法の改正法案は政府が既に前期議会に提出したもので、それが議会を通過することを得なかつた為に同じ内容の規定を緊急勅令を以て発布したのであつて、其の必要が議会閉会後に突発したものでなく、議会の開会中から政府は既に其の必要を認めて居たものであることは明瞭である。此の緊急勅令が緊急の必要といふ憲法上の要件を備へて居らぬことは、是れだけでも争いの余地は無い。

緊急勅令の内容から言つても、それが緊急の必要あるものと認むべからざることは、甚だ明瞭である。該勅令は是れまで禁制せられて居なかつた行為を新に禁制するものではなく、従来も既に厳罰を以て禁止せられて居た行為に付いて、唯其の刑を加重するに止まるものである。是れまで自由に放任せられて居た行為を新に禁制するものであれば、それが緊急の必要であることも想像し得られる。例へば戦争の将に起らんとするが如き外交上の危機に際し出版の自由に対して新なる制限を加ふるが如きはその一例である。之に反して従来既に禁止せられて居た行為に対して単に刑を加重するが如きは、それが議会の議決を待つことの出来ない程の緊急の必要であるとは想像し得られない所である。刑罰は過去の非行に対する応報であると共に、将来の犯罪に対する予防の目的を有つて居る。政府が緊急勅令を以て刑罰を加重したのは、言ふまでもなく第二の目的の為にするもので、今後も国体変革の企を為す者が益頻発すべきことを予想し、此の如き行為が極刑に該当するものなることを宣言して、之を威嚇し、以て此の如き行為の発生を予防せんとしたものであることは疑ない。併し刑罰を以て予防の目的を達するが為には、其の刑罰の軽重如何はさまで直接の影響のあるものとは思惟せられない。十年の懲役を以ては予防の目的を達するに足らず、死刑を以て威嚇するに依つて始めて其の目的を達することが出来るとは、常識を以てば考へ得られない所である。殊に国体変革の企の如きは如何にそれが大逆無道であるとは言へ、殆ど宗教的ともいふべき狂熱なる信念から来るもので、如何に刑罰を厳重にしても、それは唯其の運動を益々秘密ならしめ及び其の首謀者を外国に亡命せしむることに役立つのみで、之を以て予防の目的を達し得べきものではない。仮りに或る程度にまで予防の目的を強め得るとしても、それは唯程度の差異であつて、次の議会まで待つことの出来ぬ程の緊急の必要ではあり得ない。

しかのみならず、政府自身の態度が、最も明白に之を緊急の必要なりとする主張を裏切つて居る。是は既に世論の等しく非難して居る所で、第一に、前期の臨時議会に其の法律案を提出しながら、会期の終了まで更に其の通過に努力した形跡なく、若し真に緊急の必要ありと信ずるならば、会期の延長を奏請しても其の通過を計るべきに、会期終了と共に未議了のまま閉会を奏上し毫も会期の延長を図らなかつたこと、第二に、緊急勅令を以て之を定めんとする議が起つてから後も、逡巡決せず、枢密院に諮詢しじゅんせらるる迄徒に数十日を費やしたこと、第三に、東京府会議員の選挙前に之を発布すれば益々政友会の不人気を来し、府会議員の選挙の結果に大なる影響あるべきことを恐れて、故らに選挙の終了後まで発表を遅延したこと等は、何れも政府自身が真に之を一日も緩うすべからざる程の緊急の必要ありと認めて居なかつた証憑である。

(二)議会の意思を無視するものであること

緊急勅令の形式に対する第二の非難は、議会の意思を無視するものであるといふことに在る。

緊急勅令は本来議会の議決を経ねばならぬ事柄を定めるものであるから、議会の承諾を予期せられ得べき場合でなければ発せらるべきものではない。少くとも議会の反対が明白であるにも拘らず、之を発するのは、議会の権限を蹂躙するもので、憲法上許すべからざる行為である。

勿論、議会は正式には之に対する反対の意思を発表したのではない。議会の閉会中であるから、正式に意思を発表する手段は全く存しないのである。

併しながら、第一に之と同一の法律案は前期の議会に提出せられて、未議了のまま会期を終つたものである。未議了は否決とは全く同一ではないが、併し議会が之を可決すべき意思を有たなかつたことは、之に依つて表明せられたもので、議会の協賛を求めたに拘らず、協賛が与へられなかつたことに於いて、否決と同一の効果を有するものである。議会が協賛を与へなかつたものを、其の閉会後緊急勅令を以て処断することは、議会の意思を無視するものと言はねばならぬ。

第二に、衆議院の各党派は、政友会及び実業同志会を除くの外、それぞれ宣言書を発して緊急勅令に反対なる旨を公表した。即ち衆議院議員の過半数が之に反対であることは事実に於いて天下に公表せられて居るのである。勿論、議会は閉会中であるから、法律上有効なる衆議院の議決を為され得ないことは言ふまでもないが、若し衆議院が開会せられたとすれば、それが必ず否決せられたであらうことは、各党派の宣言書から見て更に疑を容れない所である。之を以て単に私の宣言書であるとして之を顧みないのは、議会の意思を無視するものであることの非難を免れないのは当然である。

(三)緊急勅令を以て此の如き定を為すことの不当なること

緊急勅令の形式に対する第三の非難は、緊急勅令を以て治安維持法の如き永久的の法律を改正し、殊に死刑を課することの不当なることに在る。

緊急勅令は暫定的の立法である。議会の閉会中臨時の事変に応ずる為の臨機の応急手段としてのみ許さるるものである。其の効力は初より次の議会の承諾を条件として居るもので、若し次期の議会に於いて之に承諾を与へなかつたならば、当然効力を失ふべきものである。

故に緊急勅令を以て定め得べき事柄は、其の性質上自ら限られて居るもので、それは必然に応急法の性質を有するものでなければならぬ。

然るに治安維持法は決して一時的の応急手段として定められたものではなく、永久法の性質を有するものであることは言ふまでもない。其の改正も亦之に伴つて必然に永久法たるべきもので一時的の応急手段ではあり得ない。

随つて之を改正する必要が若し有りとしても、それは必ず議会の協賛を経るに依つてのみ為し得べきもので、緊急勅令の如き一時的の応急手段を以て為し得べきものではない。

況んや死刑の如き極刑を、緊急令を以て課するが如きは、緊急勅令が暫定的の立法であることの性質を無視するもので、暴挙も亦甚だしきものと言はねばならぬ。

若し此の緊急勅令が次の議会に於いて承諾を得ないとすれば、それは当然に効力を失ふべきものであるが、万一其の時までに此の緊急勅令が実際に適用せられて死刑に処せられた者が有つたとすれば、何うであらうか。実に死刑に処せられた者は、その緊急勅令が効力を失つたとしても復活すべき途は無く、其の裁判が少しく遅延すれば死刑に処せらるべきものでなかつたのが、偶緊急勅令が有効である間に裁判を受けたが為に、死刑に処せられたといふことになるのであつて、国家の名に於いて不法に殺人の罪を犯したものと言はれても弁解の辞は無いであらう。

幸にして次期議会の開かれるまでは、僅に半年を余すのみであり、而して半年の間には新に検挙せられた者の裁判の確定し得べき見込が無いから、緊急勅令に対する議会の承諾が有るや否やの未だ決しない間に、既に緊急勅令の適用を見るやうなおそれは先づ無いものと言ひ得るけれども、若し果して次の議会の開かるるまで適用を見る見込が無いものとすれば、次の議会を待つて其の議決に付しても決して遅しとしないのであつて、緊急勅令を以て之を定むべき理由は全く存在しないものとならねばならぬ。

緊急勅令の実質に対する非難

以上三種の論点は何れも治安維持法改正の実質に付いての非難ではなく、其の改正の実質が適当であるや否やは何れにしても、唯緊急勅令の如き非常手段を以て之を為すことを不当なりとするのである。

併し前にも述べた如く、此の緊急勅令の非難すべき所以は、其の形式に在るよりも、寧ろ其の実質に在る。其の形式の非難せらるるのも、結局は其の実質が甚しく不当であることに其の原因を有つて居るのである。

第一に、世界戦争以後わが国に於ても世界的思潮の影響を受けて思想の険悪が年を追うて益々盛になる傾向の有ることは、蔽ふべからざる所であるが、それは種々の複雑な原因に基いて居るもので、為政者は深く其の原因を究めて、之れが対策を講ぜねばならぬ。而して其の最も強力な原因は経済組織及び之に伴ふ政治の腐敗に在ることは争ふべからざる所である。就中なかんずく現内閣の組織せられてより以来、地方行政に於いて、植民地行政に於いて、鉄道行政に於いて、特殊銀行の管理に於いて、選挙干渉に於いて、言論の圧迫に於いて、暴力団の利用に於いて、議員の誘惑に於いて、閣僚大臣の選定に於いて、世論は一般に内閣が常に政権を私利又は党利の為に濫用することの跡著しく、思想の悪化を助成したこと殆ど言語に絶するものの有ることを憤慨して居る。されば険悪なる思想の流行に対する対策として、第一に必要なるは為政者自身の反省である。是をしも努めずして徒に重刑を以て国民に向はんとするは、益々人心を悪化せしむるのみであり、是が緊急勅令の実質に対する最も大なる非難の有る所である。

第二に、それは刑法の規定に比して甚しく不権衡なることを免れぬ。刑法の内乱罪の規定に依れば、朝憲を紊乱する目的を以て暴動を為した者でも、死刑に処し得るのは唯其の首魁のみで、謀議に参与し又は群衆を指揮した者でも無期又は三年以上の禁錮に処し、其の他諸般の職務に従事した者は一年以上十年以下の禁錮に処すべきものとして居る。暴動に干与した者に至つては三年以下の禁錮に処せらるるのみである。是は現に暴動を起した実行者に付いての刑罰である。内乱の予備又は陰謀を為した者は一年以上十年以下の禁錮に処すべきものとして居る。然るに未だ内乱を起すにも至らず、其の予備又は陰謀を為したのでもなく、唯或る不逞なる信念の下に結社を組織した者は、其の役員其の他の指導者まで死刑又は無期若は五年以上の懲役、若くは禁錮に処せられるのである。同一の目的を以てして、現に内乱を起した者は罪比較的に軽く、結社を為したに止まる者がそれよりも遥に刑が重いのである。暴力を以て朝憲を紊乱せんとする者よりも、思想的の結社を為す者を重く罰するのが、如何にして刑の権衡を得たものと言ひ得ようか。

緊急勅令に対する枢密院の態度

緊急勅令に対して世論の非難の甚しかつたことは以上述べた通りで、随つてそれが枢密院に諮詢しじゅんせられてからは、世間の注意は一に枢密院に集まり、最後の頼みとして、せめては枢密院に於いて之を否決せんことを望んだ。

しかし枢密院に於いては唯四五の顧問官が之に反対したに止まり、大多数を以て之を可決した。

枢密院が之を可決したことは、私は枢密院としては当然の態度であつたと思ふ。勿論昨年若槻内閣の当時内閣から提出した緊急勅令案を否決し、之が為に内閣の総辞職を来したことに比較すると、其の態度に大なる矛盾が有る、枢密院が政党化したと非難されるのも一理あることとは思ふが、併し昨年内閣の倒壊をも顧みずして之を否決したことが、甚しい悪例を遺したもので、枢密院としては政治上に甚だ穏当ならざる態度を取つたものと思ふ。治安維持法改正の緊急勅令が其の実質に於いても形式に於いても甚だ非難すべきものであることは疑を容れぬとしても、内閣が之なくしては自家の責任を尽すことを得ないことを主張する以上は、責任なき枢密院はその言に従ふのを当然の態度とする。枢密院としては精査委員会に於いて一応政府に忠告して其の撤回を促がすことは正当であるとしても、其の忠告に拘らず内閣が撤回を肯んぜずして其の必要を主張するならば、枢密院が内閣の倒壊を顧みず之を否決することは、枢密院の取るべき態度ではない。却て二三反対の議員が、畏くも陛下の御前をも顧みず、二日に亘つて、結局大多数を以て可決せらるべき運命に在ることを熟知しながら、長々しき反対の議論を弄したことは、昨年の若槻内閣の時に於ける内閣攻撃の議論と共に甚だ苦々しく思はれる。

緊急勅令の将来の運命

此の緊急勅令は次の議会に提出して其の承諾を求めねばならぬものであるが、政府与党を除く衆議院の各党派は既に一斉に之に反対なる旨を宣言して居るのであるから、仮令与党だけは全部一致して賛成させることが出来るとしても、過半数の同意を得ることは絶望であつて、十が十まで不承諾に終るものと覚悟せねばならぬ。而して一院だけでも不承諾であれば、政府は当然直に其の将来に向つて効力を失ふことを公布せねばならぬ。

事に依ると、衆議院が未だ承諾するや否やを議決するに至らない間に、衆議院が解散せらるることになるかも知れぬ。前の議会に於いてすらも、解散の声が頗る高く僅に内閣不信任案の握り潰に依つて解散を免れたのであつて、引続いて解散を断行する非立憲の処置をも憚らない態度を示した内閣の事であるから、若し今の内閣が次の議会まで継続して居るとすれば、衆議院が内閣不信任案を提出するか、又は緊急勅令を否決せんとする形勢が明白になれば、政府が再び解散を断行することは想像し得られる所である。

緊急勅令に対し議会が未だ諾否を決しない間に衆議院の解散となり又は会期終了した場合に、其の緊急勅令は当然効力を失ふべきものであるや、又は引続き効力を有するもので更に次の議会に提出して其の承諾を求むべきものであるやに付いては、二の異つた先例が有る。第一の先例は明治二十四年に松方内閣の取つた例で、それは大津事変に際し新聞紙の取締の為の緊急勅令を発し、其の年の議会に提出せられたが、審査未了の中に衆議院の解散となり、而も政府は其の命令を引続き有効のものとして取扱ひ失効の公布を為さず、更に翌年の議会に提出して不承諾となつた為に、始めて其の失効を公布した。第二の先例は明治三十一年に大隈内閣並に大正七年及び大正八年に原内閣の取つた三回の先例で、何れも緊急勅令が審査未了に終つたのであつたが、前の例とは反対に政府は直に其の将来に効力を失ふことを公布した。

此の二様の先例の中、第二の先例の方が新しいものであり且つそれは三回までも繰り返へされて居るのであるから、今日では先づ此の方に解釈が定まつて居ると言つて可いのみならず、理論から言つても、其の方が正しい見解であることは疑を容れぬ。緊急勅令は暫定的の立法で、初より次の議会に於いて其の承諾を得ることを条件として発布せらるるものである。若し次の議会に於いて承諾を得なければ当然に効力を失ふべきことを其の本来の性質として居るものである。即ち次の議会の承諾を得ることが効力存続の要件たるもので、其の承諾を得られなければ、其の承諾の無いことが如何なる原因に基いたにせよ、常に効力を失ふのである。積極的に不承諾の決議の有ることが失効の原因となるのではなく、消極的に承諾の決議の成立しなかつたことが失効の原因となるのである。

それであるから、緊急勅令が将来に効力を失ふべきことに於いては、衆議院の解散となつた場合でも、不承諾の決議の有つた場合でも、同様であつて、何れにしても、政府が極力反対を排して発布を断行するに至つた此の治安維持法改正の緊急勅令も、唯次の議会までの運命で、次の議会の終る頃即ち来年の春には当然効力を失ふべき運命に在ることが予想せられる。

而して僅に半年の間には、仮令万一其の間に此の勅令の定むる犯罪者が起つたとしても、其の裁判の確定することは望み難く、而し其の失効の後に裁判せらるることなれば、当然新法に依りて処断せられねばならぬのであるから、結局此の勅令は実際に適用を見るべき見込は全く無いといふことに帰する。

之に対して政府の取り得べき唯一の対応策としては、緊急勅令の失効と共に再び同じ内容の緊急勅令を発することのみを思考することが出来る。併し若しさういふ手役を取るとすれば、それこそ非立憲の極みであつて、議会を無視し、国民を敵とする非難を免れないのみならず、此の如き暴挙を敢てしたとしても、それは唯五ヶ月間だけ其の効力を延長したに止まり、解散後五ヶ月以内には更に新議会が召集せられねばならぬのであるから、其の運命は又其の時に尽くることを免れぬであらう。

緊急勅令が効力を失つた結果、従前の治安維持法が当然効力を復活するや否やに付いては、多少の異論も有るやうであるが、是は憲法義解にも明言して居る通り、従前の法律が効力を復活するものであることは、更らに疑を容るべき余地も無い。

法律は議会の議決を経て制定せられたものである。それが議会の議決を経ず政府の専断を以て発せらるる緊急勅令に依つて確定的に廃止変更せられ、議会は之を如何にすることも出来ないといふことは、議会の憲法上の権限を無視するものである。緊急勅令を以て法律を廃止変更する規定を設くるのは、初より確定的に之を廃止変更する効力を有するものではなく、唯一時仮りに其の効力を停止するに過ぎぬものである。緊急勅令は其の本来の性質に於いて、応急手段としての暫定法であつて、確定の立法たる性質を有するものではない。確定法でないから、確定的に法律を廃止する力を有ち得ないのは当然である。緊急勅令は憲法にも明言して居る通り次の議会に於いて其の承諾を得ることを条件として居るもので、若し議会の承諾を得たならば、ここに始めて確定法としての効力を生じ、之に依つて廃止変更せられた法律は始めて確定的に其の効力を失ふのである。其の承諾を得るに至るまでは、唯仮りの効力を有するのみで、法律を廃止変更すると言つても確定的に之を消滅せしむるものではなく、一時仮死の状態に置くに止まる。確定的に効力を失つたものであれば、緊急命令が効力を失つたとしても、効力を復活すべき理由は無いけれども、一時的に法律に代る効力を有つて居たに止まり、確定的に其の効力を失はしめたものではないから、緊急勅令が失効すれば、従前の法律が当然に従前通り効力を復活し、初より緊急勅令が発布せられなかつたのと同一の状態に復するのである。

(昭和三年八月発行「経済往来」所載)