東の国から:新日本に於ける黙想と研究, 小泉八雲

永遠の女性に就て


人間に譬うべき者やあると天をさがすに、
そらじゅうに我等の寓話あり――
我等はナルキッソスの眼もて自然を見る、
到る処自分おのれの影に見惚れつつ。

ワトソン

日本に住む知慮ある外国人の凡てが、早晩悟らざるを得ぬ事は、日本人は吾人の美学や、吾人の情的性格の一般を学べば学ぶ程、之に依って益々不快の感を受くるが如く見ゆるという事である。西洋の美術、或は文学、或は哲学を彼等に告げんと試みる欧米人は、彼等の共鳴を得る事は出来ぬであろう。其説く処は謹聴せられるであろう。併し最大の雄弁も、期待とは全く異なる二三の意想外な評言を引き出すに過ぎぬであろう。此種の失望を重ねると、遂には東洋の聴講者を判断するに、西洋の聴講者が同様に挙動ふるまえる時に於けると同じ筆法を以てする。即ち我々が以て美術、哲学の最高表現となす所のものに対する冷淡さは、心的低能の証であると、西洋に於ける経験から判断するに至るのである。そこで日本人を小児の国民なりと呼ぶ多数の外人観察家が現われたり、又中には、此国に永年暮らした外国人の多数と共に、日本の宗教、文学、比類なき美術という証明あるにも拘らず、日本国民を以て本来物質的の国民なりと断ずる者があったりする。自分には、こういう判断は、何れもゴールドスミスが文学俱楽部に就て、ジョンソンに告げた、つぎの詞にも劣らず愚劣なものと思われる。「我々の中には珍しいものは何もない。我々はお互いの心の中を踏破した」之に対するジョンソンの有名な揶揄は、即ち教養ある日本人の答うる所であろう。「兄よ、予は断言する。兄は未だ我輩の心を踏破しない」。凡てこんな大雑把な批評は、要するに日本人の思想感情は、或る場合には我々と正反対な、そして凡ての場合に妙に相違せる、祖先伝来の風俗、習慣、倫理、信仰から発展したものだという事実の認識が、甚だ不完全であるに因由すると自分には思われる。こんな心理を有する人民を材料にしては、近代的科学教育も只だ徒に人種的相違を益々高調し展開せしむる計りである。日本人を泰西の卑屈な模倣に誘うのは教育が生半可な場合に限るので、此人種の真の識力最高の知能は、強く西洋の感化に抵抗する。こんな問題に就て、自分などよりも優れた判断力をつ人々から聞く処に依ると、此事は特に欧州を旅行し、若しくは欧州で教育を受けた優越の人士に於いて認め得るという。実に新教育の結果は、何物よりも、ライン氏に依って浅薄にも小児の国民という銘を打たれた日本人種の健全なる保守思想の偉力を示すに役立ったのである。西洋思想の或る者に対して日本人がこんな態度を取る原因は判然分からぬながらも、我々は日本人を低能呼ばわりするよりも、寧ろ其西洋思想に対する我々の観念を再考すべく促さるるを覚ゆるのである。さて其原因は種々雑多であろうが、中には漠然ながら推察するに難しからざるものもある。少なくとも我々が安全に研究し得る尤も重要なるものがある。それは極東に数年を過ごした者には、否でも応でも認めざるを得ぬものであるからである。

「先生、英国の小説には、何故恋愛や結婚の事が沢山書いてあるのです――我々には実に甚だ不思議でなりませぬ」

此問は自分が受持の文科の或る組――十九歳から二十三歳迄の青年――で、彼等がジェボンの論理や、ジェームスの心理学を了解することが出来ながら、或る模範的小説の或る一章を了解し得なんだ理由を説明せんとして居る時に、自分に向って発せられたのであった。其場合これは容易に答えらるる問ではなかった。実際自分が既に数年日本に住んで居たのでなかったら、之に答うる事は出来なんだであろう。事実、自分は努めて簡潔と明瞭とを期したけれども、此説明に二時間以上を費やしたのである。

英国の社会を描写せる小説で、日本の学生が真に了解し得るものは先ず無い。其理由は単に英国の社会に就て彼等が正確なる概念を作ることが出来ぬというにある。いや特に英国の社会ばかりでない。概して泰西の生活は彼等に不可思議なのである。孝道が道義的羈絆でない社会組織、子が自分の家庭を営む為めに、親のもとを去る社会組織、自分の所生よりも妻子を愛することを自然にして且つ当然と考うる社会組織、結婚が親の意志を省みず若い男女相互の意向に依ってのみ決せらるる社会組織、さてはしゅうとめよめの従順な奉仕を受くる権利なき社会組織は、空飛ぶ鳥、野をはしる獣に優さることなき生活状態、或は精々一種の道義混沌の状態としか、彼等には見えぬのである。我等の小説に反映して居る、こんな生活状態は彼等を憤激させる謎なのである。我等が恋愛観や結婚騒ぎは此謎を供給するのである。日本人の若者は結婚は簡単な当然な義務で、其義務の当然な遂行には両親が適当な時機にあらゆる必要な準備をして呉れるものと心得て居る。外国人が結婚するのに大騒ぎをすることは、彼には既に不可解なのである。まして有名な作家がこんな事柄に就て小説や詩を書き、そして其小説や詩が大いに持て囃されるということは更に不可解で、「実に、甚だ不思議」なのである。

若き質問者は儀礼の為めに「不思議」と云った。彼の真意は「みだら」という詞の方がもっと正確に表されたのであろう。併し日本人の心に我等の模範的小説は猥らに、甚だ猥らに見ゆると云うと、英国の読者は其意を恐らく誤解するであろう。日本人は莫迦に堅苦しくはない。我等の小説が彼等に猥らに見ゆるのは、題目が恋であるからではない。日本には恋に就ての文学が沢山ある。我等の小説が彼等に猥らに見ゆるのは聖経の「此故に人はその父母を離れ、その妻に合て」という句が彼等に、尤も不道徳な文字と見ゆると同じ理由でである。別言すれば彼等の此評言は、社会学的説明を要するのである。我等の小説が何故に彼等の心には猥らであるかという事を十分に説明するには、泰西人の生活と全く異なれる日本人の家族の全構成、習慣及び倫理観を述べねばならぬ。そしてこれには薄っぺらに述べるにしても尚お一巻の書を要する。自分は迎も完全な説明を企つるを得ぬ。ただ二三の暗示的な事実を述べ得るに過ぎぬ。

先ず概して云えば、我等の文学は小説以外にも日本人の道徳感に背反せるもの多々あるが、それは恋情そのものを取扱うが為めではなく、淑女に連関し従って家族に連関して恋情を取扱うが故である。概則として高級な日本文学に於いて熱烈な恋愛を題目とする場合は、それは家族関係の発生(即ち結婚)に終わる種類の恋愛ではない。それは全く別種の恋愛――東洋人が余りやかましからぬ種類の恋愛――単に肉体の魅力に依って鼓吹せらるる惑溺、即ち「まよい」で、その女主人公は良家の処女ではない。大抵遊女若しくは芸妓である。さればとて此種の文学に於けるその題目の取扱方は西洋の官能的文学――例せば仏国フランス文学の様でもない。全く異なれる文芸上の立場から考察し、異なれる種類の情緒を描写するのである。

凡そ国民文学なるものは必然的に反映的なものである。国民文学が描かぬ所のものは其国民の生活にはあらわに現れて居らぬのである。されば日本文学が、我等の大小説家、大詩人の好題目である種類の恋愛に就て、沈黙すると同様に、日本の社会は、かかる恋愛に就て沈黙を守るのである。日本の小説にも、女主人公として、代表的の婦人が往々描かれてあるが、それは完全なる母として、或は親の為めに、喜んで凡てを犠牲にする孝行な子として、或は良人と共に出陣し共に戦争し、身を以て良人を救う貞節な妻としてである。決して恋愛の為めに死し、或は相手を死せしむる感傷的婦人としてではない。又日本婦人が男子の魅惑を事とする、危険な美人として文芸上の作品に現わるる事もない。日本の実際生活に於いても、家族の婦人は決してそんな役割を演ぜぬのである。男女両性の混合体としての社会、婦人美を以て洗錬せられた最高の美となす存在としての社会、そんなものは東洋にはかつて存在した事がない。日本に於いても、特殊な意味に於いての社会は常に男性である。首都の或る限られた方面に於ける欧州風の流行習慣の輸入も、遂に国民生活を泰西流の社会に改造し得る様な社会的変化の第一歩を示すものとは容易に信じ得ぬ。其様な改造は家族の瓦解、全社会組織の崩潰、全倫理系統の破壊――簡言すれば国民生活の破滅を招来するものであるから。

「婦人」という語を尤も純化せられた意味に取り、そして婦人が滅多に現われぬ社会、婦人が決して見せびらかされぬ社会、恋が全然不可能な社会、そして、一家の妻又は娘をのあたり讃美するなどは、許し難き無礼と考えられる社会を想像して見れば、読者は直に我等の評判な小説が、其社会の人々に与うる印象は、どんなものであるかという慄然たる結論に達し得るであろう。併し其結論は略々ほぼ当を得て居ても、其社会の自制心と其背後の倫理観を幾分知悉するのでないと、未だ正鵠を得るとは云えぬ。例せば上品な日本人は人に向って決して妻の事を云わぬ(概則として)、如何に内心自慢であっても、子供の事さえ滅多に口にせぬ。其外家族の何人に就てでも、又家庭生活や私用私事に就て語るのを聞く事は殆どない。併し若し家族の事に就て語る事ありとすれば、それが殆ど親の事に極って居る。親の事に就て語る時は宗教心に近い尊崇の語調で語る、が西洋人に普通な語調とは全く違う。そして決して自分の親の長所を他人の親のと内心比較する様な調子は用いぬ。併し妻に就ては其婚姻の席に招待した友人にさえ語らぬ。尤も貧乏で尤も無学な者で窮乏が如何に甚だしかろうと、日本人は決して助力を受け、又は憐憫を買う為めに、妻の事を云い立てようとは夢にも思わぬ、と云って間違いは無かろう――多分妻のみならず、子供の事迄云おうとはせぬであろう。それにも拘らず、父母若しくは祖父母の為めならば、助力を乞うに必ずしも躊躇せぬ。西洋人には尤も強い情緒である妻子の愛を、東洋人は利己的の情緒と断じて居る。彼等はもっと高尚な情緒に支配せらるると称して居る――即ち義理、第一に皇帝に対する義理、つぎに父母に対する義理である。妻子に対する愛情は自己愛の感情に外ならぬが故に、如何に純化され霊化されようとも、それを日本の識者が最高の動機と考えることを拒むのは間違いでない。

日本の貧民の生活には秘密というものがない。併し上流に在っては、家族生活は西洋のの国――スペインをも入れて――に於けるよりも人目にさらされない。外人の殆ど見ることなき、又少しも知ることなき生活である。日本婦人に就て見知る所あるが如き記述が沢山ある事はあるが当てにはならぬ(註)。日本人の友人の家庭に招かれると家族を見る事もあり見ぬ事もあるが、それに其時の模様次第である。若し見る事が出来たら、それは多分ほんの寸時ちょっとの間であろう。そして其時には屹度きっと細君を見るのであろう。先ず玄関で刺を通ずると、下女が受け取って退出する。間もなく又現われて座敷、即ち日本家屋に在っては大抵最大最美の客間に案内する。其処には座布団が用意されてあり、其前には煙草盆がある。下女が又茶と菓子を運ぶ。暫くして主人公自身が入って来て、お定まりの挨拶の後会話が始まる。若し食事の饗応に引き留められ、それを受諾すると、良人の友人として客の給仕に細君が暫時出座するの栄を得るであろう。其時客は或は正式に紹介される事もあり、或はされぬ事もある。が彼女の服装髪容かみかたちを一瞥すると、それで直にそれは何人であるかが判るから、最も深厚な礼を以て彼女に挨拶せねばならぬ。彼女は大抵優雅な、厳粛な人間という印象を与えるであろう(特に、サムライの家庭を訪問した場合には)みだりに笑ったり低頭したりする種類の婦人とは、全く異なるのである。彼女は滅多に口はきかぬが、挨拶をして、それから暫くの間は見たばかりで驚異を値する様な、繕わぬ品位を以て給仕する。それからするすると出て行って、辞去の時迄は再び姿を現わさぬが、辞去の時には玄関に現われ出て左様ならを云うであろう。それから度々訪問すると其度毎に同様な彼女の麗わしい瞥見を得るようになる。又其上にたまには老いたる父母をも瞥見するであろう。運がよければ子供迄遂に出て来て、驚くべきしとやかさと優しさとを以て挨拶する。併しながら其家庭の最奥の内的生活は決して漏らされぬ。それを暗示すべく目に映る所のものはことごとく上品で、礼儀正しく、しとやかではあるが、それ等家族の人々の相互関係は遂に知るを得ぬであろう。奥を仕切る美しい襖の背後は、凡てが沈黙せる静かな秘密である。日本人の心にはそれが当然と思われる。こんな家族生活は神聖である。家庭は神殿で、其垂帷たれぎぬを引きめくるのは不敬であるというのである。自分にも、此家庭及び家族関係は神聖だとの思想が、泰西に於ける家庭及び家族関係に対する、我等の最高の思想にの道劣るものとは考えられぬ。

註 こうは云っても自分は日本の茶屋、若しくはもっと悪い種類の家に短時日滞在したのみで、帰国の後、日本婦人に就ての述作を発表する驚くべき人々を指すのではない。

併し若し其家族に年頃の娘があるとすると、客は却って大抵細君を見る機会が少ない。同様に沈黙で遠慮深く、一層しとやかな若い娘が出て来て客を歓待するであろう。父の命ずるままに娘は或は何かの楽器を奏し、或は自分の刺繍や絵を取り拡げ、或は家什の貴重な若しくは珍しい品物を見せて客をもてなすことさえある。併しながら国風の最高教養に属する上品な沈黙と、従順な優しさとしとやかさとは何時も相伴なうて居る。かかる場合客も無遠慮に挙動ふるまうてはならぬのである。勝手にしゃべり得る老年の特権を有たぬ限り、客は容貌を讃めたり、軽々しい諂諛てんゆに似た事を述べたりなどするは禁物である。西洋に於いて女人尊崇ガラントリーと考えらるる事は、東洋に於いては大きな無礼となり得るのである。んな事があっても、客は若い娘の姿色や、品位や、身ごしらえなどを讃めてはならぬ。して細君に向ってそんな事をしてはならぬ。こう云うと読者は、或る種類の讃辞は避けられぬ場合もあるではないかと云うであろう。それは其通りである。其様な折には予め恭しい詞で讃辞を云う事の弁解を述べて置くのが礼儀の要求する所で、それは我等の「何う致しましてプレイ・ドント・メンション・イット」以上の優しい辞で受け納れられる――要するに、いやしくも讃辞を述ぶることの無礼を詫びるのである。

併し、ここで我等は日本人の作法という大問題に触れるのであるが、自分は之に就ては未だ全く無知である事を白状せねばならぬ。自分がここ迄述べ来たったのは、ただ西洋の社会小説の多くが、東方人の心に、如何に、品位に欠けて見ゆるかを暗示する為めに外ならない。

妻子に対する愛情を語り、其外何でも家庭生活に密接の関係ある事を話題に上すのは良き教養という日本人の考えとは全く相容れぬ。従って我々が家庭の関係を公然話題に上せ、若しくは寧ろ見せびらかすのは、教養ある日本人には、全然野蛮とも見えぬが、少なくとも妻惚サイノロと見えるであろう。そして此考えこそは日本婦人の地位に関して全く間違った概念を外国人に抱かしめた、日本人の生活を少なからず説明するものである。日本では夫が妻と相並んでまちを歩くことさえない。まして妻に腕を貸したり、階段の上り下りにたすけてやる事などをやである。併しこれは夫に愛情のない証拠にはならぬ。これは我等のと全く違う社会的感情の結果に外ならぬ。夫婦関係を公然見せびらかすのは、宜しきを得たるものでないという考慮に基づける礼法に従うまでである。何故宜しくないか。それは東洋人の心には、個人的な、従って自己本位の愛情の自白を示すが如く思わるるからである。東洋人には生活の法則は義務である。愛情は如何なる時、如何なる場所でも、義務に従属せねばならぬのである。或る種の個人的愛情の公開は、道義心の薄弱を告白するに等しいと考えられる。そんなら妻を愛するのは、道義心の薄弱という事になるかというに、否、妻を愛するのは男の義務である。只だ両親よりも妻を余計愛し、若しくは公衆の前で、父母に対するよりも余計妻に対して慇懃を尽くすのが道義心の薄弱なのである。のみならず同じ程度の慇懃を示すのさえ道義薄弱の証となるのである。父母の生存する間は、妻の家庭に於ける地位は常に養女の地位で、そして尤も愛情深き夫と雖も、寸時たりとも家族の礼法を忘れる事は許されぬのである。

ここで自分は日本人の思想習慣と相容るることの出来ぬ西洋文学の一形相に触れざるを得ぬ。読者よ、接吻、愛撫、及び抱擁が我等の詩歌、我等の小説に在って、如何に重要な役目を演ずるかを反省せよ。しかして日本文学には此等のものが少しも存在せぬ事実を考慮せよ。愛情の表号として、接吻や抱擁やは日本には全く知られて居ぬ。ただ日本の母も世界中の母と同じく其孩児を時にめたり抱きしめたりするという事実だけはある。幼少の時期を過ぐるとそんな事もなくなる。幼児に対する外、そんな行為ははしたなきものと考えられる。娘達が互いに接吻する事もない。父母も決して歩行し得るようになった子供を接吻したり抱きしめたりする事はない。此法則は最高の貴族より最低の農民に至る迄当てはまる。又此国民の歴史中、如何なる時代の書物にも、愛情の表示が今日よりももっと熱烈であった形跡は少しもない。恐らく西洋の読者には接吻、抱擁は勿論、愛人の手を握りしめる事さえ、徹頭徹尾書かれてない文学というものは、想像する事も困難であろう――握手も接吻と同様日本人の心には全く知られてない行為なのである。然るに日本文学では、田舎者の天真爛漫の歌にも、不幸な恋人を歌った民謡にも、宮廷詩人の上品な詩歌同様、此等の題目に就ては全く沈黙である。一例として俊徳丸の古民謡を繋げて見よう。此民謡は西部日本を通じて知られて居る格言や俗諺の基となったものであるが、話の筋は結髪いいなづけの男女が苛酷な運命に依って永らく引き離され、互いの行方を尋ねて国中を漂浪し、最後に神々の恵に依り突然清水の舞台の前で遭遇するというのである。アリアン系の詩人がこの邂逅を描くとしたなら、双方走り寄って抱き合い接吻し愛の詞を呼び継げると書くは請合である。併し日本の民謡はどう描いて居るか。手短に云うが、二人は只だ一緒に坐し、一寸互いに手を懸けたと書いて居る。然るに此控え目な愛撫の形式さえ非常に稀な情緒の発露なのである。数年振りに相見る父と忰、夫と妻、母と娘などの場合に屢々しばしば居合わすとしても彼等の間に愛の接触の跡形をさえ見る事はあるまい。彼等は跪坐して、辞礼を交わし、微笑し、時に喜悦の声を挙げよう。併し互いに駆け寄って抱きついたり、熱き愛の詞を交わしたりするようの事はないであろう。実際「いとしき者よマイ・ディア」、「愛する者よマイ・ダアリング」、「懐かしき者よマイ・スイート」、「わが愛よマイ・ラブ」、「我が生命よマイ・ライフ」と云う様な愛の詞は日本語に無い。其他我等の情的慣用語に相当するどんな詞も無い。日本人の愛情は言辞では表されない。声の調子にさえ殆ど表されない。主として上品な儀礼と真心まごころの行為に表される。自分は更に、愛と反対の情緒も同様に完全に抑制されると付け加える事が出来るが、此の著しき事実を説明するには別に一文を草する必要があるから略する。

東洋の生活と思想とを公平に研究しようとする者は、東洋人の見地に立って、西洋のそれ等をも研究せねばならぬ。かかる比較研究の結果は、少なからず彼を反省せしむるものがあるであろう。研究者の人物と識量に応じて、多少彼が其中に没頭する東洋感化の影響を受けるであろう。西洋生活の様式が、彼には、徐々に新たな、今迄夢想もしなかった意味をち、従来の旧観を少なからず失い始めるであろう。往日正しくして真なりと思いし事の多くが、変態にして偽りなるを悟り始めるのであろう。泰西の道義上の理想は果たして最高のものなるかを疑い始めるであろう。西洋の習慣が西洋文明の上に置いた評価に遂に不信を感ずるに至るであろう。彼の疑惑が最終のものなるか否かは別問題であるが、其疑惑は少なくとも彼が以前の或る確信をとこしなえに変更する程合理的で又有力であるであろう――中にも西洋に於ける、及び難き者、解し難き者、神聖な者としての婦人崇拝、又「会得を絶する婦人」(ボードレールの一句)という理想――「永遠の女性」という理想の道義的価値の確信の如きはそれである。此の古き東洋には「永遠の女性」は全く存在せぬ。そんな者なしに生活する事に馴れては、自然これは健全な知的生活に絶対必要なものでないと云う結論に達する。そして地球の他の半面(ヨーロッパ)にも之が永久の存在は果たして必要ありやと疑うにさえ至るのである。

「永遠の女性」が極東に存在せぬと云うのは、真理の一斑を陳ぶるに過ぎぬ。遠い将来に於いても、これが極東に輸入されようとは想像することが出来ぬ。之に関する我等の思想を、其国語に翻訳することさえ大抵は不可能である。其国語には名詞に性なく、形容詞に比較級なく、動詞に人称がない。チェンバレン教授は云う、此国語に擬人法なきは根柢深く抜け難き特質で、中性の名詞に他働詞を使用することさえ許さぬと。教授は更に云う、「実際、大部分の隠喩メタファー比喩アレゴリーは極東人の心に説明了解せしむることさえ不可能である」と。教授は之が一例として、ワーズワースより恰好の文句を引証して居る。併しワーズワースよりもっと平明な詩人でさえ、日本人には同様に難解である。自分はかつてテニスンの有名な小唄の中の、つぎに挙ぐる簡単な一行を上級生に説明するに困難した事がある――

註 チェンバレン氏『日本の事典』第二版二五五、二五六頁、「国語」の條を見よ。

彼女は日よりも一層美しいシー・イズ・モア・ビューティフル・ザン・デー

生徒は「日」を形容するに形容詞「美しい」の使用を了解する。又別に「乙女」という語を形容するに、同じ形容詞を用うることを了解する。併し日の美と乙女の美との間に似寄りがあるという考えが少しでも人間の心に存在し得るということは、彼等の了解を全く超絶する。テニスンの思想を彼等に伝うるには、心理的に之を分析し、二つの異なれる印象に依って喚起された快感の二形式の間に、神経上の類似があることを証明する必要があった。

かく国語の性質から見ても分かる通り、日本人には人種的特性に深い根ざしを有する、古い特殊の傾向があるのである。此傾向に依って、我等は此極東の地に、我等の理想に相当する優勢な或る理想の欠如せる所以を説明せねばならぬ――若し説明するの必要ありとせば。此傾向が凡ての源泉であるが、これは現在の社会構造よりも遥かに古く、家族観念よりも古く、祖先崇拝よりも古く、儒教よりもずっと古い。儒教は東洋人の生活に於ける特殊の事実の説明であるよりも寧ろ反映である。尤も所信と習慣とは性質に反応し、しかして性質は又習慣と所信に反応するものなるが故に、儒教の中に原因と説明とを求むる事も全く不合理ではない。それよりも不合理なのは、あわてた批評家が婦人の当然な権利を抑制した宗教的勢力として、神道と仏教とを攻撃する事である。古神道は婦人に対して、少なくともヘブライの古信仰位穏健であった。神道の女神は数に於いて男神と略々ほぼ等しく、其崇拝者の目にはギリシャ神話の空想にも劣らぬ美しい形体で現われたのである。衣通そとおり娘女いらつめの若き女神に就ては、美しき体軀の光が衣服からすきとおったと云われて居る。凡ての生命と光の源泉なる悠久の太陽は、美しき天照大神あまてらすおおみかみと云う女神である。処女は古の神々に奉仕し、其祭礼などには重要な役目を演ずる。又国内幾百千の神社にては英雄とし父兄としての男性の霊と等しく、妻とし母としての女性の霊が祀られる。後の外教たる仏道も、中古のキリスト教が泰西の婦人に与えたよりも、より低き地位に日本婦人を追下したと非難する事は出来ぬ。釈迦もキリストの如く処女から生まれたので、愛すべき仏達ほとけの多くは、地蔵を除くの外女性であることは、日本人の芸術にも空想にも明らかである。又ローマン・カソリックの高僧伝に於けると同じく、仏教のに於いても婦人聖者おんなひじりの伝記は名誉ある位置を占めるのである。仏教も初期キリスト教の如く婦人美の誘惑をいましむる為めの説法に力を尽くしたのは事実である。又其祖師の教えにては、パウロの教えに於けると同じく、男子に社会的又精神的の優越を与えたのも事実である。併し此題目に関する仏書を探るに当たり、我等は釈迦が各階級の婦人に好意を示した実例の無数を閑却かんきゃくしてはならぬ。又は後期の仏典にある、婦人に成道の機縁を拒否する教義が厳かに懲戒されたという目ざましき物語を忘れてはならぬのである。

『妙法蓮華経』の第十一品にこう云う事が書いてある。或る人、釈迦仏の前に来たり、一瞬時にして最高の知識に到達し、一刹那にして千日瞑想の功徳を得、万法の精髄を証見し得たる若き女人の事を告げた。すると其女人は釈迦仏の前に来たり立った。

併し智積菩薩は疑って云った。「自分は釈迦牟尼仏が成道の為めに苦闘しつつありし時の様を見た。そして彼は無限劫の間、無限の善行を積みしことを知って居る。世界中に芥子粒程の地といえども彼が衆生の為めに身命を捨てざりし地は残って居ない。これ程迄にして初めて釈迦仏は大悟の域に達したのである。此乙女が一瞬時にして最高の知識に到達したとは誰れが信じよう」

老僧舎利弗も同様に疑って云った。「おお乙女よ。女人にして完全なる六徳を備うることは或はあり得るやも知れぬ。去りながら女人にして仏徳に達したためしはない。女人は菩薩の階級に達することは出来ぬから」

併し乙女は釈迦牟尼を証人として呼びまいらせた。するとたちまちにして大衆の前で、彼女の女人相は消え失せ、菩薩として現われ出でた。三十二相の光明十方を遍照し、三千世界は六種に震動した。そして舎利弗は沈黙した。

註 『東方聖書』巻二十一、ケルンの英訳『法華経』第十一品の全文を見よ。

併し泰西と極東との間の、知的共鳴に最大の障碍を形成する者の、真の性質を感知するには、極東に存在せぬ此理想(永遠の女性の)が、西洋人の生活に及ぼす偉大な結果を十分に玩味せねばならぬ。其理想が西洋の文明に――其遊興に、教化に、悦楽に、其彫刻に、絵画に、装飾に、建築に、文学に、戯曲に、音楽に、た無数の工業の発展に如何なる影響を及ぼしたかを記憶せねばならぬ。又風俗習慣及び趣味のことばの上に、行為と道徳の上に、努力の上に、哲学宗教の上に、其他公私生活の殆ど凡ての方面の上に――手短に云えば国民的特質の上に、之が及ぼせる結果を思わねばならぬ。同時に我等は、此理想の形成には諸々の影響が交錯融合した事を忘れてはならぬ――チュートン人、ケルト人、スカンディナビア人、上世、中世、ギリシャ人の人間美尊崇、キリスト教の聖母崇拝、武士道の渇仰、凡ての既成の理想を新しい官能主義に浸染したる文芸復興の精神等――しかして此等は皆其種子は兎に角、其栄養分を、アリアン語と同様に古く、かも極東には全く知られざる、種族的感情より得来たったに相違ない。

我等の理想を形成すべく結び付いた、此等諸種の影響の中では、古典的要素が明らかに優勢である。尤もかく残存せるギリシャの人間美感は古典期にも文芸復興期にも属せざる精神美感(ヘブライ思想)に浸潤せられた事は事実である。又新しい進化哲学は、現代が過去に負う無限の恩義を認識せしめ、将来への義務に就き全く新しい考えを起こさしめ、肉体よりも品性の価値を大いに重んぜしむるに至り、女性の理想を出来るだけ精神化せしむるに与って力ありしこと旧来のあらゆる思想を併せたるものよりも多いのは事実である。併し此理想は将来の知的発展に依り、更に一層精神化されようとも、其性質上根本に於いていつまでも芸術的官能的であるに相違ない。

我等が自然を見るのは、東洋人が見るのとは、又それが東洋の美術に証明されてあるのとは大分違って居る。我等はそれ程如実に自然を見ず、又それ程親密に自然を知らぬ。其故は専門家のレンズを通しての外は、我等はただ擬人法的にのみ自然を見るからである。実に我等の審美眼は、或る一方面に於いては、東洋人のそれよりも比較にならぬ程精緻な度合に発達して居るのは事実である。併しそれは情的の方面であった。我等は古来の婦人美崇拝を透して自然美の幾分を学んだのである。多分最初から人体美の知覚が、我等のあらゆる美感の本源であったろう。我等の釣合プロポーションという概念も、恐らく源(註)を同じゅうするのであろう。我等が法外な斉整の嗜好、並行線、曲線、及び凡ての幾何学的均斉の愛情の如き皆然りである。しかして我等が美感発展の長き行程に於いて、婦人美の理想は遂に我等が美学上の理想となったのである。我等は其理想の幻影を透して世界の美を見ること、恰も熱帯の虹色の湿気を含める空気を透して物体を見るが如くに至ったのである。

註 左右均斉の概念の起原に就ては、ハーバート・スペンサーの『建築の型式の源泉』を見よ。

それ計りではない。一度美術若しくは空想に依って婦人にたぐえられたる物は、一時たぐえられたが為めに不思議にも新たな意義を与えられ或は変形せられた。かくて幾世紀を通じて西洋人の空想は自然を益々女性化せしめたのであった。我等を喜ばす物は、空想が直に捕えて女性化せしめた――青空の限りなきやさしみ――河海の水の動き――暁天の薔薇色――昼の広大な抱擁――夜と天の星――不変の山嶺の起伏までも。あらゆる花、あらゆる果物の赤らみ、其外凡て香ばしく美しく優しき物、爽かな季節と其折々の声々、小流の笑い声、木の葉のささやき、木蔭の鳥の囀り――凡て見る物聞く物感ずる物にして、我等が愛らしい、ゆかしい、優雅だ、上品だと云う、憧憬の感を惹起す者は、我等をして朧気に、婦人のおもかげを偲ばしめる。我等の空想が自然を男性的と見做すのは、凄さ強さの感の起こる時のみである――恰も荒々しい巌畳がんじょうな対照物に依って永遠の女性の魅力を増進せしむるが如くに。恐ろしい物でさえ非常に美しいものを加味すれば――破壊でさえ破壊者の美しさを以て為されさえしたら――我等には女性的となるのである。ただに見る物、聞く物の美しさのみならず、不思議であり、崇高であり、神聖である物の殆ど総ては、妙にこぐらがった情感の神経叢しんけいそうを透して我等に訴えるのである。宇宙の尤も機微な力さえ我等に対しては婦人を語るのである。新しい科学は彼女の出現が我等の血管の中に喚起す旋律に、又初恋なる不思議な激動に、さては彼女の魅力の永遠の謎に新しい名を教えた。かくて我等は簡単なりし情熱から無数の感化変形を経て遂に宇宙情緒、万有女性観を発展せしむるに至った。

さて我が泰西の美感発展に於ける情的影響の結果は総じて有益であったかどうか。我等が芸術の勝利として誇る、あらゆる顕著な結果の下に、目に見えぬ結果――それが将来暴露されたなら、我等の自尊心に少なからぬ衝動を惹起すべきものが潜んで居らぬであろうか。我等の美的能力は、自然の多くの偉大なる方面に殆ど全く我等の目を閉じさせた唯一の情操の力に依って、一方にのみ異常に発展せしめられたということはないであろうか。或は寧ろこれは審美感の発展に与って、一特殊の情緒が極度に優勢を占めた避くべからざる結果ではあるまいか。そして最後に、此優勢を占めた情緒其者は果たして最高のものであったろうか。東洋人には知られて居た、もっと高いものがなかったであろうか。

自分は此等の疑問を提供するものの、満足な解答を為し得られようとは思わぬ。併し自分は東洋に長く住めば住む程、丁度人間の眼には見えぬが、分光器に依って存在の証明される不思議な色と同様、我等には知られぬ優れた芸術的才能と感知力が東洋には発達して居るという確信が益々深まるのを覚える。そして、そんな事が有り得べきであることは、日本芸術の或る方面に依って指示せらるるように思う。

余り細密に説くことは困難でもあり危険でもある。自分は二三の大まかな観察を述べて見るに過ぎぬ。自分には此驚くべき日本芸術は、自然の無限な種々相の中、我等泰西人に何等性的特徴を示さぬ所のもの、擬人法的に見るを得ざるもの、男性でも、女性でもなく、中性若しくは無名のものが、日本人に依って尤も深く愛せられ会得せられるものである事を示す様に思われる。実に日本人は自然界に於いて数千年間、我等に見えずに居た多くのものを見て居る。そして我等は今彼から従来全く見るを得なんだ生物の諸相、形態の諸美を学びつつある。我等は遂に、日本人の芸術は――西洋人の偏見が独断的に、其反対の主張を為せしにも拘らず、又初めには妙不思議な非如実の感を与うるにも拘らず――決してただ空想の産物ではなく、存在せしもの、現存するものの、真実の反映、描写であるという大発見を為したのである。従って我等は日本画家の鳥類、昆虫、草木、樹木の習作を眺めるのは、芸術の高等教育に外ならぬことを認めるに至った。例せば我等の最良の昆虫の図を同じ題目の日本画と比較せよ。ミシュレ(編者註一)の『昆虫』に、ジャコメリ(編者註二)が描いた挿画と、日本の安煙草入の絵革、若しくは安煙管の金属の部を装る同じ昆虫の図柄とを比較して見よ。ヨーロッパの版画の細密精巧は、要するに無味乾燥な写実に過ぎぬ。然るに日本画家は毛筆を二三度揮るうのみで、動物のあらゆる形態上の特殊性と、之に加うるに、其運動のあらゆる特徴を、理解し難き巧妙さを以て描出して居る。東洋画家の毛筆から投げ出さるる絵画の一つ一つは、偏見に曇らされざる人の知覚には、教訓であり啓示であり、いやしくも見得る人の眼を開かしむるものである。それはたとい風に揉まるる蜘網の上の蜘蛛、日向ひなたを飛ぶ蜻蛉とんぼ、葦間へ這い込む蟹、透明な流れの中に震動する魚のひれ、唸りながら飛ぶ蜂、空を飛ぶ鴨、身構えした蟷螂、さては杉の枝を這い上る蝉のようなものでもである。此等の画は凡て生きて居る。熱烈に生きて居る。我等の之に相当する画は、それに比べると丸で死んで居る。

編者註一 ジュール・ミシュレ(一七九八年八月二十一日-一八七四年二月九日)。フランスの歴史学者。博物誌の著作でも知られる。

編者註二 エクトル・ジャコメリ(一八二二年四月一日-一九〇四年十二月一日)。フランスの画家。鳥の絵が著名。

花の画を取って見よう。英国或はドイツの花の画は、名工の数箇月の労力の結果で、数百ポンドを価するものでも、高尚な意味の自然の研究としては、毛筆を二十度ばかりなすりつけて、価五銭ばかりもする日本の花の画とならぶことは出来ぬ。前者は精々色の配合を模せんとして失敗した、しかも痛ましき努力を現わすものに過ぎぬ。後者は何等粉本モデルの助けなしに、花の形状の完全な記憶を、直に紙の上に投げ出したもので、個々の花の思い出ではなく、完全に手に入ったあらゆるてにをはの揃った形態表現の通則を完全に実現したものである。泰西の美術批評家の中では、仏人のみが日本美術の此等の特質を十分に了解する様に思われる。そして泰西美術家の中では其手法に於いて東洋人に接近するのはパリ人のみである。パリの画家は時に紙面より筆を離さずに、波状にうねれる一条の線を以て、男女の生けるが如き特殊の形態を描出する。併し此の非凡な技能の発達はおもに漫画に限られ、そして男か女かの画に限られる。自分が謂う日本画家の技術なるものを了解せんとならば、読者は或るフランス画の特質なる此の即時描出の技能を、個性を除く殆ど凡ての題目に適用したものと想像せらるればよい。即ち殆ど凡ての認められた類型に、日本の自然物の凡ての形相に、日本風景の凡ての形式に、雲に流水に霞に、森や野の凡ての生物に、季節の凡ての様式、空の調子、朝夕の色合などに適用したものと想像せらるればよい。但し此魔術の様な技術の深い精神は、馴れない眼には一目瞭然と云う訳には行かぬ。それは西洋人の芸術的経験に訴える所が至って少ないからである。併し偏見に捉われない鑑識高き眼には、徐々に見えて来て、美に関する従前の見解を殆どことごとく更改せしむるに至るであろう。其のあらゆる意義を会得するは、長年の日子を要するであろうが、其の描出力の幾分は短時日の間に感知する事が出来、そうなると、アメリカの絵入雑誌やヨーロッパのの絵入刊行物でも殆ど見るに堪えられなくなるであろう。

もっと意義深い心理的相違は他の事実に依って暗示せらるる。此事実は言語で叙述する事は出来るが、西洋の美学的尺度で、若しくは何等かの西洋人的感情で解釈する事は出来ぬ。一例を挙ぐれば、自分は二人の老人が、近処の寺の庭に苗木を植えて居るのを見た。彼等は時に只だ一本の苗木を植えるのに約一時間を費やすのである。彼等は苗木を一先ず地上に据え、其一線一画の位置を研究する為めに少し離れた処に退いて合議する。其結果として苗木は取り去られ少し許り位置を換えて植え直される。此苗木が庭の風致に完全に合致する迄には、これが七八遍も繰り返される。此二人の老人は畢竟苗木を材料にし、それを変えたり移したり、引き抜いたり植え直したりして不可思議な想いを練りつつあるので、丁度詩人が尤も優雅な、最も力強き表現を其詩歌に与える為め、文字を替えたり移したりするのと同様である。

日本の大きい家には凡て若干の凹壁アルコーブ、即ち床の間がおもなる室に一つずつある。此処には家の宝とする美術品がならべられるのである(註)。先ず必ず懸物が掛けられる。それから少し高く上げた床(普通磨ぎ板)には花瓶と一二の美術品が置かれる。花はコンダー氏の美しい著書にくわしく書いてある、彼の古法に従って床の瓶に生けられ、又懸物と、ならべられてある美術品とは、場合と季節に依って折々変えられる。自分は或る床の間で様々の折に、様々の異なれる美術品を見た。支那製の象牙の彫像、青銅の香炉――一対の雲龍を彫れる――路傍に踞して禿頭を拭いて居る行脚僧の木彫、漆器の傑作、京焼の美しい磁器、及びわざわざ合わせて作った重い珍木の台に載せた大きな石などであった。西洋人には何等の美をも恐らく其石に見出せぬであろう。其石は切ってもなければ磨いてもなく、又少しの内在的価値をも有して居らぬ。単に川床から拾って来た、水でらされた、灰色の石に過ぎぬ。然るに此石は折々之に代わる京焼の花瓶で、それを手に入れる為めには諸君が高価をも惜しまぬべき代物よりも更に一層高価なのである。

註 床の間若しくは床は今より約四百五十年前、支那へ留学せる仏僧栄西に依って創られたとせられて居る。多分素と宗教上の物品の陳列に目論まれ又用いられたのであろうが、今日では客間の床に仏像、仏画などを置くのを教育ある人士は悪趣味と考えて居る。併し或る意味に於いては床は矢張り神聖で、其上に踏み込んだり坐ったり不純なもの悪趣味の物を置く事は決してせぬ。又床に関しては複雑な礼儀がある。上客はいつも床の間の真近に据えられ、それから後は客の身分に従って或は近く或は遠く座に着く事になって居る。

自分が今住んで居る熊本の小さい家の庭には、様々の形状と大いさとを有する巌若しくは大きな石が十五ばかりある。此等も内在的の価値は更にない。建築用材としてさえない。それに庭の持主は之に七百五十円余を払うて居る。此愛すべき家自身の建築費でもそうはかからぬのである。但し白川(訳者註)の川床から運搬する費用の為めに高くついたのであろうなどと想像したら間違って居る。此等の石はただ或る度迄美しいと考えられ、そして美しい石に対する大なる地方的需用がある為めにのみ七百五十円を価したのである。此等は最上級の石でもない。若しそうであったら、もっと遥かに高価であったろう。諸君は大きな粗末な自然石が高価な鋼鉄版の版画よりも、もっと美術的意義を有するということ、又それは美しい物であり永久の歎喜であるということを会得する迄は、日本人の自然の見方を了解し初める訳に行かぬ。「併し普通の石の何処が美しい」諸君はこう問うであろう。幾つも美しい処はあるが、自分は只だ一箇処だけ述べよう――曰く不斉整。

訳者註 熊本市に沿うて流るる川

自分の小さい日本風の家には、ふすま即ち室と室との間を滑走する不透明な厚紙の目隠めかくしがあるが、それには自分が決して見倦みあかぬ図案がある。此図案は室に依って異なるが、自分は自分の書斎とつぎの間とを仕切る襖に就てのみ話そう。地の色は軟らかい玉子色で、其上に置く金色の型は極簡単である――宝珠の玉が二つずつ撒き散らされてあるに過ぎぬ。併しの二組を取って見ても各組から正確に同じ距離にあるものはない、そして各組も妙に少しずつ変って居て正確に同じ位置若しくは関係にあるものは二つとない。時には一方の宝珠が透明で他が不透明、時には二つ共透明若しくは二つ共不透明であり、又時には二つの中で透明な方が大きく、時には不透明の方が大きく、時には二つ共正確に同大であり、時には二つが重なり合い、時には全く相触れぬ。又時には透明の方が左にあったり、時には右にあったり、時には透明の方が上にあったり或は下にあったりする。重複の箇処、若しくは配置、並置、取り合わせ、大いさ、対照等に於ける斉整らしいものを尋ねようとして全面に目を配っても無益である。此外、家中の諸処にある装飾模様の中に斉整らしいものは何もない。それをわざわざ避けた巧妙さは驚くべきである――殆ど天才の域に達して居る。さてこれが日本装飾術の普通な特質で、其感化の下に数年住んだ後には、壁なり、絨氈なり、帷帳なり、天井なり、其他凡ての装飾せられた物の表面にある規則正しい模様を見ると、甚だ野卑に見えて心苦しい。これは確かに我等が永らく自然を人体になぞらえてのみ見馴れたる結果、泰西の装飾術に於ける機械的な醜悪に満足し、母の背に負われて青緑な天地の奇観に見惚れる日本の小児の眼にさえ明らかに見ゆる自然の美に気付かざりしに原因するに相違ない。

仏典の一節に曰く「無は法なることをる者はすなわち智者なり」と。