東の国から:新日本に於ける黙想と研究, 小泉八雲

博多にて


腕車(編者註)の旅行では見る事と冥想かんがえる事しか出来ぬ。動揺ゆさぶりで読書も苦しいし、車の囂々ごうごうと風の当たりで会話はなしも出来ぬ――縦令たとえ道幅は同伴者みちづれくるまを並ぶる程広くとも。一通り日本風景の特長をも知った上は、こんな旅行中に強く印象づけられる程の珍しい物に出遇う事はたまにしかない。大抵の場合、道は稲田、菜畝、小さい草屋の部落の何処迄往っても同じ風情なる中、さては無限に続く緑或は青の小山の間を紆廻うねるのである。時には愕然ぎょっとさせる様に色彩の一面に拡がれるに出会う事もあるにはある。例えば菜種の花盛りで真黄色な畠地、又は紫雲英花げんげはなで紫のはびこれる平野を横切る時の如きである。併しこれは何れも短時日の間に過ぎ去る花やかさである。概して云えば、度々と緑色なす単調は何の感覚にも訴えぬので、人は夢想に沈み或は風に面を吹かれながら坐睡いねむりをしては、時に一段激しい動揺に呼び覚まさるるが常である。

編者註 人力車の異名。

自分は今博多までの秋の旅行で、正に其通り、替り番に眺めたり冥想かんがえたり坐睡いねむったりして居る。自分は蜻蛉とんぼのちらつくのや、網目の様に田の畔路くろみちが目の届く限り四方に拡がって居るのや、見馴れた山巓の輪廓が徐々として地平線上に移り行くのや、濃い碧空に漂う白雲の、刻々に変わる姿やを眺めて居る。――幾度自分は同じ九州の風景を眺めねばならぬのであろう、何故ここには目覚ましい何物もないのであろうと、且つ問い且つ嘆きつつ。

突然、しかもそうっと、こう云う考えが胸中に忍び入った。最も目覚ましい景観は、我を取り巻く此世界の平凡な緑色の中にある――此不断の生命の出現の中にある。

何処にでも常に、目に見えぬ根元から緑なる物(植物)は生長しつつある――軟らかい土からも堅い岩からも――人間よりも古い、此黙せる、声なき種族は、多種多様の形態で何処にでも生長するのである。彼等の形而下の歴史は我々も其多くを知って居る。我々は彼等に命名し彼等を分類した。彼等の葉の形状、果実の品性、花の色のしかあるべき理由をも知って居る。我々は地上の物に形を賦与する恒久の法則の筋道を少なからず学んだからである。併し彼等が何故に存在するかの一事は知らぬのである。此普遍的な緑色の中に表現を求める幽玄な意味は何であろう。又は無生物と見ゆる物自身も生命であろうか――ただ一層静寂で、一層かくれたる生命なのであろうか。

併しながら、それよりも、より不思議な、より敏捷な生命(動物)は地球の表面に動いて居る。空中にも水中にも住んで居る。此生命は地より離れるという、不思議な力を有して居る。が終極は地に呼び還され、かつて己が食物となした物の食物となる運命にある。此生命は感ずる、知る、這う、泳ぐ、走る、飛ぶ、考える。其形態は無限である。彼の緑色なる、より遅緩な生命は、ただ存在を求むるに過ぎぬが、此生命は永久に不存在(死)と悪戦苦闘する。我々は其運動の方式、其生長の法則を知り、其構造の最奥の迷路までも闡明せんめいした。其感覚を司どる局処迄も測知し命名した。ただ其存在の意義に至っては誰も知らぬ。如何なる根元から来たったのであろう。もっと簡単に云えば此物はそもそも何であろう。何故に此生命には苦痛があるか、何故に苦痛に依って展開せられるのか。

しかして此苦痛の生命こそは我々の生命である。此生命は見たり知ったりする。が、それは相対的の事で、絶対的には、之が食物となる、遅緩な、冷たい緑色の生命と同じく盲目で、手探りで動き廻わるに過ぎぬ。併し此生命も、亦それよりも高い、或る生命の食物となって居るのではあるまいか。無限に、より敏活な、より複雑な、目に見えぬ生命を養うて居るのではあるまいか。幽玄の寰内かんだいには更に幽玄があり、生命の中に更に無限に生命があり、一の宇宙は他の宇宙と相截交錯して居るのではあるまいか。

少なくとも我々の時代では、人間の知識の及ぶ限界は固定して奪うからずである。此限界の遥か彼方に出て、初めて右の様な疑問の解決が出来る。併し此知識の限界とは何であろう。それは人間の賦性其者に外ならぬ。其賦性は後から来る子孫に於いても、同様に限られてあるだろうか。彼等は、より高い感覚、より大なる能力、より機敏な知覚を発展さする事は出来ぬだろうか。之に就て科学は何と教うるであろうか。

クリフォードの深淵な詞「我々は造られたのではない、自ら造ったのである」の中に、多分右への答は暗示せらるる。此詞は実にあらゆる科学の教えの中で、尤も意義深いものである。人間は何故自分を造ったか。それは苦痛と死とを免るる為めである。苦痛の圧迫の下にのみ、我々の現身はかく形造られた。苦痛の存在する限り、自己改造は続くであろう。遠い過去に於いては生の必需品は物質であった。今日に於いては、物質と同様に精神的の物が必需品である。将来に於いては宇宙の謎を解かんとする如きが、凡ての必需品中の、尤も残虐で、尤も強大で、尤も恐ろしいものであろうと思われる。

世界最大の思索家は――其人は何故に此謎は解かれ能わぬかを我々に告げたのであるが――又此謎を解こうとする願望は長く継続し、人間の生長と共に生長するに相違ない事を告げて居る(註)

註 スペンサー『第一原理』

此必需品を認むる事は、それだけで、たしかに其中に希望の芽を含有する。知ろうとする欲望は、将来の苦痛の、恐らく最高な一形式として、今日の不能事を成就する能力の――今日見えぬものを見得る機能の、自然な進展を人間に為さしめぬであろうか。今日の我々は、しかありたしという願望に依って現在の状態に達したのである。我々の事業の承継者は、我々が今日成りたしと願う所の者と成り得ぬであろうか。

自分は今帯織業者の市、博多に居る――此処は目ざましい色彩に充ちてる珍奇な狭い道を有する高大な市である――そして祈願小路に足を停めた。という訳は、異常に大きい青銅の首――仏像の首――がさる門口から此方を向いて微笑して居るからである。門口というのは浄土宗の或る寺のである。そして此首は美しい。

併しあるのは首ばかりだ。庭の舗石の上なる首の支柱は、大きな、夢の様な顔のあごまで積まれた、数千の銅鏡で隠れて居る。そして門内の掲示板が此問題を説明して居る。此鏡は巨大な仏の坐像――鎮座せる大蓮台とも三丈五尺の――への婦人からの寄付なのである。そして全体を銅鏡で鋳ようとするのである。此首だけを鋳る為めに、既に数百の鏡が費やされた。工をわる迄にはあと数万を要するであろう。かような現況を見せられては、誰れか仏教は亡びつつあると云い得ようぞ。

けれども自分は此の状況を見て嬉しく思う事は出来ぬ。自分の芸術感は、立派な仏像の期待で、多少満足せられるけれども、此計画が惹起す大破壊を、の当り見せつけられては、傷つけられる事が更に大きい。理由は日本の銅鏡(今は西洋製の醜悪な安ガラス鏡に押し除けられて居る)は美術品と称するに足る物であるからである。銅鏡の優雅な形を知らぬ者は、東洋流の、月を鏡に見立てた雅味を味わう事は出来ぬ。銅鏡は表面のみが磨かれて、裏面は浮彫の模様――或は花卉、或は鳥獣、或は昆虫、風景、昔譚、福運の象徴、仏像等で飾られてある。極普通な鏡でもその通りである。併し種類は沢山ある。其中に驚くべきものは、所謂いわゆる魔鏡である――魔鏡と云わるる理由は、表面に日光を反射させて、幕或は壁に映す時は、其円い映像の中に、裏面の模様が、明るくあらわるる(註)からである。

註 『王立学会紀要』第二十七巻、エアトン及びペリー両教授の「日本魔鏡に就て」なる一項、及び『哲学雑誌』第二十二巻、同じく両教授が同じ題目に就て論じたる一項を見よ。

此等青銅の供物の堆積中に魔鏡があるかないかは自分には分からぬ。併し美しい細工が沢山あるのは確かである。かく驚くべき精巧な細工が、こんなに投げ出されて、間もなく全然消滅の運命にある光景を見ては、大なる感慨なきを得ぬ。多分十年ならずして、此国に於ける銀鏡銅鏡の製作は、永久に止むであろう。其時此等を購求せんとする者は、此銅鏡の運命を聞いて遺憾どころの沙汰でなく感ずるのではあるまいか。

此家庭からの犠牲が、日に照らされ、雨に濡れ、街のほこりにまみれて居る光景を見て起こる感慨は、ただに之に留まらぬ。此中の多数には花嫁の微笑も映ったろう。赤児のも母親のも映ったろう。殆ど凡ては何等かの楽しい家庭生活を映したに極まって居る。併しこんな思い出が与えるよりももっと幽玄な価値が日本の鏡には付着して居る。古い俚諺りげんに「鏡は婦人の魂」と云ってある。それは単に人が想像する様に譬喩的の意味に於いてばかりではない。沢山の物語は鏡が持主の喜憂を感じ、或は光り、或は曇って持主のあらゆる情緒にしき同情を表わすことを述べて居る。それ故昔は――今でもという人もある――生死に関すると信ぜられるような、怪しい儀式には鏡が用いられた。そして持主が死ぬと一緒に埋められた。

されば此等の腐蝕しつつある古銅を見ると霊魂――若しくは少なくとも霊的の物の残骸を偲ぶ奇しき空想が起こるのである。一度鏡に映った顔や挙動が、全く少しも残って居らぬと信ずることは殆ど困難である。一度現われたものは何処かに隠れて居ると想像せざるを得ぬ――そうっとそれ等の鏡に近寄って、不意に其二三を反転かえし表面を上に出すならば、あなやと驚き退く刹那に過去を見ることが出来そうなものと想像せられてならぬのである。

其上自分に取っては、日本の鏡を見ると喚起さるる一の記憶に依って、此目前の光景は特に感動を強められるという事を述べねばならぬ――それは「松山鏡」という日本物語の思い出である。此物語は尤も素朴に尤も詞少なに書かれてあるけれども、読者の経歴と会得力と共に、其意味は深みを増すという、ゲーテの驚異すべき小話にも比せられ得ると思う。ジェームス夫人は此物語を心理的に出来るだけ或る一方面に敷衍した。其小著を読んで感動せぬ者は人間の社会から駆逐さるべきである。此物語の含む日本人的概念を推察なりとするには、此小著に付せられた優しい彩色版――狩野派の最後の大画家の挿画――の含む密接な意味を感得し得るを要する(日本人の家庭生活に通ぜぬ外国人は『童話集』〔ジェームス夫人の『松山鏡物語』も其中の一部〕の為めに物された挿画の美しさを十分に認むる事が出来ぬ。併し京阪の染物師は非常に之を尊重し、高価な織物に絶えず染め出して居る)。併し此物語には多くの異本がある。読者はつぎの筋書から十九世紀式訳本を銘々勝手に作ることが出来よう。

註 物語の日本語原本と其訳文とを知るには、チェンバレン教授の『日本ローマ字読本』を見るがよい。又ジェームス夫人が小児の為めに物した美しい訳本は東京出版の『日本童話集』の中にある。

昔、越後の国の松山と云う処に、名は忘れられたが、若い武士サムライの夫婦が住んで居て、夫婦の間に一人の娘があった。

或る時、夫は江戸に出た――多分越後の国主の従者の列に加わってであろう。さて帰国の折、首都から土産物を持参した――娘へは菓子と人形と(少なくとも挿画家はそう告げる)そして妻へは銀がけの銅鏡を。ところが若き妻には、其鏡が不思議な物に見えた。それは鏡というものが松山にもたらされたのは、それが初めてであったから。妻はそれが何の役に立つのやら分からず、あどけなくも、中にある美しい顔は誰のかと尋ねた。夫が笑いながら「ハテ、それは其許そこもとの顔じゃ、阿房あほらしい」と答えたので、恥じてそれ以上は何も問わなかったが、いかにも不思議なものと思って、急いで仕舞って了った。そしてそれから幾年も秘して置いた――何故だかは原文にも云ってない。多分何処の国でも愛の贈り物は詰まらぬものでも、人に見せられぬ程貴重だという簡単な理由であったろう。

併し病気をして臨終の時、妻は此鏡を娘に与えて云った。「わが亡き後は、毎朝毎夕、此鏡を覗いて見やれ、母は此中に居る程に。嘆きやるには及ばぬ」そして死んだ。

それから後、娘は毎朝毎夕鏡を覗き込んだ。そして鏡の中の顔は自分の顔だと知らず、自分がよく似て居る亡母の顔だと思うて居た。そして其顔に向って生ける者に云う如く話しかけた。日本の原本ではもっと優しく「母に会う心で」と云ってある。そして何よりも其鏡を大切にして居た。

処が遂に此事が父の目に留まった。不思議に思って娘に其理由を聞くと、娘は包まず話した。すると日本の原作者は云って居る。「それをいとあわれに思うて、父の眼は涙に曇った」

昔話の筋はこんなものである――併し此罪のない誤謬は、果たして父が思うた様にあわれなものであろうか。それとも父の感じは、自分が今ここに堆積せる鏡の思い出と其運命とを嘆く心と同じく空虚うつけなものであろうか。

自分は寧ろ娘の無邪気な誤謬は、父の所感よりも恒久の真理に一層近いものと思わざるを得ぬ。宇宙の因果律では、現在は過去の投影で、未来は現在の反映であらねばならぬからだ。我々は悉皆一である。光を構成する振動は、幾億万とも数え切れぬ程あろうとも、光は常に一である如くに。我々は一である、けれども無数である。我々の各々とは霊魂の蓄積であるから。確かに娘は母の霊魂を見て、それにいとしげに話しかけたのである。自分の若い眼と唇の美しい影を見ながらも。

こう考えると、此古寺の奇観も新たな意義を生ずる――雄大な期待の象徴となる。我々の個々は真に宇宙の何かを映す鏡である――其宇宙内に於ける我々自身の映像をも更に映す鏡である。そして我々の凡ては彼の大鋳金師「死」に依って、或る大きい美しい非情の一物に鎔かされる運命にあるのである。どれ程大きい作品が作られるかは、只だ我々の後から来る者のみが知り得る。現代の西洋人である我々には分からぬ、ただ空想するばかりである。併し古い東洋は信じて居る。其信仰の姿が即ちここにあるのである。凡ての形態を具えた物は、遂に滅びて或る者――其微笑は不変の安息であり、其知識は無限の洞観である、或る者に吸収されねばならぬのである。