三月六日の朝刊諸新聞は、一大悲報を伝へて、我々を驚かした。代議士山本宣治君がその前日三月五日に、突然一暴漢に襲はれ、その刺殺するところとなつたといふのである。私は同君とは生前に一面識もなく、思想の傾向においては全く相反対して居たものであるが、同君が思想戦の犠牲となつてこの兇変に逢はれたことについては、深く同君の遺族および同志のために悲むと共に、世相の険悪に対し大なる憤りと憂ひとを感ずるもので、一言哀悼の意を表すると共に、感ずるところを述べたいと思ふ。
第一に深く遺憾に思ふことは、現在の衆議院において僅に数人を有するに過ぎなかつたいはゆる無産政党の代議士の中から、有力なる一人を失つたことである。既成政党の腐敗から生ずる弊害は、今述ぶるまでもない程に明白なる事実で、無産政党の主義に対しては極力反対せんとする者であつても、尚議会に清新なる空気を加へ、幾分でも既成政党の弊を矯め、政界を廓新する機運を醸成するためには、心ある者は一にこれを無産政党に期待して居たのであつて、しかも今年の最初の議会における無産政党の行動は、大体においてこの期待に背かなかつた感を与へたのであつた。この意味において無産政党は議会の大切なる分子をなすもので、一人といへどもその影響するところは、大なるものが有る。殊に山本君は無産政党の最左翼を代表せられた唯一人であつて、その思想の傾向は余りに過激であり、我々の到底賛成し得ないところであつたにしても、尚その主張が真面目な信念に出で不純の動機を含んだものでなかつたことは、一般に認められて居た所で、しかして此の如き真面目な信念から出た主張は、如何にそれが賛成し得られないものであつても、尚他山の石として敬聴すべきものである。今この人を失い、再び永久に壇上にその人を見ることを得なくなつたのは、啻に最左翼のためのみならず、又啻に無産政党のためのみならず、実に議会全体のためにも、政界一般のためにも大なる損失といはねばならぬ。
更に深く遺憾に思ふことは、反対思想に対する寛容の態度が、一般に失はれて、思想上の争から遂に血を見るに至つたことである。今日の思想の争は、ほとんど中世紀における宗教の争を想起せしむるものが有り、過激思想に対する政府の圧迫は、ほとんど幕府時代における切支丹禁制を想はしむるものが有る。この深酷なる思想の争は、一部分は左翼派自身の責に帰すべきものであることは疑を容れぬ。彼等は階級闘争を畢生の信条として、同胞国民の一部を讐敵とし、平和と安協とを排し、全力を挙げてこれに挑戦して居るのであつて、それが今日の権力者の側からする思想圧迫の態度を誘発したものであることはいふまでもない。けれどもこれに対する政府者の態度もまた益々その争をして深酷ならしむる大なる原因をなして居ることも疑を容れぬと思ふ。政府者は啻に立法その他の合法的手段をもつて極力これを圧迫することに努むるのみならず、しばしば法律のらちを越えて、違法の検束違法の迫害をも肯てし、甚だしきは窃に暴力団を庇護することの嫌疑すらも強い。今朝の新聞紙の報道によれば、本郷の仏教青年会館に行はれた故人の告別式すらも、警官の包囲の中に行はるることを余儀なくせられたのみならず、河上博士その他の諸君の弔詞すら概ね朗読の中止を命ぜられて、これを故人の霊に告ぐることを得なかつたといふことである。
これがもつとも厳粛なるべき告別式、しかも不幸にして兇刃に斃れた代議士の告別式に対する政府者の穏当なる態度であらうか。犯行現場を検索した当局警官が一たびその犯行を正当防衛なりと伝へ、後直にこれを取消したが如きも、言語道断の失態といふべく、当局者の不公正なる態度の不用意なる現はれとも見るべきである。政府者の此の如き態度は思想戦をして益々深酷ならしめ、社会の事相をして益々険悪ならしむるもので、百害あつて一利なく、今回の犯行の如きも、それが直接の原因をなしたものではないにしても、間接にはその動機を誘導したものでないとは、誰れが断言することが出来ようか。
思想上の信念は宗教上の信仰に等しい。それが正しきにもせよ、誤れるにもせよ、深く心の底に根ざした確信であつて、権力や暴力によつて圧迫し得らるべきものではない。宗教に対する圧迫が如何に悲惨を極めて、しかもそれが遂に何等の成効をも来し得なかつたことは少しく歴史を読む者の何人も知るところである。宗教に対する圧迫は今は幸にして跡を絶ち、信教の自由は法律上にも事実上にも略承認せられて、異教徒に対しても我々は寛容の態度をもつて臨むことに慣らされて居る。政府が権力をもつてこれを迫害することもなければ社会においても暴力をもつてこれを蹂躙せんとするものも無い。思想上の信念も亦これと性質を同じうするもので、これに対する圧迫の悲惨にして実効なきことは、宗教に対する圧迫と毫も異なる所は無い。政府者といへども宗教争の惨害は熟知する所であらう。何故に独り思想上の信念に対してこの悲惨なる歴史を繰り返し、同じやうな迫害を加へんとするのであらうか。何故に思想に対しても宗教に対すると同じく寛容の態度をもつて臨むことが出来ぬのであらうか。
私は固より今回の犯行をもつて直接に政府の責任に帰せんとするものではないが、政府にして若し反対思想に対して、寛容の態度を取つて居たならば、此の如き兇変は恐くは激発せられなかつたであらうことを感ずるもので、この点において甚大の遺憾の念を禁じ得ない。
若し当局政府がこの事変に際し深く自ら反省する所あつて、従来の迫害態度を翻へし、今後信教の自由と同様に思想の自由を尊重するの態度を取るに至るならば、故人の霊も亦慰むる所あるであらう。
(昭和四年三月十一日発行「帝国大学新聞」所載)