現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

宗教団体法案と信教の自由


=下村宗教局長に答ふ=

本月二十日の読売新聞紙上に私の談話として掲載せられたのは私が嘗て或人と雑談した中の断片を私の承諾なく或人が勝手に新聞に載せたのであつて、私としては頗る迷惑に感じたのであつたが、それに対して二十三日の同紙上に下村宗教局長の駁論が掲載せられた。私は此の問題に付いて新聞紙上で議論しようといふやうな考は全く有たなかつたのであるが、併し私は今議会の問題となつて居る宗教団体法案に付いては、憲法上保障せられて居る信教の自由に対し、必要以上の干渉を加ふるものとして、窃に反対の意見を有して居た者であるから、此の機会に於いて下村君の駁論に答ふるために簡単に卑見を述べようと思ふ。


下村君の意見は、要するに、憲法第二十八条に所謂信教の自由は唯宗教を信仰する自由のみを意味するもので、宗教行為殊に宗教結社の自由は其の中に含まれないといふに在る。

此の如き意見が若し下村君一個の見解に止まるならば、敢て深く論ずるまでもないが、万一にもそれが政府の公の解釈として採用せられ、法律立案の基礎となつたものとすれば、それだけでもその法律案が根本的に誤つた基礎の上に立つて居ることを証明するに足るものである。

若し単に信仰の自由といふだけであれば、事の性質上国家の権力の及び得ないもので、憲法に於て之を規定することは全く無意味である。信仰は心の内部の作用で、心の中で何を信仰しようとも、それが外部の行為として現はれない限りは絶対に自由であつて、何人と雖も之に干渉を加ふることを得ない。憲法の規定を解して、此の如き内心の信仰の自由のみを保障して居るものとするのは、是れ憲法の規定をして全然無意味ならしむるものである。古来の宗教圧迫の歴史は、凡て外部に現はれた宗教的行為殊に宗教結社に対する圧迫の歴史であつて、近代の諸国の憲法が信教の自由を保障して居るのは、此の如き外部的の宗教行為に対する圧迫を禁歇し、公の秩序に反せず臣民たる義務に背かざる限りに於いて、自由に此等外部的の宗教行為を行ひ得べきことを保障して居るものであることは言ふまでもない。


下村君の根拠として居らるる第一点は、伊藤公の憲法義解の所説である。私は必ずしも憲法義解を以て憲法解釈の争ふべからざる権威と為す者ではないが、併し若し下村君が憲法義解の所説に依つて其の意見を定められたものとすれば、それは全然憲法義解を誤読せられたものである。憲法義解には次の如く述べられて居る。

故ニ内部ニ於ケル信教ノ自由ハ完全ニシテ一ノ制限ヲ受ケス而シテ外部ニ於ケル礼拝布教ノ自由ハ法律規則ニ対シ必要ナル制限ヲ受ケサルヘカラス及国民一般義務ニ服従セサルヘカラス此レ憲法ノ裁定スル所ニシテ政教互相関係スル所ノ界域ナリ

即ち憲法義解の所説は、内部に於ける信教の自由と外部に於ける宗教行為の自由とを区別し、前者は絶対に自由であつて、何等の制限をも受けず、後者は必要なる制限に服するものとして居るのであつて、而して憲法の本文を見ると、「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とある。即ち憲法の規定して居る信教の自由は、決して絶対の自由ではなく、安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かさる限度に於いての自由である。此の限度に於いて必要の制限に服することは、憲法の明かに予想して居る所である。然るに憲法義解には「内部ニ於ケル信教ノ自由ハ完全ニシテ一ノ制限ヲ受ケス」と曰ひ、又「蓋シ本心ノ自由ハ人ノ内部ニ存スル者ニシテ固ヨリ国法ノ干渉スル区域ノ外ニ在リ」と曰ひ「信仰帰依ハ専ラ内部ノ心識ニ存ス」と曰つて居るのであつて、それが憲法の規定に於ける信教の自由を意味するものであり得ないことは明白である。憲法の規定して居る信教の自由は制限的自由である、憲法義解の説明して居る本心の自由信仰の自由は絶対無制限の自由である。憲法義解は此の両者を区別すべきことを説いて居るのであつて、若しわかり易く其の所説を分析して説明すれば、(一)内心的の信仰帰依の自由は絶対であつて国法干渉の外に在り、随つて又特に憲法に規定すべき事柄でもない。(二)外部に向ひ「礼拝儀式布教演説及結社集会」をなすに付いては、安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざることを要するもので、此の限度に於て必要なる国法の制限に服しなければならぬ。併し此の必要なる制限以外に於いて自由であつて、憲法第二十八条は即ち之を保障して居るものであり、それが政教相関係する限界であるといふに在る。

是が憲法義解の所説であつて、下村君も今少し前後を注意して翻読せられたならば、此の趣意を御諒解になることと思ふ。繰返して言へば、憲法義解は明白に第二十八条に所謂「信教の自由」を以て、宗教上の礼拝儀式布教演説及結社集会をなすことの自由を含むものと解して居るのであつて、私の主張する所も大体に於いて之と異る所はない。


下村君の根拠とせらるる第二点は外国の憲法の条文との比較である。同君の説に依ると、外国の憲法には信教の自由と宗教行為殊に宗教結社の自由とを各別の字句条項に規定して居るのに、日本の憲法には単に信教の自由のみを規定し、宗教行為又は宗教結社の自由を規定して居らぬから、之を含まないものと解せねばならぬといふに在る。

日本の憲法の起草に当つて、直接に参考とせられたのは、殊にドイツ諸国の憲法で、中にもプロイセンの憲法は最も多く其の影響を与へた跡が著しいが、プロイセン憲法第十二条には

「宗教的信仰、宗教的結社及屋内又ハ屋外ニ於ケル共同ノ宗教的行為ノ自由ハ之ヲ保障ス。私権及公権ノ享有ハ宗教的信仰ニ関ラズ。宗教ノ自由ノ行使ニ依リ私人トシテ及公民トシテノ義務ニ背クコトヲ得ズ。」

とある。日本の憲法第二十八条の条文を之に比較すると、頗る簡約になつて居るが、併しそれが為に直に両者全く其の趣意を異にするものと解するのは、甚だしき早計である。両者其の趣意を異にするものと解する為には、日本に於いてのみ特に宗教の自由を狭く限定すべき立法上の理由が有つたことを説明し得ねばならぬ。何等立法上の根拠を説明し得られないのに、単に文字が簡約にせられて居るだけの理由で、外国に於いて一般に承認せられて居る宗教の自由を、独り日本に於いてのみ承認せられないものと解するのは、決して憲法を解釈する正当なる態度ではない。

成る程プロイセン憲法には「宗教的信仰の自由、宗教的結社の自由、共同的宗教行為の自由」と列挙して書いて居るのに対し、日本の憲法には単に「信教の自由」とのみ記して居るのであるが、出来るだけ文字を簡潔にして居ることは日本の憲法の最も著しい特色の一で、他の条項殊に第二章中の各条に於いても、其の直接の参考とせられたプロイセン其他の憲法に比べて、趣意を同じくして而も著しく文字を簡約にせられて居るものが甚だ多い。殊に宗教の自由に付いては、西欧諸国に於ける宗教上の争が日本に於けるよりも遥に激烈であつた為に、特に綿密に之を規定すべき理由が有つたのであつて、日本の憲法に之と同じ趣意を規定するに当つて、それよりも文字を簡約にしたのは、敢て怪しむに足らぬ。プロイセン憲法に列示して居る信仰の自由、宗教的結社の自由及び共同的宗教行為の自由は、普通に之を総括して「宗教の自由」(レリギヨンスフライハイト)と謂つて居り、前に掲げた第十二条の末文にも此の意味に於いて「宗教の自由」といふ語を用いて居る。日本の憲法に於ける「信教の自由」とは、即ち此の意味に於いての宗教の自由に該当するもので、即ちプロイセン憲法の用語に依れば、信仰の自由、宗教結社の自由、宗教行為の自由を包括するものであることは疑を容れぬ。

若し下村君の如き論法を以てすれば、プロイセン憲法には「私権及公権ノ享有ハ宗教的信仰ニ関ラズ」と明言して居るのに、日本の憲法には何処にも其の規定なく「我が憲法が誤つてかかる規定を脱却したとは断じて信ぜられない」から、日本の憲法は宗教的信仰の如何に依り権利の享有に差等を付しても差支ないものとして居るものと解しなければならぬであらう。下村君は果して此の如き意見を主張せらるるのであらうか。


下村君の根拠とせらるる第三点は、憲法第二十九条との比較である。第二十九条には別に「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印作集会及結社ノ自由ヲ有ス」とあつて、宗教上の出版集会又は結社は之に依つて支配せらるるものであり、随つて、第二十八条の規定には含まれないといふのである。

憲法第二十九条の規定が宗教上の出版、集会又は結社にも適用せらるるものであることは、固より言ふまでもない。同条の趣意は決して下村君の疑はるるやうに「但シ宗教ニ関スルモノハ此ノ限ニ在ラズ」といふやうな趣意を含んで居るものではなく、宗教上の出版集会結社に付いても法律の制限に服することを要するのは当然である。例へば、宗教に関する出版を為すには出版法又は新聞紙法の支配を受けねばならぬことは勿論である。宗教上の出版集会結社が全然法律の支配の外に在るべきものであるといふやうなことは、固より私の主張する所ではない、

併しながら之が為に第二十八条の信教の自由が宗教に関する出版集会結社の自由を包含しないものと解してはならぬ。第二十八条と第二十九条とは相両立するもので、第二十八条に於いては宗教の自由が安寧秩序を妨げず臣民たる義務に背かざる限度に於いて保障せられて居り、而して第二十九条に於いては、宗教的の出版集会結社をも含めて、凡ての出版集会結社の自由が法律の範囲に於いて存することが保障せられて居る。其の結果として、第一に宗教に関する出版集会結社を為すには、他の一般の出版集会結社と同様に、第二十九条に依り法律の制限に服せねばならぬ。併しながら、第二に、宗教に関する出版集会結社が、其の宗教に関するものであるが故を以て、他の一般の出版集会結社の受けない特別な法律上の制限を受くるならば、其の制限は唯安寧秩序を保持し臣民たる義務を守らしむるに必要なる限度に止まらねばならぬ。此の限度を超えて、宗教的の出版集会結社に限り、他の一般の出版集会結社と異つた特別な制限を加ふるのは、第二十八条の趣意に反するものである。


私の主張せんとする所は、略以上述ぶる所に依つて明瞭であらうと思ふ。宗教は出来るだけ政権の関与の外に立つことを本旨となすべきもので、前に掲げた憲法義解の明言の如くに「政教互相関係スル所ノ界域」は「憲法ノ裁定スル所」に従ひ、唯「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル」ことを担保することのみに止まらねばならぬ。私は固より宗教的結社の絶対の自由を主張するものではないが、此の限度を超えて宗教的結社にのみ、他の一般の結社とは異なつた特別な制限を加へんとするのは、憲法の趣旨に反するものであることを断言するものである。

此の主張に対して往々従来神道各派、仏教各宗に加へられて居た国家の保護及び監督を挙げてこれを反証せんとする者が有るけれども、神道及仏教は我が長い間の歴史的伝統に依つて、半ば国家的宗教の如き地位を得て居り、而して此の歴史的地位は、憲法の制定に依つても破られなかつたのであつて、是は一般の宗教と、同一視するを得ないものである。此の神道及仏教にのみ特有なる歴史的地位を、何等の歴史的伝統の無い他の一般の宗教に推し及ぼさんとするのは、歴史を無視し、宗教の本質を無視するものと言はざるを得ぬ。

(昭和四年二月二十六日乃至三月一日発行「読売新聞」所載)