人之生ルルヤ也柔弱ナリ。其死スルヤ也堅強ナリ。草木之生ズルヤ也柔脆ナリ。其死スルヤ也枯槁ス。故ニ堅強者死之徒。柔弱者生之徒。是ヲ以テ兵強キトキハ則不㆑勝タ。木強キトキハ則折ル。
官立学校の構内に他の校舎とは全く構造を異にする建物がある。紙の代わりにガラスを張った障子がある外は、純粋の日本建築と云ってよい。長く広い一階建ての家で、唯だ一つの大きな室があるばかり。床は百枚の畳が分厚に敷かれてある。又此建物には日本名がついて居る――瑞邦館――「聖き国の広間」と云うことを意味する。其名を表わす漢字は、入口の上の小扁額に、皇族の一親王の手に依って書かれてある。内には何の家具もない。も一つの扁額と二つの絵画が壁に掛けてあるばかり。絵画の一は、内乱の折、忠義の為めに決死隊を組織した十七人の勇敢なる少年より成る、有名な「白虎隊」を描けるもの、他の一は、漢文の教授、秋月氏の油画肖像である。氏は会津の人で、老いて益々敬愛せられるが、若い時には有名な武士であった。其頃は武士や紳士の養成には今日よりも遥かに大なる教養を要したのである。も一つの扁額には勝伯の手で漢字が書いてあるが、其文字は「深淵な知識は最上の所有物」なりとの意味を寓する。
併し此大きな空洞の室で教えらるる知識は何であろう。それは柔術と云わるる物である。柔術とは何か。
ここで自分は断わって置かねばならぬが、自分は柔術は殆ど少しも出来ぬのである。この術は少年の時から学び初めねばならぬ。そして先ずこれならばと云う程度に習得するにも、尚お長き間、学修を続けねばならぬのである。名手となるには、優れた天分を有するとしても、七年間の不断の練習を要する。自分は柔術の精しい話は出来ぬが、ただ其原理に就て敢て概要を語ろうとするのである。
柔術とは武器なくして戦う、古武士の術である。門外漢には相撲の様に見える。柔術演習中、瑞邦館に入るならば、十人若しくは十二人の若い柔軟な学生が、素足素手で、互いに畳の上へ倒し合ってる、其周囲には一群の学友がそれを凝視して居るのを見るであろう。此時ただ妙に思われるのは室内闃として声なきことである。一語も発せられず、讃嘆のけはいも面白そうな素振りも表さず、微笑する顔さえない。絶対平静、これが柔術道場の規約の要請する所である。併し此全員の平静なことと、此大勢の沈黙せることのみが多分看者に異常の感を与うるであろう。
若し看者が本職の力士ならば、もっと目につく事があるに相違ない。彼は稽古中の青年等は、力を用うるに非常に用心深くして居る事、又握るのも、制えるのも、投げるのも一風変って居て、同時に危険な手捌きである事を見て取るだろう。非常に用心深いにも拘らず、彼は全体が危険な稽古であると判断し、西洋流の「科学的」な規則の採用を忠告したい気になるだろう。
併し此術の実行は――稽古でなく――西洋の力士が一見して推察するよりもずっと危険なのである。其処に居る師範は、華奢に見えても、普通の力士を、恐らく二分間にして不具にする事が出来るだろう。柔術は決して見せる為めの術でない。見物人を喜ばす為めの技術の練習でない。これは尤も厳密な意味に於ける自衛術である。戦術である。斯道の達人は、術を知らぬ相手に瞬く間に戦闘力を失わしむる事が出来る。彼は或る恐ろしい早技で、突然敵の肩を脱臼せしめ、関節を外し、腱を切り或は骨を折る――それも何等目にとまる努力もせずにである。彼は闘士であるばかりでない――解剖学者でもある。其上敵を殺す手捌きを知って居る――恰も電撃に依っての如くに。併し此致命的の秘術は、其濫用を殆ど不可能ならしむる底の条件の下にあらざれば、彼は之を何人にも伝授せざることを誓って居る。完全な自制心を有し、非難すべからざる道徳堅固の人にのみ伝授さるるというのが堅い慣例である。
併し自分が読者の注意を促したい事実は、柔術の達人は決して己れの力に手縁らぬという事である。彼は最大危機に臨んでも、殆ど己れの力を使用せぬのである。然らば何を用うるか。単に相手の力を用うるのである。相手の力こそ、相手を倒す唯一の武器である。柔術は敵の力に依って勝ちを制せよと教うる。敵の力が大なれば大なる程敵には不利で、己れには有利である。自分は柔術の大師範の一人(註)から、自分が愚かにも、弟子中の最上の者と想像した強壮な一学生に、此術を教うるの甚だ困難なることを聞いて、少なからず驚いた事を記憶して居る。其理由を聞けば答えて云う、「彼は己れの腕力に依頼し、それを使用するからである」と。柔術という名が既に逆らわずして勝つということを意味するのである。
註 嘉納治五郎氏の事。氏は数年前「亜細亜協会紀要」に、柔術に関する興味ある論文を寄稿した事がある。
自分の云う事は恐らく説明にはなるまい。ただ参考になるだけであろう。拳闘術で「受止め」という語は誰でも知って居る。が、此語を以て柔術の逆らわぬ手にしっくりと当てはめる訳にいかぬ。拳闘家が受け止める時は、全力を相手の衝撃に対抗せしめるのだが、柔術の達人は正しく其反対に出るのであるから。併しそれでも拳闘の受け止めと柔術の逆らわぬ手との間にはこういう似寄りがある――何れの場合に於いても此手を食う相手は自ら統制し得ざる己れの攻撃力に依って負けると云う似寄りがある。然らば大体に於いて柔術には、あらゆる撚り、扭り、押し、引きなどの場合に、一種の「受止め」を以て之に対抗すると云っても宜かろう。ただ達人は此等の攻撃に全然抵抗せぬのである。否、攻撃されるままに委すのである。そればかりではない。巧妙な早技ですかして、相手の力を極度に出させ、それに由ってわれから肩骨を外し、腕を砕き、甚だしきに至っては、頸、或は背骨を折らしむるのである。
漠然たる説明ではあるが、それでも読者は之に依って柔術の真に驚異すべき点は、其達人の最高の技術にあらずして、全技術が表わす東洋独得の思想にあることを、既に看取せられたであろう。西洋人の何人が果たして此様な奇抜な教えを編み出し得たろう――力を以て力に対抗せず、攻撃し来る敵の力を誘致して利用し、敵の力に依ってのみ敵を倒し、敵の努力に依ってのみ敵に勝てという不思議な教えを案出し得た者が西洋にあろうか。確かにそんな者はない。西洋人の心は直線にのみ働き、東洋人の心は驚くべき曲線と円をなして働くように思われる。けれども暴力を挫く手段としては何たる絶好の智恵の象徴であろう。柔術は自衛の学たるに留まらず、哲学であり、経済学であり、又倫理学であり、(自分は云うのを忘れたが、柔術訓練の大部分は全く道義的なのである)そして何よりも、東洋に此上の侵略を夢みつつある強国に依っても未だ看取せられざる、種族的天才の表現である。
二十五年前――もっと新しくも――外国人はこう考えた。日本は西洋の服装のみならず風習までも、速力の大きい我等の交通運搬の方法のみならず、我等の建築の原則までも、我等の工業や工学のみならず、我等の哲学や妄断妄説までも採用するであろうと推定した。そしてそれがいかにも道理らしく思われた。或る人の如きは実に国を挙げてやがて外国の植民地として開放せられるであろう、外国の資本は、異常な特権が与えられて、種々の産業開発に資するべく誘致せられるであろう、そして国民は遂に我等がキリスト教と称するものに突然改宗することを勅令で公布するであろう、とまで信じた。併しこんな妄信は民族の性格――その深遠な能力、その眼識、その昔ながらの独立の精神に対する、止むを得ざる、併し完全な無知より来るものである。これも日本がただ柔術を実行しつつあったのだとは何人も少しも想像しなかった。実際、当時西洋では何人も柔術に就て全く聞く所がなかったのである。
併しそれは悉く柔術であったのだ。日本は仏独両国の最高の経験に基づく軍制を採用し、其結果一朝事あらば二十五万の精兵と強力な砲兵を召集し得るようになった。又強大な海軍を興こし、其中には世界最良の巡洋艦を若干有するに至った――其組織は範を英仏に取って。仏人の指導の下に造船所をも建て、汽船を建造し、或は購求し、朝鮮、支那、マニラ、メキシコ、インド及び南洋に産物を運搬し初めた。軍用、商用の為めに鉄道を敷くこと約二千マイル。英米の助力で最安価な、併し恐らく最有効な郵便電信事業を起こした。又日本の海岸は両半球中尤もよく照明せられたものだと云われる程巧妙に灯台を建て、合衆国にも劣らぬ信号設備を調えた。更に米国から電話と電灯の最上の方式を輸入した。公立の学校は独仏米の諸国に於ける最良の結果を完全に研究した上に其組織を定めたが、完全に他の諸制度と調和を失わざらしめた。警察制度は範を仏国に取り、而かも日本特殊の社会的要求に完全に適合するように按排した。初めは鉱山、工場、砲兵工廠、鉄道等に機械を輸入し、多数の外人技師を雇い入れたが、今やそれ等の教師を解雇しつつある。併し日本が為した事及び為しつつある事は之を列挙するにさえ多くの紙数を要する。詮ずる処日本は我等の工業、我等の応用化学、我等の経済的、法制的、経験が提供する、凡ての物の中より最上のものを選択し採用したというに尽きる。そしてどの場合にも、ただ最上のもののみを利用し、必ず之を己れの要求に適するように按排したのである。
さてこれは何れも只だ模倣せんが為めに採用したのではない。之に反して日本の力の増加を助け能う物のみを、試して見て取ったのである。日本は今や殆どあらゆる外国の技術上の教授を受くるを要せざるに至った。而かも巧妙な法制に依って、其富源の凡てを確と己が手に保留する。但し日本は西洋の衣服、西洋の生活、西洋の建築、若しくは西洋の宗教などは採用しなかった。それは此等の物、特に宗教は其力を増加せずして却って減少すべかりしが故である。其鉄道と汽船航路、其電信と電話、其郵便局と通運会社、其鋼鉄砲と連発銃、其大学と工芸学校を有するにも拘らず、日本は今も一千年前と同じく東洋的であるに変わりはない。自己は少しも変わらずに居ながら、敵の力を極度に利用し得たのである。未曽有の驚くべき知的自衛法で――驚くべき国民的柔術で、日本は自己を衛りつつあり、又あったのである。
自分の前に三十余年前の写真帖が横たわって居る。日本が洋服と外国の制度の実験を始めた時に取った写真が詰まって居る。何れも武士や大名の写真である。そして、其多くは、国風の上に外国の感化が及ぼした、初期の結果を反映するものとして、歴史的価値を有する。
軍人階級が新感化を受けた最初のものであったのは当然だ。それで彼等は色々に洋服と和服の折衷を試みたらしい。此中の十数枚の写真は家来に取り巻かれた藩主の肖像であるが、皆彼等考案の特有の服を着けて居る。外国製の切れ地を用いた外国風のフロックコート、チョッキ、ずぼんを着ながらも、上衣の下には尚お絹地の長い帯を締めて居る。これは全く刀を佩す為めである。(サムライとは決して伊達に刀を差す遊蕩児ではない。又彼等の怖ろしい、精巧な刀は、腰に吊らるる様には出来てない。――且つ又大抵西洋風に佩くには長過ぎる)又服の切れ地は羅紗であるが、武士は家の紋を棄てようとしない。様々に工夫して新服装に之を適用しようとして居る。或る者は上衣の裾に白絹をかぶせ、其上に家紋を染め出し若しくは刺繡して居る――左右の裾に各々三つ宛。一同が、或は殆ど一同が光る鎖で欧州製の時計を下げて居る。中に一人は多分最近調えたらしい時計を物珍しげに眺めて居る。又一同西洋靴を穿いて居る――護謨短靴を穿いて居る。併し一人もまだあの厭わしい欧州風の帽子を被らない――これは不幸にも後年一般に用いられる様な運命にあった。彼等は尚お陣笠を被って居るのだ――丈夫な木製の被り物で赤地に金模様の蒔絵がしてある。そして此陣笠と絹帯とが、彼等の怪奇な制服の中の、唯一の美しい部分である。洋袴も上衣もしっくり合って居ず、靴は徐々に足を痛めつつある。そこで此新装の人々には云うに云われぬ窮屈そうな、だらしない、むさくるしい態度が一貫して居る。彼等は従容さを失ったのみならず、立派に見えぬ事を意識して居る。不釣合も極まれば可笑しいものだが、それ程でもなく彼等は只だ醜く痛ましいばかりだ。当時外国人で日本人は永久に彼等の美しい服装の嗜好を失うであろうと信ぜざるを得た者があったろうか。
別の写真にはもっと一層珍妙な外国影響の結果を示すものがある。ここには西洋服装の採用は肯んじないが、此新流行熱に譲歩して羽織と袴とを英国製の最も厚い最も高価な羅紗――厚いのと弾力のない為め、日本服には尤も不向きな材料――で仕立てて着て居る武士がある。最早どんな熱した火熨斗でも、延ばすことの出来ない皺が表われて居る。
此等の肖像から、新流行熱には全く留意せず、最後まで国風の軍服を脱ぎ棄てぬ、二三の旧弊家の肖像に目を転ずるのは、確かに美感の慰藉である。ここには騎馬武者の長袴がある、優れた刺繍のある陣羽織がある、裃がある、鎖帷子がある、完備せる鎧一具がある。ここには又各種の冠がある――昔から諸侯や高級武士が、儀式の折に被った、奇妙な併し厳かな被り物で――或る軽い黒布で出来た蛛網のように薄い珍しい構造の物である。此等の物には凡て威厳がある、美しさがある、或は軍戦美がある。
併し此写真帖の最後の写真には凡てのものが気圧されて了う。それは鷹のような凄い、素晴らしい眼光を有った美しい若武者で、封建時代の華やかな甲冑姿の松平豊前守である。片手は総のついた大将の采を持ち、片手は刀のめざましい𣠽の上に載って居る。兜は天工を奪う程の逸品である。胸や肩は西洋のあらゆる博物館で有名になってる鎧師が細工した鋼鉄である。陣羽織の紐は金糸を撚り合わせ、金波金龍を刺繍った、驚嘆すべき厚絹の下着は、鎧の腰から脚元まで火衣のように流れて居る。そしてこれは夢ではない――あった事実なのだ――今自分は中世の実在の一人物の、太陽が焼き付けた写真という記録を眺めつつあるのだ。此人物は鋼鉄と絹と金を着て、めざましい金緑色の玉虫の様に輝いて居る――併しこれは戦闘甲虫で、玉の色彩の眩さはあっても、全体が角と顎と威嚇だらけである。
松平豊前守が着たような、封建時代の服装の、王侯的絢爛から、過渡時代の言語道断な服装への変遷は随分大なる堕落である。国風の衣服と衣服に対する国民的嗜好とは、確かに永久に消滅の運命にあるように思われた。宮廷にさえ一時パリ風の服飾が行われた時は、軈て全国民も服制を変更せんとするものと外国人は極めてしまったのであった。事実、当時重なる市には一時的ながら洋装熱が高まって、夫れが欧州の絵入新聞に報道せられ、暫しの間、美しい日本はけばけばしいスコッチ服や、シルクハットや、燕尾服の国となり了せりと云う印象を惹起した。併し今日では、首府に於いてさえ、千人の通行人中洋装せる者は一人の割りにも達しまい。勿論制服の兵士と学生と警官とは除いてである。往日の熱は実は国民の実験を示したもの、其実験の結果が欧州人の期待に副わなかったのだ。日本は陸海軍及び警察官に、西洋風の制服の種々な様式を巧みに剪裁して採用したが、それはそんな服装がそんな職業には一番適するからである(註一)。又外国の平服も日本の官吏社会に採用せられて居る。併しこれは近代風の机と椅子を具えた欧州風の建物内に於ける勤務時間だけ着らるるのみだ(註二)。帰宅すると陸海軍の大将でも、判官でも、警部でも国服に着換える。そして最後に、小学校を除くの外、凡ての学校の教師も学生も制服を着用する事になって居る。それは学校教育は一部分軍事教練であるからである。此制服着用の義務は一時甚だ厳重であったが、今は大分弛緩した。多くの学校では、教練の時と何か儀式張った折のみに制服を着る様に規定せられて居る。九州の学校では師範学校を除き、教練のない折には、学生が国服、草履、大きな麦稈帽子を自由に着用する。併し何処でも授業時間後は、教師も学生も帰宅して国服を着、白縮緬の帯を巻きつける。
註一 此事に関して日本が為した唯一の重大な過誤は歩兵に革靴を穿からしめた事である。草履の寛濶に馴れた、そして我等の所謂魚の目や肉刺の存在を知らぬ青年の柔らかい足は、此不自然な穿き物の為めに残刻に苦しめられる。尤も長い旅行には草鞋を穿くことが許されるから、穿き物の転換という事も出来る。草鞋だと日本人は小児でさえ、殆ど疲労せずに一日三十マイルを楽に歩むことが出来るのである。
註二 高き教育ある日本人が実際自分の友人につぎの様な事を語った――真実の処、僕等は洋服が嫌いだ。僕等は或る動物が或る折に或る色を取る様に――乃ち保護色を取る様に只だ一時それを着用するのである。
然らば、手短に云うと、日本は正しく其国風の服装に還ったのである。再びそれを棄てる事はあるまいと思われる。日本服は日本の家庭生活にぴったり合ってる、唯一の服装であるのみならず、恐らくは世界中で、尤も重々しい、尤も快適な、又尤も保健的な服装であろう。或る点に於いては明治年間に、前の時代に於いてよりも国服に大なる変化があったのは事実だ。併しこれは重に士族階級の廃棄に原由する。それも様式の変化は僅少で、色合の変化が主なるものである。此民族の優れた嗜好は今でも式服に織られる絹物或は木綿物の美しい色合、色、模様に現われる。併し明治以前の着物よりは色合は薄く、色はくすんで居る――様々の形式を含める一般国民の服装も、封建時代よりは調子が大分じみになって居る。小児と若い娘の派手な衣裳とても同様である。目ざましい色の驚嘆すべき昔の衣服は民衆の生活から消え失せた。それはただ劇場でか、或は過去を保存する日本時代劇の美しい空想的な場面を描ける美しい絵本で見るばかりだ。
国服を棄てる事は、実に殆どあらゆる生活の様式を変うるという高価な必要を来たすであろう。洋服は全く日本の屋内生活に適せぬ。国風の跪坐は洋服を着ては非常に苦しく困難である。従って洋服の採用は洋風の家庭生活の採用を必然の結果とする。休息に椅子、食事に卓、暖を取るにストーブ若しくは暖炉(日本服が暖かいのでばかり、今はこんな洋風の設備が不必要なのである)床に絨氈、窓に玻璃――要するに従来日本人が無くとも済まされた無数の贅品を家庭に入れねばならぬ事になる。一体日本の家庭には家具というものがない(欧州人の所謂家具)――寝台も卓子も椅子もない。小さな書棚、或は寧ろ本箱が一つ、又襖で隠された或る隅に箪笥が一対は大抵ある。併しこんなものは西洋の家具とは似ても似つかぬものだ。概して日本室には、喫煙の為めに青銅か陶器かの小さい火鉢、季節に従って藺草の敷物或は座布団、の外何もない。ただ床にのみ画幅か花瓶がある。数千年間、日本人の生活は床の上にあった。毛布団の様に軟らかで塵一つ留めぬ清らかな床は、寝台でもあり、食卓でもあり、そして往々机でもあるのだ。尤も高さ約一尺の小さい綺麗な机があることはある。こんな生活法の非常に経済的であるのを考えると、之を棄てる事は萬あるまいと思われるし、殊に人口の夥多と生活難が増しつつある限りは。且つ又、高き文化を有する国民が――西洋侵入以前の日本人の如き――単なる模倣の精神から、祖先の風習を棄てたという様な、前例がないということも忘れてはならぬ。日本人をただ徒に模倣的だと考える者は又日本人を野蛮人だと考えるものである。処が事実、彼等は少しも模倣的でない。彼等は只だ同化、適合の才に富むのみで、それも天才と云い得る程度に達して居る。
西洋の防火的建築材料の経験を丹念に研究した結果、日本都市の建築に、多少の変化を来たすことはありそうに思われる。既に東京の或る方面には門並煉瓦建ての街路がある。併し此等の煉瓦造りの家屋にも古来の畳が敷いてある。そして其住人は祖先の家庭生活を続けて居る。未来の煉瓦造り若しくは石造の建築は、単に西洋建築の模倣たるに留まらず興味ある、新しい、そして純な東洋味を展開しむべきことは殆ど確実である。
日本人は何でも西洋の物なら盲目に讃嘆すると信じて居る人は、内地でよりも開港場では純粋な日本品(骨董を除き)を見ることが少ないであろう、日本風の建築、日本風の衣服、風俗、さては古来の宗教、神社仏閣などは滅多に見られぬであろうと思うかも知れない。併し事実は正反対である。外国風の建物はあるが、それは概して外国人の居留地で外国人の使用の為めである。但し防火的設備を要する郵便局、税関、及び少数の醸造所と製糸場は普通除外例である。併し日本建築は凡ての開港地で立派に幅を利かして居るのみならず、内地の何の市でよりも立派である。建前が高く広く、伸びて居る。其癖一層東洋風を発揮して居る。神戸、長崎、大阪、横浜などでは、本質的に、完全に、日本風な点が(精神的の特質は別として)洋風の侵入に挑戦するかの如く、悉く強調せられて居る。或る高い屋根或は露台から神戸を見渡した人は、誰れでも自分の意味する所のものの最適の例を見たであろう――十九世紀に於ける日本の港の高さ、雅味、魅力。白い條を交じえて波状に起伏する青灰色の瓦の海。破風、桟敷、其外筆舌を絶する建築上の突飛な気紛れな設計の杉材の世界がそれである。それから京都の聖都以外では、開港場に於けるよりももっと美しく古来の宗教上の祭事を見る事は出来ぬ。又神社、寺院、鳥居、凡て神道仏教の建設物の多くは日光と奈良、西京の古都を除いては、内地の都市に於いて開港場に比肩し得る処はない。否、開港地の特質を研究すればする程、日本民族の精神は、柔術の規約を超越してまで洋風の侵入に進んで屈従するものでない事を感ずる。
日本は間もなくキリスト教の採用を世界に宣言するだろうとの予想は、往時の他の予想程不道理なものではなかった。けれども今になって見ると一層不道理であったように思われる。そんな大きな期待を基づけるような前例は何処にもなかったのだ。東洋人種でキリスト教に改宗したものは未だ嘗てなかった。英国治下のインドに、旧教宣伝の大努力も遂に水泡に帰した。支那では二百余年の伝道の後、キリスト教という名さえも嫌悪せられるに至った――それも理由なしではない。西教の名で支那に対する幾回かの侵掠が行われたからである。近東の方面でも東洋民族の改宗事業はさっぱり捗らない。トルコ人、アラビア人、ムーア人或は何れの回教徒をでも改宗せしめ得る望みは露程もない。ユダヤ人改宗協会の思い出の如きはただ一笑を博するに足るばかり。併し東洋人種を度外に措いても、我等は誇るに足るべき改宗事業は為してない。近代史の範囲内ではキリスト教国は、苟くも国民的生活を維持し得るの望みある民族に、其教理を採用せしめ得た例はないのである。二三の蛮族或は滅亡しつつあるマオリ種族の間に於ける伝道の、名目計りの成功の如きが、通則であるに過ぎない(註)。那翁の所謂宣教師は政略上大いに有用なることありという、少しく皮肉な宣言にでも聴かぬ限り、我等は外国伝道会社の全事業は何の効果もなき精力と、時間と、金銭との大浪費に外ならぬという結論を避くる事が出来ぬ。
註 名目計りと云ったのは、伝道の真の目的達成は単に不可能であるという事実に基づくのである。此問題は、ハーバート・スペンサーに依ってつぎの数行に明瞭に論断されて居る。――「何処にでも特殊の教義の伴なう特殊の神学的傾向は多くの社会問題を断ずるに偏頗に流るるは避く可からず。或る一の信条を絶対的に真なりと考え、従って他の之と異なる信条を絶対的に虚為なりと考えうる者に在っては、一信条の価値は相対的のものなりとの推定を為す能わず。各宗教は大体に於いて、其宗教の存在する社会の部分的一要素なりとの考えを外道として忌み退け、彼の独断的なる神学的系統は凡ての場所、凡ての時代に適合するものなりと考う。彼は之を蛮族の中に移し植うるも適当に了解せられ、適当に帰依せられ、而して彼自身経験せるが如き結果を彼等の上に及ぼすことを疑わず。此の如き偏見に捉えらるるが故に、彼は凡て民族は其天分より高き政体を受け入るること能わざるが如く、分に過ぎたる宗教をも受け入るること能わず、強いて之を受け入れしむれば、政体と同じく、名目計りは同じくも実質は甚だしく劣等なるものに堕するという実証を閑却するなり。換言すれば彼の特殊なる神学的傾向は彼をして社会学的真理の重要なるものに盲目ならしむ」
十九世紀の最後の十年期という今日に於いては、兎に角、其理由は明白である。宗教というものは超自然に就ての一独断説である計りでない。一人種の全倫理的経験、多くの場合に於いては其賢明なる国法の基礎となりたる太古の伝説、及び其社会的発展の記録併びに結果、此等のものの綜合されたものが宗教なのである。されば宗教は本質的に種族的生活の一部分で、他の全く異なれる種族の倫理的、社会的経験に依って――換言すれば外国の宗教に由って、取って代わらるるは常道でない。又健全な社会状態にある国民は、其倫理的生活と深く契合せる信仰を自ら進んで棄てられるものでない。或る国民は其教条を改造する事はあろう。進んで他の信仰を受け入れる事さえもあろう。併し進んで古い信仰を棄てる事はあるまい。縦令其古い信仰は倫理的にも社会的にも無用の長物となって居るとしてもである。支那が仏教を入れた時、支那は古聖賢の経書をも、原始的の祖先崇拝をも棄てはしなかった。日本が仏教を入れた時も、日本は神の道を棄てなかった。古代ヨーロッパの宗教史にも同様の例は挙げられる。尤も寛容な宗教のみが、其宗教を生み出した民族以外の民族に入れられる。但しそれは既存の宗教の外に追加せられるので、既存のものに、取って代わるのではない。古代仏教伝道の大いに成功せし所以は其処に在る。仏教は他宗教を吸収はしたが取って代わる事はせなんだ。他信仰を其広大な組織の中に合併して、之に新しい釈義を与えたのである。然るに回教とキリスト教――西部キリスト教――とは始終不寛容の宗教であって、何物をも合併せず、凡てに取って代わろうとのみした。キリスト教を入れるには、特に東洋の一国に入れるには、其国在来の信仰の破壊のみならず、同じく在来の社会組織の破壞をも必然に惹起す事になる。然るに歴史の教うる所に依れば、こんな大袈裟な破壊はただ暴力に依ってのみ成就される。若し非常に進歩した社会ならば、尤も残忍な暴力を要する。過去に於いてキリスト教宣伝の重な道具であった暴力は、今でも我等が伝道の背後に存する。只だ我等は露骨な剣鋒の代わりに、金力と威嚇とを置き換えた、或は置き換えた振りをする。折々はキリスト教徒たる事の証拠に商業上の理由で其威嚇を遂行する。例せば我等は戦争に依って強要した条約の条項に於いて、宣教師を支那に強いつける。そして砲艦で彼等を掩護し、自ら進んで殺された人間の生命に、莫大な償金を強請する。だから支那は何年毎かに代償金を払わせられ、我等がキリスト教と称するものの価値を年と共に学びつつある。かくてエマースンの、真理は或る者には事実で証明せられる迄は了解せらるる事なしという金言が、最近支那の正直な抗議に依って証明せられた。其抗議というのは支那に於ける宣教師の侵害の無道を責めたものである。宣教師騒ぎは遂に純粋の商業的利益に悪影響を及ぼすであろうと云う事が発見せられなんだら、此抗議も決して傾聴されなかったであろう。
併し以上の所論にも拘らず、実際一時は日本の名目だけの改宗は可能と信ぜしむべき相当の理由があった。人は日本政府が政治上の必要に迫られて十六、七世紀の驚くべきジェシュイット伝道(註)を絶滅せしめた後、キリスト教徒という語は憎悪と軽蔑の語となった事を忘るる事は出来ぬ。
註 此伝道は一五四九年八月十五日九州の鹿児島に上陸した聖フランシスコ・ザビエルに依って開始された。面白い事にはスペイン若しくはポルトガル語のパドレの転訛バテレンという語は二世紀前に日本語となったのだが、それが今でも或る地方では民間に遺って居て魔法遣いという意味に用いられる。も一つ記すに足る面白い事は、自分は見られずに家の外の通行人を見る事の出来る一種の竹製の簾がキリシタン(クリスチャン)と呼ばれる事である。
グリフィスは十六世紀に於けるジェシュイット伝道の大なる成功は、半ばローマ旧教の外形と仏教の外形とが相似て居るに依ると説明して居る。此如才なき推定はアーネスト・サトウ氏の研究に依って確証された。(『日本亜細亜協会紀要』第二巻第二部を見よ)氏は山口の領主大内氏が伝道師に与えた「仏法の説教」を許すという免許状の模写を公にした――キリストは初めは仏教の高等なものと取り違えられたのである。併し日本から出したジェシュイット教徒の文書、或はもっと流布して居るシャルルボアの著書をでも読んだ人は、伝道の成功がこれで完全に説明されてるとは思わぬであろう。此問題は顕著な心理的現象を吾人に示すものである――恐らく宗教史上に再び反覆される事のあるまじき現象で、ヘッケルに依って伝染的と宣せられた情緒的活動の珍しい形式に似寄って居る。(ヘッケルの『中世の伝染病』を見よ)古ジェシュイット教徒は近代の伝道会社よりも遥かによく日本人の深い情緒的性質を了解して居た。そして彼等は驚くべき鋭敏さを以って、種族的生活のあらゆる源泉を研究し、それを利用することを知って居た。彼等でさえ失敗した処に現代の福音宣伝者が成功を望むのは無用である。ジェシュイット伝道の最盛時に於いてさえ、たった六十万人の信者を有したと称するに過ぎぬ。
併し其後世界は変化した。キリスト教も変化した。そして三十余の異なれるキリスト教の宗派が、日本改宗の名誉を贏ち得るに汲々した。正統不正統の重なる異説を代表する、此等多数の教条の中から、日本は確かに己が好むままの形のキリスト教を選み得たのだ。そして国内の事情も西教の輸入には何時の代よりも都合よかったのだ。社会の全組織が一時中心まで崩壊した。仏教は国教たる保護を解かれて、よろめき出した。神道も持ち堪えはむつかしそうに見えた。大武士階級は廃棄せられた。統治の組織は一変せられた。地方は戦争に依って震駭せしめられた。数百年間帷幄の後ろに在した帝は、突然前に現われ出でて臣民を驚かした。騒然たる新思想の潮は、あらゆる国風を一掃し、あらゆる信仰を破砕せんと威嚇した。そしてキリスト教の国禁は再び法律に依って解除された。事は之に留まらなかった。政府は社会再建の大努力の時に当って、キリスト教の問題を実地に研究した――丁度外国の教育、陸海軍の制度を研究したと同様に、敏活に虚心坦懐に研究した。委員を設けて外国に於ける罪悪不徳の防止に関するキリスト教の勢力を調査せしめた。但し結果は、十七世紀に於ける、蘭人ケンペルが日本人の道徳に就て下した、公平な判断を裏書するに過ぎなかった。「彼等は彼等の神に大なる尊崇の念を表し、様々の方法にて崇拝す。予は思う、行いの正しきことに於いて、生活の清きことに於いて、而して表面に現われたる信心深さに於いて、彼等は遥かにキリスト教徒を凌駕すと断言するを得と」手短に云うと、彼等は賢明にも、キリスト教は、東洋の社会情態に不適切のみならず、西洋に於いても、倫理的勢力としては、仏教が東洋に於けるよりも有効ならずと断定した。慥に「人はその父母を離れ其妻に合う」べしという教えを採用することは相互救済の精神の上に立てる、家長本位の家族的社会には、国家経営の大柔術に於いて失う所多くして得る所少なかるべきは、明らかである(註)。
註 近頃仏国の一批評家は、日本に於いて慈善事業や慈善的設備の比較的少なきは此人種が人道に欠くる所あるを証するものと断言した。併し事実は日本に於いては相互扶助の精神が、かかる設備を不必要のものと為したのである。又西洋に於いてかかる設備の多きことは、我等の文明が慈悲心よりも寧ろ不人情に富めることを証明するというのも事実である。
勅令に依って日本をキリスト教国とする望みは全く絶えた。社会の建て直しで、キリスト教をどんな手段ででも国教としようとする機運も段々減少した。今後暫くの間は、多分宣教師も、彼等の職務以外の事に立ち入るにも拘らず、大目に見られるに相違ない。併し彼等は何等の善事をも成就すまい。そして其間に彼等は彼等が利用せんと欲する者に却って利用せられるだろう。一八九四年には、日本に新教約八百人、ローマン・カソリック九十二人、グリーク・カソリック三人の宣教師が居た。然らば日本に於ける凡ての外人宣教師の費やす総費用は一年一百万ドル以下ではあるまい――恐らくは以上であろう。此大支出の結果として、新教の諸派は五万の信者を得、両カソリックも略々同数を得たと称する――但し三千九百九十万の不信者を残してである。宣教師の報告は厳密に批評せぬのが風習になって居るが実は悪い風習だ。其風習に背いて自分は露骨に云うが、以上の数字でさえ全く当てにはならぬ。ローマン・カソリックの宣教師は、遥かに小なる資金で、彼等の競争者と同じ程の功績を挙げたと称するのは注目に値する。そして彼等の敵さえも其功績の確実さを承認するのであるが、彼等は先ず小児の教化より始めるのは確かに合理的だ。併し宣教師の報告に全く疑いを懐かぬ訳には行かぬ。それは最下級の日本人の中には、金銭の補助若しくは職業を得る為めに改宗を誓うことを辞せぬ者が沢山あるのを知ってるからである。又貧少年の中には外国語の教授を受ける為めに信者を気取る者もある。又一時信者となった上で、公然彼等の旧来の神々に復帰する青年のある事も絶えず聞く所である。又洪水、飢饉、地震などの時、宣教師が外国よりの寄贈品を分配したと思うと、直に多数の改宗者を得た報告がある。それを見ると改宗者の誠意が疑わるるのみならず、伝道者の道義心をも疑わざるを得ぬ。とはいえ日本に一年一百万ドルの割で百年間振り撒いたら大なる結果が得らるるであろう。但し其結果の品質は想像するに難くないが、感服は出来ぬであろう。そして土着の宗教は自衛の為めの教化力も資金も共に微弱なのであるから、其点大いに他の侵蝕を誘発する。幸い今や帝国政府は教育上仏教を補助せんとするの様子が見えるが全くの空頼みでもあるまい。一方キリスト教国は遠からず其尤も富める伝道会社も大きな相互扶助会社と変形しつつあることを認めるだろうという、少なくとも微かな可能性がある。
日本は、明治の年代が始まると間もなく、内地を外国の工業的企業に開放するであろうとの説は、キリスト教に改宗するであろうとの夢と同様に、はかなく消えて了った。日本は事実上外人の移住に閉鎖されたままであった。今でも閉鎖されて居る。政府自らは保守的政策を固守せんとはせず、条約を改正して日本を大規模な外資輸入の新市場たらしめようと種々に画策した。併し結果は国民の進路は政道に依ってのみ左右せらるべきでない、それよりも誤謬に陥り易からざる或る物――即ち民族本能に依って指導せらるるものであることを証明した。
世界最大の一哲学者は、一八六七年(慶応三年)に書いた著書の中でこんな判断を下した。「其型式の極限まで発展し尽くし、均衡不安定の域に達した社会に、崩壊の始まる方式の好例は日本に依って供給された。人民が経営組織して仕上げた建物は、新たな外力に触れざりし限りは殆ど不変不動の状態を維持した。併し欧州文明の衝撃を受くるや否や――一部は武力的侵入の、一部は商業的動機の、又一部は思想的感化の衝撃を受くるや否や此建物はばらばらに崩れ始めた。今は政治的崩壊が進行中である。多分間もなく政治的再建が起こるであろう。併し、それはどうあろうと、外力に依ってこれまで惹起された変化は崩壊への変化である――作成運動から破壊運動への変化である(註)」スペンサー氏の所謂政治的再建は速やかに起こったのみならず、其作成的進行が甚だしく又突然に妨害せられざる限り、望ましき限りの建て直しなることは殆ど確実と思われた。併しそれが条約改正に依って妨害せられるかどうかは甚だ疑わしい問題のように思われた。或る日本の政治家は、外人の内地雑居の為めに凡ての障害を除こうと熱心に運動したが、或る者は之に反して内地雑居は、未だ安定せぬ社会組織の中へ撹乱的分子を輸入するもので、新たな崩壊を来たすこと請合であると感じた。前者の趣旨は現条約を慎重に改正して雑居を許せば、帝国の収入は増加するに相違なく、而かも入り込み来る外人の数は極めて少数であろうというにあった。併し保守的思想家は、国を外人に開放する真の危険は外にある、多数流入の危険ではないと考えた。そして此点に於いて種族本能は之に唱和した。それはただ漠然と危険を感知したのであるが、たしかに真理に触れて居た。
註 スペンサー『第一原理』第二版一七八節。
其真理には二側面がある。其一側面は西洋側ので、アメリカ人には能く知られて居る筈だ。西洋人は平等の勝負では、どうしても生存競争に於いて、東洋人に叶わぬ事を知った。彼は豪州に於いても合衆国に於いても、東洋人の移住を防止する法律を通過する事に依って此事実を十分に白状した。それにも拘らず支那日本の移住民へ加えた侮辱に対して、莫迦らしい多くの道義的理由を述べ立てた。併し真の理由はただつぎの数語に尽きる。――「東洋人は西洋人よりも安価に生活し得る」然るに日本に於ける、他の一側面の理由はこういう風に述べる事が出来る――「西洋人は或る都合よき条件の下に、東洋人を圧倒する事が出来る(註)」都合よき条件の一は気候の温和な事である。も一つの条件はそれよりも重要な条件で、西洋人は競争の権利を悉く具備する上に、攻勢を取る力を有するということである。彼は其力を用うる積りであるかどうかという事は常識的論点でない。彼はそれを用うることが出来るかどうかが真の論点だ。用うることが出来るとなると、彼が将来の攻略的方針の性質は、工業的か、財政的か、政治的か、或は三者を打って一丸となしたものか、などと云う議論は全く時間の浪費であるだろう。西洋人は、結局反対者を粉砕し、資本の大合同に依って競争を麻痺せしめ、富源を専有し、生活の標準を土着の人民の力以上に高める事に依って、日本民族を押し除け、己れ之に取って代わらぬまでも、之を勝手に統御するの手段方法を見出すに至るかも知れぬという事を知れば十分である。アングロ・サクソンの統治下に、幾多の劣弱な民族が或は滅び或は亡びつつある処もあるのである。日本の様な貧乏な国に於いては、外資の輸入だけでも、国家の危険を生み出さぬと誰れが保証し得ようか。勿論日本は西洋の一強国に依って征服せられるのを恐れるには及ばない。如何なる一外国に対してでも、本土に依って、己れを守る事は出来る。又強国の連合軍の侵入の危険に面する事もあるまい。西洋諸国間の嫉妬は、土地攻略の目的でばかりの侵掠を不可能ならしむるであろう。併し余り早く内地を西洋人の移住に開放した為めに、ハワイの運命に陥ることなきやという事――土地は外国人の所有に帰し、政治は外国人の勢力に依って按排せられ、独立は有名無実となり、祖先の領土は遂に、一種の混合民族より成る、工業的共和国と変形せられはせぬかということは日本の恐るる所で、これは尤もの事である。
註 ここに東洋人というのは勿論日本人の事である。西洋人が支那人に打ち勝とうとは、数の上の不権衡がどれ程であろうと、自分には信ぜられぬ。日本人でも支那人と競争する事の出来ぬのを認めて居る。無条件の内地雑居に反対する最上の論拠の一は、支那移住民の危険なる事である。
以上は日支戦争(編者註一)の起こる前迄、両派に別かれて猛烈に論評された論旨であった。其間政府は困難な協議に時を移した。反動的国粋論を排して国を開放するのは非常に危険だ、併し開放せずして条約を改正するのは不可能に思われた。西洋諸強国の日本に対する圧迫は、彼等の敵意ある連合が、外交に依り若しくは兵力に依って妨げられざる限り、継続することは明らかであった。此窮境を救ったのは青木(編者註二)の敏腕に依って為された英国との新条約であった。此条約に依れば国は開放せられる。併し英国人は土地を所有する事が出来ぬ。借りるにしても、日本の法律に従えば、賃貸人の死亡と共に消滅する賃貸期間だけ土地を保有する事が出来るのである。沿岸航海は彼等に許可されぬ――旧来の開港場にまでさえである。そして其他の貿易は重税を課せられる。居留地は日本に返還され、英国の移住者は悉く日本の司法権の下に移される。此条約に依ると英国は凡てを失い、日本は凡てを得るのである。此の条件が始めて公示された時、英国商人は、茫然自失、母国に売られた――法律的に手足を縛られ、奴隷として東洋に引き渡されたと公言した。或る者は此条約が施行せられぬ中に日本を去ろうという決心を述べた。日本は慥に外交の成功を祝してよい。国は開放せられるには相違ない。併し外国資本の投資を求むるものを防ぐのみならず、既に存在する資本をまで駆逐する様な条項が設けられたのである。同様な条件が他の列強からも得られるとすると、日本は不利に締結された旧条約に依って失った所のものを、悉く回復して尚お余りある訳だ。青木案は確かに外交に於ける柔術の奥の手を示すものである。
編者註一 日清戦争のこと。
編者註二 青木周蔵(一八四四年三月三日-一九一四年二月六日)。外相、駐英大使として一八九四年の日英通商航海条約締結(不平等条約改正)に尽力した。
併し何人も、此条約若しくは他の新条約が実施せられぬ中に、何事か起こるかは予言する事が出来ぬ。日本が柔術に依って結局其目的を悉く果たし得るかどうかは尚お不明である。――たとい歴史上、非常な劣勢の地位に居ながら、こんな勇気と才能を発揮した人種はなかったにしても。日本が其陸軍を欧州の或る二三の国と匹敵し得る迄に発展させたのは、まだ老人でもない人でさえ記憶する程近来の事である。工業的には速やかに東洋の市場で欧州の競争者となりつつある。教育上には、西洋の何れの国よりも、より安価な、併しより効力なきにあらざる学校制度を設けて、既に進歩の前線に立った。そしてこれは、不正な旧条約に依って、年々絶えず利益を奪われながら、洪水と地震とで莫大な損失をしながら、国内の政争に悩まされながら、国民の魂を掘り崩そうとする改宗教唆者の努力にも拘らず、又人民の非常な貧窮にも拘らず、成し遂げた仕事なのである。
日本が若し其の光栄ある目的を果たさぬような事があれば、其不運な成行は確かに国民精神の欠乏に依るものではなかろう。其精神は日本は近代に比類を絶する程度に有して居る――愛国心という陳腐な語はそれを表わすに全く無力である程度に有して居る。心理学者は日本人に個性の欠如或は欠乏せることを如何に論じようとも、国民としての日本は我等よりも遥かに強大な個性を有することに疑いはない。我等は寧ろ西洋の文明は個性を養い過ぎて、国民感を破壊したのではないかと疑いたくなる。
国家に対する義務という事には全国民ただ一つ心である。小学生でも此事に就て問わるれば、「天皇に対する日本人の義務は、我が国を富強にし、国家の独立を擁護持続するに努力する事だ」と答えるであろう。凡ての日本人は危険を知って居る。凡てが之に当たるように精神的物質的に訓練されて居る。あらゆる公立学校は其学生の軍事教練の予備知識を授ける。あらゆる都市には学校兵士がある。正式の練兵の出来ぬ幼い小児は毎日古い忠君愛国の歌と近代の軍歌の合唱を教えられる。新たな愛国者の歌が一定の時に作曲される。そして政府の同意を得て、学校と兵営とに配付せられる。自分が教えて居る学校で四百人の学生が此種の歌を歌うのを聞くのは全く愉快だ。こんな時には学生は皆制服で軍隊式に整列させられる。指揮する士官が「足踏み」の命を下すと凡ての足が太鼓のような音を立てて一斉に床を踏み始める。そして音頭取りが先ず一節を歌うと全員が勇ましくそれを繰り返す。各行の最後の音節を必ず妙に高調するので、恰も小銃の一斉射撃の様に聞こゆる。歌い方は甚だしく東洋的だが又甚だしく感銘的で、一語一語に旧日本の勇猛な精神が躍って居る。併しそれよりも更に感銘的なのは兵士が同様な歌を歌う時である。現に自分が之(註)を書いて居る瞬間にも、熊本の古城から雷の轟くように、八千の兵士の夕べの歌が、長い優しい物悲げな幾十の喇叭の音と雑じって聞こゆるのである。
註 この一文は一八九三年に草したのである。
政府は忠君愛国の精神を維持する努力を決して弛めない。此貴い目的の為めに新しい国祭日が近頃定められた。旧来の祭日も年と共に益々盛んに祝せられる。天長節には国内の凡ての官公立学校凡ての官衙では必ず天皇陛下のお写真に対して、折に合いたる唱歌と儀式とを以て、厳かな拝賀式(註一)が挙げられる。時に宣教師に教唆されて、己れはキリスト教徒であるという莫迦らしい理由で、此簡単な忠誠と感謝の礼を拒む学生が現われる。其結果は同輩から絶交せられ、遂には不愉快の余り学校にも居悪くなるのが常である。すると宣教師は本国の同宗派の新聞に、日本に於けるキリスト教徒の迫害という話を報告する。そして其理由は「皇帝(註二)の偶像を崇拝することを拒める為め」と称する。こんな出来事は勿論偶にしかない。そして外国宣教師が彼等の使命の真の目的を破壊する遣り口の一斑を示すだけである。
註一 陛下の御肖像を拝する儀式は、宮中で拝謁の時の儀式を其まま実行するだけである。先ず一礼し、三歩進んで敬礼、更に三歩進んで最敬礼をする。御前を罷り出る時は、賜謁者は後退りをしながら前の様に再び三度敬礼するのである。
註二 此一節には立派な証拠がある。
彼等が日本の国民的精神、日本の宗教、日本の道徳は勿論、日本の服装風習までも狂信的に攻撃した結果だろうと思われるのは、近頃日本人キリスト教徒に依ってなされた国民的感情の異常な表現である。或る者は公然と外国宣教師の駐在を謝絶し、精神に於いて根本的に日本的な、根本的に国民的な、新しい特殊なキリスト教を作り出そうという希望を発表した。又或る者は更に進んで、凡ての伝道学校、教会及び現在日本人の名義に依って所有せられる凡ての財産を、名義のみならず事実に於いても日本人キリスト教徒に引き渡し、以て彼等が公言する動機の純真なることを証せよと要求する(註)。そして事実伝道学校は全く日本人の管理に引き渡すの止むを得ざることは、既に大抵了解せられた。
註 日本の法律に叶わせる為め或は法律をくぐる為めに。
自分は旧著に於いて、全国民が政府の教育上の努力と目的とをめざましい熱誠を以て助成した事を述べた(註一)。之に劣らぬ熱心と克己とが国防の経営に於いても示された。天皇親ら軍艦の新調に御手元金の大部を割いて範を垂れられたので、同じ目的の為めに、凡ての官吏の俸給の十分の一を献納せしめる法令が出ても怨言などは少しも起こらなかった。あらゆる陸海軍士官、あらゆる教授教師、其外殆ど凡ての官衙の使用人はかくして毎月海軍へ献納金を納めるのである(註二)。大臣、貴族、国会議員等も、尤も低い郵便局書記と同様に其数には漏れぬのである。此法令に依る献納金は六年継続の筈であるが、此外にも国内を通じて富裕な地主、商人、銀行家等が進んで巨万の献納金を為した。これは日本が国家を救う為めには一日も早く兵を強うせねばならぬのに、外部の圧迫は益々甚だしく、少しも遅延を許さぬからの事である。日本の努力は殆ど虚言の様である。其成功も不可能とは思われない。併し形勢は日本の為めに甚だしく不利である。日本は遂に――蹉跌するやも図られぬ。果たして蹉跌するだろうか。予言は甚だむつかしい。併し蹉跌するにしても、必ずやそれは国民精神の衰弱せる結果ではない。それは大抵政治的誤謬――無謀な自信の結果として起こるであろうと見る方が真に近い。
註一 『知られぬ日本の面影』を見よ。
註二 郵便脚夫及び巡査は除外された。併し巡査の俸給は箇月約六円に過ぎず、郵便脚夫は更にそれよりも少ないのである。
尚お一つ残って居る疑問は、此吸収、此同化、此反動の真中で、日本の旧道徳はどんな運命の下にあるかという事である。之が解答は自分が最近に一大学生と交わしたつぎの談話の中に一部分暗示せられて居ると思う。これは記憶に手縁って書いたので、逐語的に精確ではないが、新時代人の、思想を代表するものとして――神々の消滅の証言として興味がある――
「先生、先生が初めて日本へお出の時、日本人をどう御覧になりましたか、何卒率直にお話し下さい」
「今の若い日本人の事ですか」
「いいえ」
「そんなら今でも昔の習慣に従い、昔の礼式を守って居る人々――君の以前の漢文の先生の様な、今でも昔の武士気質を存して居る、愉快な老人の事ですか」
「左様です。A――先生は理想的の武士です。彼様人の事です」
「僕は彼様な老人を善いもの貴いものの限りに思いました。僕には丁度日本の神様の様に見えました」
「今でも其様にお考えですか」
「そうです。若い日本人を見れば見る程、昔の日本人を益々嘆美します」
「我々とても嘆美します。併し先生は外国人として彼等の欠点をもお認めになった筈と存じますが」
「どんな欠点ですか」
「西洋流の実際的知識の欠乏です」
「併し或る文明に属する人を、系統の全く異なる他の文明の標準で判断するのは正当でありません。或る人が其人の属する国の文明を完全に代表すればする程、我々は其人を市民として又紳士として益々尊重せねばならぬと思います。旧日本人は道義的に甚だ高かった彼等自身の標準で判断すれば殆ど完全な人の様に僕には見えます」
「どういう点で」
「親切、礼譲、俠気、克己、献身的精神、孝行、信義の諸点、及び足ることを知るという美風などで」
「併しそういう諸点は、それだけで西洋流の生活の競争に実地の成功を収めることが出来ましょうか」
「確とそうも云われぬが、其中の或るものは助けになるでしょう」
「西洋流の生活で実地の成功に真に必要な性能こそ、旧日本人に欠けて居る性能ではないでしょうか」
「そうでしょう」
「日本の旧社会は先生のお讃めになる、非利己心、礼譲、仁義などの徳を養成しましたが、其代わり個性を犠牲に供しました。然るに西洋の社会は無制限の競争で、個性を養成しました――思想、行動の競争で」
「それはその通りです」
「併し日本が諸国民の間に其地位を維持し得る為めには、西洋の工業、商業の方法を学ばねばなりません。日本の将来は一に懸かって工業の発展に在ります。然るに我々が祖先の道徳慣習を墨守して居たのでは何の発展も出来ません」
「何故ですか」
「西洋と競争の出来ぬ事は破滅を意味します。併し西洋と競争するには、西洋の方式に則らねばなりません。然るに旧道徳は之と矛盾します」
「多分そうでしょう」
「それに疑いはないと思います。他人の仕事に障るような利益を求めてはならぬという観念に妨げられては、大規模な仕事は出来ません。然るに、競争に制限のない処では、全くの慈悲深さから競争を躊躇する様な人間は失敗するに極って居ます。競争の法則は強き者、活動する者は勝ち、弱き者、愚かな者、恬淡なる者は敗るるのであります。併し日本の旧道徳はこんな競争を罪悪視しました」
「それはそうです」
「そんなら、先生、旧道徳は如何によくても、それを守って居たのでは、我々は工業上の大進歩も出来ませず、国家の独立を維持する事さえ出来ぬではありませんか。我々は我々の過去を棄てる外ありません。道徳に代うるに法律を以てする外ありません」
「併しそれはよい代わりではない」
「英国の物質的強大を手本にして判断してよいならば、西洋ではそれが至ってよい代わりでありました。我々は日本に於いても情緒的に道義的であることを止めて、理性的に道義的となるようにせねばなりません。法律の理性的道義を知ることは、夫だけで道義を知ることになります」
「君達や宇宙の法則を研究する人々に取っては、或はそれで宜かろう。併し一般民衆はどうなる」
「彼等は古い宗教を守ろうとするでしょう。神仏の信頼を続けるでしょう。併し恐らく彼等にも生活は益々困難になるでしょう。彼等は昔は幸福でした」
註 右の一文は二年前に書いたのであるが、其後起こった政治上の事件、新条約調印は昨年之を訂正するの止むを得ざるに至らしめた。然るに今其校正中、支那との戦争が起こった為め更に又一言付記せざるを得ざるに至った。一八九三年(明治二十六年)には予言し得なかった事も一八九五年には全世界が驚嘆を以て認めるに至った。日本は柔術に於いて勝ったのである。日本の自治権は実際上回復せられ、文明国としての地位は確立されたようだ。日本は永久に西洋の保護から脱した。其芸術でも其徳操でも得ることの出来なかったものを、新しい科学的の攻撃力、破壊力の最初の発現で獲得した。
日本は此戦争の為めに長らく秘密に大準備をなしたとか、開戦の口実は薄弱だとか、随分軽率な批評があった。併し自分は日本が戦備を修めた目的は前章に説いた所に外ならなかったと信ずる。日本が二十五年間絶えず兵力を培養したのは全く其独立を回復する為めであった。併し其間に外国の圧力に対して打った人民の反動の脈搏は――一打毎に次第に高く――国民が伸びつつある力の自覚と、条約に対して次第に増加する憤慨とを政府に知覚せしめた。一八九三――九四年の反動は衆議院で大分切迫した形を取ったので、遂に議会解散が差し当っての必要事件となった。併し重ね重ねの議会解散も只だ問題を延期するに留まった。其後漸く新条約の成立と突然支那に対する兵力の放散とで此危機は避けられたのであった。日本に対する西洋諸国の無慈悲な工業的幷びに政治的の圧迫が此戦争を促成した事は明らかではあるまいか――ただ抵抗力が最も少ない方面に力が漏出したのである。幸いに其力の漏出は効果を挙げる事が出来た。日本は世界を相手にして其地位を守り得ることを証明した。日本は西洋との工業的関係を、更に此上圧迫せられぬ限り断絶しようとは望まぬ。併し帝国陸軍の復活で、西洋が日本を威圧する――直接にも間接にも――時代は断然過ぎ去った。物の自然の順序として、更に排外的反動が期待されぬでもない――その反動は必ずしも乱暴な或は不道理なものではあるまい。が、国民的個性の強固な主張を体現したものであろう。幾世紀となく専制政治に馴れた国民が為した立憲政治の実験の結果の不確かさを考えると、政体の変化さえ幾らかあり得べからざる事でもない。併しサー・ヘンリー・パークスが、日本は南米共和国の如きものとなるだろうと云った予言の外れたことを思うと、此の驚くべき謎的な人種の将来を予想しようとするのは危険である。
戦争は未だ終わらぬ事は事実だ――併し日本が終極の勝利を得ることは疑いない――支那に革命の偉大な機運を与える事を斟酌して見ても。世界は既に不安を以て、つぎに何事が起こるかと心配して居る。多分此最も平和な最も保守的な支那国民をして、日本幷びに西洋の圧迫の下に、自衛上西洋の戦術を能く学ぶの止むを得ざるに至らしむるであろう。然る後に軍事上に支那の大覚醒が来るであろう。すると新日本と同じ事情の下に支那は多分其兵力を南と西に向けるであろう。最後の結果がどうなるかは、ドクトル・ペアソンの近著『国民性』を見るがよい。
柔術は支那で発明せられた術であることを忘れてはならぬ。而して西洋はこれから支那を相手にせねばならぬのだ――日本の師匠なる支那――征服の嵐が後から後からと、ただ葦間を分ける風の様に、其頭上を通過しても、幾千万の住民には些の影響を与え得なかった支那をである。実際支那は、強制されて日本の様に柔術に依って其保全を図るの止むを得ざるに至るかも知れぬ、併し其驚くべき柔術の秘極は全世界に尤も重大な結果を及ぼすかも知れぬ。西洋が植民の為めに弱小人種を処理するに犯した蚕食、強奪、鏖殺の罪を責罰するの任は、支那に保留されてあるのかも知れぬ。
既に或る思想家は――閑却する事の出来ぬ英仏の思想家――二大植民国の経験より結論して、世界は決して西洋民族に依って悉く統御せられぬであろう、将来は寧ろ東洋に属すると予言した。又長らく東洋に滞留して、我等と全く思想を異にする不可思議な民族の一と皮めくった下面を見ることを――其民族の生の潮の深さと強さを了解することを――其測るべからざる同化心を見抜くことを――其南北両極間の殆ど如何なる環境にも適合し行く力を認知することを学んだ多くの人々も之と同様の確信を有するのである。こういう人々の考えでは世界の人口の三分の一以上を包含する此人種を絶滅せざる限り、我等が文明の将来をさえ保証し得ぬというのである。
恐らく最近ドクトル・ペアソンが断言した様に、西洋人の膨脹侵略の長い歴史は今や其終末に近づきつつあるのである。恐らく我等の文明は世界を帯の様に巻いたが其結果はただ我等の破壊術、我等の工業競争術を、我等の為めよりも我等を脅かす為めに用いんとする民族に学修せしめたに過ぎない。しかも之を為す為めに世界の大部分を属国にした――それ程大きな力が入用であったのだ。我等は多分そうせざるを得なかったのであろう。その故は我等が創造した社会という機関は昔噺の鬼のように、それに最早授ける仕事がなくなるや否や我等を食わんと脅かすからである。
思えば我等の文明は驚くべき創作物である――益々深まる苦痛の深淵から益々高まり行くのである。多くの人には驚きよりも更に奇怪なりという感を与える。社会的地震で突然崩れるかも知れぬとは、文明の頂上に坐る人々の久しい間の悪夢であった。其道徳的基礎の故に社会的建造物として此文明は長持ちはすまいとは東洋の賢者の教うる所である。
此文明が生み出した結果は、此地球上に人間が其生存の劇を十分に演じ尽くす迄滅亡せぬ事は確かであろう。此文明は過去を復活さした――死せる国語を蘇生せしめた――自然から其貴重な秘訣を無数にもぎとった――星辰を分析し、時と空間とを征服した――見えぬ物を見えざるを得ぬようにして、無窮の帳の外のあらゆる帳を引きめくった――数千百の学問を建設して、近代人の脳髄を中世人の頭蓋骨には入り切れぬ程膨脹せしめた――尤も厭うべき種類の個性をも進展せしめたが同時に尤も貴い個性をも進展せしめた――他の時代には嘗てなかった利己主義と苦悩とを発展さしたが、未だ嘗て人間に知られざりし程の尤も細かい同情と尤も崇高い情緒をも発展さした。知的には此文明は星の高さよりも高く生長したのである。兎に角、此文明が将来に及ぼす影響はギリシャ文明が其後の時代に及ぼした影響よりも遥かに大であろうとは信ぜまいとしても信ぜぬ訳に行かぬのである。
併しながら此文明は年と共に益々、「或る組織体は複雑になればなる程、致命的の傷害を益々受け易くなる」という法則を例証する。其力が増すに従って、其中に、より深い、より鋭い、より細かく分岐した神経が発達して、あらゆる激動、傷害――あらゆる変化の外力を、感ずる様になる。もう既に世界の遠い果てに起こった旱魃や飢饉の結果、極小さい原料供給の中心地の破壊、鉱山の枯渇、商業上の静動脈たる運輸のほんの一時的中止などでも、忽ち混乱を起こして偉大な建造物の各部分に苦痛の衝動を伝えるのである。然るに此建造物には外力の刺撃に応じて内部に変化を起こし之に対抗する驚くべき能力を有したのであるが、それも今やそれとは全く異なる性質の内的変化に依って危うせられるように見ゆるのである。我等の文明は個人を益々発展させつつある事は確かであるが、人工の熱、色付けた光、及び化学的肥料で、植物をガラス箱の中で育てるように発展させるのではあるまいか。それは長く維持することの出来ない境遇に特に適応し得るように、幾百万の人間を速成的に養成してあるのではあるまいか――即ち少数者を無限に贅沢な境遇に、而して多数者を鉄と蒸気の残酷な奴隷的境遇に。此疑問に対してはこういう答が与えられてあった、――社会の改変で危険に備うる方法と凡ての損害を償う方法とを得らるるであろうと。少なくとも一時は社会の改革が奇跡を演ずるであろうことは殆ど確実である。併し我等の将来に関する終極的の問題は如何なる社会改良でも巧く解くことは出来ぬように思われる――絶対に完全な共産主義の社会が建設せられると仮定しても――というのは、高等民族の運命は自然力の将来の経済に於ける彼等の真価に依って決せられるものであるからである。「我等は優等人種でないか」との問には力強く「然り」と答え得る。併し此の肯定は「我等は生存の適者であるか」という、更に一層重要な問に対する満足な解答にはならぬであろう。
抑も生存の適者たる資格は何に在る。それはあらゆる環境に自己を適合せしむる能力にある、予知し得ざる事物に対して臨機応変の処置を執り得る技術に在る、――凡て不利なる自然力に対抗し、之を統御する天賦の力量に在る。決して我等自ら作成したる人工的環境に、即ち我等自身の製造にかかる変態的の情勢に自己を適合せしむる能力に在るのではない――全くただ単なる生きる力に在るのである。而して此単なる生活力に於いては我等の所謂高等民族は極東の民族に劣ること甚だしい。西洋人の体力と知力とは東洋人を凌駕するけれども、彼等は此民族的優秀さと全く釣り合わぬ生活費に於いてのみ生活し得るのである。処が東洋人は米の飯を食いつつ我等が科学の結果を研究し熟達するの能力あることを示した。又同じ簡単な食物で我等が尤も複雑な発明品を利用したり製造したりすることを学び得るのである。然るに西洋人は二十人の東洋人を生活さするに足るだけの費用をかけぬと一人が生きる事さえ出来ぬのである。我等が優秀さの中に我等が致命的な弱点が潜むのである。民族競争と人口夥多の圧迫が来ること確実なる将来に於いて、我等の肉体という機関は之を運転するのに到底割りに合わぬ薪炭を要するのである。
人間の出現前には又恐らく出現後にも、今は絶滅して居る種々の巨大な驚くべき動物が此地球上に生存して居た。彼等は悉く外敵の攻撃に依って亡ぼされたものではない。其多くは地球の恵沢が段々減少する時代に彼等の体軀が余りに消費的であるばかりに自然に滅亡したように思われる。丁度その様に西洋民族は彼等の生活費の故に滅亡するということになるかも知れぬ。乃ち彼等は其事業の極限を仕尽くした後、此世界の表面から姿を消し、もっと生存に適した人種に依って取って代わらるるかも知れぬ。
我等が丁度弱小種族を、ただ彼等よりも贅沢に生活することに依り――殆ど無意識に、彼等の幸福に必要なる凡ての物を専有し吸収する事に依り絶滅せしめた様に、此度は我等自身が、我等よりも安価に生活し得る、我等のあらゆる必要品を専有し得る民族に依って遂に絶滅せしめられるかも知れぬ――即ち我等よりも忍耐に富み、克己心に富み、繁殖力強く、自然の恩恵を浪費すること少なき民族に依って。而して此等の民族は疑いもなく我等の知識を承継し、我等の有用な発明を採用し、我等の工業の優れたるものを続行するであろう――多分我等の学問芸術の後世に伝うべき価値あるものを永久に伝えるであろう。併し彼等は我等の消失を別段惜しみもせぬこと丁度我等が恐龍や魚龍の絶滅を見ると同様であろう。