我等は今日美しい光景に接した――美しい夜明け――美しい日の出――我等は大悟の士が流れを横断したのを見た。
地蔵堂は、小店ばかり並んで居る町の、露地の奥に潜んで居るので、探すのが容易でなかった。二軒の家の狭い庇間にある露地の入口は、風の吹く度にはためく古着屋の暖簾で掩われた。
暑いので小さい堂の障子は取り外ずされ、本尊は三方から拝まれた。自分は黄色い畳の上に、勤行の鉦、経机、朱塗りの木魚などの仏具が並んで居るのを見た。須弥壇の上には子供の亡霊の為めに涎懸けを着けた石の地蔵があった。更に其尊像の上には長い棚があって、金箔を塗った極彩色の二三の小像が載って居た――頭から足まで背光のある地蔵尊、燦爛たる阿弥陀仏、慈顔の観音及び亡者の判官である閻魔大王の恐ろしい像などが。それより又上には奉納の絵馬がどっさり雑然と掲げられて居た。其中にはアメリカの絵入新聞から取った版画を額にしたのが二つあった。一つはフィラデルフィア博覧会の光景、他の一つはジュリエットに扮したアデレード・ニールソン嬢の肖像であった。本尊の前には普通の花瓶の代わりにガラス製の壺があって、それには「レイン・クロード(仏国産の李)果汁、貯蔵請合、ボルドー市ツーサン・コーナー会社」と書いてある貼紙が張ってある。それから線香の入って居る箱には「香味豊富――ピンヘッド紙巻」という文字が書いてある。之を寄付した善人は、此世でもっと高価な寄付をする見込みがなかったのであろう。そしてこれでも外国品である故に美しいと思ったのであろう。又こんな不調和にも拘らず自分には此堂が実際綺麗に見えた。
龍を出してる羅漢の無気味な絵のある衝立が奥の室を仕切って居た。そして姿は見えぬ鶯の声が境内の静けさに床しさを添えて居る。赤猫が衝立の蔭から出て来て我等を眺めたが、又使命を伝えるかの如く退却した。間もなく一人の老尼が現われて、歓迎の意を述べ、上がれと乞うた。彼女の滑々と剃った頭はお辞儀をする度に月の様に輝いた。我等は靴を脱いで、彼女の後から衝立の後ろの、庭に面した、小さい室へ通った。そして一人の老僧が布団に坐って、低い机で書き物をして居るのを見た。老僧は筆を差し措いて我等を迎えた。我等も彼の前の布団に席を占めた。彼の顔は見るも愉快げな顔で、取る年波の描いた皺は、悉く善なるものを語って居た。
尼が茶と法の車の印してある菓子を運んで呉れた。赤猫は自分の側に丸くなって寝た。そして老僧は語り出した。彼の声は太くて優しい。寺の鐘の響きに伴なう、豊かな余韻のように、青銅のような音色がある。我等は彼が身上話を聞く様に談話を仕向けた。彼は八十八歳になって、眼も耳もまだ若い者同然だが、慢性のリウマチの為めに、歩行が叶わぬという。二十年間、三百冊で完成するという日本の宗教史を書いて居るが、既に二百三十冊だけ稿了したそうである。そして残部は来年中に書き上げたいと云って居る。彼の背後の小さい本箱には、きちんと綴じた原稿が厳めしげに詰まって居た。
「併し、此人のやってる計画は間違って居ます」と自分の伴れて居る学生の通訳子が云った。「其宗教史が出版される事はありますまい。奇跡談やお伽噺の様な、有り得べからざる噺ばかり集めてるのです」
(自分はどうぞ其噺を読みたいものだと思った)
「そんなお年にしては、大層御丈夫に見えますね」と自分は云った。
「どうやら、あと数年生きられそうで御座います」老人は答えた。「が、此歴史を書き上げるだけしか生きて居ようとは願いません。書き上げたら、私は動く事も出来ぬ、あわれなものであります故、早く死んで生まれ替わりたいと思います。こんなに片端になるというは、何か前世で罪を犯したものと見えまする。併し、彼岸に段々近寄ると思うと嬉しゅう御座います」
「生死の海の向こう岸という意味です」と通訳が云う。「御存じの通り、其海を渡る船が法の船で、一番遠い岸が涅槃です――ニルバーナです」
「我々の身体の弱点とか、災厄とかは」自分が問うた。「みんな前生に犯した過失の結果でありましょうか」
「我々の現在は」老人が答えた。「我々の過去の結果であります。日本では万劫、因業の結果だと申します――これは二種類の行為であります」
「善と悪との」自分は問うた。
「いや、大と小とであります。人間に完全な行為と申すは御座いません。どんな行為にも、善もあり悪もあり、丁度どんな名画でも好い処もあり悪い処もあると同じで御座います。併し行為の中の善の総額が悪の総額よりも多い時には、丁度名画の長処が短処に優る時の様に、結果は精進となります。此精進で悪が凡て徐々に除かれます」
「併しどうして」自分が尋ねた。「行為の結果が肉身に影響を及ぼします。子は父祖の道に従い、強いも弱いも父祖から承け継ぎます。但し霊魂は父祖から受けるのではありませんが」
「因果の鎖は手短に説明する事は容易でありません。それを悉く悟得するには、大乗を研究せねばなりませぬ。又小乗をも研究せねばなりませぬ。それを御研究になると、世界というものも、ただ行為故に存在するということをお悟りになりましょう。丁度字を習うのでも初めは大層むつかしいが、後には上達して何の苦もなく書く様に、行為を正しい方へ正しい方へと振り向ける努力も、絶えず繰り返せば習慣になります。そして其努力は彼世までも継続致します」
「前世を記憶する力を得る人がありましょうか」
「それは滅多にありません」老人は首を振って答えた。「その記憶力を得るには、先ず菩薩であらねばなりません」
「菩薩になることは出来ませんか」
「今の世では出来ません。今は汚濁の世で御座います。初めに正法の世が御座いました。其時は人の寿命も長う御座いました。つぎに色相の世になりまして、人間は其間に最高の真理を離れました。そして今は世界が堕落致して居ります。今の世では善行を積んでも仏にはなれません。と申すは世間が腐敗して寿命が短いからで御座います。併し信心深い人は、徳を積み常に念仏を唱えますれば、極楽には参れます。極楽では正法を行うことも出来ます。日も長し寿命も長う御座いますから」
「私は経文の英訳で」自分が云った。「人は善行に依って順々に前よりも優れた生へ生へと生まれ替わり、其度毎に、前よりも優れた能力を得、前よりも優れた悦びに包まるるということを読みました。富や力や美や、又美女や、何でも人が此世で欲するものが手に入る様に云ってあります。すると精進の道は進めば進む程段々むつかしくなるに相違ないと思わぬ訳に参りません。というのは、若し此経文が真なら、人は仏法の修業に依って煩悩の対象から離れ得れば得られる程、又之に復帰させようとする誘惑が益々強くなるからであります。そうすると徳の酬いはそれが却って妨げとなるように思われますが」
「そうでありません」老人が答えた。「持戒自制に依ってそんな此世の幸福を得るようになった者は、同時に霊力と真知を得て居ます。一生を進める毎に己れに打勝つ力も勝して往って、遂に物質を離れた無色相の世界に生まれます。そうなると低級な誘惑は御座いません」
赤猫は此時下駄の音で不安そうに身動きをしたが、尼に尾いて入口の方へ出て往った。二三の来客が待って居るのであった。それで老僧は彼等の精神上の要望を聞かんが為め、暫し容赦を乞う旨を告げた。我等は直に新参の客に席を譲った。――彼等は何れも気持ちのよい人間で、我等にも挨拶した。一人は子息を亡くした母親で、其子の冥福を祈るように、読経を請うのであった。今一人は病める夫の為めに、仏の憐れみを得ようとする若い女房で、あとの二人は遠い処へ往った誰れかの為めに、仏の助けを乞おうとする父と娘であった。老僧は一同に慈愛に満ちた挨拶をした後、子を失った母には地蔵の版行絵を与え、病める夫を持つ女房には、洗米の紙捻りを与え、父と娘には何か尊い文言を書いて与えた。自分には、ふと全国の無数の寺で、毎日無数の無邪気な祈祷がこうして行われて居るのであるという考えが浮かんだ。又誠実な愛情から来る凡ての心配、希望、苦悶というようなもの、及び神仏にしか聴かれない、あらゆる謙遜な悲嘆を思い浮かべた。通訳の学生は老人の書棚を漁り始めた。そして自分は考うべからざるものを考え始めた。
生――創られたのでない、従って始めなき、統一体としての生――我々は只だ其明るい影のみを見る生――永久に死と戦いつつ、常に征服せられ、しかも常に生存する生――それは一体何であろう――何故にそれは存在するのであろう。何百万回か宇宙は消失した――何百万回か復活した。消失するごとに生も共に消失するが、つぎの周期には再現する。宇宙は星雲となり、星雲は宇宙となる。星や遊星の群は永久に生まれ、永久に死滅する。新たに大凝集が行われる毎に、燃える球体は冷却し、成熟して生となり、生は成熟して思想となる。我々各個の霊魂は幾百万の太陽の熱を潜ったに相違ない――将来も更に幾百万の宇宙の消滅に遇い、しかも生存するに相違ない。記憶も如何にかして、如何なる処にか生存し得ぬであろうか。或る知られざる方法と形式とにて、其記憶が生存せぬとは我々は断言し得ぬ――過去に在って将来を記憶すとも云うべき、無限の洞観力の如くに。多分涅槃の深淵に於けるが如き無尽の夜の中に、過去将来の夢が永久に夢みられつつあるのであろう。
檀家の者等は謝意を述べ、地蔵に少し許りの供物を供え、それから我等にも挨拶して帰って行った。我等は小さい机の側の故の座に還った時、老人は云った。
「世の中の悲歎を誰れよりもよく知るのは僧侶で御座いましょう。西洋人は金はあるが、矢張り西洋にも苦悩は多いようですね」
「ハイ」自分は答えた。「西洋には日本によりも却って苦痛が多いでしょう。金持ちの快楽は日本よりも大きいが、貧民の苦痛も大きいでしょう。我々西洋人の生活は日本よりも困難です。其理由ででしょう。我々の思想は此世の不可解に悩まさるる事が多いのです」
老僧は之に興味を持つらしかったが、一言も云わなかった。自分は通訳の助力で詞を続けた。――
「西洋諸国の多くの人々が、常に心を悩ます三つの大きな疑問があります。『何処から』『何処へ』『何故』と云うのであります。それは人生は何処から来たか、何処へ行くか、そして何故に存在し、何故に悩むかという意味であります。西洋の最高の哲学は、それを解き難き謎だと申します。けれども同時にそれが解けぬ限りは、人間の心に平和がないと白状致して居ります。凡ての宗教は其説明を試みましたが、何れも異説まちまちであります。私は此疑問の解答を得ようとして仏書を漁りました。そして何れよりも立ち優った解答を見付けました。それでもまだ不完全であるので、私を満足させる事は出来ません。貴僧のお口から、少なくとも第一と第三の疑問の解答を伺いたいと存じます。私は証明や議論は一切伺おうとは致しません。ただ結論の御教義を承りたいのであります。一切の物は始めは宇宙心霊にあるのでしょうか」
此質疑に対して自分は実は明快な答弁を予期しなかった。それは『一切漏経』という経の中で、「考うべからざる物」とか、六愚説とか、「茲に物あり、此者何れより来り何れに行くか」などと論議する者を、非難する言を読んだ事があるからである。然るに老僧の答は、歌の様に調子よく音楽的に聞こえだした。――
「一個体として考えた万物は、発展繁殖の無数の形式を経て、宇宙心霊から出現したのであります。万物は其心霊の中に潜在的に久遠の昔から存在したのであります。併し我々が心と呼ぶものと、物と呼ぶものとの間には、本質の相違は御座いません。物と呼ぶものは我々の感覚、知覚の総計で、それは皆心の現象であります。物の本体に就ては、我々は何の知識も御座いません。我々は我が心の諸相以外の事は何も知りません。心の諸相は外部からの影響若しくは外力に依って心の中に現わるるもので、此影響外力を指して物と申します。併し物と心と申すも又無窮の実在の二つの相に過ぎません」
「西洋にも」自分は云った。「それに似た説を教うる学者があります。それから近代科学の深淵な研究も、我々が物質と呼ぶものは、絶対の存在を有しないと説くようです。併し貴僧の仰しゃる無窮の実在に関しまして、それが何時何如にして、我々が物と心と区別する二つの形式を初めて生み出したかという、仏の教えはないでしょうか」
「仏教は」老人が答えた。「外の宗教の様に、万物が天地開闢という事で創造られたとは教えません。唯一無二の実在は宇宙心霊で、日本語で真如と申します。――これが無窮久遠の実在其物で御座います。さて此無窮の心霊は自体の中に自体の幻影を見ました。丁度人が幻覚で眼に映った物を宝物と思う様に、此宇宙実在も自体の内で見た物を外物と思い違えたのであります。此迷妄を我々は無明と申します。其意味は光を発しないとか、照明を欠くとか申すのであります」
「其言葉を、西洋の或る学者は」自分が口を挿んだ。「『無知』と訳しました」
「私もそう聞いて居ります。併し我々が用うる言葉の意味は『無知』という言葉で現わす意味とは違います。寧ろ誤った教化とか、或は迷執の意味であります」
「そして其迷執の起こった時に関しては、何と教えてありますか」
「最初の迷執の起こった時は、数え切れぬ遠い過去で、無始、即ち始めを超越して居ると申します。先ず真如から我と非我という第一の差別が出現して、それから精神上並びに物質上のあらゆる個体が起こり、又同様にあらゆる情と欲とが出て、それが生死流転の縁を作ったので御座います。だから全宇宙は無窮の実在からの出現であります。けれども我々は其無窮の実在に依って創造られたとは申されません。我々の本元の我は宇宙心霊であります。我々の内には宇宙我が、最初の迷執の結果と共に存在して居るので御座います。此迷執の結果の裏に、本元の我が包まれて居る状態を、我々は如来蔵(註)、即ち仏の胎と申します。我々が何の為めに努力するかと申すと、只だ此無窮の本元我に帰着する為めで、其処が仏陀の根本で御座います」
註 如来蔵は梵語で Tathagata-garbha と云う。Tathagata は日本語で如来で、仏の最高の称号である。先人の来るが如く来る人というを意味す。
「も一つ疑義がありますが」自分は云った。「それに就て仏教の教えを承りたい。我が西洋の科学は、我々の目に見ゆる此宇宙は、無限の過去に於いて無数回、替り番に展開したり、崩壊したり致したので、無限の未来に於いても、又無数回、滅したり現われたり致すに相違ないと申します。又インド古哲学や仏典の英訳にも同様の事が述べてあります。併し遂にはあらゆる物に最終の消滅、永遠の静止の時が来たろうとは教えてありますまいか」
彼は答えた。「いかにも小乗には、宇宙は過去に於いて無数回、現われたり消えたりを反覆した、将来の無限劫の間にも、又替り番に崩れたり立て直したりするであろうと説いてあります。併し又一切の物は遂には永久に涅槃の状態に入るであろうとも説いてあります」
これとは筋違いであるが、併し抑制し難い空想が突如として此時自分の胸に起こった。科学は絶対静止の状態を摂氏の零下二百七十四度、即ち華氏の零下四百六十一度二分という公式で表わすということを思い出したのであった。併し自分はただ云った。――
「西洋人の頭には絶対静止を、幸福の状態とは考え難いのですが、仏教の涅槃という思想は、無限の休止、普遍的の不動という思想を含むのでしょうか」
「否」と老僧は答えた。「涅槃は絶対自足、凡てを知り凡てを見る状態であります。我々はそれを全然不活動の状態とは思いません。却って凡ての繋縛を脱した大自在の境地と想像致します。いかにも我々は肉体のない感覚若しくは知覚の境地を想像する事は出来ません。我々の五感も思想も肉体という条件に隷属するのでありますから。併し我々は涅槃は無限の視力、無限の安心の境地であると信じます」
赤猫は老僧の膝の上に躍り上がって、気楽そうに円くなった。老人はそれを撫でてやって居る。自分の通訳子は小さく笑って――
「肥えて居ますね。前世に善行を積んだのでしょう」
「動物も」自分は問うた。「前世の功罪に依って、境涯が定まるのでしょうか」
僧は厳粛に自分に答えた。――
「凡て生物の境涯は前世の境涯に依るので、生は一であります。人間に生まれるのは幸運であります。人間であればこそ我々は幾何かの教化を受け、功を積むの機会もあるのであるが、動物の状態は心の闇の状態で、誠に憐憫の至りであります。どの動物でも真に幸福だとは考えられません。併し動物の生活にさえ、限りなき境涯の相違が御座います」
後は暫く沈黙が続いた――猫の咽喉を鳴らす音が折々聞こゆるばかりであった。自分は丁度衝立の上に見える、アデレード・ニールソンの肖像を見た。そしてジュリエットを思い出し、又自分が若し立派に日本語で話し聞かせることが出来たら、沙翁の驚くべき情熱と悲哀の物語に就て、僧は何というだろうと考え廻らした。其時突然、其疑惑に対する返答であるかの如く、『法句経』の第二百十五節の文句が胸に浮かんだ――「愛より悲は来り、悲より恐は来る、愛に繋がれぬ者は悲もなく恐もなし」
「仏教は」自分は尋ねた。「一切の性愛は禁止せらるべきものと教えるでしょうか。性愛は必然的に修業の障りとなりましょうか。私は真宗の僧侶の外、凡て僧侶は結婚を禁ぜられて居ることを承知致して居ります。併し俗人には独身と結婚ということに就て、何ういう教えがありますか存じませぬ」
「結婚は道の障りともなり、又助けともなります。それは場合によります。凡ては場合次第であります。若し妻子の愛の為めに、憂世のはかない名利に余り酷く執着する様ならば、そのような愛は障碍となりましょう。併し之に反して、妻子の愛の為めに独身の状態に於いてよりも、純潔に非利己的に生活する事が出来るならば、結婚は修道の大なる助けとなりましょう。大智の人には結婚の危険が多く、小智の人には独身の危険が一層大であります。又時としては情熱の迷いが性来利根の人を大智に導くことも御座います。これに就てお噺があります。大目蓮(註)、これは普通、目蓮で通る人ですが、此人は釈迦の弟子でありました。処が美男なので一人の娘に思いつかれました。然るに目蓮は既に僧籍に入って居るので、夫に持つことは出来ぬと、娘は失望して窃に嘆いて居りました。が遂に勇気を奮い起こして釈迦の前に行き、心のたけを打明けました。其詞もまだ終わらぬ中、釈迦如来は彼女に深い眠りを投げかけると、彼女は目蓮の楽しい妻となった夢を見ました。楽しい幾年月かが夢の裡に過ぎ去ると、此度は悦びと悲しみの雑じった幾年かが過ぎました。すると突然夫が死んで了いました。それで彼女は生きて居られぬと云う程の悲嘆に遇いまして、其苦悶の中に目を覚ますと、如来は微笑して居られます。そして彼女に申さるるよう『妹よ、御身は凡てを見た。御身の欲する通りに選ぶがよい――目蓮の妻となるとも、或は目蓮が既に入って居る高き道を求むるとも』そこで彼女は髪を切って尼となりましたが、後には輪廻の苦を脱れる境涯に達しました」
註 梵語にては Maudgalyāyana
暫し自分はこう考えた。此噺は愛の迷妄が人を成道に導くという事を示しては居らぬ。又娘の入道は強いて苦悩を知らしめられた直接の結果で、愛の結果ではないと。併し間もなく、彼女に見せつけられた夢も、利己的な下劣な人間には、立派な結果を生ぜしむることもなかったろうと考え直した。又自分は現今の世態では己が将来の運命を前以て知らされることは、云う可からざる弊害を伴なうであろうと考え、我々の将来が目に見えぬ幕の後ろで作られる事は、我々の多くに取っては幸いであると感じた。それから自分は又、其幕を揚げて覗く能力は、其能力が人間に真に有益であるようになれば、直に発展するか或は新たに得られるであろうが、それ迄は望みはないなどと想像した。そして云った。
「未来を見る力は悟道に依って得られましょうか」
僧は答えた――
「得られます。六神通を得る所迄修業が進みますれば過去も未来も見ることが出来ます。此力は前世を思い出る能力と同時に起こります。併し左様な悟道の域に達することは、只だ今の世では甚だ困難で御座います」
通訳子は此時自分にもう辞去すべき時だと密かに合図をした。我々は少し長居を為過ぎた――其点には寛大な日本の作法で測っても長過ぎた。自分の突飛な質問に答えて呉れた好意を謝した上で付け加えた。――
「まだ承りたい事が沢山ありますが、今日は余り長くお邪魔を致しました。又別に出ましても宜しいでしょうか」
「喜んでお迎え致します。何卒幾度でもお出で下さいませ。まだお分かりにならぬ所は何でも御遠慮なくお聞き下さい。悟を得、迷いを霽らすのは熱心な探究に依るのみで御座います。いやどうぞ度々お出で下さい――小乗に就てお話しが致しとう御座りますから。そしてこれを何卒お納め下さい」
と彼は自分に二個の小さい包を渡した。一つは白い砂――善人の霊が死後巡拝に出懸けるという善光寺の祠堂の砂で、も一つは極小さい白い石で、舎利即ち仏陀の遺骨であった。
其後自分は幾度も此親切な老翁を尋ね度いと思ったが、学校と雇傭契約をしたので、横浜を去り幾多の山を越えて赴任した。それで其後は彼に遇わなかった。
自分が再び地蔵堂を見る迄に、五年の歳月は徐に過ぎた。其五年は悉く此条約港から遥かに遠い処で過ごしたのであった。其間に自分の内外に多くの変化が起こった。日本の美しい幻――初めて其魔力ある雰囲気の中に入る者には、殆ど気味悪い程に感ぜられる妖美も、自分には実際長らく感ぜられたが、遂に全く消え失せた。自分は魅惑されずに有の儘に極東を見るようになった。しかも大いに過去の感動を思慕して止まなかった。
併し其感動は或る日復活した――ほんの一瞬の間だけ。自分は横浜に来て、も一度山の手から、四月の朝に浮かべる神々しい富士の山霊を凝視した。其偉大なる春の光の青く漲れる裡に、自分が初めて日本を見た日の感じが戻って来た。美しい謎に充ちた、世に知られぬ仙境――特殊の日輪と、独得の色沢ある大気とを有する妖精の国の光彩に、初めて驚喜せる感じが戻って来た。自分は再びかがやかしい平和の夢に浸った。眼に映る物悉く再び心地よき幻となった。東洋の空は――極めて淡い白雲のあるかなきかに点々せるばかり、涅槃に入らんとする霊魂の如くに曇りなき――再び仏陀の空と化した。朝の色は次第に濃くなり行き、枯木も花咲き、風は薫り、生きとし生ける者愛憐の情を起こさざるはなかりしと云い伝えた、釈迦降誕の日の面影を現ずるに至った。漠然たる香気は四方に薫じて聖師再来を告ぐるが如く。通行人の顔さえ凡て聖誕の予感で微笑する様に見えた。
間もなく霊気は四散して、物は皆俗悪に見え出した。自分が経験した凡ての幻、地上の一切の幻は実物の如く、宇宙の森羅万象は却って幻の如く思われ出した。是に於いて無明という詞が想い出された。そして自分は直に地蔵堂の老いたる思索家を尋ねようという気になった。
其界隈は大分変って居た。古い家は消え失せて、新しい家が驚く程櫛比して建ち並んだ。併し自分は遂に彼の露地を発見した。そして彼の記憶して居た通りの小さい寺を見付けた。入口の前には女達が立って居た。そして若い一人の僧が幼児と遊んで居たが、其幼児の小さい鳶色の手は、僧の綺麗に剃った顔を弄って居た。其顔は切長の眼を有った、利根そうな親切そうな顔であった。
「五年前に」自分は拙い日本語で彼に云った。「私は此寺へ参りました。其時年老た坊さんが居ましたね」
若い坊さんは赤児を其母らしい女の腕に渡して答えた――
「ハイ、彼の老僧は亡くなりました。それで私が代わりました。何卒お上がり下さいませ」
自分は上がった。小さい須弥壇は変わり果てて、あどけない美しさは無くなって了った。地蔵は尚お涎掛の中から微笑して居るが、其外の仏達は消え失せた。同様に絵馬類も――アデレード・ニールソン嬢の肖像も――見えなくなった。若僧は自分を老僧が書き物をして居た室で寛がせようと試みて、煙草盆を自分の前に据えた。例の書物のあった隅を見たがもう無かった。凡てが変ったようであった。
自分は尋ねた――
「何時老僧はお亡くなりになりました」
「遂去年の冬」と僧は答えた。「大寒の節に亡くなりました。脚を動かせないので、大分寒さに悩まされました。これが位牌です」
彼は床の間に行って得体の知れぬ瓦落多――大方仏具の破片であろう――の乱雑に載って居る棚の間から、左右に花の挿してあるガラス瓶を置いた小さい仏壇の扉を開いた。中には黒漆へ金字を書いた新しい位牌が見えた。彼は其前へ灯明を点し、線香を一本立てて云った。――
「一寸失礼致します。檀家の者が待って居りますから」
自分はこうして独り取り残されたので、位牌を見、小さい灯明の動かぬ炎と、線香の青くゆるやかに上る煙を凝視めながら、老僧の霊は此中に居るだろうかと初めは怪しんだが、暫しの後には真に居る様な気がして、口の中で彼に話し懸けた。つぎに自分は仏壇の両側にある花瓶には、まだボルドーのツーサン・コーナー会社の名が付いて居、線香箱には、香味豊かな紙巻煙草の銘が入って居るのに気が付いた。室を見廻わすと、自分は又赤猫が日当たりのよい隅の方に眠って居るのを見付けた。側へ往って撫でてやったが、自分を覚えても居ず、眠そうな眼を開きもしない。が前よりも毛艶があって幸福らしかった。入口の方で此時悲しそうに呟く声が聞こえたが、やがて僧の声で、相手の半解の答を気の毒そうに繰り返すのが聞こえた。「十九歳の女、フム、それから二十一歳の男――そうですね」其時自分は帰ろうとして起ち上がった。
「御免下さい、もう一寸お待ち下さい」僧は何か書いて居た顔を上げて云った。女達は自分に礼をした。
「いや」自分は答えた。「お邪魔致しますまい。私はただ老僧にお目に懸かりに来たのですが、お位牌にお目に懸かりました。これは少しばかりですが霊前へ、それからこれは貴僧へ、何卒」
「暫くお待ち下さいませ、お名前を承り度う御座いますから」
「多分又伺いましょう」自分はごまかすように云った。「老尼もお亡くなりになりましたか」
「いやいや、達者で寺の世話を焼いて居ります。只だ今外出致しましたが、直ぐ戻りましょう。お待ち下さい。何か御用でもお有りになりはしませんか」
「ただ御祈祷を願いましょう」自分は答えた。「私の名はどうでも宜しいです。四十二歳の男、其男に尤もふさわしい物が得られるようにお祈り下さい」
僧は何か書き下した。自分が彼に祈って呉れと依頼したことは、確かに自分の心の真底の願いではなかった。併し仏陀は、失われた幻の復帰を願うような、愚かしい祈祷には耳を藉さぬであろう事を自分は承知して居た。