東の国から:新日本に於ける黙想と研究, 小泉八雲

叶える願い


汝肉体を去り自由なる精気の中に入る時、汝は恒久不滅の神となるべし
――死も最早汝を領することなかるべし。

ギリシャ古詩

街には白い軍服と喇叭らっぱの音と砲車の轟きとが充ち満ちて居た。日本軍が朝鮮を征定したのは歴史上これが三度目だ。そして支那に対する宣戦の詔勅は市の新聞に依って、真赤な紙へ印刷して布告された。帝国の陸軍はことごとく動員された。第一予備兵も召集された。そして兵士は隊をなして熊本へ溢れ込みつつあった。幾千人かは市民の宿へ割り当てられた。兵舎と旅館と寺院だけでは、通過の大軍を宿すことが出来なかったからである。併しそれでも尚お足りなかった。いくら特別列車が全速力で、下ノ関に待たせてある運送船指して、北へ北へと輸送しても。

それにも拘らず、大軍の移動ということを考えて見ると、市は驚くべき程静かであった。兵士は授業時間中の日本の学生の如く静粛で従順で、威張り散らす者もなければ、けばけばしい挙動をする者もない。仏教の僧侶は寺院の庭で彼等に説教して居る。練兵場ではわざわざ京都から来た真宗の法主に依って既に大法会が挙行された。数千の兵士は彼に依って阿弥陀の保護に託せられた。一々若い頭顱とうろの上に剃刀を載せるのは、進んで現世の欲望を棄てるという象徴で、それが兵士の授戒であった。神道の神社では到る処、神職と市民に依って、昔国の為めに戦死した者の霊と、軍神とに祈願が籠められつつあった。藤崎神社(訳者註)では守札を兵士に配付しつつある。併し一番荘厳な儀式は、日蓮宗の名刹本妙寺のそれであった。これは朝鮮の征服者、ジェシュイットの敵、仏教の擁護者であった、加藤清正の霊が三百年間眠れる処である。――此処は参詣人の唱える南無妙法蓮華経の題目が大浪の様に響く処だ――又此処は神と祀られる清正公の小さい肖像を入れた寺院形の珍しい護符を売って居る処である。此寺の本堂ならびに長い並木路に沿う両側の末寺では、特別の法要が行われ、清正の霊へ神助を仰ぐ特別の祈祷が上げられた。三百年間本当に保存された清正の甲冑、兜、太刀は姿を隠して了った。これは或る人の説では軍紀を鼓舞する為めに朝鮮へ送られたのだと云う。又夜な夜な寺の庭で馬蹄の音が聞こえて、再び日の御子の軍を勝利に導かんと、墓穴おくつきより出現せる清正の幽霊が過ぐるを見たなどという者もある。疑いもなく田舎の素朴な勇剛な青年兵士の中には、それを信じた者も多かろう――恰もアテネの兵士がマラトンでテセウス将軍の在陣を信じた如くに。殊に多数の新募の兵には熊本その者が既に偉人の伝説で神聖化された驚愕の市と見え、其城は朝鮮で立て籠もった城砦の設計に倣って清正が築いたもので、世界の不思議とも見えたのであろうから、尚お更の事である。

訳者註 熊本の古社八幡宮。

こんな騒ぎの最中に市民は不思議に静かにして居た。外見だけでは外人にはとても一般の感情は推測されぬ。

註 此一文は一八九四年(明治二十七年)の秋、熊本で書いたのである。国民の熱誠は凝集して静粛となった。其外見上の静けさの下には封建時代の獰猛さが燻って居た。政府は幾千とも知れぬ義勇隊――おもに剣客の申し出を謝絶せざるを得なかった。若しそんな義勇隊を召集したなら一週日の中には十万人の応募者は得られたろうと自分は思う。然るに敵愾心は意外な、又更に痛ましい方法であらわれた。出陣を謝絶されたので自殺した者が多数ある。地方の新聞紙から手当たり次第に二三の奇怪な実例を引用しよう。京城に居た某憲兵は大島公使を日本に護送することを命ぜられたので、戦場へ行くことが出来ぬので無念の余り自殺した。又石山という一士官は病気の為め所属の連隊が朝鮮に向け出発する日に、行を共にすることが出来ぬので病床から立ち上がり、天皇の聖影を拝した後、剣を抜いて自刃した。大阪の池田という兵士は何か軍紀に背いた廉で出征を許されぬと聞き、我れと我が身を銃殺した。混成旅団の可児大尉は、彼の連隊が忠州付近の一要塞攻撃中病気で卒倒し、無意識の状態で病院に収容されたが、一週間後に意識を回復すると卒倒した処へ行って(十一月二十八日)自殺した――其時の遺書は「ジャパン デーリー メール」がつぎの如く翻訳した。「予は病気の為め此処に停まり、予が部下の要塞襲撃に参加するを得ざりしは、終生拭うからざるの恥辱なり。此恥辱をそそがんが為めに余はここに死す――予が哀情を語るべく此一書を遺して」

東京にある一中尉は、己が出征後、母のない一人の少女を世話する者もないので、其幼児を殺して、発覚せざる中に己が隊と共に出征した。彼は其後戦場に、我が子と冥途の旅を共にすべく、死を求めて遂に之を得た。此一事は封建時代の殺伐な気性を思い起こさしむる。武士サムライが勝算なき戦場に出る時、妻子を予め殺して出陣した話がある。それは武士が戦場で思うてはならぬ三つの物を忘るるに都合よいからである――即ち家、妻子、及び我が命。妻子を殺した後の武士は死に物狂いに働く事が出来る――敵になさけをもかけねば、敵の憐れみをも乞わずに。

公衆の静粛さは特に日本的であった。民衆は個人の様に、感動すればする程、外見上は益々自制的になるのである。天皇は在鮮の兵士に酒肴と、慈父の如き愛憐の詔書を下賜された。国民も之に倣って便船毎に酒、食糧、果物、菓子、煙草其他各種の寄贈品を送りつつある。高価の寄贈に堪えぬ輩は、草鞋わらじを贈りつつある。全国民は軍事資金に献金しつつある。熊本は決して富める市ではないが、尚お貧富とも全力を尽くして其忠誠を証明せんと力めつつある。商人の小切手、職人の紙幣、労働者の銀貨、車夫の銅貨、雑然混交して、何れか同胞の為めに微力を致さんと奢侈を戒め、冗費を省きたる結果にあらざるはない。子供すら献金した。そして其同情ある小献金は謝絶されなかった。それは普遍的な愛国心の動きは決して挫折されぬ様にとの注意からである。併し又予備兵の家族の為めに特別の寄付金募集が町々で企てられた。――予備兵は既に結婚して、大部分は低級の職業に従事して居るのだが、突然召集されたので、妻子は糊口の道を失うたから、其糊口の道を立ててやろうと、市民が自発的に厳然と誓って努力しつつあるのである。こんな非利己的な同胞の愛を背後に有する兵士が、兵士としての義務を十二分に尽くすべきは疑うの余地がない。

そして彼等は尽くしたのである。

自分に逢いたいという兵士が玄関に来て居ると万右衛門が云った。

「万右衛門、それは兵隊の宿を此家へ割り付けようというのではあるまいな――此家は狭過ぎるから。何の用だか聞いてお呉れ」

「聞きました」万右衛門が答え。「あの兵隊は貴君あなたを御存じ申して居ると申します」

自分は玄関へ出て行って見ると、軍服姿の好青年が、自分の現われたのを見て微笑して帽子をとった。自分には見覚えがない。併し其微笑には覚えがある。一体、何処で見たのだろう。

「先生、ほんとに私をお忘れになりましたか」

又暫くいぶかりながら自分は彼を凝視した。すると彼は穏やかに笑って名を名乗った――

「小須賀浅吉です」

自分が両手を差し出した時、自分の心臓まで彼の方へと躍った。

「さあお上がりお上がり」自分はどなった。「併し君は実に大きく立派になりましたね。分からなかったのに不思議はない」

彼は靴を脱ぎ剣を外しながら、小娘のように赤面した。彼は授業中間違った時も、賞められた時も、此通りに顔を赤くした事を想い出した。明らかに彼は松江の中学で十六歳の羞恥はにかみがちの少年であった時と同様に、今でも尚お清新な心を有して居るに相違ない。彼は暇乞いの為め、自分を訪問する許可を得て来たのだが、彼の連隊は明朝、朝鮮へ出発するのだという。

自分は彼を引き留めて会食した。そして往事を談じた。――出雲の事、杵築の事、其外色々愉快な事を話した。初めは知らずに彼に酒を勧めたが、彼は決して飲まなかった。軍隊に在る間は、決して飲酒せぬと母に約束して来たということを後で知った。それで酒の代わりに咖啡コーヒーを進めて彼が身上話を引き出そうと力めた。彼は卒業後富める農家である一族に助力する為め故郷へ帰ったのであったが、学校で学んだ農学が大分役に立ったという。一年後に十九歳に達した村の凡ての青年と共に、徴兵候補として寺へ召集され、規定の検査を受けた。処が検査官の軍医と司令部の少佐との合議で一番に合格し、つぎの入営期に引き出された。そして十三箇月の勤務の後伍長に昇進した。彼は軍隊が好きであったのだ。初めは名古屋に居たが、つぎに東京へ転じた。併し名古屋の連隊は朝鮮に出征せぬのを知って、熊本師団へ転勤を願い出でて許されたのであった。「私は非常に嬉しいです」と彼の顔は軍人らしい喜びを以て輝きつつ叫んだ。「我々は明日立つのです」そして喜びを露骨に発表したのを恥ずるが如く又顔を赤くした。自分はカーライルの、誠実な心を誘うものは快楽でなくて、苦難と死だと云った深い言葉を思い出した。自分は又――これは日本人には云えない事だが――此青年の眼中の喜悦は、自分が今迄に見た何物よりも、婚礼の日の朝の花婿の眼の色に彷彿たるものであると思った。

「君は覚えて居ますか」自分は問うた。「君は学校で陛下の為めに死にたいと云った事がありましたね」

「ハイ」笑いながら彼は答えた。「そして其機会が来たのです。私にばかりではない。級友の多くにも」

「みんな何処に居ます」自分は問うた。「君と一緒かね」

「いや、みんな広島師団に居ました。今はもう朝鮮に往って居ます。今岡(先生御記憶でしょう。身長せいの高い男です)と長崎と石村――これだけは皆、成歓の戦争に参加しました。それから教練の先生であった中尉――御記憶ですか」

「藤井中尉か、覚えて居る。退職士官だったね」

「併し予備でした。の人も朝鮮へ行きました。先生が出雲を去られてから、男の子をも一人儲けられました」

「僕が松江に居た時は、女の子が二人、男の子が一人ありましたね」

「そうでした。今は二人男の子があります」

「そんなら家族は大分心配して居ましょう」

「中尉自身は心配しません」青年は答え。「戦争で死ぬのは名誉です。戦死者の家族は政府で世話して呉れます。だから士官達は少しも心配がありません。ただ――子息がなくって死ぬのは一番悲しむべきです」

「僕には解せない」

「西洋ではそうでありませんか」

「却って我々は子供があるのに死ぬのが尤も悲しむべきだと思います」

「どういう理由でしょう」

「善良な父は凡て子供等の将来を心配しましょう。若し突然父親が居なくなったら、子供等は色々の難儀をしようじゃありませんか」

「日本の士官の家族はそうでありません。子供は親戚で世話するし、政府からは扶助料が下がります。だから、父親は心配するに及びません。だが子供が無くて死ぬ者は気の毒です」

「というのは妻と其他の家族が気の毒だというのかね」

「いや当人が気の毒です、夫自身が」

「それはどうして。子供があったって死人には何の役にも立つまいじゃないか」

「子供があれば後を継ぎます。家名を保存します。そして供養を致します」

「死者への供養ですか」

「そうです。お分かりになりましたか」

「事実は分かったが、感情が僕には分からない。軍人は皆、今でもこんな信念をって居ますか」

「有って居ますとも。西洋にはそんな信念はありませんか」

「今はないね。昔のギリシャ人やローマ人はそんな信念を有って居ました。祖先の霊は家に遺って居て、供養を受け、家族を守護すると思って居ました。彼等が何故そう思ったか我々にも幾分分かります。併し彼等が何う感じたか、それは判然はっきり分かりません。それは我々自分が経験しない、若しくは遺伝しない感情というものは、分かるものでありませんから。同じ理由で僕には死者に対する日本人の真の感情は分かりません」

「そんなら先生は、死は凡ての終わりだ、とお考えですか」

「いや僕の不可解わからないのはそう考えるからではない。或る感情が遺伝する――或る思想も多分遺伝する。死者に就ての君の感情と思想、又死者に対する生者の義務感というものは、西洋のとは全然違います。我々には死という概念は生者からのみならず、此世からの全き別離を意味するのです。仏教も死者は長い暗い旅行をせねばならぬ事を説いてるじゃありませんか」

「冥途の旅ですか。そうです、みんな其旅を致します。併し我々は死を全き別離とは考えません。我々は死者も我が家に居る如く考えて、毎日言葉をかけます」

「それは知ってます。僕に分からぬのは其事実の背後の思想です。若し死人が冥途へ行くのなら、何故仏壇の祖先に供物を供え、実際在すが如くに祈祷をしますか。一般俗衆はこうして仏教の教えと神道の信念を混同して居ませんか」

「多分混同して居る者も沢山ありましょう。併し全くの仏教信者にも死者への供養と祈祷は、同時に異なる場所でなされます。――檀那寺でも又家庭の仏壇でも」

「併しどうして霊魂が冥途に在ると同時に、此世の様々な場所に在ると考えられるでしょう。たとえ霊魂は分割されると信ずるにしても、それだけでは此矛盾を説明し尽くされません。仏教の教えに従うと、死人は彼世で裁判さばきを受けて、居処を決せられるようになって居ますから」

「我々は霊魂は一にして又二にも三にもなるものと信じて居ます。我々は霊魂は一人のものとして考えますが物質的のものとは考えません。丁度空気の動く様に同時に幾箇処にも居られるものと考えます」

「或は電気の様に」と自分は補った。

「そうです」

此の若き友の心には明らかに冥途と家庭の供養という二つの概念は、調和し得ぬものとは思われぬのであった。多分如何なる仏教哲学の学者にも、此二つの信念が重大な矛盾を含むものとは見えぬだろう。『妙法蓮華経』は仏の境界は広大無辺――大気のはてなきが如しと説いて居る。又久しく涅槃に入りたる仏に就ては「其完全なる滅後と雖も、十方世界を徘徊す」と宣べて居る。又同じ経は凡ての仏達の同時に出現せし由を説きたる後、釈迦をして宜せしむらく、「これ皆我が分身なり。其数は恒河の砂の如く千万無量なり。彼等は妙法を実現せんが為めに現われたり」併し平民の無邪気な心に、神道の原始的な思想ともっと的確な仏教の霊魂裁判の教義との間に、真の調節が出来て居ない事は、自分には明らかに見ゆる。

「君はほんとに死を生と同様に、又光と同様に考えますか」

「そうですとも」微笑しながら答えた。「我々は死後も家族と一緒に居ると思います。両親や友達にも逢うでしょう。即ち此世に遺って居るでしょう――今と同様に光を見ながら」

(此処で突然自分には或る学生が義人の未来を論ずる作文の中で「彼の霊は永久に宇宙を翺翔こうしょうするならん」と書いた言葉が新しい意味を以て、思い出された)

「ですから」浅吉は続けて云った。「子供のある人は元気好く死ねるのです」

「飲食物の供物を子供が霊魂に供えるからですか。そしてそれがないと霊魂は困るのですか」と自分は問うた。

「そればかりではありません。供養よりも、もっと重大な義務があります。それは誰れでも死後に、自分を思慕して呉れる者を要求するからです。お分かりになりましたか」

「君の言葉だけは分かりました」自分は答えた。「君の信念の事実だけは分かりました。感情は僕には解せません。僕には僕の死後、生きてる者から思慕されても幸福になるとは考えられません。いや僕は死後に何等の愛をも感知し得るとは想像されません。して君はこれから戦争に遠くへ往くのだが――子供のないのは不運だと思いますか」

「私が。いや、私自身が子供です――末の方の子供です。両親はまだ生きて居て丈夫です。そして、兄が世話をして居ます。私が殺されたら、私を思って呉れる者が沢山あります――兄弟や姉妹やそれから幼い者もあります。我々兵士は別です。我々はみな、極若いですから」

「何年間程」自分は尋ねた。「供物は死人に供えられるのかね」

「百年間です」

「たった百年間」

「ハイ、寺でも百年間だけしか、祈祷と供養は致しません」

「そんなら死人は百年で追懐されずともよくなるものですか。それとも彼等は遂に消滅するのかね。魂魄の死滅という事があるのかね」

「いや、百年後にはもはや家に居なくなるのです。生まれわるのだとも云いますが。又或る人は彼等は神になるのだと申します。そして神として尊敬し、一定の日に床の間で供え物を致します」

(これは普通行われて居る解釈であるが、これと不思議にも相反せる思想に就て聞いた事がある。非常に徳望のある家では、祖先の霊が物質的の形態を取って、数百年の間、折々現われるという伝説があるのである。昔、或る千箇寺参詣者まいり(註)が、遠い或る辺鄙の地で二人の霊魂を見たという記錄を遺して居る。彼等は小さい朦朧たる形態で「古銅器の様に黒い」と云ってある。彼等は口はきけないが、低い呻く様な声を発する。又毎日供えられる食物を食いはせぬが、ただ暖かい湯気を吸入する。彼等の子孫の云う処に依ると、彼等は年々益々を小さく、益々朦朧となるという)

註 これは日蓮宗の名ある寺を千箇処巡拝する信者の事で、此旅行を終わるには数年を要するのである。

「我々が死者を思慕するのは甚だ変だとお考えですか」浅吉は尋ねた。

「いや」自分は答えた。「それは美しい事だと思います。併し西洋の一外人としての僕には、其慣習は今日のものらしくない、寧ろ昔の世界のものらしく思われます。古ギリシャ人の死者に対する考えは、現代の日本人に大分似て居ったろうと思います。ペリクレスの時代のアテネの兵士の感情は、多分明治時代の君等と同じであったろう。君は学校で、ギリシャ人が死者に犠牲を供えたり、英雄や愛国者の霊に敬意を払った事を読んだでしょう」

「読みました。彼等の習慣の中に我々のに似て居るのがあります。我々の中で支那と戦って倒れる者も同様に敬意を払われるでしょう。神として崇められるでしょう。天皇陛下すら敬意を寄せられるでしょう」

「併し」自分は云った。「先祖の墳墓の地を遠く離れて、外国で戦死するのは、西洋人にすら、甚だ気の毒に思われます」

「いやいや。郷里の村や町には戦死者の為めに記念碑が建てられましょう。そして屍骸は焼いて骨にして日本に送ります。少なくともそれが出来る処ではそう致します。ただ大戦の後ではむつかしいでしょう」(突然ホメロスの詩の記憶おもいでが胸にみなぎって、「屍の山が其処にも此処にも絶え間なく焼かれた」という古戦場の幻影まぼろしが自分の眼に浮かんだ)

「そして此戦争で殺された兵士の霊は」自分が問うた。「国難の時には、国を護り給えと常に祈られるのだろうね」

「そうですとも。我々は全国民に敬愛せられ、崇拝されるのです」彼は既に死ぬと極まった者の様に「我々」と云ったが、それは、全く自然に聞こえた。暫し沈黙した後で又続けた――

「去年学校に居る時、行軍を致しましたが、其時意宇いう地方の英雄の霊の祀られてある神社へ参りました。それは丘陵に囲まれた美しい淋しい処で、やしろは高い樹木で蔽われて居ます。そしていつでも薄暗く、冷たいしんとした処です。我々は祠の前に整列しましたが、一人も物云う者はありませんでした。其時喇叭らっぱが、戦場への召集の様に神の森に鳴り響きました。そして私の眼には涙が出ました――何故とも分からずにです。同輩を見ると、みな私と同様に感じたらしいのです。多分先生は外国人ですから、お分かりになりますまい。併し日本人なら誰れでも知って居る、此感情をよく表現した歌があります。それは西行法師という高僧が昔詠んだものです。此人は僧侶にならぬ前は武士であって、俗名を佐藤憲清と云いました。――

なにごとのおわしますかは知らねども
          ありがたさにぞなみだこぼるる」

自分がこういう経験談を聞いたのは、これが初めてではなかった。自分が教うる学生の多くは、古い神社の縁起と朧気な厳粛さとに依って喚起された感情を語るに躊躇しなかった。実際浅吉の此経験は深海のさざなみと同様、決して単燭のものではなかった。彼はただ一民族共有の祖先伝来の感情――神道の漠乎たる併し測り知られぬ深さを有する情緒を述べたに過ぎぬ。

我々は軟らかい夏の闇が落ちかかる迄話し続けた。星と兵営の電灯が諸共に閃き出した。喇叭らっぱが鳴った。そして清正の古城から、雷の様な一万の兵士の歌う太い声が夜の中へ転げ出した。――

西も東も
  みな敵ぞ、
南も北も
  みな敵ぞ。
寄せ来る敵は
  不知火の
筑紫のはての
  薩摩潟。

「君もあの歌を習ったかね」と自分が聞いた。

「習いました」浅吉が云う。「兵士は誰でも知ってます」

それは籠城の歌「熊本籠城」という軍歌であった。我々は耳をそばだてて聞き入った。その偉大な合唱の響の中に。詞の幾分を聞き分くることも出来た。

天地も崩る
  ばかりなり、
天地は崩れ
  山川は
裂くるためしの
  あらばとて、
動かぬものは
  君が御代。

暫しの間、浅吉は歌の強いリズムに合わせて肩を揺りながら聞いて居たが、突然目覚めた者の如く笑って云った。――

「先生、お暇致します。今日はお礼の申し上げ様もありません、非常に愉快でした。併し先ず」――と胸から小さい包みを出して「どうぞ之をお納め下さい。久しい以前に写真をと仰しゃいましたが、紀念かたみに持って参りました」と立ち上がって剣を着けた。自分は玄関まで送り出して彼の手をじっと握った。

「先生、朝鮮から何をお送り致しましょう」彼は問うた。

「手紙さえ貰えばよい」自分は云った。「つぎの大勝利の後でね」

「筆さえ握れましたら、それは屹度きっと」彼は答えた。

さて銅像の様に身体を真直ぐにして、制規の軍人式敬礼を行って、闇の中へ大股に消えて了った。

自分は淋しい客間へ帰って冥想した。軍歌の轟きが聞こえる。汽車の囂音ごうおんが聞こえる。其汽車は幾多の若き心、幾多の貴い忠義、幾多の立派な誠と愛と勇とを載せて、支那の稲田の疫癘えきれいの中へ、死の旋風の真中央まっただなかへと運び去るのであった。

地方の新聞紙に依って発表された長い戦死者名簿の中に、小須賀浅吉の名を発見した日の夜、万右衛門は客間の床の間を祭祀用に装飾して灯明をつけた。花瓶には花を一杯挿し、色々の小さい灯火を並べ、青銅の小さい鉢に線香をいた。準備が調った処で自分を呼んだので、床の間へ近寄って見ると、中に浅吉の写真が小さい台の上に立ててあるのを見た。その前には飯、果物、菓子などが小さく並べてあった――老人の供物である。

「多分」万右衛門がおずおず云った。「旦那が何とか物を云って上げたら、浅吉の霊が喜びましょう。旦那の英語が了解わかりましょうから」

自分は彼に物を云った。すると写真は線香の煙の中で微笑むように見えた。併し自分の云った事は、彼と神々にばかり分かる事であった。