歴史が始まってからこの方、人類のいかに多くが平和を望んできたことであろう。しかし実際には、人類の歴史は戦争の歴史であるといってもよいくらいに、絶えず血なまぐさい出来事によってつづられてきた。第二十世紀になってまもなく第一次世界大戦が起り、何百万という尊い人命が犠牲となり、各国は経済上の莫大な損失をこうむり、取り返しのつかない文化の破壊が行われた。ようやくにして戦争がすんだとき、世界じゅうの人々は、二度と再び戦争をしてはならないということを、肝に銘じて悟った。それにもかかわらず、それからわずか三十年にして第二次世界大戦が起り、全人類の生活のうえに第一次大戦よりもはるかに大きな惨害をもたらすにいたったのである。
どうしてこのようなことがくり返されるのだろう。人類の大多数が平和を念願しているのにどうして平和は長続きせず、層一層と大規模な戦争の破壊が行われるのだろう。戦争の規模がますます大きくなっていくばかりではない。戦争の手段もまただんだんと発達して、第二次大戦の末期には、これまでの人間が夢想だにしなかったようなおそるべき新兵器が出現するにいたった。こんなありさまでとめどもなくすすんでいったら、ついにはあらゆる文明は打ちこわされ、人類は絶滅同様の状態に陥ることがないとはいえまい。どうしたら、このように悲惨な戦争を防ぐことができるか。どうすれば、永久の平和の基礎を地上に確立することができるか。今こそ、人類は、あらゆる知能をしぼり、すべての努力を傾けて、この大問題を解決しなければならない。
今からおよそ百五十年のむかし、ドイツの哲学者カントは「永久平和のために」という本を著わして、戦争を防ぐにはどうしたらよいかについてのくふうをこらした。この「永久平和のために」という表題はもともとは、オランダのある旅館に飾られていた古い楯の上に書いてあったことばである。その楯には教会の墓地の絵が描かれてあった。つまり、それは、元来は国際平和の意味での永久平和ではなくて、墓地に眠る人々の霊よ安かれという祈りのことばだったのである。カントは、このことばを取ってその有名な著書の表題としたのである。人類がこのまま戦争ばかりしていたら、最後には、地球上が永遠に冷たい広大無辺の墓場と化してしまうかもしれない。そうなってはじめて、その地球上に永久の平和が訪れたとしても、それはあとの祭である。もしも人間に理性があるならば、そのような悲惨な運命を選ぶ代わりに、永久に平和な全人類の共同生活の理想を実現しなければならない。それにはどうするか。カントはこの問に対して何と答えたか。
この問に対するカントの答にはいろいろあるが、その中でも重要な点が二つある。一つは、すべての国家が民主主義の制度を持つことである。他の一つは、それらの国々が互に協定を結んで、平和を保障するための国際連盟を組織することである。
さすがに大哲学者の考えたことだけあって、これらの二つの答のうち、第二の着想は、第一次大戦のあとでできた現実の国際連盟の思想的なさきがけとなった。その国際連盟が第二次大戦の試練を経て、更に今日の国際連合にまで発展したのである。しかし、国際連合のことは、あとで考察することとしよう。そして、ここではまず、なぜ各国が民主主義の制度を持つことが、世界平和を確保するために必要であるかを考えてみることとしよう。それにしても、このような先見の明のある平和の哲学者を生んだドイツが、のちに独裁主義の政治を実行し、国際連盟の約束を踏みにじって、第二次大戦の口火を切る暴挙をあえてするにいたったことは、まことに皮肉であるといわなければならない。
すべての国々が民主主義になりきることは、なぜ世界平和の最もたいせつな条件となるか。
この問に対する答は、きわめて簡単である。なぜならば、民主主義は「国民の政治」だからである。どこの国民だって、どんなに好戦的といわれる国の国民だって、ひとりひとりが冷静に考えるならば、その大部分は戦争をしたいなどと思うはずはない。戦争が起れば、多数の国民は兵隊になって戦場におもむき、死の危険にさらされる。そればかりでなく、近代戦では、国内にあっても爆撃を受け、女・子供もその犠牲となる。家や財産を焼かれる。莫大な戦費を負担し、経済生活は大きな打撃をこうむる。むかし、中国の詩人は、「一将功成って、万骨枯る」と詠じた。勝いくさの場合でさえそうである。まして、負けいくさとなれば、その惨状はたとえるものもない。そんな戦争を好むのは、戦争によって野心を満足させようとする一部の政治家や、軍閥や、戦時経済によって大もうけをしようと企てる財閥だけである。だから、国民の多数の意志が政治を動かすしくみになっていれば、戦争の起るおそれは非常に少なくなる。世界じゅうのすべての国々がほんとうの民主主義の組織を持てば、世界平和の基礎は確立される。
これに反して、専制主義の国では、政治の実権を握っている少数の者が戦争をしたいと思えば、国民の大多数が心から反対していても、戦争が起るおそれがある。第二次世界大戦の始まったころ、ベルリンで、空襲警報がなって地下濠に待避したある日本人は、暗い濠の中で市民たちが、「戦争を始めたヒトラーを死刑にせよ」と叫んでいるのをしばしば聞いたという。しかし、明るい地上でそんなことを言えば、たちまち縛られてしまうから、だれも黙っている。それに、政府は自分の国が正しくてあいてが悪いのだと国民に思いこませるために、あらゆる巧妙な宣伝をするから、国民もだんだんとその気になる。いったん戦争になってしまえば、国民には愛国心もあり、敵愾心もあるから、はっきり負けと決まるまでは、もうやめるわけにはゆかなくなる。だから、外国と戦うことを計画する者は、まず国内の組織を専制主義に切り換え、議会を無力にし、行政権とともに立法権をも政府の手に握って、思うままの政治をするのである。
民主主義は、平和な人間共同生活の原理である。なぜならば、民主主義の根底にあるものは、人間尊重の精神である。人々が自分を尊重すると同時に互に他人を尊重しあうならば、そこにはかならず平和がある。
しかも、この精神の及ぶ範囲には、決まった限界はありえない。家庭の中にこの精神があれば、その家庭は平和である。工場の経営者も、そこで働く労働者も、すべて民主主義の精神で団結すれば、その工場には平和がある。それは、一国の内部でもそうであるのと同様に、言語や人種や文化を異にする異民族の間や、国籍の違う別々の国民の間においてもそうである。民主主義の地平線は、野をこえ、山をこえ、海をこえ、国境をこえて、世界じゅうに広がっている。それは、時間と空間を超越する。日本についていえば、戦争に負けたから民主主義が真理となったのではない。新憲法の前文にうたわれているように、民主主義はまさに「人類普遍の原理」である。そうして、それは同時に、人類普遍の平和の原理である。
人間がお互に人間として尊重しあうという民主主義の精神は、単に個人と個人との間に通うばかりでなく、また、国家と国家との間にもあてはまる。
人は、だれしも自分の国を愛し、その国が栄えることを願うであろう。しかし、世界には、自分の国以外に多数の国々がある。それらの国々の国民は、いずれも自分の国を愛し、その国が栄えることを願っているに相違ない。だから、地球上のすべての国々は、それぞれその国の立場を重んずると同時に、他の国々の立場を尊重しなければならない。世界には、大きい国もあり、小さい国もあるが、それらは独立の主権国家として尊重せらるべきである点では、まったく平等である。そうして、それらの国々が互に尊重しあい、協力しあうことによって、はじめて、世界の平和と人類全体の繁栄とが保障される。それは、平等な多数の個人がお互に尊重し、協力しあうことによって成り立つ民主主義の社会と、まったく同じ原理を基礎としている。ゆえに、これを国際民主主義と名づけることができるであろう。
第二次世界大戦も大詰めに近づいた一九四五年の四月から六月にかけて、連合国側に加わってドイツや日本と戦った総数五十の国々の代表がサンフランシスコに集まって会議を開き、そこで作られた「国際連合憲章」に基づいて、同じ年の十月二十四日に「国際連合」が成立した。この新しい国際平和機構は、あたかも、今述べたような意味での国際民主主義の精神を実現しようとしているのである。
すなわち、国際連合は、国際平和の維持を主たる目的とし、あわせて経済的・社会的な国際協力を増進しようとする国際組織である。したがって、それは、加盟国の主権を否定する超国家的な機構ではなくて、多数の主権国家の自由な協定によってできた国際的な組合組織であり、それらすべての国々の主権の平等を認めている。このように、多数の主権国家相互の協定に基づいて成立した国際平和および国際協力の組織である点では、国際連合は、第一次世界大戦のあとで結成された「国際連盟」とその根本の性格を同じゅうするものであるといってよい。
けれども、民主主義の社会では、ただ単に構成員の間の平等の原則が確立されているだけでなく、平和を破壊する行為があった場合に、これに対して法の尊重を強制するための機関が備わっておらなければならない。国内社会の場合には、権力の行使に当たる政府や裁判所があって、社会秩序の維持に当たっている。しかるに、国際連盟には、総会や理事会のような会議体があり、また、常設国際司法裁判所が設けられて、国と国との間の争いが起った場合にそれを処理することにはなっていたが、それらもじゅうぶんな効果をあげることはできなかった。というのは、国際連盟では、公然と侵略行為をする国があっても、これに対して有効な制裁を加えることがはなはだ困難だったからである。国際連盟が国際平和機構たるの役割において、結局失敗に終ってしまったのは、各国が真剣にそれを支持しなかったことが大きな理由であるが、機構のうえにもこのような弱点を持っていたからである。
これに対して、今度できた国際連合は、国際連盟に比べると、「安全保障」という点ではるかに強力な制度を備えている。国際連合にも国際連盟の場合と同じような「総会」があるが、国際紛争を処理し、国際秩序の維持を主としてつかさどるのは、「安全保障理事会」である。この理事会は、十一箇国の代表によって組織されている。そのうち、アメリカ合衆国、イギリス、ソヴィエート連邦、フランス、中華民国の五箇国は常任理事国である。国際連盟では、総会と理事会とはほぼ同様の地位を占め、そこで決めたことも、連盟諸国家に対する単なる勧告としての意味しか持たなかった。これに対して、国際連合の安全保障理事会は、最初から総会に優越する地位に立ち、しかも、そこでの決議は、国際連合に加盟しているすべての国に対して拘束力を持つ。いいかえれば、加盟国は安全保障理事会の決議を受諾し、これを履行する義務を負うのである。だから、もしも平和を破壊するようなことが起り、安全保障理事会がこれに武力制裁を加える必要があると決めた場合には、加盟国は共同してその武力行動に協力しなければならない。この点をみただけでも、国際連合が国際連盟に比べてはるかに有効な国際平和機構であることがわかる。
そればかりでなく、国際連合は、会議の決定を行う方法として、広く多数決原理を採用している。総会は、過半数または三分の二、経済社会理事会と信託統治理事会はいずれも過半数の多数決制を採用している。また、安全保障理事会についても、十一分の七の多数決によっている。ところが、国際連盟では、総会でも、理事会でも、決定は原則として全会一致を必要とした。したがって、ただ一国の反対があっても、決定を下すことは不可能とならざるを得なかった。これに反して、国際連合の機関の決定は、前述のように多数決によって下される。たとえば安全保障理事会では総数十一の理事国のうち七つ以上の理事国の賛成があれば、決議が成立する。これは、総数の約三分の二の多数である。普通の場合のように過半数によらないのは、事が重大な関係問題であるために、決議の慎重を期したからである。しかし、事が重大だからといって全会一致を要件としては、小田原評定に日を暮らして結論に到達することがむずかしい。なぜならば、事が重大であればあるほど、利害の対立が著しくなり、全理事国の意見の一致を見るみこみがなくなるからである。だから、国際連合が原則として、多数決によるものとしたことは、全会一致を必要とした国際連盟のやり方に比して、相当の進歩を意味するといってさしつかえない。このように、国際連合は国際平和機構として国際連盟に比し、かなり改善された組織を持っている。それだからといって、国際連合がいつでも多数決原理に従っているというわけでもなく、また、どうしてもその原理に順応しなければならないというのでもないという事実を忘れてはならない。今述べたように、安全保障理事会では、十一箇国のうち七箇国以上の賛成があれば決議を行いうることになっている。しかし、それには一つの重大な条件がついている。それは、その表決の中には、五つの常任理事国全部の賛成投票が含まれていなければならないという条件である。この条件があるために、せっかく理事国の大多数がある提案に賛成しても、アメリカ合衆国・イギリス・ソヴィエート連邦・フランス・中華民国の中のどれか一国がこれに反対投票し、または棄権した場合にはその決議は不成立になってしまう。これが、今日の国際政治のうえで最も問題となっているところの「大国の拒否権」である。つまり、国際連合は、安全保障理事会の決議について、原則として民主主義的な多数決原理を採用したにもかかわらず、五つの常任理事国に関するかぎり、全員一致を必要としているのである。この拒否権があるため、安全保障理事会がその機能をじゅうぶんに発揮しえないことはまことに遺憾である。民主主義は、多数決によって運用される。国際民主主義に立脚する国際連合もまた、多数決によって運営されなければならない。しかるに国際連合は、原則として多数決原理を採用しているにもかかわらず、大国の拒否権を認めたために、龍を描いて目を入れるのを忘れた形となった。これでは、国際社会の世論がどうであっても、それに反対するただ一つの常任理事国の意志の方が勝つ結果になる。
そこで、最近、安全保障理事会に平和維持の責任を一任するかわりに、国際紛争を国際連合総会で処理しようとする傾向が生じてきたことは、注目に値する。総会は、全加盟国の代表者から成り、しかも、各加盟国は平等に一個の投票権を有する。その点で総会の構成は、国際連合憲章の宣明する主権平等の原則を忠実に具現している。そればかりでなく、総会には拒否権がなく、重要な問題についての議事は三分の二の多数で採決されるから、そこでは完全な多数決原理が支配しているといってよい。もっとも、総会は国際間の諸問題について討議し、加盟国や安全保障理事会に勧告する機関であるから安全保障理事会のように、そこでの決議によって加盟国を拘束するという法律上の力は持たない。しかし、世界の大多数の国々が平等の立場で代表されている総会には、世界の世論が強く、かつ公平に反映される。したがって、いかなる国も総会の決議を無視することはできないし、少数の強国が専断をほしいままにすることも抑制され、おのずからに公正な解決がもたらされることが期待される。ここに公開された世界の良心ともいわれる国際連合総会の重要な機能が存する。
元来、安全保障理事会において五大国の拒否権が認められたのは、国際連合の掲げる主権平等の原則が、国際社会では強い実力が物をいうという政治の現実と妥協した結果にほかならない。
これに対して、今述べたように、完全な多数決原理によって運用される総会が、実際上国際紛争の解決に重要な役割を演ずるようになれば、拒否権の発動はそれだけ避けられうる結果となる。のみならず、もっと根本的に拒否権そのものを制限しようとする強い意見もあって、新たな加盟国の推薦や紛争の平和的解決のための勧告を行う場合には、安全保障理事会の決定においても拒否権を取り除くという案が研究されている。いずれにせよ、何とかして拒否権の行使を制限しようというのが、現在の一般的な傾向であり、そうなればなるほど、国際連合の活動は民主的となるものとみてよい。
国際紛争を解決するということは、国際連合に課せられた最も重大な任務である。しかし、戦争を防止し、世界平和を維持するという目的は、単なる紛争の解決に努めることだけによってはじゅうぶんには達成されがたい。すでに表沙汰になってしまった国際紛争は、世界平和という健康体をむしばむ病気のようなものである。健康を維持するために、かかった病気を治療することがたいせつであるのは、いうまでもない。しかしそれと並んで、いや、むしろそれよりももっと根本的にたいせつなのは、身体の諸機関のかっぱつな活動をうながして、病気にかからないくふうをすることである。国際社会の場合にも、国際紛争を解決することとともに、国際間のかっぱつな協力の関係を促進し、それによって紛争を未然に防ぐことが、きわめて重要であるといわなければならない。国際連合は、そうした努力の重要性を深く認めて、人類の生活水準を高め、失業を防止し、経済的社会的な進歩発達をはかり、これらの諸問題を国際的に解決していくと同時に、文化的および教育的な国際協力を促進することを、その大きな目的として取り上げている。
人間の基本的な権利と自由とを尊重する精神には、国内社会と国際社会とによって異なるべきはずはない。この精神が世界に広くいきわたり、経済的および社会的に人間の権利や自由をおびやかすもろもろの障害が取り除かれ、人類全体として教育、保健の水準が向上していけば、戦争というような最も不幸な事態をかもし出す原因も次第になくなるであろう。そういう方面での国際協力を促進する仕事を担当している国際連合の機関は、経済社会理事会である。
経済社会理事会は、総会によって選出された十八の加盟国の代表者によって構成される。そこでは、国際的な経済・社会・文化・教育・保健の問題についての委員会が設けられて、これらの問題を研究し、それに基づいて総会や加盟国に対する勧告が行われる。また、この理事会は、その権限に属する事柄について国際条約の草案を作ったり、国際会議を召集したりすることができる。更に、この理事会は経済・社会・文化・教育の諸分野における幾多の国際的な協力の組織、たとえば、国際労働機関・ユネスコ・世界保健機関・国際通貨基金・国際復興開発銀行などを国際連合と結びつけ、これらの外郭団体を通じてきわめて広い範囲にわたる活動を行っている。しかも、経済社会理事会には常任理事国もなく、したがって拒否権もないから、その運営はきわめて民主的に行われうる。それらの点からみて、この理事会を中心とする国際連合の国際協力のための努力には、おおいに期待すべきものがあるといってよいであろう。
国際連合が以上に述べたような理想の実現に向かって努力しているとき、他方には、更に根本にまでさかのぼって、今日世界に存在する多数の国家がその主権を放棄し、人類全体をただ一つの政治社会に統一すべきであるということを主張する人々がある。今までのように、多くの国々がそれぞれ主権国家として対立し、おのおのその利益を固執しているようであっては、人類を脅かす戦争の危険はいつまでたってもなくならない。だから、この際、思いきってすべての国家のわくをはずし、世界共通の単一政府を立て、世界国家または世界連邦を作る以外には、永遠の平和の基礎を確立する道はないというのが、その主張の要旨である。
このような世界国家の思想は、理論としては非常に古い歴史を持っている。すでに、ギリシア時代の終りごろには、ストア学派の哲学者たちがはっきりと世界国家の理想を説いた。中世イタリアの有名な詩人ダンテもまた、人類が多数の国々に分かれて生活していることは、すべての悪と争いとの源であるから、その状態を改めて、単一の世界王国を作るべきであると論じた。前に述べたカントも、永久平和のための最もよい方法は、すべての国家が国家たることをやめて、ただ一つの万民国家に結合するにあることを認めている。ただ、カントは、現存する国家がすすんでその主権を放棄することは、事実上の問題としてはありえないと考え、それに代わる次善の策として、国際連盟の組織を提唱したにすぎない。
戦争の規模がますます大きくなり、その及ぼす惨害がはかり知れないほどに増大しつつある今日、人々が世界国家の問題に大きな関心をいだくのは、きわめて当然なことである。第一次世界大戦が終ったあとでも、イギリスの著名な評論家であるH・G・ウェルスが、永久平和維持のための唯一の方法として世界政府を設けることを主張した。第二次世界大戦の末期には、アメリカでエメリー・リイヴスが「平和の解剖学」という本を著わし、世界連邦を作れという案を提唱して、多くの人々の注意をひいている。リイヴスによると、ヨーロッパでは、フランスとドイツとが長年和解しがたい戦いを続けてきたが、フランス人もドイツ人も、同じ合衆国の国民となれば互に仲よく協力しあっている。今日のように経済が世界的規模を持つようになった時代に、政治の方面で多くの民族国家が互に垣を高くして対立しているのは、時代錯誤であるといわざるを得ないというのである。その他、物理学上の相対性原理で名高いアインシュタイン博士をはじめとする学者たちが、世界国家の必要を力説していることも、世人の記憶に新しい。
たしかに、今日の世界は、百年前の世界よりもはるかに狭くなってきている。国際交換経済の発達は、人類全体の持ちつ持たれつの関係をますます深めつつある。交通機関は飛躍的に進歩し、思想や文化は国境を越えて相互に交流し、世界はだんだんと一つになろうとしている。こういう時代になってくれば、各国がそれぞれ無制限の主権を主張しあうということは、すでに無意味である。国際連合は、加盟諸国家の主権平等の原則を認めてはいるが、そこにいう主権とは、もはや、何ものの前にも従うことをがえんじない国家意志の絶対性ではない。すべての国家は国際法に従い、相互の協約を重んじ、あいたずさえて平和の維持に協力すべき義務を負うているのである。すべての民族が共同の世界市民権を持ち、政治的にも経済的にも文化的にも一体となって協力しあうようになるというのは、最も望ましいことであるに相違ない。
しかし、現実の問題としては、この希望の実現の前には、容易に乗り越えることのできない難関が横たわっている。しかし、地球上のすべての国々がほんとうの民主主義に徹底し、お互の間に円満な協力の関係を維持していくように努力するならば、ことさらに世界国家を作らないで、今までどおりの国際社会のままですすむとしても、世界の平和は確保され、人類全体の福祉を一歩一歩と高めていくことができるであろう。その意味で、形の上での世界国家の建設よりも、真の民主主義の精神を全世界に広める方が、世界平和のための先決問題であるというべきであろう。
世界の国々は、これまでも平和を維持するために、いろいろと努力してきた。あるいは平和のための協定を結んだり、あるいは経済的協力のための条約を取りかわしたり、あるいは軍備縮少のための会議を開いたりした。しかし、それらの努力にもかかわらず、しばらくの平和が続いたあとで、やがてまた戦争の破壊がくり返された。このように、戦争が絶えないところをもってみると、永久平和ということは、結局は永遠の夢であるにすぎないのであろうか。
そうであってはならないし、そうあらしめてはならない。人類は、あくまでもこの地上に永久の平和を打ち立てるために、更にあらゆる努力を重ねていかなければならない。
しかし、これまで試みられた平和のための努力は、あまりにも政治的な方面にだけ傾きすぎていたきらいがある。平和の基礎を確立するためには、もとより政治上の問題を解決しなければならないが、それだけではまだ根本の点が欠けている。それは、人間の心の中に平和の礎を築くということである。第二次世界大戦の末期に現われた原子爆弾は、今までの人類が考え及ばなかったような破壊力を持つ、恐るべき新兵器である。けれども、人間がそれを破壊のための武器としてではなく、人類の福祉のために利用しようと思うならば、その同じ原子力は平和と繁栄とのためにどれほど大きな働きをするかわからない。だから、政治上の問題として原子力の管理を考えることも、もちろんたいせつではあるが、それよりももっとたいせつなのは、すべての人間がぜひとも平和を守り通そうとする気持になることである。人間の精神の奥底に平和のかぎを求めることは、今まで比較的におろそかにされていただけに、これから最も力を注ぐべき仕事であるということができるであろう。
第一章で述べたように、民主主義の根本は、政治の制度であるよりも、むしろすべての人々の心の持ち方である。したがって、民主主義のほんとうの住み家は、人間の心の中にある。民主主義こそ最も確かな平和の基礎なのであるから、世界平和を確立するためには、世界に住むすべての人々の心の中に民主主義の精神を育て上げていかなければならない。それには、何よりもまず、民主主義的な教育を世界に広めていかなければならない。民主主義的な教育が広まれば、人々は真理によって結びつき、よりよく理解しあうであろう。科学によって探究される真理には、国境はない。シェークスピアの文学やベートヴェンの音楽は、どんな人種の心をも打ち、どんな民族によっても深く愛される。そこに、言語や慣習の違いを越えた、世界単一の心の結びつきができあがる。教育や科学や文化を通じてこそ、世界平和の真の礎が築き上げられるのである。
第二次大戦が起って、ヨーロッパの諸国がドイツ軍によって占領され、各地の貴重な文化が破壊されつつあったとき、ロンドンに亡命していた各国の文部大臣が集まって、戦争によって荒廃した教育や文化の制度をいかにして復興するかについて議した。
その第一回の会議は一九四二年の十月に開かれ、最初は教育文化制度の復興についての技術的な問題が主として取り上げられたが、会議がすすむにつれて、アメリカ合衆国をはじめとする他の連合国もこれに加わり、教育や文化に関する新しい、恒久的な国際協力機関を設置しようという計画にまで発展していった。
一方、これと平行して進行しつつあった国際連合の計画は、初めのうちは教育や文化の問題には触れるところがなかったが、一九四五年のサンフランシスコ会議では、前に述べたように、文化問題の解決も国際連合の目的として取り上げられ、国際連合を背景とする文化的国際協力の機関の設立が必要とされるにいたった。このような事情の下に、同じ年の十一月にロンドンで開かれた会議により、四十四箇国の参加を得て、「ユネスコ」が成立した。ユネスコは教育・科学および文化を通じて国際平和に貢献することを目的とする国際協力の組織である。ユネスコの本部は、フランスが過去数世紀にわたって、文化の発達に貢献した歴史にかんがみ、芸術のかおりの高いパリに置かれることとなった。
ユネスコは、ユーナイテッド・ネーションス・エデュケーショナル・サイエンティフィック・アンド・カルチュラル・オーガニゼーションの略称であって、訳すると、国際連合教育科学文化機関ということになる。ユネスコが、どういう理想を掲げ、どういう目的のために努力しようとしているかは、「ユネスコ憲章」の前文を読めばよくわかる。そこには次の通りに書いてある。
「この憲章の当事国の政府は、その国民に代わって、次のように宣言する。
戦争は、人間の心の中で始まるものである。だから、平和の防壁は人間の心の中に築かれなければならない。お互の慣習や生活を知らないことは、人類の歴史を通じて、世界の諸国民の間の猜疑と不信との共通の原因となった。諸国民の間の慣習や生活の相違は、このような猜疑と不信とを通じて、あまりにもしばしば戦争を勃発させた。
恐るべき大戦争はいまや終ったが、この戦争は、人間の尊厳と平等と相互の尊重に関する民主主義の原則を否定し、その代わりに、無知と偏見とに乗じて、人間や人種が不平等であるという原理を宣伝したために起った。
文化をどこまでも広め、正義と自由と平和とに向かって人類を教育することは、人間の尊厳性を保つために欠くことのできない意味を持つ。それは、すべての国々の国民が、互に助けあい、関心を持ちあう精神をもって、ともどもにふみ行わなければならない神聖な義務である。
各国の政府の間の単なる政治的および経済的な取り決めだけによってもたらされた平和は、世界の諸国民がいつまでも一致して真剣に支持しうる平和とはならないであろう。だから、平和が失敗に終らないためには、それを全人類の知的および道義的な連帯関係の上に築き上げなければならない。
これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人々に教育に関する完全で平等な機会を与え、何ものによっても拘束されずに客観的な真理を探究し、思想および知識を自由に交換し、かつ、各国民の間の意志の疎通を図るための方法を向上発展させると同時に、各国民が互に理解しあい、お互の生活をいっそう真実に完全に認識するようになるために、これらの方法を用いることに同意し、かつ、それを決意した。
その結果として、これらの諸政府は、国際連合がそのために設立され、国際連合憲章がそれを宣言しているところの、国際平和および人類共通の福祉という目的を、世界諸国民の教育的・科学的および文化的関係を通じて促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を設立する」
ユネスコは、このような高い理想を掲げて設置された。人間はパンがなくては生きてゆけない。しかし、また、人間は決してパンだけを食べて生きているものではない。人間はパンとともに心の糧を求める。しかも、パンは食べれば減るが、精神の糧は食べても減らない。それどころか、教育や学問や文化が世界に行きわたり、人類共同の心の財宝となればなるほど、それらの人々の間の精神的な協力がかっぱつとなり、いっそう高い文化が築き上げられていく。そういう精神的な協力の関係を促進することによって、人間と人間との理解をさまたげる社会の諸問題を解決していこうというのが、ユネスコ運動の根本のねらいである。ユネスコは、設立以来まだ日が浅いが、こうした精神的文化運動であるだけに政治的利害の対立によってわずらわされることが少なく、各国民の心からの支持を受けてすでにかっぱつな活動を開始した。その将来の発展は、国際関係における新たな領域を開拓するものとして、世界じゅうの識者の大きな期待の的となっている。
今日の世界は、このように動き、このように悩み、このような理想に向かって努力しつつある。しかも、世界人類に大きな悩みと、苦痛と、衝撃とを与えた第二次大戦については、ドイツと並んで日本が最も大きな責任を負わなければならない。その日本国民が、大きな苦しみを味わいつつあるのは、当然すぎるほど当然なことである。
しかし、日本の将来には、決して希望がないわけではない。むしろ、日本の前途には、大きな光明が輝いているとさえいうことができよう。戦争中のようなうぬぼれはもとより根本のあやまりであるが、日本人の知識や才能の水準は決して低いものではない。ただ、これまではそれをまちがった方向に用いていたために、今見るような悲運を招いた。もしも日本人が、まったく新たな気持になって民主主義をわがものとし、その持っている力のありたけを尽くして平和な目的のために努め、人類のために貢献していくならば、民主主義的な世界もまた、日本を暖かく迎え入れてくれるであろう。経済も興り、都市も再建され、学問や芸術も発達し、戦争後の日本国民の理想たる文化国家の建設という大きな仕事も、だんだんと実現していくであろう。
自ら起した戦争によって、自らの運命を破局におとしいれた日本は、再びそのあやまちをくり返さないために、堅く「戦争の放棄」を決意した。新憲法の第九条が、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言し、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定しているのは、その決意の表明である。平和をもって国是とする国々は多いが、憲法によってその精神をこれほどまでに徹底して明らかにしたのは、日本がはじめてであるといってよい。
もちろん、今まで述べてきたように、将来の世界にも戦争の危険はないとはいえない。そうだとすると、もしも、不幸にして新しい戦争が起り、外国の攻撃を受けたような場合、武力をなげうった日本は、どうして国土を守ることができるであろうか。日本国民は、愛する祖国が攻撃されるのを手をつかねて見ているほかはないのであろうか。国民の中には、いさぎよく、戦争を放棄はしたものの、心の中ではそのような不安をいだいている人々が少なくないであろう。しかしながら、ますます大きくなりつつある戦争の規模を考えたならば、なまなかな武力を備えたところで、国を守るために何の役にも立たないことがわかる。軍部は、わが国の陸軍や海軍は無敵だといって誇っていたが、太平洋戦争のふたをあけてみた結果は、ほとんど連戦連敗に終ってしまった。まして、敗戦後の日本がわずかばかりの武力を持ったとしても、万一不幸にして今後戦争が起ったときには、そのような軍備は、単なる気やすめとしての意味をさえ持ちえないであろう。だから、日本としては、あくまでも世界を維持していこと決意している国々の協力に信頼し、全力をあげて経済の再興と文化の建設とに努めていくにしくはない。
今日の日本国民の心の中にわだかまっているもう一つの不安は、この狭い国土にこれだけの人口をかかえて、これからさき日本がはたして自活していけるかどうかということである。
これも、もとより理由のない不安ではない。しかし、これからの経済は、ますます世界的な規模に広がっていくから、少数の例外を除いては、多くの国々はその国の経済だけでは自活が困難であると同時に、国際的に有無をあい通ずることによって、人類全体としてはじゅうぶんに不安のない生活を成り立たせていけるのである。世界国家はできないでも、世界経済は、だんだんと全人類の福祉を増進させていくであろう。わが国は、国が狭いばかりでなく、資源にも乏しいけれども、きわめて精巧な技術を持っている。この技術と勤勉とを生かし、それに加うるに科学の力を活用するならば、おいおいに復活する海外貿易とあいまって、日本国民の経済生活の前途にも、また、明るい希望が輝いてくるであろう。経済生活さえ安定し、向上してくれば、秀麗な富士がそびえ、春はらんまんとしてさくらの咲く日本には、学問や芸術の実が豊かにみのる日がくるであろう。日本国民は、このような文化国家建設への不屈の意志を持って、ひたすらに民主主義的な国際協力の道につき進んでいかなければならない。