メイカーズ 第三部, コリイ・ドクトロウ

第五十五章


レスターの作業場には訪問客をもてなしたり昼寝をしたりするためのソファーが置かれていた。いつもであれば杖を使って作業台からソファーまで歩いていくのだがペリーとの再会に驚いた彼はそれを完全に忘れて一、二歩進み、自分の尻が落下を始めたところでようやく体を支えるものがないことに気がついた。ペリーが彼の肩の下に体を差し入れてその体を支える。レスターはこみあげた恥ずかしさに顔を真赤にした。

「落ち着けよ。無茶しやがって」ペリーが言った。

「すまん、すまん」レスターがもごもごとつぶやく。

ペリーはソファーに彼を降ろすとあたりを見回した。「何か飲むものはないか? 水とか? バスだとこんなに時間がかかるとはな。完全に予想外だったよ」

「バーバンクじゃバスに乗ってるのか?」レスターが言った。「おいおい。ペリー。ここはロサンゼルスだぞ。ホームレスだって自分の車に乗ってる」

ペリーがあらぬ方に顔を向けると頭を振った。「バスの方が安いんだよ」レスターは唇をすぼめた。「何か飲むものはないのか?」

「冷蔵庫にある」入れ子状になった素焼き製の蒸発冷却式クーラーを指さしながらレスターは答えた。その即席のクーラーににやりと笑うとペリーはしばらくそれに空いた穴の中をまさぐった。「何か酒か、ガラナか、カフェインが入ったものはないのかよ?」

レスターは謝るように肩をすくめてみせた。「ないね。そういうのはやめたんだ。俺の体に入ってくるものは全部、高い給料を払った栄養士チームの監視を受けている」

「そんなに悪くは見えないがな」ペリーが言った。「少し痩せたかな……」

レスターが途中で遮るように言った。「テレビで見るようなやつほどは悪くは見えないってことだろ? 死人ほどは悪くはないさ」全国の病院にはファトキンスが溢れかえっていた。次々に引き起こされる病的な骨格崩壊のせいだった。骨はもろく、関節は壊れ、それは誰の手にも負えなかった。症状を全面的な悪化から遠ざける唯一の方法は最初の兆候……消化不良と恒常的な体の硬化……が起きた時点で速やかに命を断つことだけだった。いったん栄養液を体が受け付けなくなればできることは餓死を待つことだけだ。

「彼らとは違うな」ペリーが頷いた。レスターが見たところ彼は少し足が悪くなっているようだった。あの昔折れた方の腕は少し強張ったように体の横に垂らされていた。

「まあ元気にやってるよ」レスターは言った。「もちろん医療費は信じられないほどかかってるがな」

「フレディにはその病気のことを知られないようにしろよ」ペリーが言った。「やつは喜んで飛びつくだろうからな……『ファトキンスの先駆者、代償を支払う……』ってな」

「フレディ! あのくそ野郎のことなんかずいぶん長い間、忘れてた……まったく、少なくともここ十年は思い出さなかった。あいつまだ生きているのか?」

ペリーが肩をすくめた。「たぶんな。もしあいつが死んでたらやつの墓石に小便をかけにいくツアーバスのチャーター代を援助してくれと誰かが頼んでくるだろうさ」

レスターはそれに大笑いした。あまりに激しく笑ったせいで咳き込んでソファーにぐったりと座り込むと彼は胸の調子が良くなるまで深くヨガの呼吸法を続けた。

魚雷のような形のボトルに入ったレスター専用の三重に蒸留された炭酸抜きの水を手にペリーは彼の反対側のソファに座った。「スザンヌは?」彼が尋ねた。

「元気だ」レスターは答えた。「半分の時間はここで、もう半分の時間は飛び回って過ごしてる。まだライターをやってるよ」

「今は何を書いているんだ?」

「料理だ。信じられるか? 分子料理学……コンソメスープの質をあげるために遠心分離器を使うフードハッカーどもだ。こんなにうまいものは食べたことがないと言ってる。先週は分子進化用の遺伝的アルゴリズムを書き上げてプリント可能な分子を自作した少年のことを記事にしていた。そいつを使うと組み合わせの悪い味を混ぜて美味い味を作ることができるんだと……たとえばチョコレートといわしを掛け合わせてとんでもなく美味いものを作ると言ったらいいかな?」

「そんな分子があるのか?」

「スザンヌはあると言っている。彼女が言うにはブラックチョコレートの上に置いたいわしを食べてる間、顔にそいつを噴霧器でかけるんだと。そうすると今まで食べた何よりも美味く感じるそうだ」

「OK。そいつはまちがいなくぺてんだ」ペリーが言った。二人は互いに顔を見合わせながら馬鹿みたいににやにやと笑った。

再び昔のようにペリーと同じ部屋で過ごすことの居心地のよさはレスターには信じられないほどだった。彼の古い友達は最後に顔を合わせた時よりもだいぶ老けこんでいた。短く切った髪のかなりがグレーになり、生え際がだいぶ後退している。指の関節は浮き上がって皺が寄り、顔の深い皺はまるで彫刻のようだった。ざらざらした肌は道端にいるホームレスのようで腕には無数の小さな傷が走り、喉にもいくつか傷があった。

「ヒルダの調子はどうだ?」レスターは尋ねた

ペリーが目をそらした。「ずいぶん長い間、聞かなかった名前だな」彼が答えた。

「おっと。すまない」

「いや。いいんだ。ときどき彼女からはメール爆撃が来るよ。いつものごとく元気でけんか腰だ。果敢に戦ってるよ。今はファトキンス問題に取り組んでいる……俺が彼女と出会った時と同じだな。あの論争が十年一日なのはおもしろい」

「はっはっはっ」レスターは笑った。

「OK。これで貸し借りなしだ」ペリーが言った。「無礼者王者選手権、獲得点数は一対一だな」

二人はしばらくのあいだとりとめもなくしゃべり続けた。レスターはディズニーラボでの秘められたる天才としての生活を話し、ペリーは小さな工房で季節労働をしながら旅して回る路上での生活のことを話した。

「そいつらはおまえに気がつかないのか?」

「俺に? まさか。俺が有名人だったのはずっと昔の話だ。知っているだろう。俺はたんなる器用で付き合いの悪い男さ。たぶんすぐにどこかに行く。金の問題はない。アイデアを改善するための秘密の提案はいつだってある。そいつを使えば投資分より少しは多い額を回収できるんだ」

「おまえは全く変わってないな。『付き合いの悪い』って部分以外は」

「歳をとって少し賢くなったのさ。口を開いて疑問を全て取り除くよりも口を閉じて馬鹿だと思われている方がましだ」

「ありがとう。二重人格者さん。それでハックルベリー・フィンと一緒に川を下ってるってわけか?」

「ハックルベリーはいないな」彼が答えた。その笑顔は悲しみを帯びていた。胸が痛むほどの悲しみだ。それはレスターの知っているペリーではなかった。しかしレスターだってかつてと同じではないのだ。二人ともが打ちのめされていた。ペリーは孤独なのだ。あの……いつだって友達を作っていた社交好きのペリーが孤独なのだ。

「それでどれくらいいられるんだ?」

「ちょっと通りかかっただけだよ。相棒。今朝、バーバンクで目覚めて気がついたんだ。『おい、バーバンクにはレスターがいるじゃないか。挨拶しに行かなきゃ』ってな。だけどもう行かなきゃならない」

「おいおい。しばらくここにいろよ。裏手にゲストハウスがあるんだ。小さな別荘だけどな。果樹園もある」

「夢のような生活だな?」思いがけず彼の言葉は辛辣だった。

レスターは自分の健康状態に気恥ずかしさを感じた。仕事を始めた時、ディズニーはかなりの額の株を彼に与えた。スザンヌはその大半を売り払って賢明にもそれで得た金を一群のマイクロファンドに投資していた。それに加えて彼女にはジュニア・ウッドチャックスというアフェリエイトサイト……若手記者を彼女が育て、仕事を始められるようにするサイトだ……の経営で稼いだ金もあった。二人が金で困ったことはなかった。

「まあとりあえず死なずにここで働いている」その言葉が口から飛び出た瞬間に彼は取り消したくなった。マウスでの生活が楽しくないことや自分が死にかけていることを彼は認めようとしなかった……スザンヌと一緒に、医学によってもたらされたものはまた医学によって癒やされるのだとでもいうふうに振舞っていた。

だがペリーはまるで自分の疑念が確かなものになったとでも言うように頷いただけだった。「スザンヌは辛いだろうな」

その言葉に彼はまるで頭に釘でも打ち込まれたかのような気がした。「おまえはいつだってくそみたいに察しが早いんだな」

「彼女がファトキンスを勧めたことは一度もなかった。彼女はただ記事を書いただけだ。彼女を非難する人間は……」

レスターとスザンヌが彼の健康状態について話し合う時にはいつだって重苦しい雰囲気になった。自分たちによってファトキンスが広く知られるようになり、そのせいでロシアの病院に向かって何百万もの飛行機が飛び立ったりアメリカやメキシコでの病院設立が加熱したりしたのだと二人は考えていた。

だが二人がそのことを表立って口に出したことはなかった。それを今、ペリーが口にしていた。話は続いていた。

「……FDA食品医薬品局や医者どもだ。みんなやつらに金を払ってあれを実行したんだ。おまえたちは犠牲者だと俺は思うよ。やつらの犠牲者だ」

レスターは何も言えなかった。まるで口に栓でもされたように二人の会話がとまった。ようやく彼は言葉を吐き出した。「話を変えないか。いいだろう?」

ペリーは視線を落とした。「すまない。人と話すのが下手になっちまってるんだ」

「お前が俺たちと暮らしてくれれば嬉しい」彼は言った。頭の中ではお前がすぐに出て行って二度と戻ってこないでくれれば嬉しいと考えていた。

「寂しいのか?」

「ときどきな」

「ここで働いていると言ってたな……」

「ここで働いている。一緒に改革や改良の手助けをしてくれないかとみんなに頼まれてる。頭を使って大変化を巻き起こしてくれってな。だけどまるで泥沼で格闘するようなものなんだ。何かやろうとするとすぐお手上げの状態になる。何かを改善しようするとみんなまず報告書を書けって言うんだ。そして誰もそんな報告書は読みやしない。実験的なサービスを稼働しようとしても誰もファイアウォールの設定を変えようとしない。それで改革だと?」彼は鼻で笑った。「戦艦の鼻先を爪楊枝で突っついて方向を変えようとするようなもんだ」

「まぬけと働くのはごめんだ」

「彼らはまぬけじゃない。問題はそこなんだ。ペリー。実際はかなり頭のいい人間たちだ。本当にいいやつらだよ。夕食に招いたこともある。一緒に昼飯を食うのは本当に楽しい。問題は誰一人として俺が感じているようなことを感じていないということなんだ。みんなやってみたい最高にクールなアイデアがあるのに誰もそれをやれないんだ」

「なんでだ?」

「創発性みたいなもんだな。大勢の人間を一つの部屋に押し込むとその創発性はごみくずみたいになっちまうらしい。その人たちがどれほど偉大でも、それぞれが持ってるアイデアがどれだけすばらしくても関係ない。全体としての動きはくそになる」

「信頼性計算のことを思い出すな。信頼度九十パーセントの二つの部品を設計に使うとできあがったものの信頼度は九十パーセントの九十パーセント……つまり八十一パーセントになるんだ。信頼度九十パーセントの部品を組み合わせていくとできあがったものは出荷前に爆発するようなものになっちまう。

たぶん人間も似たようなものなんだろう。九十パーセントは信頼できて十パーセントは信頼できない人間が別の九十パーセントは信頼できる人間と一緒に仕事をすると八十一パーセント信頼できるチームができあがるんだ」

「そのモデルはいいな。直感的だ。だが俺にとっては悪い知らせだ。憂鬱になるよ。つまり俺たちのやっていることは互いの短所の強化ということだろう」

「いや、それはたぶん場合による。おそらく短所は乗算的に増加する」

「それで長所は?」

「加算的にだろうな。ずっと緩やかな曲線での増加だ」

「もしなにか定量的な測定方法を思いつければ興味深い研究プロジェクトになるな」

「それで日がな一日おまえはここで何をやっているんだ?」

レスターは顔を赤らめた。

「どうしたんだよ?」

「だいたいは前より大きい機械式コンピューターを作ってる。新しい成形手法を使ってプリントしているんだ。組み立てをやるための研究助手も何人かいる。あれをやっていると気分が落ち着くんだよ。押出成形のプラスチック製髑髏で作った物理ゲート上でApple ][+クローンの完全実行をやってやった。ビルの一フロア全体を占拠するくらい大きいんだ。ゲームのポンを遊ぶ時にそいつがたてる音ときたら。部品の噛み合う音がまるで腐肉食らいの甲虫が象に群がって骨だけにしていく時にたてる音みたいなんだ」

「そいつは見てみたいな」少し笑いながらペリーが言った。

「手配できるぜ」レスターは答えた。

二人はまるで歯車のようだった。同じ工場で作られ、精巧な歯を持ち、互いにかみ合ってエネルギーを伝えて回転を続けられる歯車だ。

二人はまるで歯車のようだった。互いから引き離され、その精巧な歯が欠けて歪むまで機械の中で間違った使い方をされ、互いにかみ合うことはもはやなかった。

二人はまるで歯車のようだった。互いにつなぎ合わされてもうまくかみ合わず、きしみやずれを起こしながらそれでもなお回転を続けていた。回転を続けていたのだ。


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