現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

共産党事件に付いての感想


共産党事件についての顛末が発表せられたについて、感想を書くやうにとの依頼を受けたが、極めて重大な、種々の問題に複雑な関係を有つて居る事件だけに、僅な紙数で簡単に論じ去ることは、甚だ困難で、誤解を招く危険も有るが、折角の依頼であるから、卒直に私のこの事件について抱く二三の感想の要領だけを述べようと思ふ。

今回の経過の発表を見て、第一に著るしく感ぜらるることは、これまでの日本の共産党運動がすべてモスコーの直接の指導の下に行はれて来て居ることである。

それは表面の形式上はコンミンテルンの事業で、ロシア政府の直接に関係するところでないといはれて居るにしても、コンミンテルンの首脳者と、ロシア政府の当局者とが、同じ人から成り、常に密接な関係を有つて居ることは世界的に顕然たる事実であつて、実質上においては、ロシア政府が共産的運動を煽動し指導して居るといつても、不可ないであらう。その行動は決して単なる批評や忠告に止まるものではなく、直接に巨額の金員を支出してその運動を支持して居るのみならず、特に東洋勤労者共産主義大学といふやうな学校を設けて、東洋における共産党運動の為に運動者を教育して居るのであつて、コンミンテルンこそ実にその運動の首謀者であり、その最高幹部であるといふことが出来る。

しかもそのコンミンテルンなるものは、実はロシア政府自身と形式を異にして実体を同じうするものであるとすれば、それは結局はロシアの政府が、日本に革命をひき起し、日本の国体を変革し、国家を壊乱に陥らしめんと計画して居ることであつて、国際信義の上に許すべからざる罪悪であり、兵力をもつて戦争を開始する代りに、陰謀をもつて戦ひを挑むものに異ならぬ。

兵力をもつて戦はんとするものに対しては、我もまた兵力をもつてこれに応ずることが出来る。陰謀をもつて戦ひを挑むものに対しては、如何にしてこれに応ずべきであらうか。

もし兵力をもつてする戦争であれば、国民は挙つて義憤を同じうし、挙国一致、これに当ることが出来る、それは一国の運命がその戦争に繋かつて居ることが、極めて明白であり、又その危険が目前に迫つて居るためであつて、階級闘争のやうな国内的の紛争は、国家自身の運命についての争ひの前に姿を匿くし、全国の人心は目前の戦争に刺激せられて、国を挙げて国運に殉ずるの精神が自ら鼓舞せらるることは必然である。明治三十七八年の日露戦役は、そのもつとも著るしい例証となすことが出来る。

陰謀による挑戦に至つては、事陰険であるだけに、これに対応すべき適当の方策を講ずることは甚だ困難である。兵力をもつてこれに対抗することは不可能であり、さればといつて、我よりも陰謀をもつてこれに対することは正直な我が国民には固より望むべくもない。しかも兎も角親交国の間柄であつて、互に大使をも交換して居るのであるから、国民の敵愾心を喚び起すことの出来ないばかりではなく、社会革命に成効し、ある程度まで社会主義的国家を実現し得た最初の国家として、国民殊に智識階級の一部からは憧憬の眼をもつて語られて居るのであるから、敵愾心よりもむしろ却て尊敬崇拝の念をもつてこれに対するものが少くない程である。かかる国家が頻に陰謀をたくましうして、わが国を壊乱に陥らしめようとして居るとすれば、わが国家および国民は、果して何をもつてこれに対応すべきであらうか。

私はこれに対して、唯激しい憤りを感ずるのみで、これに対応すべき何等の適当の策をも見出し得ないものであるが、唯明白な事は、それは決して日本のみの憂ではなくして、世界的の憂であり、外交上の手段によるの外は、その憂を除くべき途が無いことである。われわれは唯何等かの国際的協同の措置により、ロシアをして世界革命の企図を放棄せしめ、親交国を壊乱に陥らしめようとするやうな陰謀を廃絶せしむることに成効するの日あることを期待し、わが外務当局者がこの目的のために適当なる措置を取ることを希望するの外は無い。

日本における共産党運動それ自身については、私はそれが余りに多く外国からの指導によつて行はれ、事毎に外国人の指揮を受け、又は外国人のなしたことに模倣し、ほとんど日本の社会の固有の事情に即した組織と活動とを見出し得ないことに驚くものである。

社会の欠陥に目覚め、その改革に志すことは、それ自身同情に価する事柄ではあるが、目的のために手段を択ばず、外国から金をもらひ、外国から指揮を受け、却て自分の国家を壊乱に陥らしめようとするに至つては、言語道断、あさましさの限りといはねばならぬ。社会改革といふ目的の上からいつても、外国人の指揮の下に附和随行し、外国人のやつたことをそのまま模倣するといふやうな遣り方で、その目的を達し得ようとは考へ得られない。君主制の即時撤廃などいふこととを政綱に掲げて居るのを見ても、それが如何に日本の事情に疎い外国人の指揮に出でたかを推測し得るもので、かういふ政綱をもつて、一般の民心を博し、社会に強い根底を据えようとしても、それは思ひもよらぬことである。

成効の望みの無いだけに、又かういふ附和随行的、模倣的な革命運動は、危険性の比較的少いもので、捨てて置いても大した禍を惹き起さうとは思はれない。

もし真に社会の改革に志し、それに成効せんと欲するものであれば、彼等は実にその方向を誤つたもので、かういふやり方をもつては、その目的を達する上において万一の成効をも望み難いのみならず、徒らに彼等自身の生涯を葬るに終るの外は無い。私は彼等が合法的の社会運動を捨てて、かくの如き方向に向つたことを、国家のためといふよりも、むしろ彼等自身のために痛歎するの念に堪へぬ。

共産党事件に関係して被告となつて居る者は、前後合せてほとんど千人に近いと伝へられて居る。その外尚逮捕を免れて居る者もあらうし、直接に結社に加入しなくとも、その主義思想に共鳴して居る者に至つては、尚可なり多いことであらうと推測せられる。

もちろん国民全体としてはわが光輝ある国体に対する信念の動揺を憂ふべき理由ありとは思はれぬけれども、かりそめにも国体の変革を企てんとする秘密結社に加入する者が、千人にもおよんだといふことは、それが結局において大なる禍をひき起すおそれは有り得ないにしても、尚わが国において古来未曽有の出来事であり、これが対策について深く考慮せねばならなぬ問題であることは言を待たぬ。

その対策を講ずるについて、まづ必要なことは、その原因が何に在るか、何がわが光輝ある国体に対しかかる兇逆なる企てをなさしむるに至つたかを明かにすることである。

その原因として考へうべきことには、凡そ三つを挙げることが出来る。私は仮りにこれを(一)国内的原因、(二)思想的原因、(三)国際的原因と名づけようと思ふ。

(一)第一に考へ得べきことは、国内における経済上、社会上、および政治上の事情が、かかる不逞の企を誘発せしむべき原因を含んで居らぬかどうかといふ点である。もし国内の経済組織、社会組織、および政治組織が完全に健全な状態にあれば、革命の企ての如きは起るべき余地も無い。革命の企てが起りそれが相当の勢力を得る恐れが有るのは、これ等の総て又はそのいづれかに欠陥の有るためでなければならぬ。

不幸にして、わが国内におけるこれ等の事情が、そのいづれの方面においても、甚だ健全な状態にあるものといひ難いことは、何人も否定し得ないところである。経済上においては、富の分配の不公正は益甚だしくなり、農村の疲弊、不熟練労働者の惨況は、極まるところを知らざる有様にある。社会上においても金力の跋扈は益々甚だしく、金の有る者は唯金が有るといふだけで、天分の如何に貧しい者でも、尚社会上の高位を占むるばかりではなく、栄爵を得、勲位を誇り、貴族院議員ともなるといふ有様である。更に政治上に至つては、藩閥政治の弊が僅に失はれたと思へば、これに代つた政党政治はこれに超ゆるとも劣らない程の新たな弊害を流し、政府の大官、議会の議員、政党の幹部などに関係する疑獄事件が頻出するのみならず、匿れたる犯罪に至つては、尚何れ程におよぶかも知れぬものと疑はれて居る。

此の如き経済上、社会上、政治上の欠陥が国民の一部の間に激しき不平を惹き起し、その不平の鬱積するところ、遂に不法手段をもっても現状を打破せんとする企てを起さしむるのおそれあることは否み難いところで、共産党事件の如きもこの点にその第一の原因を求めぬばならぬ。

もちろんこれ等の経済的社会的又は政治的の欠陥のいづれにしても、それがわが国体に基いて居るものとは考へ得られないところで、もし次に述ぶるやうな思想的原因および国際的原因が、合せ加はらなかつたならば、仮令国内的にこれ等の重大なる欠陥が有るにもせよ、国体の変革を企てるやうな不逞の徒は、あるひは起らなかつたであらう。

然しながら思想的原因にせよ、国際的原因にせよ、それだけをもつては、実際に国民的の運動を起さしむるだけの力あるものではあり得ない。それ等は畢竟唯培養力、扇動力たり得るのみで、それが実際に効果を挙げ得るには、それによつて培養せられ、煽動せらるるだけの素質が無ければならぬ。漢学によつて日本に伝へられた荘子の無政府思想、孟子の民主思想が、久しく国民的教養の資料として用いられながら、少しも実害を現さなかつたことは、思想がそれ自身の力をもつては、実際上の社会的背景の無いところに、何等の実際的影響をも与へ得ないことを示す一例証と為すことが出来る。

それであるから、共産党事件についても、その直接の動因となつたものは、思想的および国際的影響であるにしても、尚その根本的原因としては国内における経済上、社会上、および政治上の不合理かつ不健全なる状態を挙げねばならぬと信ずる。

(二)第二の原因として挙げねばならぬものは、いふまでもなく、マルキシズム、レーニズムの思想の普及である。

不幸にしていはゆるマルキシズムの思想の中には、精緻な学問的の理論と猛烈な革命的の思想とを合せ含んで居る。学問としてのマルキシズムは、唯物史観説にせよ労働価値説にせよ、私はそれを完全な真理とは信じないけれども、有力なる学説として研究の必要あるものであることは疑ひを容れぬ。殊に経済学をはじめその他の社会科学を研究する者が、マルキシズムを主たる研究の対象となし、その中の真理と信ぜらるるものを鼓吹し論唱することは、敢てこれに反対すべき理由は無い。唯マルキシズムの思想の中には、階級闘争、暴力による資本主義社会の破壊、無産者独裁政治、万国労働者の団結といふやうな実行的な革命の主張を含んでをり、しかしてその学問的の部分よりも、革命的の主張の方が遥に強く人心を惹く力を有つて居る。

マルクス主義の危険性は実にこの点にあるのであつて、共産党事件を初めこれに類する革命運動が、主としてこのマルキシズムの普及に、その直接の思想的原因を有することは、何人も争ふを得ないところである。

しかし私はこの外に尚思想的の原因として、他の二の点を挙げねばならぬと思ふ。

その一は、世界大戦以来世界的に広まつて居る革命心理の影響である。

すべて社会的心理は甚だ強い流行性を有つて居るもので、一国に革命が起つて成効すると、その影響は他の諸国にもおよび、他国でもそれに類した革命運動が頻発し易い傾きが有ることは、世界歴史において著るしい事柄である。

しかして今日の世界は、実に革命心理の流行時代で、この流行は既に大戦の前から始まり、大戦後に至つては一層甚だしく、殊にロシア革命は世界の人心にもつとも強い刺戟を与へたことは、いふまでもない。日本も鎖国時代の昔ならば兎も角、今日の国際交通の密切な時代において、全くその影響の外に立つことは不可能であつて、共産党事件の如き運動の勃発したのも、ここにその一つの原因を有することは疑ひない。

他の一は、日本自身における維新の大業の影響である。

明治の維新を共産党運動に比較することは、不倫この上もないやうであるが、時代の支配的勢力に反抗してこれを覆へさんとする運動であることにおいて、二者共通の要素を含んで居ることは否み難いところである。

しかも当時の革命運動の尖端に立つた者は、後には維新の元勲と仰がれ、その先駆をなして刑せられた者は、後には勤王の志士として尊崇せらるるに至つたのであるから、その目的とする所に雲泥の差が有るとはいひながら、尚現代の支配的勢力に反抗せんとする徒が、維新当時の志士を学び、自ら革命家をもつて任ずるのも、心理上決して不自然ではなく、私はこの点に今回の事件の思想的の一原因を求むべきものと思ふ。

(三)最後に、国際的原因として挙ぐべきものは、いふまでもなく、モスコーに本部を有する国際共産党の指導誘惑である。これは本稿の最初に既に述べたところで、今回の事件について、もつとも有力な原因ではないにしても、少くともその直接の動機となつたことは疑ひを容れぬ。

共産党事件はこれ等の種々の原因が綜合して起つたもので、単にその一面だけを見て、例へばマルクス主義の普及が、その唯一の原因であるやうに考へるのは、決して正しい観察ではない。

これ等がその原因であるとすれば、これに対して将来如何なる方策が講ぜらるべきであらうか。この事件の関係者に大学出身者が多いのは何故であらうか。私は尚一回の紙上を借りて、これ等の点に論及したいと思ふ。

共産党事件についてもつとも顕著な事実の一は、大学出身者および学生のこれに関係して居るものが、すこぶる多いことである。それは何故であらうか。

チョット考へると、それは大学教育の罪であり、大学がその責に任ぜねばならぬもののやうに思はれないではない。しかし私はかかる考へが全く理由の無いことを信ずる。

もちろん、学問としてのマルクス学を研究し、随つて間接にマルクス主義の思想を普及することにおいては、大学はあるひは与つて力が有つたであらう。又現代の社会組織、経済組織又は政治組織を分析解明し、随つてその欠陥を明にすることにおいても、大学は恐らくは寄与するところがあつたであらう。

しかしこれ等は大学として当然なすべき職責を尽したものであつて、仮令これがために少壮血気の者の間に、現代の社会組織、経済組織又は政治組織を改造せんと欲する気運を作ることに、多少の原因をなしたとしても、それはその組織に欠陥あること自身の罪であつて、大学がその責に任ずべきではないであらう。

しかしのみならず、実際についていふと、大学の学生で共産党運動に関係するやうな連中は、大学の教育をプルジョア教育として蔑視し、大学の講義にはほとんど出席しないのが通例である。これ等の者に至つては、名義上は大学の学生であつても、実は大学教育を受けない者であつて、それが単に名義上大学に籍を置いて居ることから見て、直に大学からその思想を受けたものとするのは、全く実際を顧みない説である。

マルクス主義の思想の普及に至つても、その主義を鼓吹し主張する文献、国の内外に極めて多数であつて、普く全国の読書階級に広がつて居る。これがその思想の普及の真の原因であつて、大学におけるマルキシズムの冷静な学問的研究の如きは、その原因としてそれ等に比していふに足らぬものである。

然らば、大学の関係者が殊に被告の中に多いのは何故であるかといへば、その理由は明白であつて、現代社会の欠陥を憤り、マルクス主義の文献を読み、伝統と慣習とに反抗せんとする思想を抱くに至るのは、ある程度の学識を前提とするもので、全然無智無学の者には起り得ない思想であるからである。

それはある特定の学校又はある特定の教授の教育が原因を為して居るのではなくして、其の如き改革思想を受けいれるだけの智識の開発せられて居ることが、その原因を為して居るのである。それは敢て教育が悪かつたためではない。如何に忠君主義愛国主義の教育が施されたとしても、その教育によつて相当の程度に智識が開発せられた上は、学校以外の他の資料から独立にそれと正反対の思想をも受けいれることが出来るのであつて、学校教育によつて完全にこれを防止することは不可能である。これを防止するためには、全然教育そのものを廃止し、国民をして無智無学ならしむるの外は無い。

かつ大学の学生又はその卒業後間の無い連中は、その年齢において少壮客気、思慮いまだ定まらず、あたかも突飛な急進主義に傾き易い時期にあるもので、これも今回の被告中に比較的大学関係者の多い原因を為したであらう。

共産党事件につき国家の取るべき対策としては、その原因として考へらるベきものを取り去ることに努むるの外ないことは、いふまでもない。

私は前号にその原因として国内的原因思想的原因国際的原因の三種を挙げたが、これ等の諸原因の中には、性質上絶対に取り除き得ないものが有る。例へば、思想的原因の一として、幕末における改革運動の成功が、青年客気の徒の改革思想を刺激することが疑ひないとしても、今日において歴史を抹殺することはもとより不可能である。ロシアを始めその他の諸国における革命の成功が、青年学徒に著るしい影響を与へたことが明白であるとしても、これもいかんとも為し得ない事実である。マルクス主義の思想の普及に至つても、この主義に関する内外無数の文献を絶滅せしめ得ない以上は、絶対には防止し得ないところである。

要するに思想的原因は、性質上除去することの出来ないもので、国家の対策を主としてこの方面に向けようとするのは、全くその方向を誤つたものである。

いはゆる思想善導策の如きは、何等の効果をも期待し得ないもので、もしそのいはゆる思想善導が革命思想を絶滅せしめようとするにあるならば、それは総ての教育を禁止して、国民をして全く無学文盲ならしむるより外に途は無い。国家の政策として国民の思想を善導しようとするが如きは、全く国家の任務を超越するもので、ただにその目的を達し得ないのみならず、却て文化の発達を阻害するものである。

思想善導策の外、現に国家の取つて居る対策としては、厳罰主義弾圧主義の政策が有る。

これは一時的の応急策としてはやむを得ないものであり、また一時的にはその効果を奏し得ベきものであるが、それが如何程にまで有効であり得るかは、その弾圧せんとする運動の根底の深さ如何によるべきもので、もしその運動が根底の深いものであれば、厳罰主義によつては長い期間にわたつてこれを抑圧することは不可能である。却てその弾圧が強ければ強い程これに対する反動もまた随つて一層強くなることは、自然の結果である。幕末時代における改革運動者に対する厳罰主義が、結局において遂にその効果を奏することを得なかつたのを見ても、厳罰主義の効果が如何に限られたものであるかを知ることが出来る。

それであるから、共産党運動の危害を根底から防止するための対策としては、唯前に述べた国内的原因および国際的原因を除去することを努むるの外は無い。

如何にしてこれを除去することが出来るかは、容易に論じ得べき問題ではなく、既に長きに過ぎた本稿の能くするところではないが、唯私の考へて居る結論だけを一言すると、共産党運動のもつとも根本的な原因は、国内における社会上、経済上および政治上の欠陥にあるのであつて、これを改善することが、かかる運動の勃興を防ぐべき唯一の政策でなければならぬ。

それを為すについて差当りの急務と為すべきことは、選挙制度の改革によつて選挙運動に多くの費用を要しないものと為し、それによつて無産者階級にも比較的容易に議会に進出し得べき機会を与へ、もつて議会における無産者階級の勢力を増加し、かくして現代の資本主義社会の極端なる欠点を緩和し、社会的倫理主義に基く改造を加へ、暴力的革命によらずとも、平和なる議会主義によつて、社会の改造をなし得べきものであることを、事実によつて証明することでなければならぬ。

その外に、国際的原因を除くの手段としては、国際的の共同作用によつて、ロシアにある国際共産党の運動を禁歇することが必要であるが、それは寧ろ従たるもので、それよりも遥に重要なることは、国内的の改造である。今日の時勢は実に社会上政治上の総ての方面に亘つて一大改造を必要とする時期に遭遇して居るもので、平和なる改造を講じ、出来得べきだけその各方面における欠陥を少くすることが、国家の前途を安全ならしむるための唯一の方策である。

その改革を拒み、徒らに封建思想の復活を夢み、又は宗教的神主国家の思想を注入して、これをもつて国民の思想を善導し得たりとなすが如きは、全然時代の要求に反するもので、それは却て徒らにその禍を大ならしむるに過ぎぬ。

(昭和四年十一月十八日二十五日十二月二日発行「帝国大学新聞」所載)