現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

不戦条約の字句再論


不戦条約第一条の in the names of their respective people の文句が日本の憲法又は日本の国体に抵触するものでないことは、既に多くの有力な学者に依つて論証せられて居る所である。之を「人民の名に於いて」と訳するが適当であるか、「国家の名に於いて」若くは「国民の為に」と訳するが適当であるかは、寧ろ枝葉の問題であつて、日本文として如何なる訳語を用いようとも、其の原文の文字に依つて言ひ表はされて居る意義は、唯第一条の宣言が、単に君主又は大統領の一個の意志ではなく、挙国一致の意思であることを言明して居るに止まり、solemnly の形容詞と同様に、条約の実質には何等の関係の無い修辞的の語で、法律上の効果から言へば、全然無意義の文句に過ぎぬ。法律上の効果の無い文句であるから、法律上から言つて、それが憲法又は国体に抵触すといふやうな事は、初より問題とはなり得ないものである。それが意外にも、重大な政治問題となり、転じては国際上の問題となり、留保附批准とならむとする勢をも示すに至つたのは、世界に於ける日本の信用の上にも、甚だ遺憾とする所であるから、ここに再び此の点に付いて少しく卑見を述べようと思ふ。

一 「ピープルス」の訳語

議会に於ける答弁に於いて、政府は peoples を国家の意味であると答へた。自分も亦嘗て帝国大学新聞に此の問題に関する一小篇を載せたとき、peoples は寧ろ「国家」と訳する方が原義に近い旨を述べた。

之に反して、此の文句が日本の国体に反することを主張する総ての論者は勿論、立、高柳、高木、神川等の諸教授の如き、国体に反するものに非ずとせらるる諸君も、概ね「人民」と訳するのを至当とせられて居る。

元来各国の国語には、それぞれそれに特有な意義が有り、之を正確に他国語に移すことは絶対に不可能である場合が多い。殊に日本語と英語又は仏語との間には、語の成り立ちから言つても、伝統的の国民感情及び国民思想の上から言つても、大なる懸隔が有るのであるから、原文の意義を其のまま少しの相違もなく日本文に翻訳することは、極めて困難であり、時としては全く不可能である。in the names of the peoples の文句の如きも、其の一例であつて、之を「人民の名に於いて」と訳しても「国家の名に於いて」と訳しても、何れも正確に原文の意義を伝ふるものではない。それは元来国家に付いての伝統的の思想及び感情が初より相異つて居る結果で、西洋では人民即国家といふ思想が、伝統的に一般を支配して居る為めに、本来人民を意味する文字である people の語が、同時に国家を意味する為めにも用いられて居る。people の名に於いてと言へば、勿論人民の名に於いてといふ意味を含んで居ることは言ふ迄もないが、併し其の所謂「人民」は即ち国家を構成する総ての人々を意味するもので、畢竟国家と同意義に帰し、之を日本文に於いて「人民の名に於いて」といふのとは、吾々のそれに依つて受くる感じは全く異つて居る。それは吾々日本人に取つては、人民即国家といふ伝統的感情が全く無いからであつて、吾々は人民と言へば常に臣民即ち被治者といふ意味に解することに慣されて居る。併しさういふ意味に解するならば、それは甚しく原文の意義に遠ざかるものである。people は通常は人民と訳せられて居るとしても、原文の意義に於いての「人民」は人民即国家といふ思想を根底としての人民であつて、被治者として臣隷としての個々の人々を意味するものではなく、国を構成する人類の集団の全体を指すのである。それであるから、之を単純に「人民の名に於いて」と訳するのは、正確に原文の意義を伝ふるものと言ひ難く、却つて大なる誤解を来すのおそれが有る。勿論之を「国家の名に於いて」と訳したとしても、それに依つて正確に原義を伝へて遺憾が無いといふのではないが、「人民の名に於いて」と訳することに依つて、日本人に生ずるおそれある誤解に比すれば、寧ろ原義に近いことを信ずるものである。

「人民」といふ語は、日本の法律語としては、条約の訳文を除いて、国内法に於いては殆ど用いられない。自分の知つて居る限り、現行の法令中此の語を用て居るのは、唯明治四十年の皇室典範増補第七条第二項に、「皇族ト人民トニ渉ル事項」云々の規定の有るくらいのものである。而して此の規定に於ける「人民」の語は、天皇及び皇族を除き、其の他日本の統治の下に在る人々(日本人のみならず日本に在る外国人を含む)を意味するものであることは疑ない。是が日本に於いて「人民」といふ語の示す普通の意義である。それは個々の人々をいふのであつて、政治団体を構成する全体を指す語ではなく、又被治者のみを意味し、君主及皇族を含まない。然るに不戦条約第一条の peoples が此の如き意義に解すべきものでないことは、固より云ふを待たない所で、それは国家を構成する所の総ての人々を全体として指称するものに外ならぬのである。それは必ずしも日本語に於いて「国家」といふ語に依つて言ひ表はされる意義と全然同一ではないにしても、元来正確に本来の意義に於いての peoples の語に相当すべき日本語は全く存在しないのであつて、国家を構成する総ての人々の団体は即ち国家に外ならないのであるから、誤解を避くる為には、自分は寧ろ之を国家と訳することを適当と信ずるものに外ならぬのである。

不戦条約の前文に the peaceful and friendly relations now happily subsisting between their peoples とある peoples の語も、人民といふよりは国家といふ方が寧ろ原義に近い。それは個々の人々の間の私の交際の平和にして友誼的なことを意味するものではなく、政治的集団としての人民の全体即ち国と国との公の交誼が平和であることを言ひ表はすものであり、続いて to prevent war among any of the nations of the world とある nations の文字と判然たる意義の区別が有るのではない。

不戦条約の端緒を為した仏米和親条約の提案第一条に in the name of the French people and the people of the United States of America とある people の文字も亦同じ意味の語で、フランス国民の全体、アメリカ合衆国国民の全体を指す意味であることは勿論であり、而してそれは必ずしも現在生存して居る人々ばかりではなく、将来其の国の国民となるべきものをも含む意味であつて、皇室典範に用いられて居るやうな意義に於いての「人民」でないことは勿論である。之を日本語に訳するに於いて「国家」と言つたとしても、敢て原文の意義を誤るものではないと思ふ。

要するに、条約の訳文は専ら対内的の意義を有するのみで、条約の国際的の効力には何等の関係も無く、唯其の内容を国内の人民に知らしむることに意義を有するに止まるものである。而して此の点から言つて、若し問題の字句を「人民の名に於いて」と訳すれば、国内的には誤解を生ずるおそれあることは、避け難い所であるから、自分は立其の他の諸君の高見に拘らず、尚日本文の訳語としては、「国家の名に於いて」と訳する方が、比較的に最も能く原文の意義を日本人に伝へ得るに近いものと信ずるものである。

二 原文の意義と帝国の国体

併し、実を言へば、如何なる訳語を選択すべきかは、敢て重きを置くべき問題ではなく、主要の点は、専ら原文に依つて示されて居る意義が、何に在るかの点に在る。

不戦条約に於いて特に「ピープルス」の名に於いての文字を加へたのは、此の条約の宣言が単に条約の締結者たる皇帝又は大統領一個の意思ではなく、各其の国を構成する総ての人々の集団の一致の意思であり、其の総ての人々の意思及び利益を代表して、之を宣言するものであることを言明することに依つて、其の宣言に一層の厳粛さを加へんとしたものであることは、更に疑を容れない所である。

それは近代的の民衆政治の思想の現はれであることも、疑ない所で、仮令 peoples を国家と訳すとしても、本来人民を意味する語を以て国家の意に用るととそれ自身が既に此の思想に基づいて居るもので、此の文句が近代デモクラシーの思想の現はれであることは、それに依つても否定すべからざる所である。前に挙げた仏米和親条約案の前文に to consecrate in a solemn act these sentiments as much in accord with the progress of modern democracies 云々とあるのも、此の思想を表明するものである。二三の論者が之を以て日本の国体に反すとして居るのも、此の点が主たる原因を為して居る。

併しながら、第一に、近代的デモクラシーの思想が帝国の国体に反すとすることは、全然デモクラシーの意義を誤解したものである。

近代的の民衆政治の思想は、日本の憲法に於いても等しく採用せられて居る所で、それは「万機公論に決する」の思想であり、帝国憲法発布の上諭に於いて、畏くも「其ノ(臣民ノ)翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進退ヲ扶持セムコトヲ望ム」と宣たまはせたのも、同じ思想の現はれと拝察せられる。民衆政の思想は決して主権在民を要点とする思想ではなく、専ら専制政治に反対して、国民の意向を以て政治の基調とする思想である。それはわが帝国の如き君主主権を基礎とする政体とも調和し得べきもので、君主が民の心を以て心と為し、それに依つて統治を行はせたまふことが、近代的デモクラシーの要求である。而して此の意義に於いての民衆政の思想は、能く帝国の国体と調和し得べきは勿論、又実にわが憲法の主義として居る所である。天皇が各国と共に戦争の廃棄を宣言したまふに当り、それが日本国家を構成する総ての人々の意向であることを宣言したまふのが、如何にしてわが国体に抵触する所があらうか。之を国体に反すと主張するのは、何処までも「人民ノ名ニ於イテ」といふ訳語に拘泥して居る結果で、直に原文に付いて其の真義を理解するならば、それが国体に反すといふやうな疑は、直に消失するであらう。

第二に、不戦条約を締結し、戦争の廃棄を宣言するの権能が、人民に在るのではなく、君主又は大統領に在ることは、不戦条約自身の前文に於いて、明に承認して居る所である。それには明に日本国皇帝陛下が Having decided to conclude a treaty (条約を締結せんことを決して)全権委員を任命し、全権委員は次の条款を約定したと曰ひ、又第三条には「本条約は前文に掲げた High Contracting Parties (日本に付いて言へば日本国皇帝陛下)に依つて各其の憲法上の要件を満たして批准せらるべきものであることを言明して居る。即ち天皇が帝国憲法に従つて之を批准し締結したまふのであることは、不戦条約自身の明言して居る所で、「ピープルスの名に於いて」の文句は固より之を覆へすものではない。此の文句を以て、人民が条約の締結者であり、戦争放棄の宣言者であることを言ひ表はすものと為すが如きは、条約の全文を通読しない為の誤解でなければ曲解である。

第三に、此の問題を論ずるに当つて、吾々の忘れてならぬことは、是は多数の列国の協定に係る条約であつて、日本一国の国内法ではないことである。多数の列国の協定に係る条約に於いては、列国中の大多数に共通な思想と感情とに基づいて、其の文章が撰定せられねばならぬことは、必然の結果であり、一国だけに特有な感情を以て論ずべきものではない。是は前稿に於いても一言した所で、本条約に特に問題の字句が加へられたのは、近代的の民衆政治殊に世界戦争後益強盛となつた国民外交の思想が、今日の世界的思潮の根底を為して居る結果であり、若し日本が独り之を否定せんとするならば、是れ日本が今も専制主義非国民的外交主義の国なることを世界に告白せんとするものに異ならぬ。

(昭和四年四月二十五日稿)