七月二十五日。今週私の家に三つの変ったおとずれがあった。
第一は井戸替職人であった。毎年一回は凡ての井戸がからになるまで汲み替えられねばならない。そうしないと水神様の怒りを招く。この折に私は日本の井戸とその守護神の事について学んだ事が多少ある。井戸の守護神には名が二つあって、又水波之売命とも云われる。
水神様は水を清く冷たくして凡ての井戸を守護する。その代わり家主の方では厳しい清浄法を守らねばならない。その規則を破る人には病気それから死が来る。稀にこの神は蛇の形となって現れる事がある。この神に捧げてある神社を見た事はない。しかし毎月一度神主が井戸のある信心深い家を訪ねて水神に何か古い祈りをする、そして井戸の端に何かの符号の小さい幟を立てる。井戸替のあとでもやはりこの事がなされる。それから新しい水をくむ第一のつるべは男子によってくまれる。もし婦人が初めに水をくめば、その井戸はそれからあといつも濁るからである。
水神にはその仕事の小さい助手がある。日本人が鮒と呼ぶ小さい魚である。水虫を退治するために一つ二つの鮒はどの井戸にも飼ってある。井戸替の時この小さい魚を甚だ大事にする。私が始めてうちの井戸に二つの鮒の居る事を知ったのは井戸替職人の来た時であった。鮒は井戸に水の満つる間、冷水の桶に入れられて、それからもとの淋しさへ再び投ぜられた。
私の井戸の水は綺麗で氷のように冷たい。しかし今ではそれを飲む毎にいつでも暗黒のうちを徘徊して、下りて来て水に落つるつるべによっていつまでも驚かされるそれ等の二つの小さい白い生命を思わずには居られない。
第二の変ったおとずれは、装束をつけて手で動かす火消ポンプを携えた土地の消防であった。昔の習慣に随って土用の間に年一回彼等の持場を一廻りしてあつい屋根に水をまいて、富んだ家々から何か少しの報酬を受ける。長い間屋根に雨が落ちなければ太陽の熱だけで燃え出す事もあると信ぜられて居る。消防は私の屋根、樹木、庭園へ蛇管を向けて非常に清々した気分にしてくれた。そしてその代わりに私は酒代を与えた。
第三のおとずれは、地蔵のお祭りを適当に行うために少しの助力を乞いに来た子供の総代であった。この地蔵の堂は街路の向側で丁度私の家に面したところにある。私はその資金へ寄付する事を甚だ喜んだ。私はこの温和な仏を愛するからである。そして私はその祭礼は面白いだろうと思った。翌朝早く私はその堂がすでに花と奉納の提灯とで飾ってあるのを見た。新しいよだれかけが地蔵の首の廻りにかけられて、仏式の御膳はその前に供えてあった。あとで大工連が子供の躍るために地蔵堂の広場に舞台を組み立てた。そして日のくれる前におもちゃ屋連が境内に一列の小屋をたてて商店を列べた。夜になって私は子供の躍りを見るために如何にも綺麗な提灯の光の中へ出かけた。そして私は私の門の前に三尺以上の巨大なとんぼの止まって居るのを見た。それは私が子供等に与えた少しの助力に対する彼等の感謝のしるしの飾りであった。私は一時その真に迫って居るのにびっくりした。しかしよく調べて見ると、からだは色紙でつつんだ松の枝で、四つの翼は四本の十能(編者註)で、光った頭は小さい土瓶である事を発見した。全体は非常な影のでるように置いた提灯でてらされていた。その影も考案の一部であった。美術的材料の一点もなくしてつくった美感の驚くべき一例であった。しかも全くそれは僅か八歳の貧しい子供の仕事であった。
訳者註一 著者は熊本で二度家を借りた。初めは手取本町三十四番地、後に外坪井西堀端町三十五番地に移った。これ等の事件は多く後の家で起った。
編者註 小型のシャベル、または柄杓状の家庭道具。主に炭や灰を運ぶために使用する。
七月三十日。南側の私の隣りの家(低い陰気な建物)は染物屋である。日本の染物屋のあるところは、日に乾かすために家の前に竹竿の間に絹や木綿の長い切れ、濃い青、紫、薔薇、薄青、銀鼠の色の広い帯が張り渡してあるのでいつでもすぐに分る。昨日、私の隣人がその家庭を訪問するように私を誘うた。そしてその小さい表の方を通ったあとで、私はどこか古い京都の御殿に置いてもよい程の庭園に臨んだ奥の縁側から眺めて居る事に気がついて驚いた。そこに優美な築山の山水があった。そして清い水の池があって不思議に複雑な尾をもった金魚がいた。
暫らくこの景色を眺めて居ると、染物屋は仏間になって居る小さい部屋へ私を案内した。何でも必要上小規模にできて居るが、私はどこの寺でも、これよりもっと美術的な物を見た覚えはない。彼は私に千五百円かかったと告げた。私はそんな金額でどうして足りたか分らなかった。三つの入念に彫刻した壇、――漆と金とで光った三重の壇、やさしい仏像の数々、多くの精巧な器物、黒檀の経机、木魚、二つの立派な鐘、つまり一つの寺院の諸道具一式が縮形になって居た。私の主人は若い時お寺で勉強した事があった。そして御経を知っていた。浄土宗に用いられる御経は悉くもっていた。普通の読経なら何でもやれると私に語った。毎日一定の時刻に家族全部がお参りのために仏間に集まる。そして主人は一同のために読経する。しかし特別の場合には近所の僧が来てお勤めをする。
彼は私に盗賊に関する珍しい話しをした。染物屋は格別泥棒に入られ易い。幾分はそこに委託してある高価な絹のため、又この職業は儲けが大きいと知られて居るからである。或晩このうちへ泥棒が入った。主人は町にいなかった。老母と妻と女中だけがその時うちにいた。覆面をして長い刀を携えた三人が、うちに入った。一人は女中に職人が誰かまだこの家に居るかと尋ねた。そこで泥棒をおどかそうと思って、女中は、若い衆は皆未だ仕事をして居ると答えた。しかし泥棒はこの証言にはびくともしなかった。一人は入口に立番し、二人は寝室へ大股であるいて行った。女達は驚いて立ち上った。そして妻は「どうして私達を殺そうとするのです」と尋ねた。頭らしい男は答えた、「殺そうとは思わない、金が要るだけだ。しかし金を出さなけりゃこうだ」と云って刀を壁につきさした。老母は云った。「どうか嫁をおどかして下さるな、そうすればうちにあるお金はありたけ上げます。しかし御承知下さい。忰は京都へ行っていますから沢山あるわけはありません」彼女は金箪笥の引出しと自分の財布とを渡した。丁度二十八円と八十四銭あった。泥棒の頭はそれを数えて甚だ穏やかに云った、「あんたをおどかしたい事はない。あんたは大層信心深い人だと云う事は知って居る。それで虚言は云わないだろうね。これで皆ですか」「はい、皆です」彼女は答えた。「おっしゃる通り私は仏法を信じて居ります。それであなたが今私の物を取りにお出になるのは全く昔、私自身、前の世であなたの物を取った事があるからだと信じて居ります。これはその罪のための罰です。それですから虚言を云うどころか、この際、前の世であなたに対して犯した罪の償いのできる事を有難く思います」泥棒は笑って云った。「あんたはよいおばあさんだ、あんたの云う事は疑いはない。あんたが貧乏だったら、わしもあんたの物を取ろうとはしない。そこで着物を二枚ばかりとこれだけ欲しい」と云って甚だ立派な絹の羽織に手をかけた。老婦人は答えた。「忰の着物は皆でも上げましょう。しかしそれは取って下さるな、忰の物じゃありません。只人から染めるために預かって居る物ですから。私共の物なら上げますが、人様のものは上げられません」「それは全く道理だ」泥棒は承認した。「それじゃそれは取らない」
僅かの着物を受け取ったあとで、泥棒は甚だ丁寧にお休みなさいと云ったが、婦人達に自分等のあとを見送らないように命じた。年老いた女中はやはり戸の近くにいた。泥棒頭はそこを通ったとき「貴様は虚言をついたな――それやる」と云って彼女を打ち倒して気絶させた。泥棒は一人もその後、捕えられなかった。
八月二十九日。或仏教の宗派の葬式によって、屍が焼かれた時に、仏様と云う小さい骨、一般に喉の小さい骨と想像される骨が灰の間からさがされる。実際どんな骨だか、そんなかたみを調べる折がなかったから私は知らない。
火葬のあとで見出されたこの小さい骨の形によって死者の世の有様が予言される。その魂の次ぎの状態が幸福であれば、骨は仏の小さい姿の形になる。しかし世が不幸になる時には醜い形になるか、或は全く形がない。
小さい男の子、隣の煙草屋の忰が一昨夜死んだ。そして今夜、死骸が焼かれた。火葬のあとに残った小さい骨に、三体の仏の形が発見された。それがあとに残った両親に少しは精神的慰藉を与えるであろう。
註 大阪天王寺ではこの骨が窖へ投ぜられるが、その時の音で、又後生に関する知らせが与えられると信ぜられて居る。この骨が集まって百年になると、それを粉末にして、それをこねて大仏を造ると云う事である。
九月十三日。出雲松江からの手紙に、私に羅宇を供給した老人は死んだと云って来た。(日本のキセルは普通三つの部分、即ち豆の入る程の大きさの金属製の雁首と、金属製の吸口と、一定の時に取りかえられる竹の軸からできて居る事を読者は知らねばならない)この老人は羅宇をいつも甚だ綺麗に塗った。或は豪猪の刺のように、或は蛇の皮の円筒のように。彼は市はずれの変な狭い小さい町に住んでいた。私がその町を知って居るのは、そこに白子地蔵(訳者註一)と云う名高い像があるからである。この地蔵を私は一度見に行った。人はその顔を何かの理由で舞子の顔のように白くする。その理由を私はどうしても発見する事ができないで居る。
老人にお増と云う娘が一人あった。それについて物語(訳者註二)がある。お増は今も存命である。長い間、幸福な妻となって居るが唖である。ずっと昔怒った群集が市中の或米相場師の家と倉庫を荒して破壊した。小判の大分交って居る金銭は往来中にまき散らされた。暴徒(無教育な正直な農夫)はそれを欲しがらなかった。彼等は盗もうとしないで破壊しようと思った。しかしお増の父はその晩、泥の中から小判を一つ拾ってうちへ帰った。あとで近所の人が告発したので彼は拘引された。彼を前に引出した判事はその当時十五のはにかんだ娘のお増を詰問して何か証拠を得ようとした。彼女はもし続いて答えていたら、われ知らず父のためにならない証拠を与える事になるだろうと感じた。彼女は彼女の知って居る事を何でも彼女に認めさせるように造作なく強める事のできる熟練なる審問者の前に居る事を感じた。彼女は黙ってしまった。そして口から血が流れ出た。只舌をかみ切って永久に無言になったのであった。父は赦された。その行為に感嘆した或商人は彼女を娶って年老った彼女の父を養った。
訳者註一 この地蔵は松江市奥谷万寿寺にあるとの事。
訳者註二 この話は杵築の事実談。
十月十日。子供の生涯のうちに前生の事を覚えていてその話をする日が一日、たった一日だけあると云われる。
丁度満二つになるその日に、子供は家の最も静かなところへ母につれられて箕の中に置かれる。子供は箕の中に坐る。それから母は子供の名を呼んで「お前の前生は何であったかね、云うてごらん」と云う。そこで子供はいつも一言で答える。不思議な理由で、それよりも長い答の与えられる事はない。時に返事は謎のようで、それを解釈するのに僧侶か易者を頼まねばならない事がよくある。たとえば昨日、銅鍛治の小さい忰はその不思議な問に対してただ「梅」と答えた。ところで梅は梅の花か梅の実か、女の名の梅かの意味に取れる。その男の子は女であったと云う意味だろうか、或は梅の木であったろうか。ある隣人は「人間の魂は梅の木には入らない」と云った。今朝、易者はその謎について問われて、その男の子は多分学者か詩人か政治家であったろう、それは梅の木は学者、政治家、及び学者の守護神である天神の象徴であるからと断言した。
十一月十七日。日本人の生活の事で外国人にはどうしても分らない事を書いた驚くべき書物を作る事ができよう。その書物のうちには稀れではあるが、しかし恐るべき憤怒の結果に関する研究がなければならない。
国民的法則として日本人は容易に怒りを表さない。下層社会の間でさえ、重大なる威嚇は微笑と共に、君の恩は忘れない、こちらは感謝して居ると云う証言になる事が多い。(しかし、これは私共の言葉の意味で反語と想像してはいけない、それはただ婉曲な辞令で、――酷い事を本当の名で呼ばないのである)しかしこの微笑の証言は死を意味する事がないとは云えない。復讐の来る時には不意に来る。日本国内なら距離も時間もその復讐者、一日に五十マイル歩ける、荷物は極く小さい手拭に皆包める、忍耐は殆んど限りを知らないと云うその復讐者には、何の故障にもならない。彼は庖丁を選ぶ事もある。しかしそれよりも刀、――日本の刀を使う事がもっと多い。これが日本人の手で使われると最も恐るべき武器となる。そして怒った人が十人もしくは二十人を殺すに一分まではかからない。下手人は逃れようと考える事は余りない。古えの習慣は人を殺したら自分で死ぬべき事になって居る。それ故警官の手に落つる事は恥辱である。予め準備をして書置をして、葬式の用意をして、事によれば(昨年の或物凄い例にあったように)自分の墓石まで彫って置く。自分の復讐を充分に仕遂げてから自殺する。
熊本から余り遠くない杉上と云う村にそう云う分らない悲劇(訳者註一)が一つ、ついこの頃起った。重もなる役者は、成松一郎――若い店商人、妻おのと二十歳――結婚して僅かに一年、それからおのとの母方の叔父杉本嘉作なるもの――一度入監した事のある怒りっぽい男、これだけであった。この悲劇は四幕であった。
第一段。場面――銭湯の内部。杉本嘉作入浴中。成松一郎入場、着物を脱ぎ、自分の親戚の居る事に気がつかないで蒸気の立ちこめて居る湯に入る。そして大声で叫ぶ、――
「ああ、地獄のようだ、この湯は、あつい、あつい」
(「地獄」)は仏教の地獄の意味だが、監獄の事にもなる、――この時は不幸なる暗合であった)
嘉作(非常に怒って)「おい小僧、喧嘩をする気だね、何が気に入らないんだ」
一郎(不意に出られてびっくりする、しかし勇気を起して嘉作の調子に反抗する)「なに、何だ、おれが何を云おうと勝手だ。湯が熱いと云ったってお前にもっと熱くしてくれとは頼まない」
嘉作(けわしくなって)「おれの失敗で一度ならず二度迄監獄に行ったって何も不思議な事はない、貴様はばかか悪者にちがいない」
(互いに飛びかかる隙をねらってにらみ合って居るが、互いにためらって居る。しかし日本人の口にしないような事を云い合って居る。この老いたる人と若い人は互角の力だから手出しができない)
嘉作(一郎が怒って来るに随って静かになって来る)「小僧、小僧のくせにこのおれと喧嘩する気か。貴様のような小僧は妻などもってどうする。貴様の妻はおれの親戚だ。地獄から来た男の親戚だ。おれのうちへ返しに来い」
一郎(今腕力では嘉作の方が上手である事が充分に分かったので、やけになって)「おれの妻をかえせ、おれの妻をかえせと云ったな。よし、すぐかえしてやる」
そこまで一切の事は充分、分る。それから一郎は帰宅する、妻を愛撫する、彼の愛を彼女に保証する、一切の話をする、それから彼女を嘉作の家でなく兄の家へやる。二日たって日が暮れてからまもなく、おのとは夫に戸口へ呼ばれてそして二人は夜のやみに消える。
第二段。夜の場面。嘉作の家が閉じて居る。雨戸の隙間から光が見える。女の影が近づく。たたく音。雨戸があく。
嘉作の妻(おのとを認めて)「ああ、ああ、よく来てくれたね。どうぞお入り、お茶でもおあがり」
おのと(甚だやさしく云う)「どうも有難う。が、嘉作さんはどこにお出でですか」
嘉作の妻「外の村へ行きました。しかし直に帰る筈です。入っておまちなさい」
おのと(一層やさしく)「どうも有難う。ちょっとして又参ります。しかし、先ず兄に云わねばなりませんから」
(お辞儀する、暗がりにすっと入る、そして又影になる、これが外の影と一緒になる。二つの影が動かずに居る)
第三段。場面、松の木が両側にある夜の河の堤防。嘉作の家の黒い影が遥かに見える。
おのとと一郎が樹の下に、一郎は提灯をもつ。両人共白い手拭で鉢巻きをして、身軽に着物をきて、袖にたすきをかけて腕のよくきくようにして居る。銘々長い刀をもつ。
時刻は日本人が、最も適切に云う通り「河の音が最も声高く聞える」時刻である。松の葉に風が長い時々のつぶやきをする外は何の音も聞えない。秋の末で蛙の声も聞えない時であるから。二つの影は話をしない。河の音が高くなるだけである。
不意に遠くでじゃぶじゃぶ音がする。誰かが浅い流れを渡って居る。それから下駄のひびき、不規則なよろよろするひびき、酔どれの足音が段々近づいて来る。酔どれが声を上げる。嘉作の声である。彼は歌う、
「好いたお方に強いられて、
や とんとん」
――恋と酒の歌である。
直ちに二つの影が、その歌い手の方へ走りよる。彼等の足は草鞋をはいて居るから、音はしないで軽く走られる。嘉作は未だ歌って居る。不意にゆるい石が一つ足下で動いた。彼は足首をねじって怒りのうなりを発する。殆んど同時に彼の顔に近く提灯がさし出される。恐らく三十秒程それがそこにじっとして居る。誰も物を云わない。黄色の光は三つの顔と云うよりむしろ妙に表情のない面というべき物を照して居る。その顔を見て、風呂屋の事件を思い出して、そして刀を見て、嘉作の酔が一時にさめる。しかし恐れはしない、そしてやがて嘲りの笑いを突発する。
「へっへっー、一郎夫婦だな。おれを又子供だと思って居るな。手にそんなものをもって何をするつもりだ。使い方を教えてやろう」
しかし一郎は提灯を落して突然、両手に力一杯をこめて斬り下したので、殆んど嘉作の右の腕が肩から離れようになった。犠牲がよろめくところを女の刀は左りの肩をつき通した。彼は「人殺し」と一声恐ろしく叫んで倒れる。しかし彼は再び叫ばない。十分程二つの刀は彼に対して烈しく働いた。未だ燃えて居る提灯はそのすさまじい光景を照して居る。おそく歩いて帰る二人の人は近づいて、聞いて、見て、足から下駄を落して物も云わずに暗がりへ逃げてかえる。一郎とおのとは仕事が苦しかったから息をつくために提灯のわきに坐る。
十四になる嘉作の忰は父を迎えに走って来る。彼は歌を聞いて、それから叫び声を聞いた。しかし未だ恐ろしい事を知らなかった。二人は彼の近づくがままにして置く。彼がおのとに近づくと、女は彼を捕えてなげ倒して、膝の下で彼の細い腕をねじて、そして刀を固く握る。しかし未だ喘いで居る一郎は、「いやいや、子供はいけない、その子は何にもしなかったから」と叫ぶ。おのとは彼を放ってやる。子供は気抜けして動く事もできない。彼女はひどく彼の顔を打って「行け」と叫ぶ。彼は走る、叫ぶ事も敢てしないで。
一郎とおのとは斬りさえなんだ物を捨てて、嘉作の家へ行って大声で呼ぶ。返事はない。ただ死を覚悟する女と子供の悲しく蹲って居る沈黙があるだけ。しかし彼等は恐るるに及ばないと告げられる。それから一郎は叫ぶ、
「お葬式の用意をなさい、嘉作は私の手でもう死んだ」
「それから私の手で」とおのとは金切声で云う。
それから足音は退く。
第四段。場面、一郎の家の内部。客間に三人が坐って居る。一郎、妻、及老母、老母は泣いて居る。
一郎「そこで、母さん、あなたは外に息子がないのですから、あなたを独りこの世に置いて行くのは本当に悪い事です。ただお赦しを願う外はありません。しかし叔父はいつもあなたのお世話を致します。それで叔父の家へすぐに行って下さい。もう私共二人は死なねばなりませんから。つまらない拙い死に方は致しません。見上げた立派な死に方を致します。そこであなたは見てはいけません。さあ、行って下さい」
老母は悲嘆にくれながら出て行く。彼女の出たあとをしっかり戸締りする。用意ができる。
おのとは剣のさきを喉へつきこむ。しかし彼女はやはりもがく。最後のやさしい言葉で一郎は一打で首を切って彼女の苦痛を終りにする。
そしてそれから。
それから彼は硯箱をとり出して硯を用意し、墨をすり、よい筆を選んで、そして注意して選んだ紙の上に歌を五つつくる。最後のはつぎの物である。
「冥土より郵電報があるならば
早く安着申しおくらん」
それから彼は自分の喉を立派に切る。
さて、これ等の事実が公に調査されて居る間に、一郎夫婦はひろく人に好かれ、又二人とも幼時から愛嬌があるので著しかった事がよく分って来た。
日本人の起源に関する学術的問題は未だかつて解決されていない。しかし時々一部マレイの起源を主張する人は多少の心理的証拠を味方にもって居るように思われる事がある。最も温和な日本女性の従順なやさしさの下に、(そのやさしさについては西洋の人はとても想像ができない)事実を目撃せずには全然考えられない冷酷の可能性がある。彼女は千度も容赦する事はできる。云う事のできぬ程感ずべき風に千度も自分を犠牲にする事ができる。しかし一つ特別の魂の神経が刺される事があれば、火が赦しても彼女は赦さない。そうなると突然その弱々しく見える婦人に、正直な復讐の信ずべからざる勇気、恐ろしい用意周到なる撓まない精神が現れる。男子の驚くべき自制と忍耐の下に、達するには甚だ危険な盤石の如き物が存する。妄りにそれにふれる事があれば放される事はない。しかし怨みはただ偶然に激成される事は殆んどない。動機は厳密に判断される。過ちは赦される。故意の悪意は決して赦されない。
富んだどこの家庭ででも、客はよくその家宝をいくつか見せられる事がある。そのうちには殆んどきまって日本固有なあのやかましい茶の湯に関する道具がある。多分小さい箱が諸君の前に置かれよう。それをあけると読者は小さい房のついた絹紐で結んだ綺麗な絹の袋を見るであろう。その絹は甚だ柔らかな凝った物で、手のこんだ模様がある。こんな包みの下にどんな不思議な物が隠れて居るだろう。その袋を開く、又違った種類の、しかし甚だ立派な袋がもう一つある。それを開くと、驚いた事には、見よ又第三のがあってそれに第四のを入れて居る。それが第五のを入れ、それが第六のを入れ、それが第七の袋を入れて居る。その第七の袋に読者が見た事のないような最も奇妙な、最も粗末な、最も堅固な瀬戸物の器が入れてある。しかしそれは珍しいばかりでなく又貴重である。それは一千年以上を経た物である事がある。
丁度その通り数百年の最も高い社会教化は日本人の性格を包むに礼譲、優美、忍耐、温和、道徳的情操の多くの貴い柔らかなおおいをもってした。しかしこれ等の優しい幾重かのおおいの下に、鉄の如く固い原始的粘土が残って居る、――蒙古のあらゆる血気、――マレイのあらゆる危険なしなやかさでこねられた粘土が。
訳者註一 熊本の新聞で読んだ事実。明治二十六年十一月頃チェンバレンあての手紙参照。
十二月二十八日。私の後庭を囲んで居る高い垣の向こうに、最も貧しい階級の人々の居る甚だ小さい何軒かの家の茅の屋根が見える。小さい家の一軒からたえずうなり声、――苦しんで居る人の深いうなり声が聞える。一週間以上、夜も昼も聞える。しかしこの頃その声は段々長くなり高くなる。一息一息が苦痛であるようだ。私の老いた通訳万右衛門は非常な同情の顔をして云う。「誰かあすこで大層悪い」
その声が私をいらいらさせて来た。「その誰かが死んだら関係のある人々にかえってよかろうと思うが」と私はむしろ残酷に答える。
万右衛門は私の悪い言葉の影響を払い去るように両手で三度早い急な手振をして小さい仏教のいのりを口の中で唱えて、そして非難するような顔をして私のところを去る。それで良心に責められて私は病人のところへ女中をやって医者があるか、何か世話をしようかと聞きにやった。やがて女中が帰って来て、お医者はきまって来てくれる事、外に何も施しようがない事を報告する。
しかし蜘蛛網のような手付はしたが、万右衛門の辛抱強い神経はその響でやはり悩まされて居る事に気がつく。彼はできるだけ遠ざかりたいから往来に近い小さい表の部屋にいたいとさえ白状した。私は書く事も読む事もできない。私の書斎は一番うしろにあるから、そのうなり声はそこでは殆んど病人がその部屋に居るように聞える。いつでもこんな苦しみの声のうちに、苦しみの強さの分る一種の物すごい音色がある。そして私は自分で問いつづける。私がそれを聞いて苦しんで居るその本人に取って、もっと長く苦しみつづける事ができるものだろうか。
午前おそくなって、そのうなり声が病室で小さい仏式の太鼓の音と沢山の声の南無妙法蓮華経の合誦によって打ち消されるのを聞くのは全く一安心である。たしかにその家に僧侶と親戚が集って居る。「誰か死ぬのです」と万右衛門は云う。そして彼も又妙法蓮華の讃美の聖い言葉をくりかえす。
題目と太鼓の音が幾時間かつづく。それが止むとうなり声が又聞える。一息一息がうなりである。夕方になると一層悪くなり恐ろしくなる。それからそれが不意にとまる。数分の間、死のような沈黙がある。そしてそれから烈しい泣音が聞える。女の泣き声、それから名を呼ぶ声。万右衛門は「ああ誰か死んだ」と云う。
私共は相談をする。万右衛門はそこの人々は哀れに貧しい事を見出した。そして私は良心が咎めるから甚だ僅かの金ですむ葬式の費用を贈ろうと云う。万右衛門は私が全くの善意からそうするのだと思って美しい事を云う。私共は女中をやって好意を伝えさせ、又できる事なら死人の履歴を知るように指図した。私は何か悲劇らしい事のある事を思わずに居られなかった。そして日本の悲劇には大概興味がある。
十月二十九日。私の察しの通り死人の話は聞く価値があった。その家族は四人であった。父、母、二人とも老年で弱って居る。それから二人の息子と。死んだのは三十四の長男であった。七年間病んでいた。若い弟は車屋で一家を唯一人で支えていた。彼は自分の車をもたない。一日使用料を五銭払って他人から借りていた。強壮で、走る事が早いが儲けが少なかった。その仕事にはこの節競争が多過ぎて利益が少ない。両親と病人の兄を養うのに全力を要した。不撓の自制力がなければ、それをする事はできなかったろう。彼は一杯の酒を飲むと云う楽しみさえしなかった。彼は独身でいた。彼は唯両親と兄に対する義務のために生きていた。
これは死んだ兄の話であった。二十の頃、魚屋の商売に従事して居る時、彼は或宿屋の綺麗な女中を愛するようになった。その女は彼の愛に酬いた。彼等は互いに深く約束した。しかし結婚に邪魔が起った。女は多少財産のある人の注意を惹く程綺麗であった。その男は習慣通り彼女を貰いに来た。彼女はその男を嫌った。しかしその男の申込みの条件は両親をその方へ決心させた。一緒になれないのに絶望して二人は情死をする事に決心した。どこかで夜、彼等は会った。酒を酌交して二人は約束を新たにし、世間に暇乞をした。若者は剣の一打で愛人を殺してすぐあとで同じ刀で自分の喉を切った。しかし人々は彼の息の切れないうちにその部屋へかけ込んで、刀を奪い取り、警官を迎いにやり、師団から軍医を招いた。その未遂の自殺者は病院へ運ばれ、巧みに看護されて健康になり、それから数ヶ月の回復期ののちに殺人犯の取調を受ける事になった。
どんな宣告が下ったか、私はよく知る事ができなかった。当時、日本の裁判官は人情にからんだ犯罪を扱う時に余程自分の独断的判断を用いた。そして彼等の憐みの行いは西洋の模範でできた法典で未だ制限される事はなかった。多分この場合では情死に生き残った事それだけが甚だしい罰であると考えたのであろう。輿論はこんな場合には法律よりも無慈悲である。禁錮の或期間のあとでこの不幸な人は家へ帰る事を許されたが、たえず警察の監視を受けていた。人々は彼を避けた。生き残ったのは彼の誤りであった。ただ両親と弟は彼の味方であった。そして間もなく彼は名状のできない肉体の苦痛の犠牲となった。しかし彼は生に執着していた。
当時、事情の許す限り巧みに手当はされたが喉の古疵は恐るべき悩みを起し出した。表面は直っていたが、何か徐々たる癌種的形成がそれから拡がって刃の通った気管の上下へ達した。外科医の刀、焼鏝の苦しみはただその最期を延すだけであった。しかしその人はたえず増加して来る苦しみの七年間生き長らえた。死人を裏切った結果、一緒に冥途に旅しようと互いに約束した事を破った結果について不吉な信仰がある。殺された女の手がいつでもその疵を又開いたのだ、外科医が昼のうちに仕上げた事を夜又もとにかえしたのだと人々は云った。夜になると苦痛はいつでも増し、心中を企てた丁度その時刻には最も恐ろしくなったからである。
その間、節約と非常な自制とによって、そのうちの人々は薬代、看護人、及び彼等自身がかつてそんな贅沢をした事がないような滋養物に払う方法を講じた。彼等は彼等の恥、貧乏、負担になる物の生命をできるだけの方法で延した。そして今、死がその負担を取り去ったので彼等は泣く。
恐らく、私共凡てはどんなに苦しくともそれに対して犠牲をするようになって居る者を愛するようになるのである。実際私共に最も多くの苦痛を与える者を最も多く愛するのではないかと云う疑問を起してもよかろう。