科学の方法, 中谷宇吉郎

実験


自然科学の一番の強みは、実験ができることであるといわれているが、事実そのとおりである。実験ができるということは、科学の非常に大きい特徴なのである。それで実験というものについて、その本質的な面から見ていくことにしよう。

前にもたびたびいったように、この自然界に実際に起っている現象は、決して再現可能ではないのである。同じことを二度実験してみても、同じ結果が出るとは限らない。一枚の紙をある高さから落してみても、同じ落ち方は、二度とはしない。しかしそれを再現不可能といってしまえば、もはや科学の入る余地がなくなってしまう。それでこういう場合には、自然界にはちゃんとした法則があって、再現可能なのであるが、何かほかの理由で、同じ結果が得られなかったのだと考える。それでほかの妨害を除いてやれば、すなわち外界の条件を一定にしてやれば、同じ現象が起るはずだとするのである。ほかの条件をなるべく一定にして、ある現象を起させてみる。それが実験なのである。もちろん条件を完全に一定にすることは、不可能である。少くも時間的にはちがっているわけである。しかしなるべく条件を一定にしてやったならば、だんだん再現可能に近い状態が得られるであろうとして、この条件をなるべく簡単に、あるいは一定にしてやってみるわけである。

しかし条件を完全に一定にするということは、非常に困難なことであるから、いわゆる補正によって、ほかの要素からくる妨害を引き去る場合が多い。こういう現象を支配する外界の条件には、たくさんの要素がある場合が普通である。それで要素の一つ一つについて、その要素が、この場合に受け持っている役割を、まず調べる。役割というのは、その要素がどれだけ変化すれば、目的とする性質の測定に、どれだけの影響を与えるかということである。おのおのの要素について、それを個別的に調べて、一定の条件の場合からへだたった分だけ、計算によって、差し引いていく。これが補正であって、実験をする場合の根本のやり方の一つである。ここに、前にいった分析がはいっている。

具体的な例を一つあげよう。糸を与えられて、その長さを精密にはかるという問題が課せられたとする。これはなかなか厄介な問題であって、糸というものは、実際にはかってみればすぐわかるように、その長さを精密にきめることは、ほとんど不可能に近いものである。むしろ精密な長さというものがないといった方が、よいかもしれない。糸をだらんとさせておけば、その長さははかれない。そうかといって、ぴんと張ると、その張り方によって、いろいろに伸びるわけである。それに湿度も効いてくる。糸がしめったり、かわいたりすると、長さが伸び縮みする。また温度も効いてくる。それで精密にはかってみると、張力により、湿度により、温度によって、長さがみな違った価に出てくる。こういう場合に、一回一回違った価になるといってしまえば、何も測定した意義がないことになる。それで他の要素を一定にしておいて、その中の一つの要素だけを変化させてみる。たとえば一定の湿度及び温度のもとで、張力をだんだん変えて、長さをはかってみる。あるいは張力を一定にしておいて、湿度をいろいろに変えてはかってみる。そういうふうに長さの測定を、各要素ごとに、その要素の函数として、精密に行う。そうすれば、いろいろな要素が重なり合った、ある条件のもとにいおける糸の長さというものを、きめることができる。

糸のような場合は、わかりやすいのであるが、鉄や銅の針金の長さというような場合でも、本質的には同じことである。湿度はあまり効かないが、温度の影響、張力の影響が効いてきて、ごく精密にはかれば、条件によって長さがみなちがってくる。あるものの長さをはかるというような、非常に簡単な場合でも、ある条件のもとでの長さということしかいえないのである。

第六章で述べたように、生命の科学と物質の科学とは、非常にちがったものであって、生命現象は条件によっていちじるしくちがうために、その本来の機能とか性質とかいうものは、非常に調べにくい。外界の条件によって性質がいちじるしくちがってくるという点が、物質の科学とは本質的に異っているということをいった。しかしそれは一応の話であって、もう一段掘り下げて考えてみれば、物質の場合でも、その性質は、常にある条件のもとできめられるものである。ある物質が、これこれの性質を持っているということは、必ずどういう条件のもとでということが、附加されているのである。それで外界の条件によって性質が異るということは、生命現象の科学の場合だけでなく、物質の科学においても、本質的には同じことである。ただ一方はそれが非常にいちじるしいが、他方はわれわれが必要とする精度の範囲内では、あまり問題にならない、という量の差があるだけである。それよりも問題になる点は、分析と綜合の方法が適用されるか否か、というところにある。条件をきめなければ、ものの性質がきまらないといっても、実験の場合、すべての条件を完全に一定にすることはできない。それで条件を各要素に分けて、一々の要素について、その影響を調べ、その結果をまとめたものを、与えられた条件下のものの性質とする。こういうふうに、湿度の影響、温度の影響、何の影響というような言葉を使うことが、既に分析をしていることなのである。そういうものが全部集ったものが、与えられた条件であって、その条件下で、糸の長さという性質がきめられる。分析したものを綜合した結果が、全体の性質をあらわすと見なすのであるが、この方法の適用される範囲が、物質の科学の場合は非常に広く、生命の科学の場合は狭いのである。

よく生命のはいっている現象は非常に複雑だといわれているが、複雑というと、ちょっと誤解を招くおそれがある。複雑という意味が、要素が多いということならば、いくら多くてもよいので、それぞれの要素に分けて、実験をたくさんやればよい。根気だけの問題である。物質の場合ならば、要素が二つか三つであるが、生命現象ならば、何百何千あるとしても、その何百何千にわけて、一つ一つの実験を根気よくやればよい。時間がよけいかかるとか、たくさんの機械がいるとか、研究費がかさむとかいうことは、科学の本質とは関係のない話である。それで複雑だということは、単に要素が多いということだけではない。分析と綜合の方法がきく範囲が狭く、その奥に、従来の科学の方法では扱えない領域が、広く残されているということである。前にもいったように、生命現象の科学において発達する面は、生命力が営むいろいろな現象の中で、物理化学的な現象の面である。そういう面ならば、分析と綜合とが使えるからである。

ところで条件をきめて、各要素について実験をやると、どういう利点があるかというに、第一には新しいことが見つかるという点がある。先ほど例にとった糸の長さの問題にもどるが、糸の長さを湿度の函数としてはかってみると、妙なことが起る。張力その他の条件をみな一定にして、湿度だけの函数としてはかってみると、だんだんしめらせていく場合と、乾かす場合とは、長さがちがってくる。今ある一定の湿度になったときの長さを精密にはかり、これをもう少ししめらしてやる。それからだんだんかわかして、前にはかった時と同じ湿度になった時に、もう一度くわしく長さをはかってみる。すると糸の長さが、前にはかった価とはちがっている。それでほかの要素をそれぞれ一定にした場合、糸の長さに及ぼす湿度の影響は、現在の湿度だけではきまらないことになる。以前にもっと乾いていたかしめっていたかによって、長さがちがってくる。すなわち物理現象にも、過去の歴史が影響する場合があるということになる。これは非常に面白いことであって、一つの新しい知識が得られたわけである。糸の長さは複雑なもので、条件によっていろいろちがうといっていては、こういう知識は得られない。条件を一つ一つの要素にわけて、実験してみることによって、はじめてこういう新しい知識が得られたわけである。もっともこれと同種の現象は、磁気の場合に既に知られている。いわゆるヒステレシスの現象というのが、それである。電流が変圧器を通る時に電力が消耗されるのは、このヒステレシスによるのであって、電気工学の方では、重要な問題である。たいていの場合、物質の性質は、現在の条件できまるのであるが、過去の条件が効いてくる場合もある。これは大きい発見であるが、糸の長さをはかるというような、簡単そうに見える実験で、そういうことがわかるのは、ちょっと面白いことである。この問題と限らず、面白い現象は、条件が複雑な場合に隠されていることが多く、またたいていの場合、その影響が小さいので、精密な測定をしてみなければわからない。精密な測定をするためには、ほかの条件を一定にしておいて、ある一つの要素だけの影響をみる。すなわち条件を単純化することによって、隠されていた新しいことがわかってくるのである。

そのほかにも自然科学における実験には、いろいろな特徴あるいは利点がある。条件を単純化するばかりでなく、単純化した条件を、極度に強めることによって、普通には見られない現象を見ることができる。たとえば、実際の天然現象に見られる温度は、零下七十度くらいから、高い方は二千度程度までの範囲しか、地球上には起きていない。しかし実験をする場合には、こういう条件を極度に強め、ほとんど絶対零度に近いところから、最近の核融合の実験のように、五百万度というような高温までが得られる。そうすると、今まで普通の条件では隠されていた性質があらわれてきて、そこで新しい知識が得られることがしばしばある。

たとえば、金属の針金の電気抵抗をはかってみる場合、温度を下げると、だんだん伝導がよくなっていく。そのよくなる割合は、温度の降下につれて、一定の割合でよくなっていくのである。ところが絶対零度に近いような低温になると、とたんに急激に抵抗がおちて、ほとんど抵抗がないような状態になる。金属の性質は、工学的には非常によく調べられているが、原子論的には、ごく最近まで、ほとんど研究されていなかった。問題が非常にむつかしいからである。従来の金属の物性の物理的研究では、この極低温における超伝導の現象が、非常に役に立ったのである。この性質は、ほんとうは普通の温度のところでも存在しているのであるが、普通の温度では、金属分子の熱運動のために、この性質が隠されている。絶対零度に近くなると、分子の熱運動がほとんど零に近くなるので、急に今まで隠されていた性質があらわれてくるのである。それでこういう新しい知識が得られたわけである。

またそういう隠されていた性質ではなく、全く新しい性質が出てくることもある。たとえば、ブリッジマンがノーベル賞をもらった有名な氷の研究が、そのよい例である。普通の氷は零度で凍るが、これは一気圧の場合のことである。圧力が高くなると、氷点はだんだん下っていく。そして二千気圧になると、零下四度くらいまで凍らない。これは過冷却現象ではなく、ほんとうの氷点なのである。ところがそれ以上の高圧になると、今度は別の氷ができてくる。更に高圧にすると、また別の氷ができ、今までに七種類の氷が見つかっている。普通の氷を氷Ⅰといい、以下氷Ⅱ、氷Ⅲ……とあって、氷Ⅶまでが発見された。この最後の氷Ⅶは、非常に不思議な氷であって、約二万二千気圧の下で、氷Ⅵが、この氷Ⅶになるのであるが、その時の温度は摂氏八一・六度である。普通の氷の場合は、一気圧の下で、水蒸気と水と氷とが共存している温度が、氷点すなわち零度である。このことを通俗的には、零度で水が凍って氷になるという。氷Ⅶの場合は、二万二千気圧の下で、水と氷Ⅵと氷Ⅶとが共存している。その温度が八一・六度である。これを今のいい方にすると、「氷点」八一・六度で氷Ⅵが「凍って」氷Ⅶになるということになる。八一・六度というと、さわれば火傷をするくらいの熱さである。氷にさわって火傷をすることは、夢にも考えていなかったことであるが、条件を極度に強くすると、こういうこともでてくるのである。これはブリッジマンの非常に有名な研究である。

今までの話は、どちらかといえば、古典的な物理学の例である。このごろの原子核方面の実験になると、実験装置が非常に膨大なものになっていて、重工業的設備が必要である。規模が大きいばかりでなく、構造も非常に複雑になっていて、実際に実験をする人は、むしろ機械の一部分となって、測定をしている傾向がある。それで今までに述べたような古典的の物理学の場合とは、実験の意味が、すっかり違ってしまったように思われ易い。しかしああいう大がかりな実験においても、現象を分析したり、あるいは条件を強めることによって、例えば何千万あるいは何億電子ボルトというような速い粒子を作るというふうに、条件を極度に強めることによって、新しい性質を探す。それから条件を単純化することによって、測定の精度をいちじるしく増して、それによって、今までは隠されていた性質を研究する。こういう道筋は、本質的にはみな同じことである。しかしここに一つ新しい要素が加わってきたと見るべき点もある。

それは測器自身が、非常に精巧になってきている点である。それは比較的の話で、本質的な問題ではないと思われるかもしれないが、研究をやっているものが人間である以上、測器が精巧になれば、人間の能率がいちじるしく上るということは、重要な意味をもっている。すなわち研究者の寿命が、非常に延びたのと同じことになっているのである。かつ測器が精巧になると、人間の五官がいちじるしく拡がってくることになるので、今後の実験には、精密機械というものが、一種の超人のような役目を果して、それによって、実験の進歩速度が非常に速くなるという性質が、つけ加えられたのである。

ところでこの頃のように、実験の装置が、非常に複雑になり、かつ大規模になってくると、ちょっとためして見るというようなことは、できない。したがって、実験機械の設計には、慎重な考慮をはらい、その働きを綿密に調べて、くわしい計算をして、はじめて製作にとりかかる。原子核方面の実験は、その代表的なものであって、今日のような高エネルギーの粒子や、超高温を取り扱う場合には、もちろんそのようにしなければならない。

しかしこういう装置は、いわば実用化への中間試験のようなものであって、原理がよく分り、ほんとうの意味の実験、すなわちテストの実験がすんで、はじめて着手することができるのである。はじめに新しい実験にとりかかる時には、どうしても思い及ばなかったことが、ちょいちょい出てくるものである。機械が大規模になり、かつ精巧になるほど、測定は深くまでいくが、そのかわり問題を取り扱う範囲はせまくなる。それでこういう機械を使った実験は、一本の線の上を、深くまで到達する型の研究になりがちである。実用化へもっていくには、そういう実験が非常に大切であるし、日本にはとかくその種の研究が少いという点でも、この方向へもっと進むべきである。

しかし全く新しい発見というものは、今日のように科学が専門化し、かつ発達した世界になっても、やはり思いがけないところにあるものである。極端にいえば、偶然に発見されることが多い。全く新しいことならば、予期していなかったことであるから、見つかるのは偶然であって、ちっともおかしくはない。

今世紀の原子論は、ごく大ざっぱにいえば、英国のキャヴェンディシュ研究所でつくられ、米国で大成されたといえる。そのキャヴェンディシュにおける、この半世紀間の最大の収穫といえば、アストンの同位元素の発見と、C・T・R・ウィルソンの霧函の発明とを逸することはできない。ところがこの両者とも、別の目的でやった実験の副産物であって、めざしていなかったことが、偶然に見つかったのである。

前世紀の終り頃、電子の存在が、いろいろなことから確認されたが、当時英国の学者たちは、これを小さい粒子と見なし、欧洲大陸の学者たちは、波長の短い波と考えていた。電子には粒子と波の二つの性質があるという近年の電子の考え方の芽は、既に当時からあったのである。ところが英国側の代表者であったJ・J・トムソンが、電子を帯電した小粒子と見なして、その帯電量と質量とのe/mを測った。電場と磁場を適当に与え、電子の走路を調べると、e/mが測れるのである。その研究の結果、どの場合にも、電子のe/mの値は一定に出てきたので、電子はmなる質量をもち、-eの帯電量をもった粒子であるという見方が、一般に通用するようになった。そして波と見る見方は、いつのまにか消えてしまった。

トムソンは、この実験の成功にひきつづいて、同様な測定を、正イオンについても行った。分子から電子がとび出したあとは、+eの電気をもった質量Mの粒子、すなわち正イオンになる。電子の場合は、mは一定であるが、今度のMは、分子の質量であるから、物質によってみなちがう。しかし一定の元素については、Mは一定であるから、e/Mはきまった値になるべきである。もっとも化合物の分子は、こわれるので、たとえばメタンガスCH4を使うと、 CH4+ (M=16), CH3+ (M=15),CH2+ (M=14), CH+ (M=13)などのイオンができる。それでMは各イオンについてそれぞれ測る。いずれにしても、eは分っているので、e/Mをはかれば、分子または分子のかけら一つ一つについて、その質量Mがはかれるので、これは非常に面白い実験である。それでこういう実験を始めたのである。ところが、実際にはかってみた結果、この予期したe/Mのほかに、一定の元素についてもe/Mの値が、二とおりまたは三とおりに出た。それで従来公理のように思われていた、元素は一定のものという考え方がまちがっていたことが分った。同一元素にも、目方のちがった元素すなわち同位元素があって、それらのまじったものを、今まで元素と考えていたのである。この同位元素の研究は、トムソンの助手をしていたアストンによって、更に深く研究され、今日の原子論の基礎となったのである。同位元素の概念がなくては、原子論はでき上らなかったといっていいであろう。それほど重要な発見も、正イオンのe/M測定の副産物であったのである。

ウィルソンの霧函は、放射線の飛跡を眼に見えるようにしたもので、陽電子も中性子も、メソンも、みな霧函があってはじめて発見できたものである。これらの素粒子の発見がなかったら、原子核の研究は全然手のつけようがなく、従って原子力の解放もできなかった。それほど重要な意味をもつこの装置は、何も原子構造の研究のために考案されたものではなく、雨がどうして降るかという研究の副産物であったのである。

水蒸気が上空で凝結して雲になり、雲の粒子が集って雨となって降ってくる。これくらい簡単なことが、ほんとうのところは、いまだに分っていないのである。一番はじめのところ、水蒸気が凝縮して、雲の粒になる時には、核、すなわち芯(しん)になるものが必要である。この芯になるものは、非常に小さい塵埃であるが、そのほかにもイオンが、水蒸気の凝縮を起すことが知られていた。それでウィルソンは、正負各種のイオンが、水蒸気の凝縮を起す作用について、研究をしていた。

水蒸気で飽和した空気を、急激に膨張させると、温度が下り、過飽和の状態になる。それで空気の中に芯になるものがあれば、それに水蒸気が凝縮して、白い霧ができる。ウィルソンは、フラスコをさかさにして、首のところに丁度はまる試験管を挿入し、これを急激にひいて、フラスコ内部の空気を膨張させた。試験管をピストンとして使ったわけである。

このフラスコの中に、塵埃を取り除いた空気を入れ、外からX線やラジウムの放射線で照射しながら、急激膨張を起させると、中に白い霧ができる。その状態を調べていたのである。一番重要なのは、正イオンと負イオンとで、どうちがうかという点である。その研究をしているうちに、針に正または負の高電圧を与えて、いわゆる尖端放電を起させた場合、正イオンまたは負イオンが、針の先からどれくらい先までひろがっているかを調べることになった。

それでフラスコの中に、針を入れて、これに高電圧を与え、急激に膨張させてみた。すると白い霧はたくさんできたのであるが、フラスコの中の空気が渦をまいて乱れるので、空間的にどの範囲に霧ができるかは、見ることができなかった。イオンの空間配置を見るには、膨張によって、内部の空気が乱されないようにする必要がある。それでフラスコをやめて、丈のひくい円筒型の器をつくり、底全体を急激に下げることにした。底全体をピストンにするわけである。こうすれば空気は乱されないので、イオンを中心としてできた小さい水滴は、もとのイオンの位置に止っている。イオンは眼に見えないが、水滴は見える。それで水滴の配置を見れば、イオンの配置を見たことになる。

この装置で、尖端放電の研究をするつもりだったところが、膨張させてみたら、白い線が見えた。ラジウムを使っていたので、エマナチオンが空気中にまじっていて、アルファ線が出ていたのである。放射線の粒子が走る途中、空気の分子と衝突して、イオンをつくる。そのイオンを中心として水滴ができたのであるから、この白い線は、放射線の粒子が走ったあと、すなわち飛跡である。

放射線の粒子一つ一つについて、その運動が見えるというのは、たいへんなことである。それでもう尖端放電だと、雨だのの騒ぎではなくなって、いろいろな放射線について、その飛跡を調べて、今日の原子核構造論の基礎をつくったのである。

この二つの例でも分るように、新しい発見は、いわば偶然になされることが多いので、実験をする場合には、常に眼をあけていることが大切である。そして目的とすること以外にも、何かの手がかりが得られたばあいには、その意味を的確に判断して、場合によっては、その方向に突入することも必要である。今日どれほど科学が進歩しても、まだまだわれわれの知らないことが、この自然界には、たくさん隠されているということは、常に頭に入れておいてよいことである。