メイカーズ 第一部, コリイ・ドクトロウ

第十三章


そんなこんなで彼女はロシアへと飛び立ったのだった。レスターはビジネスクラスのチケットを買うよう主張した。ブリティッシュ・エアウェイズにはビジネスクラスの上にさらに三つのクラスがあることを見つけて彼女は困惑した。おそらく王侯貴族のために用意されたさらに高級なクラスなのだろう。十四時間のフライトを彼女はリクライニングシートと暖められたピーナッツと機内ネット接続で楽しんだ。レスターと簡単なテレビ会議さえできた。ティジャンはホテルまでのガイドを用意してくれて彼女はプリバルチースカヤホテルを宿に選んだ。スターリン時代に作られた崩れ落ちつつある四つ星の豪勢なラスベガス風巨大ホテルだ。正面からの姿はソ連のコンクリート偏愛の悲劇を如実に物語っていてロビーの壁にはひび割れが走っていた。

ホテルのチェックインではこれまでに見たこともないような事細かな質問票に答える必要があった。政府定型の見開きページには職業、雇用主、出生地、家族といった質問事項が並んでいる。彼女が困っているのを見てチェックインカウンターで彼女の隣にいたアメリカ人ビジネスマンが「適当に埋めれば大丈夫ですよ」と言った。「私はいつも住所欄にはカリフォルニアのエニイタウンどこかの町フェイクストリート架空通り一二三、職業欄には壁紙張り職人と書いています。指名手配されている悪党だとわかりでもしなければ彼らは調べやしません。ロシアは初めてですか?」

「ご覧のとおりです」

「慣れますよ」彼は言った。「私は仕事で毎月ここに来るんです。もし馬鹿げた信じがたいことがあればそれはそういうものなんだと割り切ればいい。ここにはたくさんの決まり事があるんですが誰もそれを守っちゃいないんです。理不尽な要求は全部無視です。そうすれば物事が進む」

「アドバイスありがとうございます」彼女は答えた。相手は中年だったがそれは彼女だって同じことだ。すてきな目をしていて結婚指輪はしていなかった。

「夜は出歩かず、『シャンパン』と呼ばれているものを飲んだり、通りで両替したりしないことです。メラトニンとモダフィニルは持っていますか?」

彼女はあっけにとられて彼を見つめた、「薬ですか?」

「そうです。片方で今晩眠り、もう片方で朝起きれます。それを明日もう一回やれば時差ぼけも消えますよ。最初の二、三日は酒とカフェインは止めておいた方がいいでしょう。メラトニンは合衆国でさえ店で買えるし、モダフィニルも事実上合法なものです。ここに予備を持ってます」彼は旅行かばんをまさぐるとウォルグリーンズのジェネリック薬が入ったボトルをいくつか取り出してみせた。

「結構です」彼女は若い受付係にクレジットカードを渡しながら言った。「でもありがとうございます」

彼は頭を振った。「大変ですよ」彼は言った。「時差ぼけはこんなものよりよっぽどたちが悪い。ここは合衆国の裏側です。私は出かけるときにはいつもこいつを持って歩くんですよ。まあいいでしょう。私のルームナンバーは一四二二です。もし午前二時に天井を見上げながら後悔したら電話してください。こいつを届けますから」

誘っているのだろうか? やれやれ。彼女はひどく疲れていて相手の意図を図るのも億劫だった。眠るために何かの手助けが必要だとは思えない状態だ。もう一度、彼に礼を言うと彼女はスーツケースを引っ張りながら巨大なシャンデリアがぶら下がる大洞窟のようなロビーを横切ってエレベーターへと向かった。

しかし眠ることはできなかった。ネットワークへの接続には料金がかかり……彼女はそんな状況にもう何年も出くわしていなかった……ファイアーウォールで弾かれたワームや侵入者は天文学的な数に上った。接続は遅くていらいらさせられた。午前二時には確かに彼女は天井を見上げるはめになったのだった。

ホテルのロビーにいた見知らぬ人間がくれると言った薬を飲んでみようか? あれは*ウォルグリーンズのボトル*に入っていたじゃないか。ちゃんとしたものに違いないのではないか? 彼女は端が欠けたナイトテーブルに置かれたホテルの電話をとると相手のルームナンバーを押した。

「……もしもし?」

「ああ、起こしてしまったようですね」彼女は言った。「申し訳ありません」

「大丈夫。チェックインの時の女性の方ですね? ルームナンバーを教えて下さい。すぐ持って行かせますよ。メラトニンは今、モダフィニルは朝に飲んでください。お安いご用です」

「ええ」見知らぬ男にルームナンバーを教えるということについて彼女は考えていなかった。しかし乗りかかった船だ。「二八一三です」彼女は言った。「ありがとうございます」

「ジェフです」彼が言った。「私の名前はジェフ。ニューヨークのアッパーウエストサイドから来ました。健康関連の企業で働いています」

「スザンヌです」彼女は答えた。「最近はフロリダに住んでます。ライターです」

「それではおやすみなさい。スザンヌ。薬はすぐ届けます」

「おやすみなさい。ジェフ。ありがとう」

「ポーターのチップは一ユーロか二、三ドルで大丈夫。ルーブルでいくら渡すか悩む必要はありません」

「ああ」彼女は言った。海外旅行をするのはずいぶんひさしぶりだ。ちょっとしたことがどれだけ面倒か彼女は忘れていたのだ。

彼が電話を切った。彼女はバスローブを着て薬が届くのを待った。ポーターは十五分ほどで到着し、彼女に錠剤が二つはいった小さな封筒を手渡した。ポーターは十五歳くらいで手入れのされていない口ひげに荒れた肌をしていて彼女が一ドル紙幣を何枚か手渡すと歪んだ歯並びを見せて笑った。

数分後、彼女は再び電話をかけた。

「どちらがどちらなんですか?」

「小さな白い方がメラトニンです。今、飲む方です。うっかりしてました」

再び彼と顔を合わせたのは朝食ルームで彼がハードボイルドした卵とポテトパンケーキ、いたるところで目にするキャビア、それにサラミとチーズを満載にした皿を運んでいる時だった。もう片方の手にはストロベリージャムと大量のオウムをひと月は飼えるくらいたくさんのドライフルーツを添えたオートミールの粥の器を器用に持っている。

「そんなに食べてどうやって体形を維持しているんですか?」彼女は彼のテーブルに座りながら聞いた。

「ああ、そいつが私の飯の種でしてね」彼はそう答えた。「おっと私はコーヒーを二杯飲んでからじゃないと仕事の話はしないようにしているんです」そう言うと彼は自分でカフェイン抜きのコーヒーを注いだ。「これが二杯目だ」

彼女は自分の分のコーンフレークとフルーツサラダを取りに行った。「ビュッフェ形式の朝食だといつも元がとれていない気がしてしまうんです」彼女は言った。

「心配ありません」彼は言った。「私があなたの分まで食べましょう」彼はコーヒーを挽くともういっぱいカップに注いだ。「情けは人のためならず、ですよ」自分の太ももをこすりながらそう彼は言った。「マーサ、あいつが目を覚ましたよ!」甲高いイーゴリの声を真似て彼が言った。

彼女は笑った。

「あなた、ええっと、*お薬*に凝っているんですか?」彼女は聞いた。

「化学を通じてより良い暮らしを実現できると確信しているんです」彼はそう答えた。コーヒーをもういっぱい注ぐ。「ああ、コーヒーとモダフィニルの組み合わせはよく効く」

朝、目覚ましで起きた時に彼女はその薬を飲んでいた。とんでもなく疲れていてベッドから這い出すことを考えると吐き気すら催したがモダフィニルのおかげで何とか起き上がれたのだ。その薬について多少知った今では、もし商業路線パイロットがそいつを使うことをTSA運輸保安局が認可しても悪いことにはならないだろうと思えた。

「さて私のこの体形のことについて話しましょう。私のいる会社にはこのペテルブルクで最先端の製薬事業をやっている提携先がありましてね。そこの製品にはFDA食品医薬品局が認可に抵抗しているものもあるんです。多くの国では広く受け入れられているというのにだ。こいつもその一つなんです。ひとつは代謝を促進する薬です。私はもう一年ほど使っています。私は筋金入りのカロリー狂いで一日に五、六千カロリーは詰め込んでるんですが体重は一オンスも増えていません。それどころか実を言うと痩せて肋骨が浮きださないように忘れずに十分な量を食べなければならないんです」

スザンヌは彼がさらに千カロリーほど平らげるのを見つめた。「健康は大丈夫なんですか?」

「何と比較してですか? 肥満と? それなら答えはイエスだ。それとも毎日、十マイル走ってオーガニックフルーツとナッツのバランス食品を食べることと? それだと答えはノーです。しかし平均的なアメリカ人がカロリーの大半を炭酸飲料で摂っている時代には『健康』の意味もかなり多義的になりますよ」

その話は彼女にレスターの言っていたことを思い出させた。もうずっと前にIHOPで聞いた話だ。気がつくと彼女はゆっくりとレスターの話を彼に喋っていた。

「ちょっと待って。あなたがスザンヌ・*チャーチ*? ニューワークのチャーチ? サンノゼ・マーキュリー・ニューズの?」

彼女は赤面した。「私のことを聞いたことがあるとは意外です」彼女は言った。

彼は目配せしてみせた。「もちろん。チェックインカウンターで肩越しに名前を覗き見て、昨晩あなたの素性を調べたんですよ。朝食の時におしゃべりできるようにね」

もちろん冗談だったがその言葉は彼女を妙にぞっとさせた。「冗談でしょう?」

「冗談です。*もう何年も*あなたの記事を読んでいますよ。レスターの話は事細かに追っている。職業的な興味からです。あなたは私たちの世代の代弁者だ。ご婦人。もしあなたのコラムを読んでいなければ私はずいぶん無教養なままだったでしょう」

「あまり困らせないでください」むず痒さを押さえるのはなかなか大変だった。

彼は周囲の視線を集めるほどの笑い声を上げた。「わかりました。昨晩はあなたのことをグーグルで検索して過ごしたと言った方が良かったですか?」

「もしどちらか選ばなきゃいけないというのなら私が有名人だったという方がまだましだと思うわ」彼女は答えた。

「減量治療の病院について書くためにここに来たってわけですか?」

「そうです」彼女は言った。別に秘密でもなんでもなかったが今までそのことを口に出して言ったことはなかった。結局のところ記事になるような話ではないかもしれないのにだ。しかし一方で情報を漏らしたせいでどこか資金力のある報道社に独自調査チームを送り込まれてスクープを横取りされるようなことは避けたいという思いも心のどこかにあった。

「そいつはすばらしい」彼は言った。「こいつこそまさに私の人生で一番のニュースですよ。あなたは私たちの仕事に関心を持たれた。こいつは分水嶺になる。減量治療をアメリカ人に売りつけるのは簡単なことだろうと思うでしょう。旅行の必要さえ無ければその通りですがね。あの外国に関心を持とうとしない怠け者たちの八十パーセントはパスポートすら持っていないんだ。おっと、これは書かないでくださいよ。お願いします」

「そうですね」彼女は言った。「心配しないで。書きません。そうだ。夕食後の九時ごろにロビーで会いませんか? 一緒にコーヒーでも飲みながらインタビューさせてください」今ではこの男に対して疑いよりも興味の方が優っていた。それに十時には最初の病院に訪れる予定で時刻はもう九時になろうとしているところだった。ロシアのラッシュアワーがどんな風かわかったものではない。

「ええ、いいですよ。ですが私たちの病院やプラントも訪問していただきたいものです……ここで私たちが運営している現場をぜひ見ていただきたい。グーグルアドワーズのトップに出てくるような金歯の光沢シャツがいるような所じゃない。本当に標準的なアメリカと変わらない所なんです。いやそれ以上だ。スカンジナビア風と言ってもいいかもしれない。大勢の医者がスウェーデンやデンマークから来ています。あちらの社会主義的な医療システムから逃れるためにね。規律のとれた運営がおこなわれています。ya shore, you betcha見ればきっとわかっていただける」最後の言葉をスウェーデン語の声マネで彼は言った。

「ええっと」彼女は答えた。「スケジュール次第ですね。今晩、調整してみます。それでいいですか?」

「いいですとも」彼は言った。「*待ちきれないな*」彼女と一緒に立ち上がると彼は両手で彼女と長い握手をした。「お会いできて本当に光栄です。スザンヌ。あなたは私の憧れの人だ。わかってくれるでしょう?」

「ええっと」彼女は再び言った。「ありがとう。ジェフ」

彼は自分が少々強引すぎたと感じたようで謝ろうとした。

「そう言っていただけると本当にありがたいです」彼女は言った。「今夜、そのことについても話しましょう」

彼は満面の笑みを浮かべた。それだけで相手に対して優しくなれるような笑みだった。

彼女はタクシーを呼ぶためにフロントへ向かった……白タクやあたりをうろつく客引きが紹介する車には近づかないよう何度も言われている。彼女が後部座席に乗り込むとドアマンがタクシー運転手にレスターがいた病院への道順を二回繰り返し、料金表と運転手がメーターのスイッチをいれたことを確認した。おかげで彼女は落ち着いてサンクトペテルブルクの町並みが後ろへ飛び去っていくのを見ることができた。

携帯電話の電源をいれると彼女はそいつがなんとかロシアの回線につながろうとするのを見守った。車が五分ほど走った所で……次第に見えてくるエルミタージュ美術館の巨大な姿や他の車をかき分けるようにして走る青い点滅灯を付けた公用車やそいつに道をゆずる自動車の群れを見物するには十分な時間だ……彼女の電話がいかれたように鳴りだした。見てみると……十通のメール、五、六通のボイスメール、十通あまりの新着の記事が表示され、さらにニューヨークの電話番号からの電話がかかってきていた。

彼女はニューヨークからの電話をボイスメールに転送した。番号には見覚えがなかった。たとえもし眠っている間に世界の終わりが来ようとも彼女は電話に出る前には相手が誰なのか知っておきたかったのだ。彼女はメールを新しい方からたどっていった……新しい五通はレスターとペリーからのもので次第に混乱した内容になっていっていた。そしてティジャンから一通、次にケトルベリーから一通。みんな「ニュース」について話をしたがっていたが肝心の内容はわからなかった。彼女の古巣であるマーキュリーの編集者からは「ニュース」についてコメントをもらえないかというメールがきていた。ティジャンからも同じ内容のものがきている。そして一番古いのはあのいまいましい出っ歯のねずみのフレディからのものだった。

「コダセルの債権者が債権回収に乗り出しています。株価は一セントを下回ってNASDAQからの上場廃止も迫っていますが何かコメントをいただけますか?」

胃が冷え、朝食が固い塊となってもたれた。新着記事にはケトルウェルのコメント(「全従業員に賃金支払いがなされますし、債権者には支払いがなされます。逆風がおさまれば株主は十分な利益を得られるでしょう」)やペリーのコメント(「くそ食らえだ……コダセルができる前から俺はこうしてきた。これで止められると思うなよ」)、レスターのコメント(「こいつは現実になるには美しすぎるしクールすぎると思うね」)が載っていた。そこには彼女のことも載っていた。彼女を失敗したムーブメントの宣伝ガールに仕立てあげるいつもの悪意に満ちた内容だ。

だが今の彼女はまさにそれそのものだった。

電話が鳴る。ケトルウェルだ。

「もしもし、ケトルウェル」彼女は言った。

「いったいどこにいるんだ」彼が言った。かなり苛立っているようだ。カリフォルニアは真夜中のはずだ。

「サンクトペテルブルクよ」彼女は答えた。「ロシアの。ほんの十秒前に気がついたのよ。何が起きているの?」

「やれやれだな。知ったことか。大暴落だ。直近の四半期見積もりに実績が届かなかった。それで下落が始まった。次に数件の訴訟で負けた。その次は敵対的な報道がいくつか。株価は下落し続けて事態はどんどん悪くなっている。絵に描いたような大混乱だ」

「だけどあなたたちのところにはものすごい数のエンジニアがいるのに……」

「その通り。私たちからすれば彼らは非常に重要なものだ。しかしウォール・ストリートは私たちが最悪の状況にいるとみなしている。アナリストどもには私たちの価値が理解できないんだ。それに加えて小さな市場のカオスと老いぼれの執念深い馬鹿どもときた。あのフレディのクソ野郎みたいなやつらだ。私たちがまだ潰れていないのが驚きだよ。やつらは私たちを二十一世紀のエンロンと呼んでるんだぞ」

「ケトルウェル」彼女は言った。「私は同じような例を何度か見てきたけど何かが間違っているわ。ドットコムバブルが破裂した時、CEOたちはみんなに何も問題はないって言い続けた。最後の瞬間までね。決してタオルを投げはしなかった。彼らはまるで沈みゆく船の艦橋に立つ船長のようだった」

「それで?」

「今、起きていることよ。あなたはまるで泣き言を言っているように聞こえるんだけど。なぜ戦おうとしないの? たくさんのドットコム企業が敗北していったけど決して敗北を認めずにそれを切り抜け、組織を再編して生き抜いたCEOも少しはいる。なぜ諦めようとするの?」

「スザンヌ、ああ、スザンヌ」彼は笑ったがそれは明るい笑いではなかった。「君はこいつが一晩で起きたと思っているのか? この問題が昨日突然持ち上がって、それに私がタオルを投げようとしていると?」

そうではないのだ。「それじゃあ……」

「その通り。私たちは何ヶ月も下落を続けているんだ。私は最大限の笑顔を貼り付けて沈みゆく船の艦橋にここ二四半期の間立ち続けている。ビジネス界でこれまで誰も見たこともないほどの感動的な現実歪曲空間を私は作り出していたというわけさ。負けを認めようとしているからって戦わずにそうしているわけじゃないんだ」

スザンヌはなぐさめの言葉が苦手だった。湿っぽい話は嫌いだったのだ。「ランドン、ごめんなさい。とても大変だったでしょう……」

「ああ」彼は言った。「まったくさ。君にこれをスクープして欲しかったが事業計画が破綻しときにはマスコミに話さなければならない約束だった。わかってくれるだろうが」

「わかるわ」彼女は言った。「スクープのことはどうでもいいの。言葉も無いわ。私はすぐにこれ関して速報を投稿する。『ええ、これは本当です。詳細については調査中です』ってね。それからあなたやレスターやペリーにインタビューをする。数時間はかかると思う。大丈夫かしら?」

彼は再び笑った。まったく面白くなさそうだ。「ああ、それは*大丈夫*」

「ごめんなさい。ケトルウェル」

「いやいや」彼は言った。「まったく問題ない」

「聞いて。あなたが過去二年の間にやってきたことに敬意を払って私はこの記事を書きたい。これほど重要なものの誕生に立ち会ったことは今だかつてないわ。詳しく記録されるだけの価値がある」

泣いているような音が聞こえて鼻をすする音がした。「君はすばらしい。スザンヌ。君がいなければとてもこんなことはできなかっただろう。君よりうまくこれを記事にできる者はいない。いくらすばらしい偉業であっても誰もそれを知らず、記憶していなければ無意味だ」

彼女の電話が音をたてた。ちらりと目をやった。昔なじみの編集者だ。「聞いて」彼女は言った。「もう切らなきゃ。*出なきゃならない*電話が来ているの。すぐにかけ直す」

「必要ない」彼は言った。「大丈夫。私もいろいろ忙しい。今日は大変な騒ぎでね」彼はまるで犬が吠えるように笑った。

「体に気を付けて、ケトルウェル」彼女は言った。「馬鹿どもの相手をして苦しまないで」

「君もでたらめにすり潰されたりしないように

彼女は編集者からの電話に出た。「ジミー」彼女は言った。「ひさしぶり。電話に出られなくてごめんなさい……取材でロシアにいるのよ」

「もしもしスザンヌ」彼が言った。その声は妙に緊張していた。あるいは彼女の今の気分がそう聞こえさせているのかもしれない。「まず君に謝らなきゃならないな、スザンヌ。すばらしい仕事をしているようだね。君のキャリアの中でも最高の仕事だと思うよ。君の仕事はずっと追っている」

その言葉は彼女を少しだけいい気分にさせた。ジミーとの別れ方については居心地の悪いものがあったがそれが正しい選択だったと言われたような気がしたのだ。彼の言葉は彼女を勇気づけた。「ジミー、私が今いったい何をしているかわかる?」

「よしてくれ、スザンヌ。わからないよ。ともかく僕は君にやってはいけないことを忠告したいんだ。オフレコで頼む」

「わかった。オフレコで」

「僕みたいなことはするな。沈んでいく船の最後の舟板に顔を歪ませてしがみつくような真似は。最後のあがきや愚か者が崩れ落ちて沈んでいく様を記録しようなんて思っちゃいけない。偉大な帝国が崩壊していくさまを速記するような人間になっても面白いことは何もない。報道するなら他の物を探すことだ」

その言葉は彼女の心臓を沈み込ませた。かわいそうなジミー。周囲の世界が崩れ落ちていく間、彼はかつて栄華を誇ったマーキュリーのニュース編集室に留まっていたのだ。どんなに辛かったことだろう。

「ありがとう」彼女は言った。「インタビューがご希望?」

「なんだって? いいや、ご婦人。僕は墓場荒らしじゃない。ただ電話して君が正しかったことを確かめたかっただけだ」

「ジミー、あなたはなんて優しい人なの。ともかく私は大丈夫。自分の足で立っている。もしこのねたを報道する人が誰か見つかったら彼女に私の番号を教えてかけるように言って。取材に応じるから」

「スザンヌ、本当のことを言うと……」

「*大丈夫よ*。ジミー」

「スザンヌ」彼は言った。「僕らの編集室ではこういったものはもう取り上げることができないんだ。今やたんなる地方スタッフさ。全国ニュースは通信社かマクラチの全国ニュース編集室からのものだけだ」

彼女は深く息を吸った。そんなのあり? ジミーが電話をかけてきた時、彼女が最初に考えたのはマーキュリーを離れたことで自分は何か恐ろしい間違いを犯したと知るのではないかということだった。しかしあの新聞社が行き着いた先がこれなら彼女はぎりぎりのところで逃げ出せたということになる。たとえもし彼女の救命ボートが沈みつつあるとしても、まだしばらくの余裕はある。

「申し出はまだ有効よ、ジミー。あなたのお望みの相手のインタビューを受ける」

「君は優しいな、スザンヌ。何だってロシアなんかにいるんだ?」

彼女は話した。スクープのことはどうでも良かった。ジミーが誰かをロシアに送るということもなさそうだ。何しろ彼は何か事件があってもマリン郡にレポーターを送ることさえできないのだ。

「なんて話だ!」彼は言った。「驚いた!」

「ええ」彼女は答えた。「そうでしょうね」

「そうでしょうねだって? スザンヌ、これはほとんど全てのアメリカ人の生活で最も重要な問題の一つなんだぞ……自分の体重についてとめどなく悩んでしまうことなくやっていける者なんか千人に一人もいないだろう」

「ええ、それについてはちょうどいいデータを持っているわ」彼女はそのデータを上げてみせた。彼は歯の間から息を吸い込んだ。「そいつはトップ記事*間違いなし*だ。スザンヌ。五十の地方新聞を*合わせた*よりもいい仕事を君はしている」

「本当に?」

「本当さ」彼は答えた。「この分じゃ僕は君に雇ってくれるよう頼まなきゃいけなくなるな」

彼からの電話を切ると次に彼女はペリーと電話し、その後、レスターと話した。レスターは旅行に出かけてロシアの昔なじみに会いたいと話した。もし彼女がもう二、三週間そっちにいるのなら、そっちで会えるだろうとも。ペリーは不機嫌で意固地になっていた。もう少しで3Dプリンターを出荷できそうで、たとえマーケティングと流通を担うコダセルのネットワークが無くとも自分にはそれができると確信しているようだった。もう少しロシアで過ごすつもりだという彼女の言葉もほとんど聞こえていないような有様だった。

それから彼女は病院に入っていって小難しい質問をしたり写真を撮ったり録音やメモ書きをした。できるだけ克明な説明を書けるようにほんの小さな細部にまで注意を払った。

ここはロシアで、しかも病院だというのに彼らはいい身なりをしていた。いわゆるビジネスカジュアルだが仕立てがよく、布地もよいものだった。ヨーロッパ人はテキスタイルをよく理解し、ここでは腕のいい仕立屋が安い値段で仕事をこなしているようだった。

この分では誰かに頼んで紺色のブレザーと白いシャツとちゃんとしたスカートを用意してもらわなければならない。数年をフロリダ流のカジュアルで過ごした後には再び大人らしい服を着るのも悪くないだろう。

その晩、夕食の後で彼女はジェフに会ってもっと詳しい話を聞いた。医療ツーリズムという点から見てここでは何か重大なことが起きていた……たんに減量だけではなく、遺伝子治療や怪しげな幹細胞のたぐい、高度な人工器官、過去のオリンピックでロシアが追放の憂き目にあったいかれた運動能力強化といったものまで用意されている。

彼女は記事用のメモの入力や電話の応対に追われた。しかしある特別な相手から電話が来た時にはすぐにかけ直した。自分の部屋でリラックスした状態になって備え付けのコーヒーメーカーでいれたコーヒを飲みながら彼女は電話をかけた。

「もしもし、フレディ」彼女は言った。

「スザンヌ、我が最愛の人!」息を弾ませるような相手の声が聞こえた。

「何か御用?」

「取材したいだけだよ。ハニー。ちょっとした彩りにね」

「あら、あなたのために暖めていた言葉があるのよ」彼女は時間をかけて用意した言葉を投げつけてやった。ホームレスたちと暮らしているうちに彼女のボキャブラリーはずいぶん豊富になっていた。

「それからこれはあなたにとっても耳寄りの情報だと思うけど」彼女はコーヒーを一口飲みながら言った。「あなたとはお別れよ。フレディ」


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