現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

選挙革正論


前論

一 政党政治と其の弊害

立憲政治は議会政治であり、而して議会政治は結局政党政治に帰するの外ないことは、政党を好むと好まざるとを問はず、何人も否定し得ないところである。それは何故かと言へば、議会政治は多数決政治であり、議会の多数を占むる為には集団的の力に依るの外なく、殊に国民的の選挙の競争に於いて、多数の議員をち得るには、集団的の力を以てするの外、全く不可能であるからである。

之をわが憲政史に付いて見ても、政府の政党に対する態度は、憲法の実施以前は勿論、其の実施以後に於いても、尚最初の数年の間は、明白なる敵視の態度を取つたのであつた。出来得る限り政党の勢力を抑圧し、其の発達を阻止し、若し為し得べくんば之を絶滅せんとするのが、此の時代に於ける政府の絶えざる方針であつた。少くとも政党が自ら政権の衝に当り、自ら政府を組織する主脳者となるが如きは、当時の政府の夢想だもしなかつたところである。憲法発布の後間もなく、時の総理大臣及び時の枢密院議長が、等しく政府が政党の外に超然たらざるべからざることを宣言したのは、其の思想の現はれであり、第二回議会の解散の後、明治二十五年に彼の有名な選挙大干渉が行はれ、時の政府の全力を挙げて、殆ど公然に法律を無視してまでも、政党の圧迫に努め、而も当局者はそれを以て国家に忠なる所以であると信じて居たが如きも、亦同じ思想の現はれである。

併し、政党に対する此の如き敵視の態度が、絶対に立憲政治と両立し得ないものであることは、間もなく明白となつた。勿論わが元老政治家の中には、最後まで遂に政党に対する敵視の態度を捨て得なかつたものも無いではないが、伊藤公桂公の如き官僚の元勲は、ただに敵視の態度を抛擲ほうてきしたばかりではなく、相次いで自ら政党の首領となり、官僚的の旧来の政治上の勢力はここに政党の勢力と相結合するに至つた。わが国に於ける政党政治の基礎は、斯くして据えられたのである。殊に原内閣は政党の政治的勢力を強固ならしめたことに与つて大なる力が有り、原内閣以後はわが国に於ける政党政治の基礎は、もはや牢乎ろうことして抜くべからざるものとなつた。清浦内閣が一敗たちまち倒るるの已むなきに至つたのも、非政党的内閣のもはや長く維持せられ得ないことを証明するものである。

併し斯くして多年の闘争の後僅に確立することを得た政党政治が、果して能く国民の満足を買ひ得たかと言へば、事実は殆ど正反対であつた。最初の間こそは、薩長政府の陰鬱なる政治に対し、政党政治の明るさを喜んだのであつたが、政党政治に伴ふ新なる弊害は、年を経るに従つて益々顕著となり、国民は議会に対し、殊に政党に対し、殆ど絶望の感を為すに至つた。就中なかんずく、今の田中内閣は従来の何れの内閣にも越えて、最も明白に政党政治の弊害を暴露したもので、田中内閣の唯一の大なる功績は、現在の制度のままでは政党政治の弊害が国民に取り実に堪へ難いものであることを明示したことに在ると言つても、恐くは大過ないであらう。

政党政治の幣害の生ずる根本の原因は、政党に巨額の金の必要なことである。何故にその金が必要であるかと言へば、それは主としては、選挙に多くの費用を要する為である。総選挙の行はるる毎に、各大政党は、少くとも数百万円、時としては数千万円にも達する程の巨資を必要とする。現在の選挙制度の下に於いては、それだけの金が無ければ、大政党として、選挙に勝利を得る見込は絶対に存在しないのである。

それ程の巨額の金を政党は何処から収得することが出来るか。

それは党員の醵出きょしゅつに係る零砕れいさいの金を集めただけでは到底不可能なことは言ふまでもない。それを得るの途は、唯政権を握ることに依つて、政権を或は直接に党利の為に濫用し、或は特定の資本家の利益の為に行使し、而してその資本家から利益の分け前を取得するより外には無い。現に政権を握つて居る政党は、斯かる方法に依つて資金を収得することが出来るが、在野党は之に反して現に政権を有しないのであるから、斯かる方法に依つては資金を得るの途なく、其の唯一の財源としては、政府と妥協することに依つて、政府から資金を補助せらるるの外には、唯他日政権を握つた場合に資本家の利益を計ることを暗黙の条件として、資本家から資金の醵出きょしゅつを求むるの外には無い。

斯くして政党に取つては、政権を掌握することが、其の資金を収得し、随つて其の存立を維持する絶対の要件であつて、政権争奪の激烈さも之に因つて生ずるのであり、政権を握るが為には、如何なる手段をも択ばず、一旦それを握つた上は、飽くまでそれに噛り付かんとするのも、之に依つて理解することが出来る。

日本に於いて従来大体に於いて二大政党主義が維持せられて来たのも、恐くは是が其の主たる原因を為して居るものと思はれる。二大政党以外の小政党は、自ら政権を掌握し得べき見込が無いので、其の資金を得るの途が無く、随つて長きに亘つて其の勢力を維持することが不可能なのである。犬養毅氏の革新派が、其の長年の苦節に拘らず遂に政友会に併合せられたのも、資金問題が其の主たる原因であつたことは、人の知る所である。日本の現在の政治事情及び社会事情が、二大政党の外に尚他の政党の存在を必要としないからではなく、現に政権を握つて居るか、又は近き将来に政権を握り得る見込の有る政党でない限りは、巨額の資金を収得する途なく、而して資金が無ければ、選挙競争に堪へず、長く勢力を維持することが不可能であることが、二大政党主義の維持せらるる唯一の原因であると信ずる。

政党の政権を掌握することの主たる目的が、自党の利益の為に政権を濫用することに依つて、資金を取得することに在るとすれば、国家の禍は之より甚しきは無い。政党政治の弊害は主としてここに其の原因を有するものである。

政党政治の此の如き弊害は果して絶対に除くことの出来ないものであらうか。

若し然りとすれば、われわれは議会制度に絶望するの外は無い。何となれば、政党は議会制度と離るべからざるもので、議会制度を取る以上は、政党政治は避くべからざるところであるからである。

併し議会制度を否定することの結果は、ソヴェート、ロシア流の労農政、然らざればイタリア流のフアシスムに帰するの外は無い。何れにしてもそれは民衆政治とは正反対な独裁政治に外ならぬ。

独裁政治が時として国家の為に必要である場合を生ずることの有るのは否むべからざるところである。殊に戦争の際か又は戦争にも準ずべき国難に当り、又は新に国家を建設せんとするに当り、総ての異論を排し、国力を挙げて、一定の目的の為に勇進せねばならぬ必要の有る場合には、独裁政治の方が寧ろ其の目的に適するであらう。

併しながら、独裁政治は、無産者の独裁にもせよ、フアショの独裁にもせよ、若くは我が薩長政治時代に於けるが如き官僚の独裁にもせよ、常に圧迫の政治である。自己に追随する者のみを容認し、反対者に対しては総ての自由を剥奪し、極力之を圧迫することを主義とする政治である。斯かる圧迫の政治は、唯国家異常の場合の一時の変例として存し得べきに止まり、正常な国家の制度としては、決して歓迎すべきものでないのみならず、不平の鬱積する結果は、早晩は必ず顛覆することを免れぬであらう。その圧迫の甚だしければ甚しいだけに、其の反動も亦随つて激烈であるであらう。仮令相当の長期間に亘りて其の圧迫を持続し得たとしても、国民をして唯権力に服従せしむるに止まり、自由なる人格の発展を許さない結果は、文化の発達は阻止せられることを免れぬ。何となれば、個人の自由は文化の発達の根本要件であるからである。

われわれは、少くとも正常なる国家の制度としては、総ての独裁政治に反対する。議会制度は仮令それが多くの欠点を備へて居るとしても、尚近代文化のもたらした貴重な産物として、極力之を擁護し維持せんことを欲するものである。

併しながら、一方に於いて議会制度を維持せんと欲し、而も一方に於いて政党政治の弊害が殆ど堪ふべからざるに至つて居るとすれば、われわれは如何にして政党政治の弊を除き得るかの困難なる問題に答へねばならぬ。

此の問題こそ、実に立憲政治の運用に関する最も大切な問題であり、議会制度の将来は一に此の問題の解決如何に懸つて居るものと言つても過言ではない。

二 現行選挙制度の根本的欠陥

如何にして政党政治の弊害を除き得るかは、極めて困難な問題であつて、それは固より制度の改善殊に単純な選挙制度の改善のみに依つて、庶幾し得べきところではない。

併しながら、政党政治の弊害の生ずる最も大なる原因の一は、選挙制度が宜しきを得ないことに在ることは、疑を容れないところである。選挙は議会制度の中心を為すもので、それが当を得ると否とは、議会をして能く其の本来の目的を達するを得せしむるや否やの分るる所以である。選挙界の廓清のみに依つて政党政治の総ての弊害を除き得ることは固より望み得べきところではないけれども、若し選挙の腐敗を除き、選挙費用を減少し、選挙の結果を公正ならしむることが出来たならば、それは少くとも政界を清浄ならしむることに、与つて大なる力があることは更に疑を容れぬ。反対に若し今日の如き選挙制度が引続き行はれて、総選挙毎に各政党が巨万の資金を要することが、そのまま続いて行くとすれば、政党の腐敗は永久に之を除き得べき見込は無いであらう。

それであるから、政界を浄化するには、何を措いても、選挙の革正を絶対の必要とする。而して選挙の革正を謀る為には、先づ現在の選挙制度の欠陥が如何なる点に存し、又其の欠陥を生ずる原因が何に在るかを明にせねばならぬ。

私は現在の選挙制度の根本的の欠陥として、殊に左の三点を挙げることが出来ると思ふ。

第一 選挙に巨額の費用を要すること

選挙に多くの費用を要することが、政党を腐敗せしむる根本的の原因であることは、前にも一言した。現行の選挙法はその費用を出来るだけ減少せしむる方策として、法律を以て選挙運動費用として支出し得べき最高限度を定め、若しこの額を超過すれば当選を無効ならしむるものとして居るけれども、此の法定制定額自身が既に平均して一万二三千円に上り、無産者は勿論中産者に取りても頗る多額に過ぐるものであるのみならず、実際には此の制限額を守り得た候補者は極めて少数で、普選第一回の総選挙に於いて、候補者殊に当選者の実際に支出した運動費用額は九十九パーセントまで、此の制限額を超過したことは、公然の秘密として、多くの議員の公言して居るところである。概して言へば、各候補者の支出した金額は少きも数万多きは数十万円に上り、平均して七八万円を下らないであらうと言はれて居る。床次君が昭和四年三月衆議院に小選挙区制に依る選挙法改正案を提出するに当り、その提出演説の中に「申ス迄モナク現行法ハ選挙費用ヲ限定シテ居リマス、サリナガラ実際ハ一ノ空文ニ終ツテ巨額ノ運動費ヲ要シテ居ルノハ事実デアリマス」と公然言明したのに依つても、法律に依る運動費用の制限が事実に於いては何等の効果を奏し得なかつたことを知ることが出来る。

選挙に斯く多額の費用を要することは、政治上の各種の弊害の根源を為して居るものである。其の弊害の最も著るしいものは、言ふまでもなく、政権を掌握した政党が、その費用を得るが為の已むを得ざる手段として、政権を党の利権の為に濫用することである。鉄道敷設の特許、私設鉄道の買収、官有財産の払下、水利権の特許、電業事業の許可、取引所の許可、遊廓地の許可、貴族院議員の勅選等、その他凡て政府の機能に属する行為で、いやしくも私人に或る特権又は利益を与ふるものは、一として党利の為めに利用せられないものは無いと言つても可い有様に在る。濱口内閣の就任以来、暴露せられた各種の政治疑獄は唯その一端の現はれに過ぎないもので、実際は遥かにその暴露せられたものよりも甚しいものが有ることは、容易に推測し得べきところである。

しかし、此の外にも、選挙費用の多額を要することに基づいて生ずる弊害は尚甚だ多い。その一は近き将来に政権を握り得る見込の無い少数党をして、其の存立を甚しく困難ならしむることである。殊に無産政党の進出は之が為に甚だ困難となり、而してそれは国家の前途の為に甚だ憂ふべきことと信ずる。革命運動の跳梁を防止する最も有効なる政策は無産者階級にも公平に議会に進出し得べき機会を与へ、以て平和なる議会主義に依つて社会の改造を企図し得べきことを、事実に依つて証明することでなければならぬ。然るに選挙運動に多くの費用を要することは、無産者階級が議会に勢力を得ることを殆ど不可能ならしむるもので、それは非合法的革命運動を誘発するの危険あるものである。

その外にも各個の議員をして動もすれば金銭上の誘惑に陥いらしむるの危険あること、各党派及び各議員をして解散を恐るること甚しからしめ、解散を避くる為には正当なる議論をも差控へるの已むを得ざるに至らしむること、有為の人才をして資金に乏しきが為に選挙場裡に立つことを憚らしめ、仮令立つとしても其の成効を甚しく困難ならしむること等は、何れも主としは選挙に多くの費用を要することに基づいて居るものである。

第二 選挙の結果が正確に国民の意向を反映しないこと

国民的選挙制度の目的とするところは、それに依つて国民の意向を議会に反映せしむることに在り、而して現代の政党政治の時代に在つては選挙制度の主眼とするは、これに依つて国民が何れの政党に如何なる程度の信頼を払つて居るかを示すことに在らねばならぬ。議会の政争に於いては、政党が総てであつて、各個の議員は唯政党の一員としてのみ存在の意義を有するに止まるのである。然るに現在の選挙制度は、政党の存在を無視し選挙競争の主体として唯各個の候補者を認むるのみで、政党が其の争の主体であることを認めず、選挙人をして政党に投票せしめずして各個の候補者に投票せしめて居る。其の結果は、投票の多くは政党に対する信頼の如何よりも、個人的の友誼、尊敬、情実等専ら個人的関係に依つて決せらるる傾が有り、随つてその選挙の結果は、決して各政党に対する国民の信頼の程度を現はすものとはなり得ないことを免れぬ。普通に、選挙の結果を統計的に研究するに当り、各候補者が選挙当時に標榜して居た政党を標準として、その候補者の得票を以てその所属政党の得票と看做し、全国を通じて某政党が幾何の投票を得たかを計算することを通常として居るけれども、是は極めて不確実な計算であつて、決して正確に国民の意向を表はして居るものではない。何となれば、その投票の少からざる部分は、政党に対する信頼の意を示したものではなく、単に特定の候補者その人に対する投票たるに止まるものが有るからである。

それは殊に、各議員の中には、議員として当選した後に、其の選挙当時に標榜して居た政党から脱し、或は他の政党に入り、或は新党を組織し、或は中立となるやうなものが尠くないことに依つても明瞭である。更に甚しきは、屢々しばしば政党の所属を変転するに拘らず、尚常に同一の選挙区から安全に当選して居る例すらも尠くない。それは明に其の得た投票が、個人に対する投票であつて、政党に対する信頼を示すものでないことを証明するものである。

それであるから、現在の如き政党を無視した選挙制度の下に於いては、小選挙区制度であらうが、大選挙区制度であらうが、それは五十歩百歩の差で、何れにしても、それに依つて正確に国民の意向を選挙の結果に反映することは、不可能である。

第三 政党に対する国民の有効なる監督を不可能ならしめて居ること

政党の腐敗を防ぐ最も有効なる手段は、一般民衆が政党を監視し、政党が悪政を行ひ民心を失つたならば、其の結果が直に選挙の上に現はるることに在らねばならぬ。然るに前に述べた選挙に巨額の費用を要すること、及び選挙が個人的競争であつて党派的競争でないことの二点は、選挙が解散の場合を除いては、僅に四年間に一回行はるるに過ぎないこと相待つて、政党に対する民心の離叛の程度が、迅速且つ正確に、選挙の結果に現はるることを不可能ならしめて居り、随つて政党に対する国民の監督をして甚だ効果の薄弱なものたらしめて居る。

現在の如き選挙制度の下に於いては、政党が如何に悪政を行い、如何に国民の信頼を失つたとしても、豊富な資金をさへ抱いて居れば、金力に依つて相当の程度にまで選挙に於ける成効を期待することが出来る。選挙に於ける政党の勝敗は、国民の信頼の程度に依つて分るるのではなく、主としては資金の多少に依つて分るるのが、現在に於いての否定すべからざる実際である。

しかもそれは四年に一たびしか行はれないのであるから、少くとも四年の間は、政党が如何に罪悪に満ち、如何に失敗を重ねたとしても、解散の行はれない限り、国民が選挙に依つて之に対する不信任の意を表明することは、絶対に不可能である。

三 普通選挙の本質的欠点

此等は現在の選挙制度の根本的の欠陥と見るべきものであるが、それ等の欠陥は何にその原因を有するものであらうか。

其の原因の一部分は、民衆的選挙殊に普通選挙制度の本質に伴ふ避くべからざるものが有る。一般民衆に依つて行はるる選挙は如何なる方法を取るにしても、完全に公正なる結果を得ることは不可能であつて、それは選挙の本来の性質から生ずる已むを得なる欠陥であり、而して此の本質的の欠陥は普通選挙の施行に依つて、選挙権を社会の各層にまで拡張したことに依つて、益々甚だしきを加へたものである。

民衆的選挙制度殊に普通選挙の本質的の欠陥には更に三を挙げることが出来る。

その一は、数を以て勝敗の唯一の標準とすることである。凡て選挙は如何なる方法を以てするにせよ、常に数のみに依つて勝敗を決するもので、多数の投票を集めた者が勝を占むることに帰するのであるが、数に依る勝敗は、総ての人を平等の価値ある者と仮定して、多数は常に少数に勝ることを絶対の原則とするものである。しかし実際は人間の能力は各人極めて不平等であつて、数の多少の如きは決して其の価値を判断すべき正当なる標準たるべきものではない、普通選挙制度は此の実際上の不平等を無視し、各個の投票を凡て平等の価値あるものとして計算するのであつて、此の点に於いて其の根本に不合理性の要素を含んで居る。

その二は、選挙人の一大部分が政治に充分の理解を有しないことである。選挙の公正なる結果を期待する為には、総ての選挙民が充分に各候補者の人物や政見を知り、それに依つて候補者の中から自分の最も信頼する人に投票するやうにならねばならぬ。しかし是は民衆的選挙殊に普通選挙の下に於いては、全く望み得ないところである。普通選挙は智識能力の如何を問はず、一定の年齢に達した総ての国民に原則として平等の選挙権を与ふるもので、斯かる制度の下に於いては選挙人の一大部分が公正なる投票を行ふだけの必要なる理解力を有たないことは、当然予期せられねばならぬ。

その三は、選挙人が動もすれば不正の勢力に動かされ易いことである。是も前の欠点と相関連するもので、自分に確固たる独立の識見の無い者は、随つて又不正の勢力に動かされ易く、投票の買収、官憲の干渉、誇張的な宣伝、悪辣な煽動などが、勝敗を決する最も主要な原因ではないまでも、それに有力な影響を与ふる傾向あることを免れない。

此等の欠点は普通選挙に伴ふ避け難いもので、いやしくも普通選挙を採用する以上、それは或る程度にまで已むを得ないものとして忍容せねばならぬ。われわれは唯此の本質的の欠点を出来るだけ少くすると共に、尚選挙の腐敗を助成する他の原因の存するものなきや否やを吟味し、若しその原因が存するとすれば、之を除去するに努むるの外は無い。

而して私は、現在の選挙制度に於いて巨額の費用を要し正確に国民の意向を反映せず、又政党に対する国民の有効なる監督を不可能ならしめて居ることの主たる原因は、此等の普通選挙制に伴ふ本質的の欠陥に存するのではなくして、他に其の原因を求むべきものであると信ずる。

其の主たる原因は何に在るかと言へば、私は現行選挙法に於ける大選挙区単記投票法が即ちそれであると答ふるに躊躇しないものである。

四 大選挙区単記投票法の批評

大選挙区単記投票法はわが国に於いて明治三十三年に始めて創設せられたもので、外国には殆ど類例を見ないものであるが、原内閣に依つて行はれた大正八年の選挙法改正に依り、一たび小選挙区制度に復した後、更に大正十四年の所謂普選法に依つて再び採用せられて、今日に至つて居るものである。尤も、三十三年の旧法には市部を除き郡部は凡て一府県を通じて一選挙区と為し、随つて大府県では一区から十人以上を出だすところも有つたのに反して、新法は一区から選出すべき議員定数を三人乃至五人に限定して居るから、旧法の一府県一区制に対して、普通には之を中選挙区制と言ひ慣はして居るけれども、中選挙区といふ名称は一般の学者に依つて承認せられて居る名称ではなく、又一区から何人以内を選出する場合には之を中選挙区と称するといふやうな確定の慣習が有るわけではないのであつて、学問上の普通の名称としては、凡て一区から二人以上を選出する場合には等しく大選挙区と称する慣習であるから、若し此の普通の学問上の用語例に従へば、現行法も勿論大選挙区制を採つて居るものである。却つて三十三年の旧法には市部と郡部とを区別して、市は凡て独立の選挙区として居つた為、大都市を除いては市は凡て小選挙区であり、随つて正確に言へば、大選挙区と小選挙区との混同制度であつたのであるが、現行法は市郡と郡部との区別を撤廃した結果、全く小選挙区を置かず、全国を通じて純然たる大選挙区制度を貫徹して居るのである。

大選挙区制度に於いては、比例代表法を採用しない限りは、連記投票法が通常行はるる方法であるのに反して、独り我が国法は単記投票法を採用して居るのであつて、此の点に我が選挙法の最も著しい特色が有り、而して私は選挙の勝敗を生ずる最も重なる原因が此の点に存することを信ずるものである。

大選挙区単記投票法の唯一の長所として見るべきものは、その投票の方法が比較的簡単であることの外には、唯少数代表の目的に適して居ることのみに在る。連記投票であればその区から選出する議員定数の全部が必然に多数党の独占に属するに反して、単記投票であれば、少数党からも若干の議員を出だし得べき機会が与へられるのである。随つて小選挙区制や連記投票法に比らぶれば、此の方法は明に少数党に有利である。少数党たることを普通として居る民政党がその前身たる憲政会以来常に此の方法を主張し来り、之に反して大政党を以て自ら任じて居る政友会が伝統的に小選挙区制の主張者であるのも、此の理由からこれを説明することが出来る。

しかし少数代表の目的の為から言つても、此の方法は決して適当な制度と見ることを得ない。此の方法に依つて完全に少数代表の目的を達し得る為には、各政党が各々の選挙区から凡そ何程の投票を取得し得るかを略正確に予想し得て、それに依つてその各区から、何名の候補者を立たしむべきかを誤なく計画し得ることが必要であり、又一区から二名以上の同じ政党の候補者が出て居る場合には、その各が過不足なく適度に投票を得ることが必要である。此の計画を誤り、一名当選し得るだけの得票あるに過ぎない区に於いて、二名以上の候補者を立て、又は反対に、二名以上当選し得べき得票ある区に於て一名だけの候補者を立て、若し又二名以上立候補した場合にその中の或る一名が余りに多く投票を集めたやうな場合には、政党の勢力に比例するだけの当選者を得ない結果を生ずるので、是は此の方法に依つて行はれた毎回の総選挙に於いて、容易にその多くの実例を示し得べきものである。

それであるから、此の方法は少数代表の為にも甚だ不完全なもので、唯その方法が比較的簡単であるが為にのみ、今日まで維持せられて居るに過ぎないのである。此の方法が比較的円滑に行はれ得るのは、選挙人の数が極めて小人数で、選挙人相互の間の申合せ、又は選挙母体たる各派の幹部からの指図が充分に行き届き得べき場合に限られて居る。例へば市会に於いて市参事会員を選挙するやうな場合であれば、此の方法も或はさまで非難すべきものでないであらう。之に反して衆議院議員の選挙のやうな一般国民に依つて行はるる大衆的の選挙に於いては、此の方法は断じて適当な制度ではない。

その最も大なる欠点としては、左の三点を挙げることが出来る。

第一 選挙運動の費用を膨大たらしむること

選挙運動に多少の費用を要することは、如何なる制度の下に於いても避くべからざる所であるが、殊に大選挙区単記投票法に於いては、他の如何なる方法よりも、その費用を膨大ならしむる傾向あるもので、此の方法を棄てない限りは、如何に選挙警察及び選挙罰則を厳重にしても、又如何に所謂選挙公営を実行するにしても、尚選挙運動費が巨額に上るのを防ぐことは不可能であらうと思ふ。

それは何故となれば、大選挙区単記投票法は広い地域に亘つて各候補者がそれぞれ単独に自分に投票を集める為に運動しなければならぬ方法であるからである。

比例代表法を採用しない単純な単記投票法は、個人競争の法である。候補者各個人が自己の当選を期する余に運動することを余儀なくせらるる方法である。各候補者がそれぞれ個人的に運動を為さねばならぬのであるから、その費用が多額に上るのは自然の結果である。選挙運動の為に投票の買収を初めその他の不正手段が行はれ易いのも、主としては選挙が個人競争の法であり、各候補者が個人的に投票を集めねばならぬからである。

勿論此の点は小選挙区制と雖も同様で、小選挙区に於いても競争の激烈な場合には、その費用は、頗る巨額に上ることが有るけれども、大選挙区に於いては運動を為すべき地域が広く選挙人の数が多いだけに、その費用が一層多額に上るべきことは必然である。今年(昭和四年)の第五十六議会に政友会及床次派の連合提出に係る小選挙区案に付き、床次君がその提出の第一の理由として、選挙費用の節減を挙げて居るのは、提案の是非は暫く措き、又小選挙区制に改むることに依つて果して提案者の予期せる如くその費用を節減し得べきや否やも暫く別問題として、少くとも現行法の最も大なる病根が選挙費用を膨大たらしむるに在ることを指摘せるに於いては、能く肯綮こうけいを得て居るものである。

第二 選挙人の選択すべき標準を複雑不明瞭ならしむること

小人数で行ふ選挙とは異なり、一般国民に依つて行はるる大衆的の選挙法に於いては、選挙人が投票を為すべき標準は、誰にでも理解し得らるべき簡単明白なものでなければならぬ。是が民衆的投票制に於ける最も大切な要件である。

大選挙区単記投票法は此の点から見ても最も不適当なものである。それは、第一に、選挙人をして各候補者の中から其の最も適当と認むる一人を選択せしむるものであるが、しかし人を知ることは、平生その人に接触して居る者すら甚だ難しとするところで、容易には適切なる判断を下し難い。然るに多くの智識能力を期待し得ない一般民衆をして、各候補者の中何人が議員として最も適当であるかを判断せしめようとするのであるから、それは無理な要求と言はねばならぬ。第二に、小選挙区であれば、候補者の数も通常は二人又は多くとも三人くらいに止まり、その二人又は三人の間の競争であるから、その選択も比較的簡単明白で、此の点に小選挙区の大なる長所が有るのであるが、大選挙区であれば、候補者の数が多く、時としては同じ政党から二人以上の立候補が有ることすらも尠くない。此の多数の候補者の中から一人だけを選択せしめようとするのであるから、その選択が一層複雑不明瞭となることは当然である。

是が又選挙の腐敗を来す重要なる原因となることを免れない。何となれば、選挙人は自分の独立の判断を以ては、誰に投票してよいかを決すべき的確な標準を得難いのであるから、自然個人的の情誼や買収やその他の不正の勢力に依つてその投票を左右せらるるやうになることは避け難いところであるからである。

若し現在の如き制度に於いて、買収その他の不正の勢力が少も行はれないと仮定すれば、選挙人の大部分は投票に無関心となり、棄権者は恐くは過半数にも達するであらう。実際に棄権者が比較的に少く、殊に智識の程度の比較的に後れて居る地方郡部に於いて棄権者が一層尠いのは、買収の弊が如何に甚しいかを語るもので、それは同時に投票の大部分が選挙人自身の独立の判断に依つて決せられず、他の不正の勢力に依つて動かされたものであることを表明するものである。

第三 投票の価値を不定不確実ならしむること

選挙制度に於いて最も大切な要件の他の一は、総ての投票をして出来得る限り投票としての一定の効果あるものたらしむることである。若し投票をしてもしなくとも、又甲に投票しても乙に投票しても、その結果に於いては何等の相違が無いといふことであれば、選挙人の多くが選挙に無関心となり、真面目に投票を為すことを厭ふようになることは自然の結果であつて、此に又選挙の腐敗を来すべき重要なる一原因が有る。

大選挙区単記投票法は、此の点から見ても甚だ不適当な方法である。此の方法の下に於いては投票の一大部分は死票となり、何等の効果をも生ぜず、投票をしてもしなくとも又は誰に投票しても、選挙の結果には少しの影響をも及ぼさないのである。それが移譲式の単記投票法とわが現行法の如き無移譲の単純単記の方法との異なる要点であつて、移譲式の単記法であれば、剰余投票は凡て他の候補者に移譲せられてその効果を表はし得るのに反して、単純な単記法に於いては剰余投票は凡て死票となるのである。斯ういふ制度の下に於いては、選挙人が真面目に自己の良心に従つて投票することを期待するのは、寧ろ無理な要求と言はねばならぬ。

五 選挙革正策としての選挙警察及び選挙罰則

以上述ぶる如く、私はわが従来の選挙界の腐敗の生じた主たる原因がわが国法に於ける大選挙区単記投票法に在ることを信ずるもので、此の方法を改めない限りは、如何に選挙運動の取締を厳重にし、罰則を重くしたとしても、それだけでは選挙界の廓清は到底之を期待し得ないことを主張せんと欲する。

我が現行の選挙法は、ひたすら警察権と刑罰権に依つて、選挙界を廓清せんことを期し、イギリス及びアメリカ諸州の例に倣ひ、しかもそれよりも一層煩瑣綿密な取締規定を設け、選挙運動費用に付いても、新に決定の制限額を設け、其の公開を命じて居る。

私は敢て此等の規定の総てを全く無用なりと為すものではない。選挙運動に関して或る程度の制限を為し罰則を設くることは、欠くべからざる必要であることは疑ない。殊に投票の買収及び暴力の行使の如きは法律を以て之を禁止することが当然の必要である。

しかしながら、選挙界の廓清を期する為には、その腐敗の生ずる原因の何に在るかを窮めて、その原因を除くことに努むることが最も緊要であつて、その原因をそのままにして、唯警察と刑罰とに依つてその廓清を求めんとしても、それは到底望み得ないところである。

選挙の取締と罰則とを厳重にすることに依つて、選挙界を廓清し得る為には、完全に且つ公平に之を励行し得て、いやしくも違法の行為が有れば党派の如何を問はず漏なく之を検挙し処罰し得ることが、確保し得らるる場合でなければならぬ。若しそれが不可能であるとすれば、それはただにその効果を挙げ得ないのみならず、却つてそれが為に種々の弊害を生じ、一層選挙界を混濁せしむるの源となるおそれが有る。

其の第一の弊害は、誠実に法律を遵奉する者に不当なる不利益を与へ、密に法網を潜る者をして却て有利の地位に立たしむることに在る。選挙運動の取締が若し総ての候補者に対して厳密公平に励行せられることが出来るならば、其の取締が如何に厳重であつても不公平な結果を生ずることは無いが、其の取締規定が厳重になればなる程、其の完全なる励行は益々困難であつて、密に法網を潜つて法律の禁止して居る不正手段を行ふ者が多数に生ずることは、免れ難い結果である。若し然りとすれば、誠実に法律を遵奉する者は、競争場裡に於て甚しい不利益を受くることとならざるを得ない。勝利を得んとすれば法律の禁制を犯すの外は無く、若し法律を遵奉すれば坐して落選の憂目を見ねばならぬとすれば、是れ殆ど法律を以て犯罪を余儀なくせしむるものに外ならない。

其の第二の弊害は、選挙の取締が却て官権に依る選挙干渉の手段として用いらるるおそれが有ることである。日本の従来の選挙場裡に於て、其の最も大なる弊害として認められて居るものは、投票の買収と官権の干渉とである。就中なかんずく、干渉の手段として最も多く利用せられるものは、反対党の候補者及び其の運動員には、厳重に取締を励行して少しでも不正手段の疑が有れば仮借しないのに反して、政府党の候補者及び運動員に対しては、取締を寛大にし、多少の不正行為が有つても、大目に之を看過することに在る。此の弊害は選挙に関する取締規定が煩瑣となればなる程益々容易に行はれ得べき傾が有ることは勿論で、之が為に選挙の廓清を期するが為にする取締規定は却つて一層其の弊害を増長せしむるの結果となるべき危険が有る。

此の外、取締規定を厳重にする結果、選挙の取締の為に国庫に巨額の不生産的経費を要するのみならず、其の取締の為に奔命に疲れしめ、それが為に他の必要なる警察事務が疎略になるおそれが有り、又法網を潜る裏面の運動が殆ど総ての場合に行はれて、候補者を初め選挙運動に関係する者は多少の程度に於いて必ず選挙法違反の行為を為すのが寧ろ通例であるといふやうな状態を為し、法律の権威は地に墜ちて、偶々発覚して刑に処せられた者も唯之を不慮の災禍となし、本人も世間も敢て之を恥辱としないやうな結果に陥ることを免れない。

それであるから、私は現行法の取締規定を以て甚しく煩瑣に過ぐると為すもので、その取締に関しては成るべくその規定を簡単にし、完全に励行し得べき程度に止めて置くべきことを主張するものである。此の如き煩瑣な規定が有るにも拘らず、選挙の腐敗が少しも改善せられず、今日に於いても尚選挙界の浄化が絶叫せられねばならぬのは、此等の取締規定が如何に実際に無効果であるかを証明するものである。選挙界を廓清する為には、此の如く警察と刑罰とに以来することを断念し、根本に溯つて腐敗の生ずべき原因を除くの外には途は無い。

六 選挙公営論の批評

選挙費用を節減し、腐敗を除くべき方策として、一部の政治家に依つて主張せられて居るものには、尚「選挙公営論」が有る。それは選挙運動の方法を極度に制限して、唯書面の配布、一定の掲示場に於ける掲示、一定の場所に於ける演説にのみ止め、而して此等に要する費用は凡て国又は地方団体の負担と為し、その以外に於いて候補者はその応援者が私に選挙運動を為すことは一切之を禁止しようとするに在る。

それは、現行選挙制度の最大の欠点たる選挙に多額の費用を要することの弊を除かんとするもので、議会制度の根本に触れて居り、其の点に於て充分の傾聴に値するものであるが、併し私は少くとも現在の状態に於いては、それが到底実行に適しないものであり、円満にこれを実行し得べき望は全く無いことを断定せねばならぬことを遺憾とするものである。

選挙の公営とは、言ひ換ふれば私の選挙運動を全然禁止せんとするものであるが、それは其の根本に於いて大なる無理を含んで居る。

選挙は勝敗の争であつて、総ての勝敗の争に於けると同様に、争の当事者は如何なる手段を以ても、勝を得んと努むるのが、当然の人情である。此の自然の人情は法律を以て無理にこれを抑圧しようとしても、決してその目的を達し得べきものではない。それは過去四十年間の経験の既に明に示して居るところで、投票の買収は法律の初より厳禁して居るところであるにも拘らず、選挙毎に幾千人の違反者を出し、今日に於いてもその跡を絶つことを得ないのである。若し法律を以て選挙運動の方法を制限しただけで其の目的を達し得るものならば、選挙界の廓清は事寧ろ容易で、敢てその方法に苦心すべき必要は無い。現行法に於ける選挙運動の取締すらも既に煩瑣綿密を極めたもので、若しこれが完全に励行せられ得るならば、敢て選挙の腐敗を憂ふべき理由は無いのである。選挙の廓清が今日に於いても至難の問題であるのは、法律を以て如何に綿密な取締規定を設けたとしても、それは元来が無理な規定であつて、随つて到底完全に励行し得ないものであり、却つて徒らに選挙干渉の具に供せらるるに止まつて居るからである。選挙公営論は此の今日までの経験を無視し、一層その誤りを極端ならしめて居るに過ぎぬものである。

若し今日の状勢に於いて、法律を以てにわかに選挙の公営を実行するとせば、その結果は必ず法網をくぐる秘密の潜行運動が盛になり、選挙費用節減の目的が少しも達せられないばかりではなく、却つて一層選挙の腐敗を甚しくするに至るであらう。

何となれば、名声一世を蔽ふやうな大政治家は暫く別として、新に政界に打ち出でんとする者、又は然らずともさまで名声の高からぬ人々は、単に政見書を政府の手に依つて配付し、又は限られた回数だけ政府の準備した会場で演説する位の事で、当選を期することは全く望まれないところであり、随つて此等の者は必然に秘密の不正手段を取るに至るであらうし、而して選挙競争に於いて多数の候補者中一人でも不正手段を行ふ者が有れば、その他の候補者もこれに対抗する為に、やはり同じやうな不正手段を取らなければ、勝利を期し難く、斯くして遂に各候補者が相率いて、法網をくぐるに至ることを予期せねばならぬからである。

しかのみならず秘密の不正運動の外にも、尚種々の形に於ける合法的な間接の選挙運動が有り得る。

それはここに一々想像して列記することは困難であるが、一例を言へば、新聞紙の記事に依り或る特定の候補者に有利な報道を為し、又は反対に他の候補者に特に不利益な記事を記載することは、直接には選挙運動とは看做し難く、随つて之を違法として禁歇することは不可能であるが、しかもそれが選挙の結果に及ぼす影響は頗る偉大であり、随つて選挙運動の方法が制限せらるればせらるる程、新聞紙に関係を有する候補者が特に偏頗へんぱな利益を受くるの結果を生ずるであらう。

要するに、選挙運動の方法を政府の公営に係る特定の方法のみに止め、候補者自身をしては何等の方法をも取ることを得ざさらしむることは、選挙運動の性質に反するもので、法律を以て如何に之を規定したとしても、之を励行することは到底望み得ないところである。

選挙の公営を実行し得る為には、第二に、候補者の濫立を防ぐ方法を講じなければならぬ。

選挙運動に多額の費用を要する今日に於いてすらも、尚候補者は多きに過ぐる憂が有るのに、選挙運動が公営となり、政府がその費用を支弁することになれば、当選の望ある者と否とを問はず、われもわれもと立候補を為す者が、非常に多数に上るべきことを覚悟せねばならぬ。

これを適当に制限する方法は、極めて困難である。現行法は供託金制度を以て、候補者の濫立を防ぐ方法として居るけれども、此の制度自身既に甚だ不合理なもので、それは必然に廃止せられねばならぬ運命に在るものである。たとひこれを廃止しないとしても、それだけでは到底充分にその目的を達する事は不可能であり、若し又供託金の金額を増加するやうなことが有れば、それこそその不合理を一層極端にし、普通選挙の趣意に反すること益々甚しきに至るものである。

若し他に立候補を制限すべき適当の方法が無いとすれば、候補者の数は非常な多人数に上り、選挙界が益々混乱に陥いるのみならず、此の多人数の候補者の為に政府の支弁すべき選挙運動の費用は頗る巨額に上り、此の点からも遂に実行不可能に至るであらう。

これを純理から云つても、各候補者は議員に当選してこそ始めて国家の機関となるのであるが、候補者たる間は唯一私人たるに止まり、その選挙運動は国家の為にする運動ではなくして、自分一個の為か又は所属政党の為にする私の行為たるに過ぎぬ。それは議員とならんとする競争であつて、その性質に於いて恰も官吏とならんとする志望者が、試験準備の勉強を為し試験を受くるのと異なるところは無い、試験準備の修学費や受験の為の旅費を国庫から支弁することの不合理なことは、何人も疑はぬであらう。各候補者の選挙運動の費用を国庫の支弁たらしめようとするのも、亦これと同様の不合理を冒すもので、候補者一個の為又は政党の為の運動費用を、全国民の負担に転嫁せしめんとするに外ならぬ。国民はその負担を拒むべき正当の理由を有するものである。

本論

一 名簿式比例代表法の提唱

民衆的の選挙制度殊に普通選挙は、前にも述べた如く、その本質に於て不合理の分子を含んでいるもので、如何なる方法を採るにしても、完全に理想的な少しの欠点も無い制度を得ることは望み難い。われわれの望み得るところは、唯出来るだけその欠点を少くし、殊に選挙運動に要する経費を国庫の負担にもせよ私人の負担にもせよ最小限度に節約し、選挙の結果をして出来るだけ正確に国民の意向を反映するものたらしめ、又之に依つて国民が迅速且つ有効に政党を監督して之に対する判断を表示することを得るものたらしむるやうな方法を見出だすことに在る。

此の如き方法を得ることは甚だ困難であるが、私は稍々やや此の目的を達し得るに近い方策として、試に左に一の私案を述べ、広く江湖に訴へ、識者の研究を煩はしたいと思ふ。

自分の提案せんとする新選挙制度は、其の根本思想に於いては、之を左の四点に要約することが出来る。

(一)選挙人制度に於いて法律上に政党を公認し、殊に選挙が個人間の争ではなくして、政党の間の争であることを公に承認すること。

今日の国法に於いて、政治の実際と国法とが相隔離して居ることの甚しいのは、政党が実際には政治上の主要の勢力を為し、殊に衆議院の議事に於いて及び衆議議院員の選挙に於いては、専ら政党の勢力に基づいて決せらるるに拘らず、法律上には政党の存在が全く無視せられて居ることとに超ゆるものは無い。それは憲法制定前後の時代に於ける政党を敵視した官僚的の思想が、今日も尚其の影響を残して居る為に外ならぬ。衆議院の議事に関しては、法律の文面に於いては尚全く政党の存在を認めて居らぬけれども、慣習法上には、議員の座席の定め方に付き、議員の控室の分配に付き、委員の選び方に付き、又議事の順序その他に関する各派交渉会の組織及権限に付き、実際上の必要に基づいて、法律上にも漸次政党を公認することに傾いて来て居る。独り選挙制度に於いては、今も尚選挙争が政党の争であることの政治上に最も顕著な事実が、法律上には全然無視せられて居る。候補者は個人として立候補を為すのであつて、政党の候補者として公に認めらるるのではなく、又選挙人は各個の候補者其の人に投票するのであつて、政党に投票するのではない。法律上の表面に於いては、政党は選挙とは全く無関係であつて、其の競争は専ら候補者たる各個人の間にのみ行はるるものとせられて居る。

勿論実際には各候補者はそれぞれ某政党の候補として、若くは中立として、自ら標榜するけれども、それは唯私の宣言であるに止まり、法律上には全く無関係である結果、其の宣言が実際にも重きを置かれ、其の当選の後には容易に其の宣言を廃棄して、脱党、転党、入党が屢々しばしば行はれる。それが最近の総選挙以後殊に甚しかつたことは人の知る所で、それが為に総選挙の当時は半数に満たなかつた政友会か、今年の議会に至つては、優に過半数を占むるに至つたのである。斯く当選後に於いて議員が妄に其の所属政党を変ずることは、選挙民を欺瞞するものであり、政治上の道徳を無視するものであることは、言ふ迄もないが、併し此の如き背徳の行為が続出して止まないのは、選挙制度に於いて法律上に政党を公認して居らぬことに其の主たる原因を有するものでなければならぬ。

今日の我が国法に於いて、政党に付いての規定の有るのは、唯僅に治安警察法に於いて、政治結社に警察上の届出の義務を命じて居るのと、内務大臣が結社を禁止し得ることを定めて居るのとに止まつて居り、政党の政治上に於ける偉大なる働きに至つては、法律は何等関知する所もない。

国法の政党に対する此の如き無視の態度は、政治の実際とは甚しく懸け離れて居るもので、国の政治を左右する最も重要なる分子を、全然法律的規律の外に置いて居るものである。

政党政治の害を除くが為の第一の前提としては、自分は政党を或る程度にまで法律的規律の下に置くことを必要なりと信ずるもので、殊に選挙制度に於ては、法律上に政党を以て選挙競争の主体たらしむることが、選挙運動を清浄ならしめ、選挙の結果をして正確に国民の意向を反映せしむる為の、第一の要件であると信ずる。

此の制度の下に於いては、各候補者は個人としての候補者ではなくして、政党の候補者であり、各政党は単に党内の私の事実として候補者を指定するのではなく(従来も普通に「公認」候補と言はれて居るけれども実は政党の私認候補に過ぎぬ)、国家の公認する公の事実として候補者を公認し、政党の名を以て之を届け出づるものたらしむるのである。

(二)各選挙人をして各候補者個人に投票せしむるの制を改めて、政党に投票せしむるものたらしむること。

現在の選挙制度に於いて、選挙に多くの費用を要し、又其の結果が正確に国民の以降を反映するを得ないことの主たる原因は、自分の信ずる所に依れば、投票が個人に対する投票であつて、政党に対する投票でなく、随つて又、各個の候補者が個人としてそれぞれ自己の為に運動せねばならぬ必要あることに存する。

各個の候補者がそれぞれ自己の為に運動しなければならぬのであるから、選挙運動に多大の費用を要することは、其の必然の結果である。

又投票が個人に対する投票であつて、政党に対する投票でないのであるから、選挙の結果が正確には各政党に対する国民の信頼の程度を反映するものであり得ないのも、亦必然の結果である。

且つ選挙は千数百万人に上る全国の人民に依つて行はるる大衆的行為であるから、それに依つて決せらるべき事柄は、出来るだけ簡単明瞭であることを要する。各個の議員其の人を選定するが如きは極めて複雑なる鑑識を必要とするもので、此の如き大衆的行為には性質上初より適当しないものである。

現在の選挙制度の根本的欠点の一は、実に此の点に存するもので、之を改めない限りは、選挙権を普通選挙にしようが制限選挙にしようが、選挙区制度を大選挙区にしようが小選挙区にしようが、選挙から生ずる今日の如き弊害は、到底之を除くことの出来ないものであることを信ずる。

自分の主張せんとする所は、個人に投票せしむる従来の選挙制度を断然撤廃し、各選挙人は専ら政党に投票するものたらしめようとするに在る。即ち投票用紙には候補者の氏名は全く之を記載せず、選挙人は其の自由の判断に依つて、政友会なり、民政党なり、又は其の他の党派なり、何れかの政党にのみ、其の一票を投ぜしめようとするのである。

言ひ換ふれば、選挙人の投票に依つて決する所は、唯各政党がそれぞれ国民の中の幾何票の支持を受くるかを見ることにのみ止め、随つてそれに依つては唯議員総数の中各政党から幾何の議員を出だすかを定むることにのみ止めんと欲するものである。

而して各政党より議員となるべき人を選定するの権は、専ら之を各政党自身に委ね、各政党から予め順位を定めて候補者名簿を届け出でしめ、其の順位に従つて、最高順位の者から順次選挙に依つて定まつた員数に満つるだけの当選者を得せしめようとするのである。

それは、従来の選挙制度に加ふるに任命の分子を以てせんとするもので、従来の制度に於いては国民が自ら議員を選出したのに対し、自分の提案に於いては、国民は唯何れの政党を支持するかの意思を表示するに止めしめ、議員それ自身は各政党に於いて之を任命するものたらしめようとするのである。

其の結果として期待し得べき所は、第一に、選挙運動の費用を著しく節減し得ることである。各政党は固より政党としての全国的の遊説を必要とするけれども、それは政党の全体としての運動であつて、各個の候補者の個別的運動は全く其の必要を失ふのであるから、其の総体としての運動に要する費用が従来に比して甚だ僅少の割合に止まるべきことは疑を容れぬ。

第二に、各政党に対する国民の信頼の程度が如実に選挙の結果に現はるることである。選挙人は直接に政党に投票するのであるから、其の投票は最も明白に該政党を支持せんと欲する意思を表明するものであることは言ふまでもない。斯くして始めて選挙の結果が明白に国民の意向を反映するものたることが出来る。

(三)選挙区の区別を撤廃し、全国を通じて選挙を行ふものたらしむること。

選挙区の制度は、従来の如く選挙に依つて議員たるべき人を定めんとする制度の下に於いては、実際上に已むを得ない必要であるけれども、衆議院が全国民の代表者であつて、各地方の代表者の集まりでないことの本来の趣意から言へば、甚だ其の目的に適しないもので、之が為に、ただに選挙の結果をして益々全国民の意向を示すことの出来ないものたらしめて居るのみならず、各議員が動もすれば、国の利害よりも地方的利害を先にし、自分の選挙区の利益の為には国家全体の利益を犠牲にすることを憚らざるの弊を生じ易い。

若し自分の提案の如くに、選挙人が単に政党に投票するものたらしむるならば、選挙区の制度は全く不必要であり、全国を通じて投票を計算し、以て選挙の結果を定むることが甚だ容易である。

斯くして始めて公正なる全国民の代表者を得ることが出来る。

(四)選挙を毎年一回施行するものたらしむること。

選挙をして四年間に僅に一回行はるるものたらしめて居るのは、政党に対する国民の監督をして効果甚だ薄弱のものたらしむる欠点あることは前に述べた通りである。唯従来の如く選挙運動に巨額の費用を要する制度の下に於いては、それ以上頻繁に選挙を行ふことは、実際上望むべからざる所であつたが、若し自分の提案の如くに、国民の選挙をして単に政党に投票せしむるのみに止むるならば、特別なる選挙運動の必要なく、毎年一回之を挙行することは必ずしも困難ではない。

私は毎年の年中行事として、毎年の通常議会の閉会後凡そ一ヶ月以内の間に、一定の期日を定めて全国一斉に之を行ふことを主張したいと思ふ。

之に依つて政党に対する国民の監督が、迅速且つ有効に行はるることを得て、政党の罪悪と不信用とは、直に選挙の結果に反映することとなり、政党政治の弊を抑止することに、著大の効果が有るであらうことを信ずる。

二 比例代表法と選挙権の効果

以上私の主張せんとする提案は、敢て新規の考案といふべきものではなく、所謂厳格拘束の名簿式比例代表法に外ならぬ。就中なかんずくドイツに行はれて居る所謂自働式の比例代表法は、或る意味に於いては全国を共通の一選挙区とするもので、最も之に近いものである。

其の最も主要な点は、選挙人をして各個の候補者に投票せしめずして、専ら政党に投票せしめんとすることに在る。

是は従来の如き個人に対する投票の制に比すれば、根本的の大変革であり、一見選挙人の意思の自由を奪ひ、選挙権の効果を甚だ薄弱ならしむるやうで、此の点に於いて最も非難を予期せらるべきものであるが、それは寧ろ皮相の見で、此の方法に依つてこそ始めて選挙権の効果を確実ならしむることが出来るものと謂ひ得ると思ふ。

従来の制度でも外見上は選挙人が自ら議員となるべき人を選定する権能を有つて居るやうであるが、実際は其の権能は甚だ限られたもので、選挙人は唯其の属する特定の選挙区内に於いて、現に立候補を為して居る人々の中から或る一人を選定し得るだけで、自ら適当と信ずる人を選定し得るのではない。而も其投票の一大部分は死票となつて何等の効果をも生じないのであり、其の効果は頗る不確実なものである。

それのみならず、人を選択することは、一般民衆に依る行為としては、前にも述べた如く、実は不適当で、それは少数者の選定に任かす方が事の性質上寧ろ適当である。人を知るの明は、一般の民衆には到底期待し得ないもので、民衆の投票に依つて人を選定することになれば、勢必然に不正の勢力が行はれて、選挙の腐敗を招くことが避け難いことは、前に述べたところである。

それであるから、個人に対する投票の制度を改めて、政党に対する投票の制度を採用することが、仮令選挙権の効果を薄弱ならしむるものであるとしても、それは選挙の腐敗を除くが為の已むを得ざる犠牲と認めねばならぬ。

況んや、それは決して選挙権の効果を薄弱ならしむるものではなくして、却つて之を確実ならしむるものである。成る程、人の選定は此の制度の下に於いては全く選挙人の手を離れて、少数の政党幹部の手に移るには相違ないが、併し今日の制度の下に於いても、当選者は主としては政党の公認候補者に限られて居り、而して公認候補を定むることは政党の幹部の権能に属するのであるから、それは唯程度の問題たるに止つて居るのみならず、今日の制度に於いては投票の一大部分が死票となり、其の郊果が甚だ不確実であるに反して、此の制度の下に於いては総ての投票は死票となることなく、各の投票が平等に一票としての効果を確実に有し得るのである。例へば、ドイツの制度は、各政党が六万票を得る毎に一人の議員を出だし得るものとして居り、随つて総ての投票は平等に一人の議員に対する六万分の一だけの効果を有つて居つて、死票は殆ど全く生じない。それは全国を通じて一選挙区と為すこと及び選挙人をして政党に投票せしむることの結果であつて、唯此の制度の下に於いてのみ総ての投票をして真に有効ならしめ得るのである。

唯選挙人から全然人の選択に付いての自由を奪ふことは、外見上国民の権利を毀損するものの如くに感ぜらるることは、疑を容れないところで、それが為に、同じく比例代表法を採用して居る国でも、或は単記移譲式を取るものが有り、名簿式を採用する者の中にも、各政党の提出せる名簿の中から、或は特定の候補者を特に選定することを許し、或は反対に特定の候補者を削除することを許し、その他、自由なる組合せパナシャージ、候補者の追加などを許し、以て或る程度にまで人の選挙に付いての選挙人の自由を認めて居る制度が行はれて居るけれども、此等は何れも唯外見上選挙人の自由を尊重するが如き観を為すだけで、実際上の効果に乏しいのみならず、民衆的選挙が簡単明白を尊ぶことの根本的要件に反するもので、徒に選挙制度を復雑ならしむるに止まり、選挙の結果に種々の偶然の分子を交へるおそれが有る。

就中なかんずく、私は単記移譲式の比例代表法には多く賛意を表し得ない者で、それは選挙人をして自ら各候補者に順位を附せしむるものであるが、候補者に順位を附するが如きは、之を一般民衆に要求するには余に複雑に過ぎ、民衆的選挙の方法として決して推称し得べき方法ではないと思ふ。

如何なる方法にもせよ、一般選挙人をして自ら人を選定することを得せしむる制度の下に於いては、政党の領袖が往々落選の不幸を見ることが有り得る、是はわが国に於いても屢々しばしば経験せられたところで、領袖と雖も徒手無競争で当選し得ることを期し難い。時としては反対党に依る領袖の狙ひ打デカビチールングが行はれて、その術策が往々成効することも起り得る。此等は一に人の選択に付いての選挙人の自由が認められて居る結果で、一般選挙人が自ら人の選択に当るには本来不適当であるにも拘らず、その権能が与へられて居る為に、此の如き結果を生ずるに至るのである。例へば、仮りに単記移譲式の比例代表法が採用せらるるものとして、甲乙両党の勢力が略相伯仲して居る選挙区に於いて、甲党の領袖が立候補を為して、乙党が之を狙ひ打ちせんとする場合には、乙党に属する選挙人をして故らに甲党の或る特定の陣笠候補に投票せしむるやうな術策を用い、それが為にこの陣笠候補の方が領袖よりも優勢の得票者となり、領袖は却つて落選するやうな結果を生じ得る。

若し自分の主張する如き方法を取り、人の選択は全然之を政党自身に委ぬるならば、此の如き結果は全く生じ得ない。

随つて、此の方法の下に於いては、各政党の総ての有力者を確実に衆議院に網羅することが出来る。尤も日本の現在の制度では華族は衆議院議員となり得ないものとして居るから、若し華族が政党の首領又はその幹部である場合には、衆議院に座席を有することは不可能であるが、此の制度は遠からず必ず廃止せられねばならぬもので、而して若し華族でも衆議院に列し得るものとなれば、此の方法の下に於いて始めて各政党の領袖は凡て衆議院に座席を有し、衆議院が真正の意義に於いて政治の中心舞台となることが出来る。

是は小選挙区にせよ大選挙区にせよ従来の如き個人に対する投票の制度を以ては期待し得ないところで、唯一例を挙げても、現内閣の首相である濱口雄幸君も嘗て落選したことが有り、政友会の中橋徳五郎君も大坂府で同じ運命に逢つたことが有る。高橋是清君は政友会総裁の地位に在りながら尚盛岡市の小選挙区で危ふく落選せんとしたことが有る。前回の総選挙では旧労農党の党首であつた大山郁夫君がその力戦にも拘らず遂に当選を得なかつた。若し全国共通の名簿式比例代表法であれば、労農党でもその党首を第一順位の候補者に推したであらうことは当然であるから、全国を通じて一名を当選せしめ得るだけの投票が有つたならば、大山君も当然に当選し得たものである。而して各政党の首領が自ら議席に在ることは、その党の為には勿論、衆議院の権威の為にも、どれだけ喜ぶべきか知れぬ。

現在に於いては、各政党の有力な闘士で貴族院に議席を有つて居る者が甚だ多い。故加藤高明君故田中義一君が貴族院議員であつたのは、華族であるが為の已むを得ない変例であつたとしても、その外若槻、鈴木、水野、江木等の諸君を初め、政党の領袖で、衆議院に列しないで貴族院に勅選議員たる者が頗る多数を占めて居る。それが為に本来政党の外に立ち政党を牽制すべき地位に在る貴族院をして、衆議院と同様な党争の舞台たらしめ、貴族院と衆議院との本分上の差異を没却せしめて居る。是は健全なる立憲政治の要求から見て甚だ遺憾とするところであるが、しかし現在のやうな選挙法では、政党の領袖であつても、個人として競争せねば当選し難いのであるから、政党の功労者に対し貴族院の勅選議員として終身その地位を安固ならしむることも已むを得ない必要と言はねばならぬ。若し之に反して自分の主張する如き比例代表法を取ることとなれば、政党の領袖は自分一個の為には少しの運動を為す必要も無く、勅選議員と同様の安全さを以て確実に当選し得るのであるから、此等の政党の有力者は凡て之を衆議院に移し、而して貴族院の勅選議員は全然政党的色彩を有しない有識者を以て之に充てることが出来る。斯くして始めて衆議院をして各政党の最も有力なる代表者の府たらしむることが出来、衆議院の権威を重くし、同時に又貴族院をして抑制機関たることの本分を守らしむることが出来るであらう。

要するに、名簿式比例代表法を以て、選挙権の効果を弱くするものと為すのは、単に外形上の見解であつて、実際は之に依つて却つて選挙権の行使として真に有効なる政治上の意思表示たらしむると同時に、衆議院のみならず貴族院の構成をも改善し、両院各その適当の人を得ることを期待し得るであらう。

三 比例代表法と小党分立

比例代表法に対する第二の最も有力なる非難は、比例代表法は小党分立の勢を促し、単一の政党を以て議会の過半数を占むることを不可能ならしめ、従つて内閣の基礎を薄弱にし、その交迭が頻繁となり、政局を常に不安定ならしむといふに在る。

若し単一の政党を以て議会の絶対多数を占め、以て内閣が強固な基礎の上に立つことを確保しようとするならば、イタリア又はロシアに於けるやうな単一政党主義を取り、全然反対党の存立を禁歇するに如くは無い。しかしそれは立憲政治の否定であつて、全然民衆の政治上の自由を認めず、民衆を単一政党の専制的権力の下に圧伏せんとするものである。

強ひて二大政党主義を維持し、その何れか一が議会の絶対多数を占むるものたらしめようとすることも、これと程度を異にしてその本質を同じうする思想であつて、政治上の自由を尊重することとは両立し難いものである。若し二大政党主義が真にその国の事情に適合し、国民が之を要望して居るならば、比例代表法を採用したとしてもその主義が維持せられ得るであらう。国民の要望に反して、不合理な選挙制度の採用に依つて、無理に大政党に有利ならしめようとするのは、一種の専制政治であつて、それに依つて仮令絶対多数党が出来たとしても、それは不自然な偽造の多数であり、決して政局を平穏ならしむる所以ではない。

勿論、比例代表法は少数党にもその勢力に比例するだけの議員を出だすことを得せしむる方法であるから、小選挙区制度に比較すれば、少数党に有利であり、随つて小党分立の勢を助くるものであることは疑ない。しかしそれも程度の問題であつて、小選挙区制と雖も絶対には小党分立を防ぎ得べきものでないことは、フランスの実例に依つても明瞭である。伝統的に二大政党主義を維持して来たイギリスですらも、小選挙区制の下に於いて尚絶対多数党を得ることが出来なくなって居るのである。況んや、日本の制度の如き大選挙区単記投票法は、初より少数代表の目的を以て制定せられたもので、小党分立に傾くことに於いては、比例代表と大なる差異は無い。

且つ単一の政党が議会の絶対多数を占むることは、必しも喜ぶべき現象とは信ぜられない。それは一面に於いて内閣の基礎を強固ならしむるものであると同時に、一面に於いて政党の横暴を助成し、政党政治の弊害を甚しからしむる危険あるものである。況んやそれが不自然な偽造の多数であるに於いてをや。

四 比例代表法と憲法の規定

自分の提案に於ける如く、選挙人をして政党に投票せしむる制度に対しては、又それは憲法に違反するといふ非難が考へられ得る。

憲法第三十五条には衆議院が公選の議員を以て組織することを明記して居る。即ち衆議院議員が国民の公選に係る者でなければならぬことは憲法の要求するところである。若し人の選定が一に各政党に委ねられ、国民が自ら人を選定することを得ないものとすれば、議員が国民の公選に係るものとは謂ひ得ないといふのが、その非離の要点である。

此の如き非難は、現行選挙法に於ける無競争当選の制度に対しても、或る一部から加へられた。無競争当選の場合には、国民の投票は全く行はれず、立候補の届出を為した者がそのまま直に当選者とせられるのであるから、それは国民の公選に係るものとは謂ひ難いといふのである。しかしいやしくも立候補届出の制を認め、その届出を為した者でなければ当選者たり得ないものとする以上は、その届出を為した者が定員数を超過しない場合には、仮令投票を行つたとしても、その届出を為した候補者のみが当選することは当然であるから、その投票を為すことは全く無用の手続であつて、結果に於いては差異のあるべき理由なく、随つて此の場合は投票を為さずとも、選挙人が暗黙に各候補者の当選を承認したものと認むべきものであり、憲法の「公選」といふ文字に抵触するものではないといふ理由を以て、此の如き非難が一蹴せられたのは至当と謂ふべきである。

名簿式比例代表法に対する憲法違反の非難も亦之と類を同じくするものである。選挙人が人に投票せずして政党に投票すると言つても、各政党から予め候補者名簿を提出して之を公示し、選挙人は此等の名簿を点検してその何れか一に投票するのであるから、政党に投票することは即ちその政党の提出した名簿に投票することであり、随つてその名簿に列記せられた候補者は等しく国民に依つて公選せられたものであることを失はない。無投票当選の場合をすらも尚公選せられた者と謂ひ得るならば、一層強い理由を以て、名簿投票に依る当選をも、尚国民の公選に係る者と謂ひ得べきことは勿論でなければならぬ。

五 比例代表法と選挙警察

選挙競争をして若し自分の提案に於ける如く、個人的競争を廃して党派的の競争と為し、又地方的競争より移して全国的競争たらしむることが出来たならば、投票の買収其の他の腐敗の原因が大部分除かれ得べきことは期して待つべきである。

若し此の如き制度が実行せられ得るとすれば、私は選挙運動に対する取締規定は出来るだけ簡単にし、殊に警察権に依る選挙運動の取締は成るべく全廃することを適当と信ずる。

警察権に依つて選挙界の廓清を図ることが、種々の弊害を生ずる源となつて居ることは、前にも述べた通りで、警察が政府の支配の下に属し、而してその政府が特定の政党から成り立つて居る以上は、警察権に依る選挙の取締が公平を得ることは到底望み得ない。それは徒に政府の選挙干渉の武器となるに止まつて、その取締が厳重であればある程、政府党に有利であり、反対党はそれだけ不利益を受くることを免れない。私は選挙の廓清は、制度の改善に依つて腐敗の原因を除くことの外には、成るべく之を民衆の自治に任かせるのが適当であつて、警察権の干渉に依つて之を謀ることは、唯新なる弊害を生ずるのみで、到底その目的を達し得ないことを信ずるものである。

六 選挙強制の問題

選挙界の廓清は民の自治に待つのが最も適当であり、而してそれには民衆の政治的訓練が行届き、民衆が一般に不正の勢力に動かされず、自己の良心に従つて投票することが、国民としての義務であることを自覚するに至ることが必要である。

此の政治的自覚を促す一の方法としては、選挙強制の制度を採用することも、或は一の適当なる方策ではなからうかと思ふ。

選挙強制とは、投票を為すことを国民の法律上の義務として公認し、正当の理由なくして投票を行はない者には、若干の過料又はその他の制裁を科するの制度である。

私は従来此の制度に対しては寧ろ反対の意を表し来つたものである。それは罰則を以て国民の自由を拘束することは出来るだけ之を避くることを適当とすることの一般的の理論の外に、従来の如き個人的競争の制度の下に於いては、その選挙区の中に自分の適当とする候補者が一人も無いことが多く、然らずともその投票の効果が甚だ不確実であつて死票となることが多いのであるから、斯かる制度の下に於いて、罰則を以て投票を強制することは無理であると信じたからである。

しかし選挙を行ふことは、其の性質から言へば国家的の公の職務であつて、権利たると共に義務たる性質を有することは、争を容れないところである、此の点に於いて兵役に服することと性質を異にするものではないのであるから、故意に選挙を忌避して投票を行はないものに対して、或る制裁を科するものとしても、敢て其の性質に反するものではない。しかもそれは選挙運動の取締とは異つて、総ての違反者は正確に之を発見し公平に処罰し得べきもので、選挙干渉の手段として用いらるるおそれの無いものである。

一方に於いて、一般民衆をして選挙が国民の義務であることを自覚せしむる為には、選挙強制が一の有力なる手段であることは疑ない。処罰の制裁を付してまでも強ひて之を励行することは、必ずしも望ましいことではないけれども、憲法実施以来既に四十年を経て選挙といふことが普く国民一般の普通思想となつて居る今日に於いては、之を励行することもさまで困難でないであらうし、殊に若し選挙制度を改めて全国的の党派競争たらしめたならば、今日の如き個人に対する投票の制度に於けるとは異なり、適当とすべき一人の候補者をも求め得ないやうなおそれはなく、随つて選挙強制の制度を行ふことも、敢て無理ではないであらう。

唯若し選挙強制を行ふとすれば、今日の如き投票の自書主義の制度は之を維持することが困難である。或は文字を解しないことを以て投票を為さざることの正当の理由として認めることも一方法であるが、或は政党に依つて色を異にした著色球を投ぜしむることを以て投票の方法と為し文字を解しない者にも尚投票を為し得せしむることも一方法である。それ等の具体的の方法に付いては、尚適当に考慮せらるべきであらう。

七 結論

右の外、具体的の実行案に付いては、尚考慮せらるべき余地が甚だ多い。

候補者名簿提出の権能を各政党にのみ認むるか、又は何れの政党にも属しない中立候補にも若干数の選挙人の同意を得て名簿提出の権能を有せしむるかは、その第一の問題である。中立候補は此の制度の下に於いては、現行制に於けるよりは、比較的当選が困難であるが、しかし中立候補をして全然当選の余地なからしむることは、理由の無いことであるから、或る条件の下に中立候補にも名簿を提出し得べからしむることが適当であらう。

各政党の内部に於いて、候補者名簿を調製し、殊に候補者の順位を定むるに付いては、如何なる方法を以てすべきか、それは全然各政党の自治に任かすべきか、又は法律を以てそれを規律すべきかは、その第二の問題である。大体に於いてそれは政党の自治に任かさるべきものであることは勿論であるが、しかし私はそれを或る程度にまで法律的規律の下に置くことを適当と信ずるもので、少くとも公益法人に関する民法の規定くらいの程度には法律を以て之を定むることが適当であらう。

選挙区制度の撤廃に付いても、或は全然選挙区を設けず直接に全国を通じて選挙するものたらしむべきや、或はドイツの制度に於けるやうな一応の選挙区を設け、各選挙区に於ける各党派の余剰投票を更に全国に通じて計算して追加当選者を出ださしむるやうにすべきやも、重要なる一問題である。若し直接に全国共通に選挙を行ふことが余りに急激なる改革であるとすれば、暫く折衷案として現行の所謂中選挙区若くは一府県一区の制を維持し、而して各選挙区に於いて各政党の得た剰余投票を更に全国に通じて計算することにするのも一案である。それ等は尚適当に考慮せらるべき問題である。

比例代表法を実行するに付いては、当選点を定めねばならぬ、此の当選点を如何にして定むべきかも亦重要なる一問題である。私はバーデン式の所謂自働式比例代表法を比較的適当と考へて居るもので、日本の現在の如き年齢二十五年以上の男性普通選挙を前提とすれば、大約二万五千票毎に一人の議員を出だし得るものとするくらいで適当でないかと思つて居る。

此等の外尚詳細に付いては考へねばならぬ問題は甚だ多いが、それは尚今後の研究に待たねばならぬ。私は唯現在の大選挙区単記投票法を以て選挙界の腐敗を誘ふ大なる原因であると為し、之を廃止するのでなければその廓清は到底望み得ない所であり、而して之に代るべき方法としては、名簿式比例代表法の外適当なる方法を求め得ないことを信じ、立法者が長い伝統に支配せられて居るイギリスやアメリカの制度よりも、寧ろヨーロツパ大陸殊にドイツ系の諸国の制度にその参考を求むべきことを主張するものである。

本編は昭和四年六月発行の国家学会雑誌に「選挙制度に関する一の新提案」と題して掲載したものを骨子とし、之に多くの増補を加へたものである(昭和四年十二月三十日記)