科学について、何かを論じようとする場合に、まず取り上げるべき問題は、科学の限界の問題である。今日われわれが科学と称しているものは、その取り扱い得る問題に、限界があるか否かということを、まず検討してみる必要がある。
今世紀にはいって、科学が非常に進歩し、特に自然科学が最近になって、急激な発展をとげたことは、今更述べ立てるまでもない。いわゆる人工頭脳のような機械ができたり、原子力が解放されたり、人工衛星が飛んだりしたために、正に科学ブームの世の中になった観がある。そしてこの調子で科学が進歩をつづけて行くと、近い将来に人間のあらゆる問題が、科学によって解決されるであろう、というような錯覚に陥っている人が、かなりあるように思われる。
もちろん科学は、非常に力強いものではあるが、科学が力強いというのは、ある限界の中の話であって、その限界の外では、案外に無力なものであることを、つい忘れがちになっている。いわゆる科学万能的なものの考え方が、この頃の風潮になっているが、それには、科学の成果に幻惑されている点が、かなりあるように思われる。これは何も人生問題というような高尚な話ではなく、自然現象においても、必ずしもすべての問題が、科学で解決できるとは限らないのである。今日の科学の進歩は、いろいろな自然現象の中から、今日の科学に適した問題を抜き出して、それを解決していると見た方が妥当である。もっとくわしくいえば、現代の科学の方法が、その実態を調べるのに非常に有利であるもの、すなわち自然現象の中のそういう特殊な面が、科学によって開発されているのである。
それはどういう面かというと、まず第一に、一番重大な点をあげれば、科学は再現の可能な問題、英語でリプロデューシブルといわれている問題が、その対象となっている。もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである。
なぜ再現可能の問題だけしか、科学は取り扱い得ないかといえば、科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかということをいう学問である。それが美しいとか、善いとか悪いとかいうことは、決していわないし、またいうこともできないものである。
それでは科学で、ほんとうであるというのは、どういうことかということを、まず考えてみる必要がある。ごく簡単な場合についていえば、いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合には、それをほんとうというのである。もっとも同じことを同じ方法で調べることができない場合もある。しかし人間が自然界を見る時には、いつでも人間の感覚を通じて見るわけであるが、この感覚を通じて自然界を見ることによって、ある知識を得る。その得た知識と、ほかの人がその人の感覚を通じて得た知識との間に、互いに矛盾がない場合には、われわれはそれをほんとうであるという。そうでない場合は、それはまちがっているというわけである。
感覚を通じて自然界を認識するといったが、その中で一番簡単なものは、いわゆる測定である。ものを測るというのは、どういうことであるか。そのくわしいことは、第三章で更に述べるが、ここでは簡単な場合だけについて考えよう。ものを測るということは、測ろうとするものと同じ種類のもので、ある一定の量のものをとって、その量と比べてみることである。この一定量を単位というが、目的とするものが、この単位の何倍あるかを調べることが測定である。「何倍」というのは、もちろん整数である必要はなく、コンマが幾つついていてもかまわない。しかし、何倍という以上、これは数値でもってあらわされる。この数値であらわされるということが、大切な点であって、いったん数値になれば、これに数学を使うことができる。自然現象を数値であらわして、数学を使って知識を綜合していく。これが科学の一つの特徴である。これを反面からいえば、自然現象の中から、数値であらわされる性質を抜き出して、その性質を調べるという方向に、科学は向っていることになる。自然現象をただあるがままに見ただけでは、手のつけようがない。それでいろいろな方法によって、得られた多くの知識を整理していくのであるが、そのうち一番簡単なものが測定なのである。自然現象を数値であらわして、その数値について、知識を深めていく。これが科学の基礎となっている方法である。
この方法について、検討してみるために、そのうちでも一番簡単な場合、すなわち「ものの長さを測る」という問題について考えてみよう。今あるものの長さを測った場合に、ある単位とくらべてみて、何倍あったかという数値が得られたとする。その価がほんとうかどうかということは、誰がそのものについて、同じ方法で測ってみても、いつでも同じ価が出るかどうかということである。それで測定という、自然科学における一番基本的で単純な操作は、何べんでもくり返して測ってみることができるということを、はじめから仮定しているのである。すなわち再現可能の原則を、はじめから仮定しているわけである。
一番わかりやすい例として、次のような特殊な場合を考えてみよう。世界中に物差が一本しかなくて、その物差は、一度ものを測ると、こわれてしまう性質のものだとする。そういう物差で、ものを測ったときに、どれだけの長さがあったとか、どれだけの量があったとかいっても、それは全く意味がない。別に精度がどうであるとか、あるいは不確かだとかいう問題ではなくて、そういうもので測った価というものは、原理的にいって、科学の対象にはならないものである。科学という学問は、そういうものにはタッチしない学問なのである。というのは、そういう価がほんとうであるかまちがっているかということは、原理的にいえないからである。何べんでもくり返して調べることができ、そしていつでも、また誰が測っても、同じ価が出る場合に、それがほんとうであるというのであるから、このような再現不可能の問題は、科学では取り扱い得ないのである。
こういうことをいうと、科学ではただ一度しか起らない現象でも、取り扱っているではないかといわれる方があるかもしれない。たとえば、ある種の彗星のようなものがそれである。彗星の中には、太陽系に一度まぎれ込んで来るだけで、そのまま飛び去って行くものがある。そして一度飛び去ってしまえば、あと永久に太陽系には再び帰ってこない、そういう種類の彗星もある。ハレー彗星のようなものは、軌道が細長い楕円形をしているので、何十年かたつと、また戻ってくる。そういうものならば、いかにも再現可能のように見える。ところが中には、双曲線の軌道をもっているものもある。もっともこれは少しあやしいのであるが、少くも抛物線すなわちパラボラの軌道をもった彗星は、よく知られている。抛物線の軌道だと、これは太陽系に入ってきた時に、一度だけは観測できる。しかしいったん遠ざかっていったならば、あと永久に二度とは帰ってこない。そういう彗星はたくさんあって、一つ一つの軌道は皆ちがう。この場合は、一つの彗星を二度と観測できないのであるから、再現可能でないように思われるかもしれない。しかし彗星などは、もちろん立派に科学の対象となるべきものであって、これはほんとうは、再現可能の中にはいっている現象なのである。再現可能といっても、物差でものを測る場合のように、誰でもすぐくり返してやってみられることと思っては、いけないのである。ということは、再現可能とはいうものの、実際に二度くり返すということは、たいていの場合できないことである。
現在のいろいろな自然科学の問題について、大勢の学者が、あらゆる方面で研究をしていて、いろいろな結果が発表されている。ああいうものを、一々もう一度同じ条件でくり返してみるということは、実際上は不可能なことである。また誰もそういうことはやっていない。ちゃんとした研究をして、こういうことをやったら、こういう結果が出たと論文に発表する。そういう論文を読んだ時、いかにもその通りだ、なるほど、自分もあの装置を用いて、同じことをやったならば、このとおりの結果が出るだろうと信用する。実際問題としては、それより仕方がないわけである。こういうふうに、再現可能と信用できるということが、再現可能な問題なのである。
ここで、信用するということは、どういうことか、はっきりさせておく必要がある。ある人が、ある問題について得た知識が、今までわれわれの知っていたほかの知識に当てはめてみた時に、従来の認識との間に、矛盾がないとする。矛盾がなければ、いかにもそれはそうであろうと信用することができる。科学の世界にも、信用ということばがあるが、これは道徳の方でいう信用とはちがう。互いの知識の間に矛盾がないという意味である。一番分りやすい例は、化学の方でよく調べられている希土元素である。めったにない元素、プロメチウムとかホルミウムとか、聞いたこともない名前の元素が、元素の周期表の中には、たくさん出ている。これらはみな実際にあるものと、誰でも思っているが、おそらくああいうものを専門にやっている人は、世界中にごく少数しかいない。特殊の例外の場合を除いては、世界中を探しても、あんなものを見た人は誰もいないであろう。たいていの希土元素は、めったに見られないものである。このごろの超ウラン元素などになると、原子の数にして何十とか何百とかいうものが、分離されただけというものもある。そんなものは、誰も見た人がない。しかしその存在は信じられている。見たこともないものを、なぜ皆が信ずるかというと、そういうものから得た知識が、今までにわれわれがもっていたほかの知識に、矛盾なくうまく当てはまるからである。従って、もし自分もこれと同じ研究をしたならば、同じ結果が得られるであろうという確信がもてる。要するに、同じことをくり返せば、同じ結果が出るという確信がもてることが、再現可能という意味である。
それで話を抛物線軌道の彗星にもどすが、この彗星が太陽系に入ってきた時には、一度来ただけでも、正確にその軌道の計算ができる。そしてその彗星は、その計算どおりに動いていってしまって、計算どおりに、太陽系から離れて行ってしまう。そしてその計算した軌道は、正確に抛物線になっている。抛物線になっていれば、永久に戻ってこないのが当然である。抛物線というのは、そういう性質の曲線なのである。それでこの彗星は、二度と戻ってこないということが、確認されるわけである。この場合、この彗星は永久に再び観測できないが、これは再現可能の問題である。というのは、これと全く同じ軌道をもったほかの彗星が、またやってきたならば、今度の場合と同じ軌道を通って、これもまた二度とは帰ってこない、という確信がもてる。すなわち同じことをくり返せば、二度と帰ってこないという、同じ結果が出ることを確信できる。この例はいわばマイナスの確認であるが、マイナスの確認も、プラスの確認も、科学では同じことである。こういうふうに、もし同じ軌道の彗星が今一度くれば、前と全く同じ経過をとるということを、確信できることが、すなわち広い意味の再現可能ということである。科学でいう再現可能という言葉は、こういう意味で使っているのである。
この点をもっとはっきりさせるために、幽霊の問題を取り上げてみよう。幽霊は科学の対象になるか、といえば、誰でも一言の下に、否というであろう。そして現在の科学では、幽霊は対象として取り上げられていない。しかし昔は大勢の人たちが、幽霊を見たといっているし、またそういう記録もたくさんある。もっとも心霊論者は、今日でも幽霊の存在を信じていて、いろいろとその証拠を出している。昔の人はおそらくほとんどの人が、幽霊は実在する者と信じていたであろう。それでは多くの人が幽霊を見たからという理由で、これは再現可能であるといえるか。少くもその時代としては、科学の対象となり得たものであったかというと、それはなり得なかったものである。ということは、今までいってきたように、再現可能というのは、必要な場合に、必要な手段をとったならば、再びそれを出現させることができるという確信が得られることなのである。幽霊はそれを再現させる方法について、確信が得られない。希土元素のようなものは、めったに見られないし、またほとんどの人が一生見ることがないものであるが、今日の科学の示す学理に従って、こういう順序を経たならば見ることができる、という確信がもてる。幽霊はいくら大勢の人が見たにしても、どういう手段を用い、どういうことをしたならば、必要な時に必要なところで幽霊を見ることができるか、あるいはどういう条件の時ならば、見えるはずだという確信をもつことができない。すなわち幽霊というものは、現在の科学が自然界によってもっている認識とは、性質の異るものである。それで幽霊は科学の対象にはならないのである。
今まで例にあげた彗星の運動とか、あるいは化学の希土元素とかいうようなものは、われわれの日常生活からは縁の遠いものであるが、これらは生命のない物質であるから、まだ話は簡単である。もう少し複雑な問題になって、たとえば人体の生理とか、医学とかいうものになると、話はもっと面倒になる。これらももちろん科学であるが、こういう方面の科学になると、再現可能という問題が、非常にむつかしくなる。たとえばある薬がある病気に効く、というような一番簡単そうに見える事柄でも、考えてみるとなかなかむずかしい問題である。ある人が、ある薬を飲んだときに、病気が治ったら、その薬は効いた、とそう簡単にいってしまうことはできない。というのは、飲まなくても治ったかもしれないからである。しかし飲んでしまったのであるから、飲まなかった場合と比較することはできない。それである薬が効くとか聞かないとかいうことは、全然同じ体質の人が二人いて、同じ病気になって、一方は飲んで治り、一方は飲まなくて治らなかったという場合でないと、薬が効いたかどうかを、確かめることができないはずである。しかしそういう実験をしてみようとしても、同じ条件の人が二人いることはないから、確かめてみることができない。それで、それは偶然に治ったのだと、あくまでも言い張られたら、いわゆるきめ手がないのである。
それでは、一人の熱のある病人が、ある薬を飲んだら熱が下った、次の日飲まなかったら熱が出た、また次の日飲んだら下った、というふうに、何回もくり返してみて、その度毎に熱が下ったら、その薬が効いたといっていいであろうといわれるかもしれない。しかし厳密にいえば、病人の身体は、一日毎に変化しているので、同じ条件で何回もくり返したのではない。それで再現可能の原則は、近似的にしか成り立っていないのである。
しかしこういう場合に、科学はそれを取り扱う方法をもっている。それは統計という方法である。できるだけ条件を同じくして、あるいは同じような条件のものを選んで、それでも決められない条件の方は、そのままにしておいて、そのかわり多数の資料について、測定をしてみる。そしてその結果を、全体的に眺めて、全体としての傾向を見るというやり方である。これが統計的方法といわれているものである。一人の病人が、何回もくり返して薬を飲んでみる場合、その結果は、統計的に調べるより仕方がない。一回毎に少しずつ条件がちがっているのであるから。
ところで、統計によって得られる結果は、資料の数が多いほど確からしさが増すのであって、数例の結果などから出した統計的な結論は、ほとんど意味がない。しかし一人の病人に、数千回くり返して、薬を飲ませてみることはできない。
それではこの問題を、実際にはどういうふうに取り扱っているかというと、それは同じような病気にかかっている大勢の人に飲ませてみるのである。大勢の人に飲ませてみて、百人のうち九十九人までの人が治ったとすれば、これは確かに効いたといわざるを得ないし、また現に薬が効くというのは、そういうことなのである。これは一人の人間が何度もくり返すかわりに、大勢の人間を一度に使ったので、やはり統計的な取り扱い方である。少しずつちがった条件にあるたくさんの例について行なった実験の結果を、少しずつちがう条件にある一人の人についてくり返した場合と、同等に扱っているわけであるが、これは一つの仮定なのである。これは仮定ではあるが、この仮定がなければ、統計の学問は成り立たないのであって、事実その仮定の上に組立てた統計学が実際に役に立っているのである。実際に全く同じ条件ということはないのであるから、広い意味でいえば、科学は統計の学問ともいえるのである。もっとも最近の医学は、非常に進歩しているので、薬などの効果も、統計的の意味ではなく、ほんとうに病源菌を確実に殺すものがたくさんある、といわれるかもしれない。その点は、そのとおりであるが、どんな名薬にも、程度の差こそあれ、必ず副作用があり、稀れには、特異体質というものもある。それで誤差が非常に小さいというだけで、やはり統計的の意味は、依然として残っている。もっともこれは、生命現象を取扱うというような、科学の複雑な面だけについての話ではない。もっと簡単な場合、生命のない物質の科学についても、常に頭に入れておく必要がある。その点については、後にくわしく述べよう。
科学が統計の学問であるとすると、すべての法則には、例外がある。そして科学が進歩するということは、この例外の範囲をできるだけ縮めていくことである。同時に科学はこの例外の影響が小さい方面に向って進歩していくのである。再現可能の原則が、近似的にもあてはまらない方面は、科学にとっては不向きな面である。もちろんこれは現在の科学を指していっていることである。
以上のような見方をすると、たとえば人生論などは、もちろん科学が取扱うべき問題ではない。また人間の自意識の問題などに、自然科学的な考え方を入れることも、あまり役には立ちそうもない、少なくとも場ちがいなものの考え方であると思われる。自意識のような問題は、これは個の問題である。大勢の人間の全体の考え方を調べるには、科学は役に立つ。たとえば経済学のようなものには、科学を取り入れ得る。しかし全体の傾向から漏れた一つの例については、それがきわめて稀れなことで、ほんの誤差の範囲内と見られる場合でも、その例自身については、それは誤差ではない。九九・九%は完全に適用できる場合でも、その残りの〇・一%に当った人に対しては、それは一〇〇%の誤差なのである。
問題の種類によっては、もっと簡単な自然現象でも、科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく、科学が取り上げるには、場ちがいの問題なのである。自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。
一つ例をあげれば、天災だとか、あるいはいろいろな事故(アクシデント)とかいう問題も、科学だけでは、片のつかない問題である。隕石に打たれて死んだ人は、まだ記録がないが、時々隕石が地面まで落ちてくることは確かである。それで今後隕石に打たれて死ぬ人はあり得るといっても、ちっともおかしくはない。隕石は流星であるが、今後いくら流星の研究が進んでも、隕石に打たれて死ぬことを、完全に阻止することはできない。ほんとうの不時の災害というものは、遭遇するまでは、それに遭った個人にとっては、再現されないことなのである。ところが現象自身は、自然現象であるから、科学の対象となるべきものである。
たとえば山崩れとか、洪水とかいうものは、明らかに科学の対象になるべき自然現象である。ただし問題は、全く同じ山崩れは、二度とは起きないという点である。地盤がある条件になったならば、山崩れが起き得るということは、科学の力で知ることができる。山崩れは全く同じ形では二度と起こらないが、しかし地盤の性質を知り、それがどの程度ゆるみ、雨がどれだけ降って、地下にどれだけ浸みていけば、崩れるべき条件になるということは、科学の知識で考え得ることである。そういう意味で自然科学の対象になるのである。しかしこれは崩れるべき条件になることがいえるだけで、稀れには崩れないこともある。すなわち統計的の意味しかない。山崩れがあって、人夫が死んだというような場合に、よく科学的な知識がなかったからといわれるが、これはかなりむつかしい問題なのである。ということは、たとえば大学で地盤や地質のことをよく研究した人、あるいは河川学の権威といわれるような学者が、その場所にいたら、そういう事故に遭う心配は絶対になかったかといえば、必ずしもそうとはいえない。予測されない問題に対しては、科学は案外無力であるからである。
ただ科学の効果というものは、こういう予期されない問題についても、その範囲をだんだん狭めていくというところにある。そういう意味では、非常に強力なものであって、科学の力によって災害を減らすことはできるが、それには統計の観念を常にもっている必要がある。すなわち山崩れが起き得る条件になった時に、仕事を止めて避難する。しかし起きない場合も、もちろんある。その時に科学の悪口をいってはいけないのであって、科学の力は統計的な面において発揮されるのである。実際にある事件にぶつかった場合、前にいった例をとれば、一万人中九千九百九十九人は治ったが、一人だけ死んだ場合、誤差は非常に小さいが、その誤差にあたった人自身にとっては、科学は全然役に立たなかったわけである。台風がやってきて、土砂崩れがあったというような場合には、鳶職などの中で、自分の人生の体験で身につけた、比喩的な言葉でいえば、筋肉で覚え込んだ智慧で、危機を逃れたというような人がよくある。そういう場合には、頭に入れた知識はあまり役に立たないことが多い。それは科学の本質からくるものであって、いわば当然のことである。科学は、洪水ならば洪水全体の問題を取り上げ、それに対して、どういう対策を立てるべきかということには大いに役に立つ。すなわち多数の例について全般的に見る場合には、科学は非常に強力なものである。しかし全体の中の個の問題、あるいは予期されないことがただ一度起きたというような場合には、案外役に立たない。しかしそれは仕方がないのであって、科学というものは、本来そういう性質の学問なのである。
世の中にはよく、科学者というものは、船が沈んだり、洪水が起きてしまったり、何か事故があったあとに出てきて、あれは原因はこうだった、ああだったということを、後からいう人間であって、ほんとうにその現場にいたら、やはり同じことだろうという人がある。気象警報を無視したり、分りきった治水策を実施しなかったりするようなことは、科学以前の問題であって、ここでは触れないことにする。本質的な問題としては、そういう非難は、ある程度まであたっている。しかしそうかといって、ちっとも科学を卑下する必要はない。科学というものには、本来限界があって、広い意味の再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。