統一科学の部門化, オットー・ノイラート

主要な方法の中立性


メンデル学説の本質部分は、「生物」の特殊性を抜きにして論じることができる。例えば、(豆などの)特定の要素集団が、いわば「分子運動」をすることや、それらの性質(赤いとか白いとか)がどのように分布しており、またどのように関係しているか、ということについて論じることができる。

ブラウン運動が発見された当初、これは生物学的事実だと考えられた。その頃この現象について行なわれた幾つもの正当な記述は、この運動を統計的な微視的物理学の枠組みに位置付ける現代理論が登場した後でも、不適切なものにはならない。

ケプラーの諸法則は、膨大な量の観察に合致している。もし仮に、惑星が微生物から構成されていることが判明したとしても、この諸法則は変化しない。ケプラーの考えでは、生物(天使)が惑星を誘導し、惑星は文字通り天体の調和に従って動くことになっていた。彼は、「天体のメロディー」が、楽譜とプラトンの単純な地理体系に基づく惑星体系から成るメロディーであることを証明しようとしていた。ケプラーの諸法則は、天文学者がこのアイデアを科学作品のリズムに使うのをやめた後でも変わらない。つまり彼の諸法則は、天文学的現象が生物学的か非生物学的かという問題から「中立」なのである。

地理学において「地理学は地球の構造を扱う」という単純な言明から出発できるように、天文学においても「天文学は星や銀河などを扱う」という単純な言明から出発できる。こういう言明は、特定の理論をあらかじめ締め出すような仮定を一切含まないので、幾つかの困難を避けられることは明らかだ。やろうと思えば、「宇宙論」という言葉に、自分が論じたい物事の最大集合を割り当てることだってできなくはない。

地理学者は、サンゴを前にしても、それが「生物」だからという理由で分析を止めたりしない。月についての記述を天文学に含めるのなら、結果的に、「サンゴ」や「森」などの観点から見た地球の記述も天文学に含めざるをえない。天文学者は、植物も動物も自分にとってはただのものの集まりに過ぎないと答えるかもしれない。だが、植物と動物は重力を持つもの以外の何物でもないと仮定するのは、早計ではないのか? 地球の運行に逸脱が生じるのは、地球上の生物と日光の量と関係している可能性があると仮定することだってできるかもしれない。天文学を非生物科学として定義することによって、こうした問題は別の科学分野で議論するべきであると結論するべきだろうか? 宇宙論で議論されている重要な価値の全てが宇宙生命体に依存していないかどうか、私たちは知っているのか? 上述の「天文学は星などを扱う」という、より中立的な定義を採用する方が、より賢明と言えないだろうか?

全種類の「生物」が同じ特徴を持っているか、生物を石と同じやり方で分析できるかどうかを知らないまま、いわゆる「生物」の分析を行なったなら、諸科学の間には、今より中立的な区別が見出されるだろう。予防と中立は有用かもしれないのだ[2]。こうした始点の科学単位が小さければ小さいほど、科学的記述の変化は少なくてすむ。「魚類」の一般的記述が変わらねばならないとしても、鯨の一般的記述は変わらない。なぜなら、鯨は魚類のクラスから除外されているからである。この全体的態度を包括的規則の中に定式化することはできない。


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