直轄学校或は高等中学校の学生は少年とは云えない。彼等の年齢は最下級の平均十八から最上級の平均二十五に到る(訳者註一)。恐らくこの課程年限は少し長過ぎる。最良の生徒でも二十三歳以前に帝国大学に達する事は殆んど望めない。そして大学に達するには英語独語か或は英語仏語の充分なる実用的知識と漢学の完全なる知識を要するのである。かくして学生は本国の古文学に関する凡ての知識と未だその上に三ヶ国の語学を知らねばならない。そしてこれだけの課業の如何に困難であるかはこの漢文の学問だけでも六ヶ国の語を習得するに等しい努力が要ると云う事実を知らないでは分らない。
熊本の学生が自分に与えた印象は出雲の生徒と始めて相知って受けた印象と非常に違っていた。これは熊本学生が日本人の少年時代の甚だ愉快な時期をすでに経過して真面目な無口な成年に達して居るからばかりでない。又一方では所謂九州気質を著しく代表して居るからである。九州は昔の如く今日も日本の最も保守的地方となって居る。そしてその主要の都の熊本は保守的精神の中心となって居る。しかしこの保守主義は合理的で又実際的である。九州は鉄道や進歩した農業法や或種類の工業に科学の応用法を採用する事には緩慢ではなかった。しかし日本帝国の諸州のうちで西洋の風俗習慣をまねる事を最も好まないのである。古えの士魂がなお生きて居る。その魂が九州に於いて数百年間日常生活に於いて極端な簡易生活をなさしめたのである。衣服の奢侈その他種々の贅沢に対する禁令は厳しく行われていた。そしてその禁令はその後廃れたとは云え、その勢力は今も人々の甚だ質素な着物や簡単率直な風俗に現れて居る。熊本人は外では殆んど忘れられて居る動作に関する伝説を守る事や、外国人には明らかに名状する事はできないが教育ある日本人には直ちにそれと知られる言語挙動に於ける一種の臆しない腹蔵のないところが特色だと云われて居る。そしてここでは又清正の大きな城の影の下に(今は大勢の師団兵が入って居る)国民的情操、即ち忠君愛国の念が東京と雖も及ばぬ程強いと云われて居る。熊本は凡てこれ等の点を誇り、又その伝説を自慢して居る。実際熊本には外に誇るべき物はない。ただ広い、散らばった、面白みのない、不体裁の町である。古風な綺麗な町は一つもない。大きな寺も、立派な庭園(訳者註二)もない。明治十年の内乱に全焼したので熊本は今もなおその土地の煙の殆んど収まらないうちに脆弱な小屋を急いで建てた荒野と云う印象を与える。そこには行って見るような著名なところはない(少なくとも市中にはない)。見物すべき物もない。娯楽も余りない。この道理からこの学校は場所がよいと思われて居る。ことに住む者には誘悪物も邪魔になる物もない。しかし又別の理由から遥か離れた東京の富有な人々は熊本に子弟を送ろうとする。青年が所謂「九州魂」に滲み、所謂「九州かたぎ」を得るのは望ましい事となって居る。九州の学生はこの「九州風」のため日本で一種特別の学生と云われる。私はこれを明らかに説明する程充分この「かたぎ」について学び得なかったが、これは必ず昔の九州武士の挙動に近い物であるに相違ない。東京や京都から九州に送られる学生はたしかに全く違った境遇に順応せねばならない。熊本及び鹿児島の青年は兵式体操その他特別の場合に制服を着用せねばならぬ時の外は、昔の武士の着物に多少類する(そしてそのために剣舞(訳者註三)の詩で有名になって居る)着物を今も着て居るのである。即ち短い着物と膝の下に少ししか達しない袴と草履とである。着物の材料は安い粗末な物で色は地味である。厳寒の時又は草鞋の紐が肉に食込まぬ為にはく外は足袋は殆んどはかない。挙動は乱暴ではないが柔和ではない。そして青年は一種、性格の峻厳なる外貌を養成するようである。全く彼等は非常な境遇に際しても冷静なる外貌を保つ事ができる。しかしこの自制の下に烈しい自信力が潜んでいて、稀には恐ろしい形になって現れる事がある。彼等は又一種東洋風に粗野な人々と云ってもよい。可なり富有の家に生まれながら、どれ程肉体上の困難にたえられるかを試みる程、強い興味を外にもたない人々を私は知って居る。多数の人々は彼等の主義を捨てるよりはむしろ直ちに生命をなげうつのである。そして国家の危険と云うような噂でも聞けば全四百の学生は直ちに変じて鉄の如き兵士の一隊となるであろう。しかし彼等の外貌は解する事すらむずかしい程にいつも極めて平静である。
長い間、自分はその微笑もしない平静の下に如何なる感情、情操、理想が潜んで居るかを知りたいといつも思っていたが無駄であった。実は政府の役人である日本人の教師はどの生徒とも親密であるとは思われなかった。私が出雲で見たような親しい関係は痕跡もなかった。教育者と被教育者の関係は教室に集まり又別れる時のラッパの声と共に始まり又終るように見えた。この点に於いて私はその後、私が幾分誤れる事を発見した。しかし実際の関係は大抵は自然的でなくて形式的であった。そして私が「神々の国」を出て以来、私がたえず記憶して居るあの古風な深切な同情とは全く違うようである。
しかし、後になって時々この表面の見せかけよりははるかに愛すべき精神の幾分――情緒的個性の暗示――を見るようになった。偶然の話で得た物も少しはあるが最も著しい物は作文からである。作文の題は思想感情の全く思いもかけぬ花を咲かせた事が時々ある。誤れるはにかみ、否、実際如何なる種類のはにかみも全くないのは甚だ喜ぶべき事実であった。青年は感情や希望をそのまま書く事を恥としなかった。彼等はその家庭について、両親に対する敬愛について、幼年時代の幸福なる経験について、友情について、休暇中の冒険について書く。しかもわざとらしくなく全く真面目なので、私が美しいと思ったように書いてあるのが度々ある。そんなに驚いた事が度々あるので、私はこれまで受取った著しい作文は初めから皆ノートを取って置かなかった事を深く後悔するようになった。毎週一回、私が受取った作文の最上の物からぬき出して教場で読み上げて直し、その他はうちで直すのをつねとした。一番最上なのを読み上げて大勢の為に批評する事はいつでもできるわけではなかった。即ち次の例で分る通り、きまって批評を加える事ができぬ程、神聖な事に関して居るからである。
私は英作文の題としてこんな問題を与えた。「人が最も長く記憶する物は何か」一人の学生は自分等は外の経験を記憶するよりも、最も幸福な時を長く記憶する、何故なれば、不愉快な事や苦しい事はできるだけ早く忘れようとするのが凡て普通人間の天性であるからと答えた。私は更にもっと巧みな返事を沢山受取った。中にはこの問題について全く鋭い心理学的研究をした事を証明した物もあった。しかし私は最も痛ましい事件は最も長く記憶せられると考えた一学生の簡単な答を最も愛した。彼はまさしく次ぎの通りに書いた。一語も直すに及ばなかったのである。
「人が最も長く覚えて居る事は何であろうか。私は人が苦しい境遇にあって、聞いたり見たりする事を最も長く覚えて居ると考える。
私がやっと四つの時、私のなつかしい、なつかしい母がなくなった。冬の日であった。風は木の間と家の屋根の廻りをひどく吹いていた。木の枝には葉がなかった。鶉は遠くで――淋しい声で鳴いていた。私のしたことを思い出す。母が寝床に寝ていた時――死ぬ少し前――私は母に蜜柑を上げた。母は微笑んで、取ってそれを味わった。母の微笑んだのはこれが最後であった。……母の息が絶えてから今日に到るまで、十六年以上も経過して居る。しかし私に取ってはそれは一瞬間のようである。今も又冬である。母のなくなった時吹いた風は丁度その時のように吹いて居る。鶉は同じ鳴声をして居る。凡ての物は皆同じである。しかし私の母は逝いて又再び帰り来る事はない」
つぎも又同じ問に答えて書いた物である。
「私の一生の最大不幸は父のなくなった事であった。私は七つであった。私は父が終日病気であった事と私のおもちゃがかたづけられて、私が極静かにしようと努めた事を思い出せる。私はその朝、父に遇わなかった。それでその日は大層長く思われた。最後に私は父の部屋へそっと行った。そして父の頬の近くに唇をやって『お父さん、お父さん』とささやいた、――そして父の頬が甚だ冷たかった。父は物を云わなかった。私の叔父が来て、部屋の外へ私をつれ出したが何にも云わなかった。それから私は父は死にはせんかと恐れた。妹が死んだ時その頬が冷たかったように父の頬が冷たかったからである。夕方大勢の近所の人々やその他の人々が来て、私をあやしてくれたので一時は嬉しかった。しかし夜のうちに人々は私の父を持って行ってしまったので、そののち私は決して父を見た事はない」
訳者註一 当時の高等中学校は本科二年予科三年。中学卒業生は最下級もしくはその上に入学し、最優等者に限って予科の最上級に入学を許された。
訳者註二 水前寺公園など感嘆すべき物であろうが、その頃は熊本市から少し離れていた。
訳者註三 頼山陽の前兵児の歌「衣骭に至り、袖腕に至る……」の事。
以上の文章から単純な文体が日本の高等学校の英作文の特色であると人は想像するかも知れない。しかし事実は正反対である。小さい言葉よりも大きい言葉を取り、平易な短い文章よりも長い複雑な文章を選ぶのは一般の傾向である。これには或道理があるので、それを説明するにはチェンバレン博士の言語学上の論文にまたねばなるまい。しかしこの傾向それ自身は――現今使用されて居る愚かな教科書でたえず奨励されて居るが――つぎの事実から幾分か分るであろう。即ち最も簡単な種類の英語の云い表わし方は日本人に最も不明瞭である。これは熟語であるからである。学生はこれを謎のように思う。即ちその根抵の思想が彼等の思想と相異なるが故である。この思想を説明せんがためには先ず日本人の心理を幾分知る事が必要である。そこで簡単な熟語を捨てるのが即ち本能的に抵抗のない方面に向く事になる。
私は種々の工夫によって反対の傾向を養成しようと試みた。時々私は全く単文で、又一綴りの字でありふれた話を一組の学生のために書いた。時々その題の性質上簡単に書かねばならぬような題を出して見たりなどした。勿論私はいつでも私の目的を達したとは云えない。しかしそれに関して選んだ一つの題「学校へ始めて行った日」で沢山の作文が出た。それは感情と性格が天真に流露して居るので全く別な風に私を感ぜしめた。彼等の天真爛漫は中々に捨て難い美点である――殊にこれ等はもはや少年でない人々の回想であると思えば。つぎのは最もよい物の一つであると私に思われた。
「私は八歳になるまで学校に行く事ができなかった。私はよく父にやって下さいと願うた。遊び友達は皆すでに学校に行っていたからである。しかし未だ充分強くないと云うので許して貰えなかった。そこでうちに居て弟と遊んで居た。
初めの日に兄は私をつれて学校に行った。先生に何か云って、それから私を置いて行った。先生は私を教室につれて行ってベンチに腰かけるように命じてそれから又私を置いて行った。私はそこに黙っていた時、悲しく感じた。今一緒に遊ぶ弟はいない――只大勢の知らない子供ばかり。鐘が二度鳴った。すると先生は教場に入って石盤を出すようにと云った。それから黒板にカナを一字書いてそれを写させた。その日、先生は日本の言葉を二つ書く事を教えてそれから善い子供の話を聞かせた。家に帰って母のもとへ走って行って側に坐って先生に教えて貰った事を話した。その時の嬉しさはどんなであったろう。その時の嬉しさは話にもできない――まして書く事はなおできない。ただ私はその当時、先生は父よりも又私の知って居る誰よりももっと学者で、――世界中で一番恐るべき、しかも又一番やさしい人であると思った事しか云えない」
つぎのも先生を甚だよく見て居る。
「私の兄と姉とが始めての日、学校へ私をつれて行った。私はいつも内に居る時のように学校でも兄や姉の側に居られるものと思った。しかし先生は兄や姉の教場と余程離れた教場へ行くように命じた。私は兄や姉と居ようと頑張った。先生はそれがいけないと云った時、私は泣いて騒いだ。そうすると皆で兄が教場を出て私と一緒に私の教場に来る事を許した。しかし暫くして私は私の教場に遊び友達を見出した。それで私は兄がいないでも恐れなかった」
これも又中々美しく又真にせまって居る。
「一人の先生(校長だと思う)が私を呼んで大学者にならねばならぬと云った。それから誰かを呼んで四五十人の生徒の居る場へ案内させた。私はそんなに大勢の友達のある事を考えて恐ろしくもあり又嬉しくもあった。彼等は私をはにかんで見、私も彼等をはにかんで見た。初めのうちは彼等に話をする事が恐ろしかった。小さい子供はそんなに無邪気な者である。しかし間もなくどうかして一緒に遊び始めた。そして彼等も私が一緒に遊ぶようになったので嬉しいようであった」
以上三つの作文は、教師の方の苛酷な事を禁ずる現今の教育制度の下で始めての教育を受けた青年の書いた物である。しかしその以前の教師はそれほどやさしくなかったと見える。ここに全く違った経験をしたらしい年長の学生の作文が三つある。
一、「明治以前には今日あるような公立学校は日本にはなかった。しかし士族の子弟から成立した学生塾とも云うべき物が各地方にあった。士族でなければその子弟はこんな塾に入る事はできなかった。この塾は藩公の支配の下にあって、その藩公は学生を管理する塾長を任命した。士族の重もなる学問は漢文学の研究であった。今の政府の多数の政治家は以前こんな士族学校の学生であった。普通の町人や百姓は寺小屋と云う小学校に子女を送らねばならなかった。そこには先生が一人いて何もかも教えるのであった。それも読み書き、算盤と修身に過ぎなかった。私共は普通の手紙や、極めてやさしい文を書く事を学んだ。私は八歳の時、士族でないから寺子屋へやられた。初めのうちは行きたくなかった。そして毎朝、祖父に杖で打たれて漸く行ったのである。その寺小屋の掟は極めて厳重であった。子供がきかないとその罰を受けるように抑えつけられて竹で打たれた。一年たって公立学校が開かれた。そして私は公立学校に入った」
二、「大きな門、堂々たる建物、腰かけの列んで居る甚だ大きい陰気な部屋――こんな物を覚えて居る。先生は甚だ厳しいようであった。私はその顔が嫌であった。私は教室の腰かけに坐って不平を抱いていた。先生は不親切に思われた。子供のうちで私を知って居る者も話しかけた者もなかった。一人の先生は黒板の側に立って姓名を呼び始めた。彼は手に鞭をもっていた。彼は私の名を呼んだ。私は返事ができなかった。そして泣き出した。そこでうちへ送られた。それが私の学校での始めての日であった」
三、「七歳の時に村の学校に入らねばならぬ事になった。父から二三本の筆と紙を少し貰った――私はそれを貰って非常に嬉しかった。そして一所懸命に勉強する事を約束した。しかし学校の始めての日は如何に不愉快であったろう。学校に行った時、仲間のうちで私を知って居る者は一人もない。それで私は一人の友達もなかった。私は教室へ入った。手に鞭をもった先生は大きな声で私を呼んだ。私は大層驚いてそして泣かずには居られぬ程嚇かされた。男の子供等は大きな声で私をあざ笑った。しかし先生はそれを叱って一人を鞭でうって、それから私に『自分の声に恐れてはいけない、お前の名は何と云う』と云った。私は鼻をつまらせながら名を云った。私はその時学校と云うところはいやなところで泣く事も笑う事もできないところだと思った。私は直ぐうちへ帰りたいばかりであった。帰る事は私の力でできないとあきらめていたが授業の済むまでじっとして居る事は中々つらかった。ようやくうちへ帰って父に学校で感じた事を語って、そして『学校へ行くのはいやだ』と云った」
次ぎの追懐は明治時代の物である事は云うまでもない。作文としては私共が西洋で云う「特色」が現れて居る。六歳の時の独立心を云って居るのが面白い。始めて学校へ出るのだから自分の白足袋をぬいで弟にはかして、めかしてやる小さい姉の話も面白い。
「私は六歳であった。母は早く私を起した。姉は私にはかせるために姉自身の足袋をくれた、――私は嬉しかった。父は学校まで私の伴をするように女中に命じた。しかし私は伴はいらないと断った。私は全く独りで行かれると思いたかった。そこで独りで行った。そして学校はうちから遠くないのですぐ門の前に来た。そこに暫らくじっと立って見た。知った子供が一人も入って行かないからである。男の子や女の子が女中やうちの人につれられて学校へ入って行った。そして内の方で遊戯をして居る者があるを見て羨ましくなった。しかしその遊戯仲間の一人が私を見て笑って走って来た。そこで私は大層嬉しかった。その子供と手を取ってあちこち歩いた。最後に先生は一同を教室に呼んで演説をしたが私には分らなかった。それから始めてだと云うので、その日はお休みになった。私はその友人とうちに帰った。両親は果物や菓子を準備して私を待っていた。そして友人と私は一緒に食べた」
又一人が書く。
「私が始めて学校へ行った時は六歳であった。父が私のために本と石盤を持って行った事と先生や友達が私に実際非常に親切で丁寧であった事だけを覚えて居る。それで私は学校はこの世界で極楽であると思った。そしてうちへは帰りたくはなかった」
私はこの短い心からの後悔も又書いて置くだけの価値があると思う。
「始めて学校へ行った時は八歳であった。私はいたずら小僧であった。学校からの帰途友達の一人(私よりも若い)と喧嘩した事を覚えて居る。その子供は私に極めて小さい石をなげた。そして私にあたった。私は路に落ちて居る木の枝を取って力一杯彼の顔を打った。それから路の真中に泣いて居るのを打ち捨てて逃げ出した。心のうちで悪い事をしたと思った。うちについてからまだ泣いて居るのが聞えるように思われた。この小さい遊び仲間は今ではこの世の人でない。誰か私の心のうちの分る人はあろうか」
これ等の青年が全く自然の感情で幼年時代の場面を想い起す事のできる力は私には根本的に東洋的だと思われる。西洋では人生の秋が近づかない以前に幼時をはっきり想い出す事は余りない。しかし日本では幼年時代はたしかに何れの国に於けるよりも幸福である。その理由で成年になってから思い慕われる事も早いのであろう。休暇中の自分の経験を学生が記した物から、つぎに抜いた物を見るとその幼時追懐の念が哀れに現れて居る。
「春期休業の間に、両親に会いに帰省した。学校へ帰るべき間際の、丁度休暇の終りの少し前に、私は郷里の中学生がやはり熊本へ遠足に行く事を聞いたので一緒に行く事にきめた。
彼等は小銃をもって隊をなして行進した。私は小銃をもたないから隊の殿りについた。軍歌を合唱してそれに合わせながら終日行進した。
夕方、添田に到着した。添田学校の職員生徒、及び村の重もなる人々は私共を歓迎した。それから幾隊かに分れてそれぞれ別の宿屋に陣取った。私は最後の一隊と共に宿屋へ入って泊った。
しかし私は長い間、眠る事ができなかった。五年以前同じ『行軍』にこの中学校の生徒として正しくこの宿屋に泊った。私は疲労した事や愉快であった事を思い出した。そして私は当時の少年時代の感情を追懐して今の私の感情と比べて見た。私は私の仲間のように再び若くなりたいと云う愚かな願いを起さずには居られなかった。彼等は皆、遠足で疲れて熟睡していた。私は起きて彼等の顔を眺めた。彼等の若い寝顔は如何に美しく見えたろう」
以上の抜書きは或特別の感情を説明せんがために或特種の物を選び出したので、それ以上学生の一般作文の性質を示す事にはならない。もっと真面目な種類の題から観念情操の例を挙ぐれば、種々変った思想や、余程斬新な書き方も分るであろうが、それはなかなか長くなる。しかし私の教室用手帳からぬき出した少しの抜書きは珍しくはなくとも、多少暗示するところがあろう。
一八九三年(明治二十六年)の夏の試験に私は卒業の組に作文の題として「文学に於いて不滅な物は何ぞ」と云う題を与えた。こんな題について議した事はないのと、又西洋思想に関する学生の知識と云う点から見てたしかに新しい題であるから、斬新奇抜な答案が出る事を予期していた。果して殆んど凡ての答案は面白かった。私は例として二十の答を選ぶ。長い議論の前に直ぐつぎのような言葉が出て居るのが大多数であったが、中には論文のうちに含まれたのも少しはあった。
一「真理と不滅は同一である、この二つは漢語で云えば円満をつくる」
二「人生行為にありて宇宙の法則にしたがう物は皆」
三「愛国者の伝、及び世界に純粋な格言を与えた人の教訓」
四「孝行、及びこれを教ゆる人々の教訓。秦の時、孔子の書を焼いたがその効はなかった。今や文明世界の凡ての語に訳せられて居る」
五「倫理学と科学的真理」
六「善悪共に不滅であると支那の聖人は云った。私共は善なる物をのみ読むべきである」
七「祖先の偉大なる思想観念」
八「十億世紀の間、真理は真理である」
九「凡ての倫理学説が同意する正邪の観念」
一〇「宇宙現象を正しく説明する書物」
一一「良心だけは変らない。故に良心に基づいた倫理学の書物は不滅である」
一二「高尚な行為の道理、これは時の為めに変らない」
一三「最大多数の人々即ち人類に最大の幸福を与うる最もよい道徳上の方法について書いた書物」
一四「五経」
一五「支那及び仏教徒の聖い書物」
一六「人間行為の正しい方法を教ゆる物は皆」
一七「七たび生まれて天皇の為に敵を亡ぼそうと誓った楠正成の話」
一八「道徳的情操、それがなければ世界はただ一大穢土、書籍は反古に過ぎない」
一九「老子道徳経」
二〇 一九と同じ、ただつぎの註がある。「不滅の物を読む人、その人の魂は宇宙の間を永久に徘徊する」
或特別に東洋的な情操が折々議論の間に現れて来た。その議論は私が教場で口演する話に基づいたのである。そしてその話について話して或は書いて批評をさせるのである。こんな議論の結果は後に発表してある。その議論のあった頃には上級の学生には沢山の話を既にして置いたのであった。私は多くのギリシャの神話を物語った。そのうちでエディプスとスフィンクス(訳者註一)の話がその内に潜んで居る教訓のあるので特に面白かったようである。それからオルフェウス(訳者註二)は外の音楽に関する伝説と同じく彼等に何の興味もなかったらしい。私は最も有名な近世の話を色々話した。『ラパチーニの娘』(訳者註三)と云う不思議な話は大層彼等の気に入った。そしてホーソーンの霊は彼等のこの話の解釈をきいて少なからざる喜びを得た事であろう。『モノスとダイモノス』も気に入った。ポーの優れた短篇「沈黙」(訳者註四)は珍しい理由で感心されたので私は驚いた。それに反して『フランケンシュタイン』(訳者註五)は余り感心されなかった。誰も真面目に考えなかった。西洋人にはこの話はいつでも一種の恐怖を抱かせるのである。それは生命の源、神の禁止の恐ろしい性質、及び自然の秘密から幕を取り去ろうとしたり、又は嫉妬深い造物者の作物をたとえ知らずになりとも嘲りでもすれば、必ず恐るべき天罰のある事などに関するヘブライの思想の影響を受けて生長発達し来った感情に大打撃を与うるからである。しかしこんな怖ろしい信仰に暗まされていない東洋人に取っては――神と人との隔てを感じないので――又人生を因果応報の一の定則で支配される多様な集合であると考えて居るので――この話の怖ろしさは更に分らない。作文で批評した物を見ると大概は喜劇的な或は半ば喜劇的なたとえ話と考えられて居る事が分かった。仕舞に或朝、私は「西洋の甚だ強い道徳的の話」をと云う要求の出たので大分当惑した。
私は不意にアーサー王の或伝説を話してその効果をみようと決心した。(これは私は危ないところへ無理に入ろうとして居る事を知っていたが)これは誰か必ず元気よく攻撃を加えるだろうと思った。教訓はむしろ十二分に「甚だ強い」のである。それでその理由で私はその結果を聞く事に好奇心をもったのである。
そこで私はサー・トマス・マローリーの『アーサーの死』の第十六章にあるサー・ボルスの話を彼等に物語った。「サー・ボルスが自分の弟のサー・ライオネルが捕えられて刺で打たれて居るのに遇うた事、又辱しめられようとした婦人に遇うた事、及びサー・ボルスが弟を捨てて少女を救った事、ライオネルが死んだ事をきいた事」などを物語った。しかし私は美しい昔の物語に現れた武士の理想を彼等に説明しようとはしなかった。これは私が物語の事実だけによって彼等が東洋風に批評を加える事を願うたからである。
その批評を彼等は次のように与えた。
厳井(訳者註六)は叫んだ。「もしキリスト教は凡ての人間は同胞であると公言して居るのが事実であればマロリーの武士の行為はキリスト教の主義にも相反しています。世界に社会がなければこんな行為は正しいかも知れません。しかし家族からできた社会の存する以上、家族の愛情はその社会の勢力でなければなりません。そしてその武士の行為は家族の愛情に反しています。随って社会にも反しています。彼の守って居る主義は全社会に反して居るばかりでなく又凡ての宗教にも反しています。又凡ての国々の道徳にも反しています」
織戸(訳者註七)は云った。「この話はたしかに不道徳です。そこに書いてある事は愛と義の私共の精神に反しています。そして私共には自然にも反して居るように思われます。義とはただ一片の義理ではなく、心から出た物でなければなりません。でなければ義ではありません。それは生まれながらの感情でなければなりません。そしてそれはどの日本人の心にもあります」
安東(訳者註八)は云った。「それはいやな話です。博愛と云っても実は兄弟の愛情を拡げた物に過ぎません。ただ知りもしない婦人を救うために自分の兄弟の死ぬのを顧みなかった人は悪人です。多分この人は私情にかられたのです」
私は云った。「いや、この人の行為には利己主義などは少しもない、英雄的行為と解釈されねばならないと云った事を君は忘れて居る」
安河内(訳者註九)は云った。「この話の解釈は宗教的でなければならないと思う。変に思われるが、しかしそれは私共が西洋の思想を充分知らないからでしょう。勿論知らない婦人を救うために自分の弟を捨てる事は私共の理解して居る正義と違っています。しかしもしその武士が清い心の人であったら何かの約束か義務のためにそうしなければならないと思ったに相違ありません。それにしても、そうするのは余程苦しい又恥ずべき事のように思われたに相違ありません。それで良心の命ずるところに反した事をして居ると感じないでは居られなかったでしょう」
私は答えた。「それはまちがっていない。しかし又こう云う事も知るべきである。即ちサー・ボルスが服従した情操は西洋社会の勇敢なる又高尚なる人々の行いを今日も支配して居る情操である。又宗教的と云う言葉の普通の意味では宗教的と云えない人々の行為でもそれに支配されて居るのである」
巌井は云った。「それでも、私共はそれを甚だ悪い情操と思います。そして私共は外の種類の社会に関する外の話を聞きたいと思います」
そこでアルケスティス(訳者註一〇)の不朽の話をしようと思いついた。その神劇に於いてヘラクレス(訳者註一一)の性格は彼等に取って特別の興味があろうとその時思った。しかし批評を聞いたら私の誤って居る事が分かった。一人もヘラクレスの事に云い及んだ者はなかった。実際、私共の勇気、意力、死を顧みぬ事の理想は直ちに日本の少年を感ぜしめない事を記憶すべき筈であった。即ち日本人はこんな性質を例外視してはいないからである。彼は勇壮を当然の事男子に付随して離るべからざる物と思って居る。女子は恐れても恥ではないが、男子は断じて恐れてはならないと云う。それから腕力の現れとしてもヘラクレスは東洋人を余り感心させない。彼等の神話には力に人性を与えた物が充満して居る。それから又日本人は力よりも熟練、早業、敏捷を遥かに貴ぶのである。日本少年には本当に巨人弁慶になりたいと心から思う者はない。しかし弁慶の勝利者、即ち細い柔らかな義経は凡ての日本少年の心になつかしい完全な武士の理想となって居るのである。
亀川(訳者註一二)が云った。
「アルケスティスの話、或は少なくともアドミータスの話は臆病と不義と不徳の話です。アドミータスの行為は言語道断です。妻の方は全く高尚で徳が高い、そんな恥知らずの男にはよすぎた妻です。私はアドミータスの父はもし子供が不肖でなかったら子供のために死ぬ事を喜んだろうと信じます。私はアドミータスの臆病なのでいやな思いをしていなかったら、子供のために喜んで死んだであろうと思います。それから又アドミータスの臣下の不忠な事はどうでしょう。王の危険を聞くや否や、彼等は宮殿へかけつけて恭々しく王の代わりに死ぬ事の許しを願うべき筈でした。王がどんなに臆病で残酷でも、そうするのが彼等の義務でした。彼等は臣下です。君の御恩で生きていたのです。しかもどんなに不忠でしたろう。こんな恥知らずの人々の居る国はすぐに亡びてしまうに違いありません。勿論話にある通り『生きるは楽し』であります。生を愛しない者はありましょうか。死ぬ事を嫌わない者はありましょうか。しかし勇敢な人は――義にあつい人でも――義務の要求する場合には自分の生命の事などは考えてもなりません」
水口(訳者註一三)は云った。この人は少し後れて来たので話の初めを聞かなかったのである。「しかし、アドミータスは多分孝行の志に導かれたのでしょう。私がアドミータスで私の臣下のうちに私の為に喜んで死ぬものがなかった時には私の妻にこう云ったろうと思います。『妻よ、私は今父を独りにして捨てる事ができない。外に子供がないから、そして孫は余り小さくて役に立たないから。それで私を思う親切があれば私の代わりに死んでくれ』」
安何内は云った。「君は話を知らないのだ。アドミータスに孝行の心などはなかった。彼は親が自分の代わりに死んでくれる事を願ったのだ」
さきの弁護人は全く驚いて叫んだ。「ああ、それは、先生、よい話ではありません」
川淵(訳者註一四)は云った。「アドミータスはどこからどこまで悪者でした。死ぬ事を恐れたから憎むべき臆病者です。自分のために臣下の死ぬ事を願ったから暴君です。自分の代わりに老父の死ぬ事を欲したから不孝者です。それから男子のくせに恐れてできもしない事を自分の妻(小さい子供のあるかよわい婦人)から求めたから不親切な夫でした。アドミータスよりも下等な者はあり得るでしょうか」
巌井が云った。「しかしアルケスティス、この婦人はどこまでも善い人でした。丁度釈迦のように子供その外何物をも捨てました。しかも大層若い人でした。どんなに真心のある勇敢な人でしょう。彼女の美貌は春の花のように朽ちも致しましょうが、美しい行為は百万年の間も記憶されましょう。彼女の魂は永久に宇宙に残るでしょう。今や彼女は形体はありません。しかし私共の生きた最も親切な教師よりももっと親切に私共を教ゆる物は形体を有しない人々、即ち清い勇ましい賢い行いをした人々の魂です」
裁判が厳し過ぎる傾きのある隈本(訳者註一五)が云った。「アドミータスの妻はただ素直であったと云うに過ぎません。この人も全く悪くない事はない。即ち死ぬ前に自分の夫の愚かな事をひどく叱責するのが彼女の最高義務でした。ところがそれをしませんでした――少なくとも先生に聞いたところだけではそれをしませんでした」
財津(訳者註一六)は云った。「西洋人がその話を立派だと思うのは私共には理解ができません。怒りたくなる事が沢山あります。そんな話を聞いて居ると私共の両親の事を思わずに居られません。明治維新の後、一時随分困難な事があった。恐らく両親が飢えにせまった事は幾度もあったでしょう。それでも私共はいつも沢山食べていました。時としては生活するだけの金も得られなかったでしょう。それでも私共は教育を受けました。私共を教育するに要した費用、私共を育てた面倒、私共に与えた慈愛、何も分からぬ幼年時代に両親にかけた心配、それ等の事を考えると私共はどんなにつくしても足りないと思います。それでそのアドミータスの話は好みません」
休憩のラッパが鳴った。私は煙草を吸いに練兵場に出かけた。やがて銃剣をつけた少数の学生が自分の側に集った――つぎの時間が兵式体操であったからである。一人は云った。「先生、今度又、作文の題を一つ出して下さい――余りやさしくないのを」
私は云った。「『最も難解の物は何ぞ』と云う題は如何だ」
川淵は云った。「その答はむずかしい事はありません。『英語の前置詞の使用法』です」
「英語を勉強する日本の学生に取ってはそうだ。しかし私はそんな特種の困難を意味したのではない。諸君が凡ての人々に解し難いと思う物について考えを書くと云う意味だ」私は云った。
安河内は尋ねた。「宇宙ですか。これは問題が大きすぎます」
織戸は云った。「私がやっと六歳の時でした。天気のよい時海岸をさまようて、いつも世界の大きな事を不思議に思いました。私共の家は海岸にありました。そののち宇宙の問題は煙のように終には消え去る物だと教えられました」
宮川(訳者註一七)は云った。「私は最大の難問題は何故人間がこの世に生きて居るかそれを解する事であると考えます。小児の生まれ落つる時から何をしますか。食べたり飲んだり喜んだり悲しんだりする。夜には眠り、朝には起きる。教育を受け、生長し、結婚し、子供をもち、年を取る。髪の毛は初め半白になり、ついで白くなる。次第次第に弱くなって――それから死ぬ。
一生のうち何をしますか。この世に於ける本当の仕事は食って飲んで寝て起きる事です。だから公民としてどんな職業をもって居るにしても、彼はこんな事を続けて行くためにのみ働いて居るのです。しかし本当に人間のこの世に来たのは何の目的あってでしょう。食うためでしょうか。飲むためでしょうか。眠るためでしょうか。毎日全く同じ事をしてそれでよく飽きない事です。不思議です。
賞められて喜び、罰せられて悲しむ。金もちになれば幸福と思い、貧乏すれば甚だつまらないと思う。境遇によって喜んだり悲しんだりするのは何故でしょう。幸も不幸も一時の物に過ぎません。何故に一所懸命に勉強するのでしょう。どんな大学者になっても死んだら何が残りますか。骨ばかりです」
宮川は級中最も快活で最も機智に富んで居る。彼の陽気な性格とこの言葉との対照が殆んど驚くべき事と思われた。しかしかように不意に来る憂愁は(殊に明治以後)全く若い東洋人の頭に時々現れる。夏の雲の影のように早く消え去るのである、西洋の青年に於けるよりは意味は浅い。日本人は思想や感情で生きないが義務で生きて居る。それでもこの屢々来て悩ます思想は歓迎し奨励すべき物ではない。
私は云った。「諸君に取ってもっとずっとよい問題は今日のようなこんな日に大空を見て起す感覚、即ち大空だと考える。実に立派ではないか」
空は世界のはてまで青い。雲の片一つない。地平線にはもやがない。大抵の日には見えないずっと遠い一団の山々も悉く立派に輝いてすき通って居るようだ。
それから神代は蒼空を見上げながら恭々しく古えの漢語を発した。
「かくの如き高き思想ありや、かくの如き広き心ありや」
「今日はどんな夏の日にもない程この上もなく綺麗だが、ただ木の葉が落ちかけて、蝉はいない」私は云った。
「先生は蝉がお好きですか」と森(訳者註一八)が尋ねた。
私は答えた。「蝉を聞いて居ると大層愉快だ。西洋には蝉はいない」
織戸は云った。「人生を蝉の一生にたとえて空蝉の世と申します。人間の歓楽や青年時代は蝉の歌ほどに短いのです。蝉の如く人間は暫く来て又行くのです」
安河内は云った。「今は蝉はいません。多分先生は悲しいと思いなさるでしょう」
野口(訳者註一九)は云った。「私は悲しいとは思いません。蝉は勉強の邪魔をします。その声を憎みます。夏蝉の声を聞くと、そして疲れて居る時などは疲労は益々増加して、眠ってしまいます。読んだり書いたり、或は考えようとしてさえその声を聞くともう何をする勇気もなくなります。そんな時にあんな虫みな死ねばよいと思います」
私は云うて見た。「とんぼは好きだろう。とんぼはちらちら飛び廻って音を立てない」
「日本人は皆とんぼが好きです」と神代は云った。「日本は御承知の通り秋津州と云われますが、とんぼの国と云う意味です」
私共はとんぼの種々の種類について語った。彼等は私の見た事のない一種のとんぼ、死人に何か不思議な関係があると云われる精霊とんぼの話をした。又余程大きな種類のとんぼ、ヤンマの事を語った。そして昔の歌に若い武士が長い髪の毛をとんぼの形にいつも結んでいたのでサムライの事をヤンマと云った事のある話をした。
ラッパが鳴り出した。将校の声はひびいた。
「集まれ――」しかし若い人々は暫くためろうて尋ねた。
「ところで、先生、何になさるのですか、――最も難解の物はと云うですか」
「いや」私は云った。「大空」
その日は終日漢語の美しさが私につきまとうて離れずに、何かの歓喜のように私の心をみたした。
「かくの如き高き思想ありや、かくの如き広き心ありや」
訳者註一 スフィンクスは女の頭と胸、犬の体、蛇の尾、鳥の翼、獅子の足、人間の声をもった怪物。ジュノーの神がテーバイを亡ぼそうとして下したのであった。そこでこのスフィンクスは謎をかけて解く事のできない者を丸呑みにしたので大恐慌が起った。テーバイの王が賞をかけてこの謎を解く者をさがした。その謎は「朝は四足、日中は二足、夕方は三足で歩く物は何」と云うのであった。エディプスは「人間」と解いたので、怪物はそれを聞くと共に、自ら頭を岩に打ちあてて死んだと云われる。エディプス自身についても別に長い話があって、ギリシャの悲劇の主人公となって居る。
訳者註二 オルフェウスはその音楽をもって河の流れをも止め、山をも動かし、猛獣をも馴らしたと云われる音楽の大天才。その妻エウリュディケ早く死して地獄にあったが、オルフェウスはその音楽の力をもってここに入り、再びその妻をこの世に連れ帰ろうとした。その件はエウリュディケは夫のあとから歩く事、オルフェウスはその地獄の最後のはてに達するまで決して後を顧みない事であった。オルフェウスは今少しのところで思わず後を顧みたので、その妻を永久に失った。
訳者註三 植物学研究に夢中になって居る或富んだイタリアの医者が自分の娘を毒のある植物で育てて見ようと思いつく。娘は非常に有毒になって、日向を散歩すると、そばに飛んで来る蝶や蚊が死んで落ちる程になった。彼女が人に触れると赤い焼鏝のように皮膚を焼く程になった(小泉八雲全集 第十三巻五〇七頁参照「アメリカ文学に就いて」参照)。
訳者註四 アラビアの話の文体で書いて、わざと未完にしてある。或失われた文書の一ページで鬼魔及び鬼魔の仕業の驚くべき世界をちらと見せて居る。その話は鬼魔が人に話したことにしてある(小泉八雲全集 第十三巻四九〇頁「アメリカ文学に就いて」参照)。
訳者註五 詩人シェリーの夫人の作。フランケンシュタインと云う学生が解剖学教室その他から骨、皮膚、筋肉等の材料を集めて来て、人体を完全に造り出すと共に、それが生命を得て、種々の罪悪を犯してフランケンシュタインをだます話。シェリー、バイロン、シェリー夫人の三人が不思議な恐ろしい話を競争して書いて見た時、シェリー夫人のこの作が最上であったと云われて居る。
訳者註六 厳井敬太郎氏(長崎県人)明治三十三年の政治科出身の法学士。大正六年頃、神奈川県内務部長の時休職となる。
訳者註七 折戸(?)不明。
訳者註八 安東俊明氏(熊本県人)明治三十一年の英法科出の法学士。札幌の弁護士、北海道著名の憲政会員。
訳者註九 安河内麻吉(福岡県人)明治三十年の英法科出身の法学士。警保局長、福岡県知事、神奈川県知事等をつとめた。
訳者註一〇 アルケスティスはアドミータスの妻。ギリシャの劇作者エウリピディスの神劇の女主人公。アポロの神がもし何人か、彼のために生命を捨てて無限の愛を示す者があれば、彼に不死の力を与うる事を約した。そこで死の神に選ばれた時、アルケスティスは喜んで夫のために犠牲となった。アドミータスはその父が僅かに残った数年を捨てて自分を救わなかった事を怒って父を罵ったので、父子の争いとなった。その時アドミータスのもとにいたヘラクレスは地獄に赴いて死の神を征服してアルケスティスを連れ帰った。エウリピディスはアルケスティスの犠牲的精神とアドミータス及びその父の利己心との対照を示した。
訳者註一一 ヘラクレス或はハーキュリーズはギリシャ、ローマの神話では非常に強い勇士で、勇気剛毅等の理想を現実にした神として崇拝せらる。
訳者註一二 亀川徳太郎氏、夭折。
訳者註一三 水口、不明。或は溝口三始氏か(明治三十二年土木工学出の工学士)
訳者註一四 川淵楠茂氏(高知県人)明治二十七年帝大法科に進みたるのち夭折。
訳者註一五 隈本繁吉氏(筑後の人)明治三十年史学科出の文学士、現高松高等商業学校長。
訳者註一六 財津(?)不明。
訳者註一七 宮川和一郎氏(後杉井と改姓)明治三十一年土木工学出の工学士。
訳者註一八 森賢吾氏(?)明治三十三年出の法学士、大蔵省官。
訳者註一九 野口弥三氏、明治三十年英法科出の法学士、現第一銀行の重役。
教師と学生との関係は少しも形式だけでない例――古えの武士の学校で昔互いに相愛した尊き名残――が一つある。漢文の老先生(訳者註一)は誰にも愛されて居る。そして青年に対する感化は甚だ大きい。一言で如何なる怒りの破裂をも静め、一笑で如何なる尊き志をも励まし得る。即ちこの人は古えの勇壮、誠実、高尚なる物の理想、即ち古日本の魂を青年に対して代表して居るからである。
秋月と云うこの人の名は、その国では有名である。この人の肖像を入れたこの人に関する小冊子(訳者註二)が出版された。昔会津の大藩に属する身分の高い武士あった。年若くして信任、権勢の地位に上った。軍隊の司令官、王侯の間の談判者、政治家、諸州の支配者、――封建時代の武士のやれる事は皆やった。軍務政務の暇ある毎にいつも人の教師であったようである。今はこんな教師もない。こんな学生もない。しかも今この人を見て、この人の下にいた騒乱好きな剣土に如何に(愛されると共に)恐れられたかを信ずる事ができない。若い時、峻厳で名高い武士が打って変って温和になった程、人の心を引きつける物はない。
封建制度が生存のために最後の戦をした時、藩公の命に応じて恐るべき戦に加わった。この戦には会津の婦人小児も加わった。しかし勇気と剣だけでは新しい戦法に勝つ事はできなかった、会津の軍勢は破れた。そして会津軍の首領の一人なる彼は長く国事犯の囚人であった。
しかしこの勝った人々は彼を尊んだ。この人が敵として戦った政府は新青年を教ゆる役に、礼を厚くしてこの人を迎えた。新青年は若い人々から西洋の科学と西洋の語学を学んだ。しかし彼はやはり支那の聖人の不朽の智慧を教えた――そして忠義、名誉、その他人間をつくる物を教えた。
この人の子供のうちで死んだ者も幾人かある。しかしこの人は淋しく感ずる事はできなかった。即ち彼の教えた者は子供と同じになって又彼を尊敬したからである。そして彼は老いて、甚だ老いて神様のように見えて来た。
美術で見る神様は仏様と少しも似ていない。この仏様より古い神様はうつむいた目つきや、虚心に黙想に耽って居るところがない。神は自然を愛する、自然の最も美しい奥にも入る、樹木の精にもなる、河や水に音をさせ、風にも乗って徘徊する。昔は人間と同じくこの地上に住んだ。そしてこの国の人々はその子孫である。神としても余程人間らしい、そして種々の性癖をもって居る。神は人間の情緒であり又人間の感覚である。しかし伝説や、伝説から生まれた美術に現れたところではこれ等の神は大概愉快にできて居る。今日の不信仰な時代に不謹慎につくられた安っぽい美術について云うのではない。神に関する古い貴い文を説明する古い美術について云うのである。勿論神の表わし方は種々違って居る。しかし神の普通の伝説的の形はと問う人があれば私は「長い白いひげをはやした白いきものと白い帯をした非常に温和な容貌の、にこにこした老人」と答える。
老教授の帯だけは黒かったが、先日私を訪問された時、丁度神道のこんな幻像に見えた。
学校で自分に遇って云った。「あなたのところに御祝事(訳者註三)があったそうです。私の参らなかったのは老年だからでも、お宅が遠いからでもありません。ただ長い間、病気していましたからです。しかし何れお伺い致します」
そこで或天気のよい午後、祝いの品々をもって参られた、――物それ自身は簡単だが王侯にも恥かしくない昔風の極めて礼儀正しい贈り物であった。即ち大枝小枝に雪のような花の咲きほこれる小さい梅の木(訳者註四)、酒の入った不思議な綺麗な竹の器、綺麗な詩を書いてある二つの巻物であった、文句は非凡の書家兼詩人の作品としてそれだけで貴い物である。さらにこの人自身の手になったので私には別段に貴いのである。私に云われた事は完全には分らない。私の務めについて優しい奨励の言葉、何か賢い強い助言、及びこの人の青年時代の不思議な話、を私は覚えて居る。しかし何れも愉快な夢のようであった。この人が只そこに居る事だけが一の愛撫であって、梅花の芳香は高天原からの微風のようであった。そして神の往来する時のように、そのようにこの人は微笑して帰った――あとに残った物は皆清められた。小さい梅花は落ちた。再び花咲くまでには今一冬待たねばならない。しかしこの空しい客座敷に何か非常に快い物が残って居るようである。恐らくはその神々しい老人の記憶だけであろうか。或はその日この人の足について見えないように入って来て彼が私を愛したと云うので暫らく私の家に止まって居る古えの霊、過去のある女神とも云う物のためであろうか。
訳者註一 この漢文の先生の名は秋月胤永。悌次郎は称、韋軒は号。現六高の漢文の教授秋月胤継氏の養父。
訳者註二 この人の古稀の祝賀会を学校で挙行し職員生徒一同の祝文詩歌を呈した。これを印刷した一小冊子『鐘西余響』の事である。この人の閲歴と愛誦する詩の作者なるが故等で学生に敬愛された。会津の藩主に従って副将として幕府のために戦ったが、乱平いたのち終身禁錮に処せられ三年程経て特旨を以て赦された。官吏になる事は辞したが大学と第一高等中学校の教師にはなった。明治二十二年に止めて退職したが、二十三年九月、平山校長に懇請されて熊本に赴任した。
訳者註三 著者の長男の誕生の節。
訳者註四 実際は梅の盆栽であった。