民主主義, 文部省

第十四章 民主主義の学び方


一 民主主義を学ぶ方法

ものごとを学ぶためのいちばんよい、いちばん確かな方法は、学ぶべき事柄を実行してみることである。たとえば、野菜の作り方を学ぶにも、本を読み、人の話を聞いただけでは、ほんとうのことはわからない。しかし、自分で家庭菜園をやってみて、種をまき、肥料をやり、害虫とたたかっていると、その間に野菜作りのこつがのみこめるようになる。畳の上でいくら泳ぎ方を教えられても、決して泳げるようにはならない。泳ぎ方を学ぶ唯一の方法は、実際に泳いでみることである。つまり、実際にやってみることによって学ぶのが、教育の根本の原理なのである。

民主主義の場合もそれと同じである。民主主義のことは、いろいろと本に書いてある。しかし、民主主義は、本で読んだだけでは、ほんとうにはわからない。民主主義は、単なる観念や理論ではなくて、社会に共存しているすべての人々の考え方や、行動や、生活そのものの中に存在しているのである。だから、民主主義を学ぶには、民主主義的な生活を実行してみるのがいちばんよい。自分でやってみれば、民主主義のよさがわかる。誤った民主主義とはどんなもので、そこからどんな弊害が生ずるかも、身をもって体験できる。そういう弊害を取り除くために、自分たちでくふうし、自分たちで努力していけば、ほんとうの民主主義がどのようにして実現されていくものであるかを会得できる。民主主義を確実に身につける最上の道は、民主主義の実践以外にはない。

もちろん、民主主義をほんとうに自分のものにすることは、決してなまやさしいことではない。近代ヨーロッパやアメリカでも、正しい民主主義が成長してくるまでには、何百年という長い年月がかかった。それを学びとるには、もとよりひとかたならない努力と経験とが必要であるに相違ない。

しかし、「道は近きにあり」である。民主主義を学ぶ道は、われわれの手近なところにいくらでもある。それを頭で理解するのではなく、実際にやってみることによって学ぼうとする気持さえあれば、およそ共同生活の営まれているところには、どこにでも民主主義を身につけるための手がかりが見いだされる。中でも、学校は、青少年の時代から身をもって民主主義を学ぶための最もよい場所である。

それでは、学校で民主主義を学ぶにはどうしたらよいか。それには、まず、今までの日本の学校教育にはどういう欠陥があったかを反省し、更にすすんで新しい民主主の教育のあり方を考えていくこととしよう。

二 学校教育の刷新

明治以来、わが国の科学や文化はいちおうは非常な勢いで発達した。しかし、その大部分は、西洋文化の借りものであったために、ほんとうに国民生活の血となり肉となるまでにはいたらないうらみがあった。そのおもな原因は、教育の欠陥にあったということができる。

なるほど、教育も、明治このかた年を追ってさかんになり、小学校から大学にいたるまで、教育のための設備もたくさん設けられた。けれども、それらの学校でも、ほんとうに自分でものを考え、自分でりっぱな自分自身を作りあげるような教育は、なおざりにされがちであった。したがって、日本人には、自分たち自らの責任と、すべての他人との協力によって、明るい住みよい世の中を築きあげていくという気風が欠けていた。日本をりっぱな民主国家として建設していくためには、そのような教育のしかたを根本から改めなければならない。

これまでの日本の教育は、一口でいえば、「上から教えこむ」教育であり、「詰めこみ教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分で真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のものにするためではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職に都合がよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。そのような受け身の教育や、手段としての勉強では、身についた学問はできない。それどころか、多くの人々は、試験が済んだり、学校を出たりすると、それまで勉強したことの大半は忘れてしまうというふうでさえあった。

図 就職目あての勉強は困る

そのうえに、もっと悪いことには、これまでの日本の教育には、政府のさしずによって動かされるところが多かった。だから、自由な考え方で、自主独往の人物を作るための教育をしようとする学校や先生があっても、そういう教育方針を実現することはきわめて困難であった。しかも政府はこのような教育を通じて、特に誤った歴史教育を通じて生徒に日本を神国であると思いこませようとし、はては、学校に軍事教練を取り入れることを強制した。「長いものには巻かれろ」という封建思想は、教育者の中にも残っていたし、政府の権力は反対を許さないほどに強いものであったために、日本の教育は「上からの権威」によって思うとおりに左右されるようになり、たまたま強く学問の自由を守ろうとした学者は、つぎつぎに大学の教壇から追われてしまった。このようにして、政治によってゆがめられた教育を通じて、太平洋戦争を頂点とする日本の悲劇が着々として用意されていったのである。

がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。そのような自主的精神に富んだ国民によって形作られた社会は、人々の協力によってだんだんと明るい、住みよいものとなっていくであろう。そういう国民が、国の問題を自分自身の問題として、他の人々と力を合わせてそれを解決するように努力すれば、自然とほんとうの民主政治が行われるであろう。制度だけが民主主義的に完備しても、それを運用する人が民主主義の精神を自分のものにしていないようでは、よい結果は決して生まれてこない。教育の重要さは、まさにそこにある。

ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹きこまれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。

公民道徳の根本は、人間がお互に人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。それは、自分の受け持っている立場から、いうべきことは堂々と主張すると同時に、自分のしなければならないことを、常に誠実に実行する心構えである。社会共同の生活を営むすべての個人は、それぞれその受け持つ仕事を誠意をもってやりとげていく責任がある。人々が、おのおのその責任を重んじ、そのうえでお互に信頼しあい、協力しあうのでなければ、民主主義の理想はとうてい実現できない。その意味で、われわれは、日本人をこれまで支配してきた「縦の道徳」の代わりに、責任と信頼とによって人々を結ぶ「横の道徳」を確立していかなければならない。

ところで、このような民主的な「横の道徳」の原理を実際に身につけるのに、いちばん適しているのは、学校での生活である。学校では、先生の指導のもとに、同年配の青少年が共同生活を営んでいる。したがって、学校の中でみんなが共同の目的のために仕事を分担し、自治的にいろいろな活動をやっていけば、おのずからにして今いうような「横の道徳」を体得することができる。みんなで委員を選挙したり、自分が委員になって学校や学級を代表したり、クラスの会合でいろいろな問題について自由に討論したり、討論した結果を多数決で決めたりしている間に、民主主義というものはどういうように行われるものであるかが、自然にわかってくる。

学校は、決してただ知識だけを習うところではない。今述べたようにして、生徒が学校にいる間に、社会人としての正しい生き方を学ぶことは、教場での学習と並んで、きわめてたいせつな民主主義の教育の目的なのである。

三 教育の機会均等と新教育の方針

これまでの日本の教育制度では、国民のすべてが教育について平等の機会を持つということにはなっていなかった。

従来の学校制度だと、最初の六箇年の小学校だけが義務教育で、男女を問わず平等の教育が行われたが、それから先の学校にはいろいろな差別があった。まず、中学校と高等女学校とが分かれていて、女学校の方がかなり程度が低くなっていた。そして、中学校は、同じ中等教育でも、そこだけでひととおりの職業教育を行う実業学校に比べると、上級学校に進む場合にずっと有利であった。このことは、高等学校と実業専門学校とを比べた場合にも同様であって、大学にはいる道は、主として高等学校の出身者のために開かれていた。また、女子のための専門学校は、ごく少数しかなかったし、大学令による女子だけの大学は一つも設けられていなかった。このように、学校の違いや性別によって教育を受ける機会が均等でなかったことは、それぞれの学校の学生・生徒や卒業生の間におのずから差別観念を与え、男女の間にも差別思想を植えつける結果になったのである。

そこで、新憲法は、このような差別教育を根本から改めるために、第二十六条に、教育における機会均等の原理を高く掲げた。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」というのがそれである。この原則に基づいて、新たに六・三・三・四制の学校制度が設けられることになった。六年の小学校と三年の中学校とが義務教育となり、それに続く三年の高等学校には、普通教育を主とするものと、実業教育に力をそそぐものとがあるけれども、四年制度の大学に進むためにはその間になんらの差別もない。もちろん、男女の間の差別も、まったく取り除かれた。このように、学校制度が単純化され、教育を受ける機会が平等化されたことは、教育における民主主義の実現への画期的な出来事であるといわなければならない。

しかしながら、この新しい学校制度においても、大学まで進んで勉強するためには、相当の学資がいる。経済的に恵まれない家庭の青少年は、大学へ行って勉強がしたくても、思うにまかせないことが多い。このように経済事情の違いによって、ある者は大学へ行くことができ、ある者は上級の学校に学ぶべき熱意と才能とがあるにもかかわらずそれができないのでは、せっかくの機会均等もじゅうぶんに実現されないことになる。このような事情にかんがみて設けられているのが奨学の制度である。

奨学の制度は、能力があるにもかかわらず、学資がなくて困っている者に学資を出して、教育の機会均等を保証しようとするものである。これまでも、奨学の制度として国が設けたものに日本育英会があり、民間においても、いろいろな教育に熱意を有する団体や個人で、学資を与えたり貸したりして教育の普及徹底に力を尽くしてきた者が少なくなかった。けれどもそれらは、まだまだほんとうに教育の機会均等を保証するに足りるものとはいえず、今後いっそう、学資の支給を受ける学生生徒の数を増加したり、金額を増したりして、機会均等がじゅうぶんに実現されるようにしなければならない。

このほか新学制とともに、夜間学校や通信教育もおおいに拡充されて、義務教育を終って社会に出た勤労青年が、余暇を利用して広く勉強ができるようになった。また社会教育や文化施設を向上させるために、全国各地の町村に公民館が設けられ、おとなも子供も、男も女も、産業人も教育者も、みんながお互に導きあって、自分たちの教養を高めうるようにくふうされている。各大学がさかんに公開講座を開き、大学の持つすぐれた学問や文化を一般社会人に広めるように努めつつあるのも、喜ばしいことである。

しかし、教育の改革は、単に学校の制度を改めることだけにとどまってはならない。学校制度が改められると同時に、そこで行われる教育の内容も、新しい民主主義の根本方針に従って、新たに建て直されなければならない。それでは新教育の方針は、どういう点にあるのであろうか。

民主主義の根本原理は、人間の尊重である。この精神に従って、まず要求されるのは、生徒の個性を重んじ、それを正しく伸ばしていくことでなければならない。今までのように、政府が教育の方針を細かく定め、それをそのとおりに教えることを学校に強要していたのでは、学校教育はどうしても画一的となり、型にはまった人間だけが作られる結果になる。だから、新しい教育の方針では、この点をすっかり改めて、生徒の勉強に自主性と自発性とを与えるように努めることとなった。

すなわち、先生は生徒に対して理解ある指導を与え、生徒の興味を刺激して、その個性と才能とをじゅうぶんに発揮させるようにする。たとえば、絵のじょうずな生徒には絵をかかせ、理科に興味を持つ者には、すすんで動植物の研究や、物理化学の実験などをさせる。したがって、生徒の方も、先生が教えてくれるのを待って、それだけを覚えるといった受け身の態度をやめて、自分からすすんで知識を求めていくようにならなければならない。そうすれば、生徒にとって、勉強はいやな苦しいことではなく、楽しみつつ学ぶことができるようになる。自発的に学んだ知識は、一生の間身について離れることがないであろう。

新教育は、生徒の個性を重んじ、その自発性をとうとぶとともに、先生の教え方にもじゅうぶんに自主性を認める。今までのような画一的な教育では、先生も一つの型にはまった教え方をすることを余儀なくされた。これに反して、これからは、先生が自分で教育のしかたをくふうし、自ら教材を集め、郷土の地理や歴史、あるいは、時々の社会の問題や経済問題のような生きた教材を織りまぜて、生徒の知識欲を満足させるように指導していくことができる。新教育は、それだけに先生にも重い責任を負わせているわけであるが、責任は重くなっても、自主的な教育には、先生が自分自身をうちこむことができるから、教えることの楽しみもそれだけ大きくなるはずである。教える方も、学ぶ方も、伸び伸びと楽しく課業を進めていくのでなければ、ほんとうの教育の効果はあがらない。

民主国家の国民は、いろいろな事柄を学ばなければならないが、その中でも特にたいせつなのは、われわれの住んでいる社会そのものをよく知ることである。将来、世の中に出て、社会の福祉のために活動し、明るく住みよい世界を作っていくべき任務をになっている青少年は、社会というものがどんなしくみになっているか、個人は社会の中にあってどういう役割を果たさなければならないかを、あらかじめよくわきまえておかなければならない。いくら学校で知識を学んでも、その知識がよい社会を築きあげるために実際に役にたつのでなければ教育の意味はない。そこで、新しい教育制度では、学科の内容についてもいろいろな点を改めて、新たに「社会科」というものを設け、それに大きな力をそそぐことになった。

人間の組織している社会には、地理的な条件があり、歴史的な背景がある。そこでは、経済の活動が営まれ、法律の制度が存在し、政治が行われている。そうして、人と人との間柄は、法や道徳によって律せられている。それをそれぞれ切り離して、地理は地理、歴史は歴史、修身は修身というふうに別々に学んだのでは、生きた社会の姿をつかむことは不可能ではないにしても、すこぶるむずかしい。だから、社会科では、地理や歴史や公民や修身を密接に結びつけて、社会生活の実態を研究し、社会人としての正しい生活のあり方を科学的に学び、それを実践して、よき社会人としての訓練を積むようにくふうされている。

個人個人がそれぞれの才能に応じて、生産に従事したり、商業を営んだり、医者になったり、技術家になったり、思い思いの仕事をやりながら、それが互に持ちつ持たれつの関係に結び合わされて、一つのまとまった社会生活が形作られている。それが全体としてりっぱな社会になるためには、個人個人の個性と人格とが尊重されなければならないと同時に、すべての個人が社会に対する自分の責任を自覚し社会のいろいろな問題を科学的に、そして民主的に解決していかなければならない。そうして、社会科のいちばんたいせつな目的は、ひとりひとりの生徒にりっぱな社会とはどのようなものであるかをはっきりと理解させることであり、更にすすんで、生徒の中にそのようなりっぱな社会を築きあげようとする意欲と決心とを目ざめさせることである。

四 「民主主義の教育」の実践

野球を知るには、野球のルールを学ばなければならない。けれども、いくら野球のルールを研究し、職業野球のじょうずな試合を熱心に見物しても、それでじょうずに野球ができるようにはならない。じょうずに野球ができるようになるために絶対に必要なことは、自分で野球をやってみることである。それと同じように、学校の教室でいくら社会制度や社会問題のことを学んでも、実際の制度や問題を観察し、実地のうえでそれにたずさわってみないかぎり、社会のほんとうのあり方はわからない。ギリシアのソクラテスという学者は、知行合一ということを説いた。いかに知識を学んでも、それが実際生活のうえに行いとなって現われないようでは、生きた学問とはいいえない。前に述べたように、学んだところを実践することは、最もすぐれた学び方である。社会の学問もまた、実際の社会生活にあてはめて実行してみなければ、身についた教養とはならない。

それでは、せっかく学校で社会科を学んだ生徒も、学校を卒業して世の中に出なければ、生きた社会の実際を知ることはできないのであろうか。いや、決してそうではない。なぜならば、学校というところは、それ自身がすでに一つの社会なのである。人数も限られており、組織もわりあいに単純ではあるが、学校が生きたおおぜいの人々によって形作られた社会であることには変わりはない。だから、社会生活のほんとうのあり方や、社会における個人の責任などを実際に学ぶためには、まず学校という社会の中で、それを実践してみるのがいちばんの近道である。たとえば、級友が、お互に自分の意見をはっきりと述べ、他の意見をよく聞いて、先生の指導のもとに、多数の意見で、クラスのいろいろな問題を処理する方法を定める。そうして、各自が受け持った仕事は責任をもって果たしていく。このようにして、学級の運営がりっぱに行われ、各自がよき一員として実を示すならば、それがとりもなおさず、社会生活に対する理解となり、社会の一員としてのとうとい経験となっていく。

学校は、先生と生徒とを主として形作られた社会である。だから、学校という社会の民主主義的な成り立ちを知るには、先生と生徒との関係、および生徒相互の間の自主的な協力の関係について考えていけばよい。ここでは、まず、先生と生徒との関係を取りあげてみよう。生徒同士の協力の関係は、それからあとで、校友会や学校外での生徒の活動について考察することにしよう。

これまでの日本の学校では、先生と生徒との間に概して大きなへだたりがありすぎた。先生は、単に先生であるというだけで、なにか生徒とは別の人種であるかのように思われ、ただ敬いおそれられるという傾きがあった。生徒は、先生の言うとおりに勉強し、そのいいつけを守るという受け身の立場に立つだけで、先生や他の生徒といっしょになって学校生活を改善していくというような積極的な気風は、あまりみられなかった。もちろん、例外もあったには相違ないが、「三尺下がって師の影を踏まず」という東洋風の師弟の道徳律が支配していて、先生と生徒との間の人間としての親しみと理解とを妨げていたことは、否定できない。しかられたり、悪い点をつけられたりするのがこわさに、表向きだけは先生の前でかしこまっているが、陰では先生の悪口を言い、ひどいあだ名をつけておもしろがるというようなふうがあった。

しかし、人間の平等と人格の尊厳という民主主義のたてまえからいうならば、先生も生徒も同じく人格の持ち主としてまったく対等であり、その間に本質的な上下の差別はない。社会生活の一員として、人間らしい生活を営む権利を持ち、それぞれの個性を伸ばし、自分の受け持つ責任をまっとうしていくべき立場に立つ点では、師弟の間になんのへだてもない。そのように、先生と生徒とが、同じ人間としての立場に立ってこそ、お互の間に深い親しみがわき、信頼と愛情とが通うようになる。先生と生徒とが人間としての信頼と愛情とによって結ばれてこそ、日々の学校生活を明るい楽しいものに築きあげていくことができる。それがまた、ひいては、広い社会生活の正しいあり方とも一致するのである。

それと同時に、先生は先生であり、生徒は生徒であって、その間に受け持つ役割の違いがあるということもまた、真実である。生徒は、これからだんだんと知識を学び、いろいろな教養を身につけ、りっぱな社会人としての人格を作りあげていかなければならない。それには、家庭では父母の、学校では先生の指導と助力とが必要である。先生は、学問のうえではもとより生徒の先輩であるし、社会人としても生徒よりもはるかに多くの経験を積んでいる。したがって、先生がりっぱな人格を持ち、すぐれた実力を備え、しかも、生徒の性質と要求をよく理解し、生徒の人格を尊重して誠意と愛情とをもってこれを導くならば、生徒も自然に先生になつき、先生に対して尊敬と信頼とをいだくようになるに相違ない。そうすれば学校の中にも、型にはまった命令や強制によらない、人間性の自然にかなった礼儀と秩序とが行われるようになるに違いない。

人間の社会には秩序がなければならない。封建社会には、生まれながらの身分による上下の階級の差別があって、それによって、支配者の思いどおりになる支配・服従の秩序が保たれていた。民主主義の社会には、もとよりそのような身分や門地による人間の差別はまったく存在しない。それは、人間の本質的な平等を、一般に認めあうことによって作りあげられた共同生活なのである。しかし、民主主義の社会にも、各個人の能力や人格や経験の高下、大小に応じた秩序がなければならない。すぐれた才能と、深い経験と強い責任感とを持つ人が、みんなから推されて重い任務を受け持ち、おおぜいの人々を指導する立場に立つのは、当然なことである。学校では、そういう意味で、先生が生徒を指導するのである。学校生活を貫くものは、上からの強制による秩序でもなく、わがままかってを許す無秩序でもなく、先生と生徒との間の人間としての責任と尊敬とを基礎とする民主的な秩序でなければならない。

しかし、ものごとの真理は容易に発見できないものだし、人格の完成ということも、どこまでいっても限りはない。したがって、先生だからといってなんでも知っているわけではないし、修養をする必要もないほど完全な人格者であるはずもない。もしも、なんでも知っているような顔をする先生があったとすれば、それは決してほんとうの教育者ではないであろう。先生は、むしろ、知らないことは知らないといって、生徒とともに真理をつきとめようとする共同研究者の立場に立たなければならない。先生が自分の知っていることだけを生徒に切り売りするよりも、生徒といっしょになってものごとを研究していこうとする方が、教育の効果はずっとあがる。先生は、文字どおり生徒より先に生まれ、生徒よりながい間学問をしてきたのだから、先生の方が多くの知識を持っているのはあたりまえである。したがって、先生が知識の量で生徒を敬服させようと思うのは、大きなまちがいである。それよりも、真理に対する燃えるような熱意が、おのずから先生に対する生徒の尊敬と信頼との的となるのでなければならない。そういう先生を持てば、生徒もそれに感化されて、自分たちも自分たちの力で真理を見いだしていこうと努めるであろう。かくて、先生と生徒との真剣な協力による、はつらつとした楽しい授業が行われるようになるであろう。

五 校友会

新しい教育制度では、生徒の自発性がおおいに重んぜられる。ところで、生徒が創意とくふうとを凝らして、自分たちの学校をよいものにするために努力することは、正規の授業についても望ましいし、また必要でもあるが、生徒の積極的活動が最もかっぱつに行われるのは、先生と生徒とで作りあげている校友会である。校友会は、自治的な組織を持った学園の団体であって、そこでの生徒の活動は、民主主義の原理を実践するうえからいって、きわめて重要な意味を持っている。

校友会には、スポーツや、文化活動や、厚生事業などを行うために、協議会や委員会のようないろいろな組織が設けられる。そういう組織には、先生や先輩もたとえば顧問のようなかたちで加わるであろう。しかし、生徒の自治の精神を生かすために、その活動は生徒が主体とならなければならない。ただ、生徒だけでは、経験が浅くて、いきすぎをしたり、まちがった方向に向かったりすることがあるから、そういう場合には、先生や先輩が適当な注意や助言を与えるであろう。そういうようにして、正しく円満に行われる校友会の活動を通じて、次の時代を背負う青少年たちは、民主主義的な社会生活に必要な経験や教養を、自分たちの力で自分たちのものとしていくことができるのである。

校友会の代表者や委員は、生徒の中から選ばれる。その場合に、代表者が上級生ばかりから出たり、男子だけに限られたりすることがないように、みんなで心がけなければならない。それには、代表者の数を何人にするか。選挙の方法をどうするか。候補者をあらかじめ推薦する方がよいか。あらかじめ推薦をしないで、投票の結果にまかせる方がよいか。投票は単記か連記か、記名か無記名か、というようなことが、重要な問題となる。それを実際にやってみると、いろいろな選挙の方法の利害得失がよくわかってくる。そして、市町村の議会や国会の選挙についても、同一の原理があり、同様の問題があることを、他人から教えられないで、学校時代の自分たちの経験によって学ぶことができる。

校友会その他の生徒の団体の代表者を選ぶ場合には、学校全体がそれに大きな関心を持たなければならない。もしも生徒の多くが選挙に無関心だと、一部の人々だけが立候補したり、運動をしたりして、校友会の実権を握ってしまうことになりやすい。この人を出したいと思うような献身的な人は出ないで、自分たちの考えだけを強引に貫こうとするボス型の生徒が選ばれるおそれもある。

委員になると、勉強の時間を校友会の仕事に費したりしなければならないから、ずいぶん迷惑なこともあるであろう。しかし、いったん選ばれた以上は、すすんでその任務をひき受け、学校全体のための仕事を誠意と責任とをもって行わなければならない。また、一般の生徒は、自分たちの選んだ代表者を支持し、委員会で決めた規則を守り、その方針に協力していかなければならない。民主主義の社会秩序は、そのような責任と協力とによってのみ、りっぱに維持されるのである。

校友会の仕事の中でも、若人わこうどの血をわかせるものは、スポーツであろう。スポーツは、体位を向上させ、健全な精神を養うばかりでなく、大きな社会的訓練になる。ルールに対する尊重と服従、審判の神聖、チームワークのための協同の精神、個人の強い責任観念、フェアープレイに対して敵味方を問わず拍手を送る気持など、よきスポーツのもたらす精神的な収穫はきわめて多い。しかし、あまりに選手本位になりすぎて、一般の生徒の運動が妨げられたり、選手がむりな練習をしてからだをこわすようなことになったりしないように、じゅうぶんに注意しなければならない。

スポーツと並んで、校友会の行う文化活動は学園の生活を潤いのあるものとする。学校新聞を発行したり、討論会を催したりすることによって生徒は自由に意見を発表し、学校全体の世論を作りあげてゆくことができる。また、それが他人の意見を正しく理解し、世論に対して批判を加える機会ともなる。その他、自然科学や社会科学の研究会を催したり、映画・音楽・絵画などの鑑賞会を開いたり、宗教のグループを作ったりすることによって、真理への愛、美へのあこがれ、純真な信仰などを養うこともできる。正規の課業がたいせつなことはいうまでもないが、このような課外の文化活動によって生徒自らが修得する教養は、学校を出て広い社会の人となってからも、長くとうとい心のかてとして残るであろう。

校友会は、生徒相互の厚生施設の面でも、なすべき多くの仕事を持っている。学用品・日用品・書籍などを販売し、不要品の交換などを行うのもよいであろう。余暇を利用すれば、簡単な学用品や日用品を共同で製作することもできよう。少ない学用品を公平に分配するにはどうすればよいかを考えるのも、経済上の正しい配分の法則について学ぶ機会となろう。校舎を補修し、校庭を美化することも、みんなの責任と協力とによってやれば、建設の喜びをおのずから味わうことができる。生徒の発意によって身体検査や体力検査を行えば、衛生問題に対する関心も深められる。寄宿舎がある場合には、住宅問題や共同炊事なども身近に体験されえよう。こうした体験が、やがてもっと大規模な社会問題を解決する力となるのである。

六 校外活動

生徒は、学校の一員であると同時に、その地方の社会の構成員でもある。だから、生徒は、自分の属する地域社会での問題についても、決して無関心ではありえない。生徒は年も若いし、経験も少ないが、しかし、それだけ若々しい熱意と、純真な気持とを持っている。それが先生の適切な指導のもとに、団結の力を発揮して事にあたるならば、校外活動においても、またみるべき仕事をなしとげていくことができるであろう。

たとえば、その地域の地理や気象や産業や交通などを研究し、改善すべき点を考えるとともに、生徒の手でできることは実行に移して、社会のためにできるだけの貢献をなすべきである。農繁期のてつだい、学校農園の拡張、道路の修繕、標識の設置など、手ごろな建設的な仕事がいろいろとあるに相違ない。

学校の生徒の校外活動は、アメリカ合衆国などでは、さかんに行われている。中でも全国的な組織をもって、りっぱな仕事をやっている代表的な例は、F・F・Aの活動である。F・F・Aは、Future Farmers of Americaの略語であって、全国の高等学校で正課として農業を学んでいる生徒の団体である。F・F・Aの単位は、各地方ごとに生徒を主体として組織された協会であって、農業を担任する高等学校の先生が、その相談役となり生徒との間の密接な連絡を図っている。州には州内部のすべての協会をまとめた州連合協会があり、合衆国には全国連合協会があって、全国連合協会の会議で協会の年次計画をたて、州連合協会にその計画の実施を勧める。州連合協会は、それに基づいて、その州に適した計画を作り、各地域の協会は、更に州の計画にその地方の特殊事業を加味した独自の計画をたて、相談役である先生の助言のもとに、自分たちの農場での作業方針を決める。それだけの大きな組織が、議会や政府の助力などを待たないで、主として生徒たちの自発的な力で運営されていくのである。

F・F・Aでは、絶えず新しい耕作法や農場経営のやり方を研究し、それを実行に移している。協会は、基金を積みたてて、会員に牛や豚を買う金を貸したり、肥料・農器具などを共同で購入したり、卵・にわとり・種・農作物の共同販売を行う。そうして、会員相互が励ましあい、助けあい、お互の知識を交換して、農業の改良に努力する。また、展覧会や市場を開いて、会員が苦心して育てた家畜・家禽かきん・農作物を出品し、すぐれた作品は表賞して、農業に対する励みともし、一つの楽しい行事ともしている。それがまた、地方の農業にもよい刺激を与え、その発達を促す結果ともなっているのである。

このように、年の若い生徒たちであっても、それが大きな自治的の組織を持てば、地方の繁栄に役だち、国の経済や文化の向上のためにすぐれた貢献をすることができる。民主主義は本で読み、話で聞いただけでは、ほんとうにはわからない。民主主義の社会活動を学ぶいちばんよい方法は自分でそれをやってみることである。全国的な規模を持つ生徒の組織を、今すぐ日本で作ることはむずかしいかもしれないが、小さなところから始めて、だんだんと広げてゆけば、団結と協力の力がいかに大きなものであるかを、自分でためしてみることができるであろう。

いずれにせよ、たいせつなのは、民主主義の共同生活を学校の中で、また学校の外で、実際にやってみて、ほんとうの民主主義の精神を身につけることである。今日の青少年も、満二十歳になれば選挙権を与えられ、最も重要な国の政治に参与することになる。医者になって人の生命をあずかり、技術家になって精密な機械を運転するには、学校を出てからもじゅうぶんな修業を積む必要があり、またそれだけの余裕もある。しかし、民主主義だけは、満二十歳になるまでに、その精神をほんとうに身につけておかなければならない。毎年新たに選挙権を得る数百万の若い人々が、民主政治の正しい運用をわきまえているかどうかは、国の政治のうえに善悪ともに大きな影響を及ぼすに相違ない。

学校時代の民主主義の実践がいかにたいせつであるかは、そのことを考えただけでもよくわかる。現在学校に通っている青少年のすべてが、今のうちに正しい民主主義を学びうるか否かは、二十年、三十年の後の日本の運命を左右する。日本が平和な美しい国として再建され、世界の文化に貢献しうるようになるかならぬかのかぎは、そこにある。毎日毎日の学校生活、それを自由な明るい人間尊重の精神と、各自の責任を自覚した人々の間の協力と秩序とをもって貫いていこうではないか。

図 民主社会。若い熱意と純真な気持でりっぱな社会を作る。