日曜の朝、教会の鐘が海岸の村々に鳴り響く中、ギャツビー邸には俗世とその女主人がもどってきて、芝生の上に狂騒を繰り広げる。
「あのひとはね、お酒の密造をやってるの」と若い女性たちは、話題の人物のカクテルと花々とを往復しながら言った。「あるときなんか、あのひとがヒンデンブルク元帥の甥で、悪魔のまた従弟だってのをかぎつけたやつを殺したこともあるのよ。ねえあなた、そこのバラ、こっちに回して。それから、あそこのクリスタルグラスに最後の一滴まで注いでよ」
ぼくは一度、時刻表の余白に、あの夏ギャツビーのところを訪れた人々の名前を書きとめてみたことがある。すでに古くなったその時刻表は、折り目のところから千切れてしまいそうだ。ヘッダには「一九二二年七月五日以降の運行予定」とある。それでもまだ、そこにあるかすれた名前は読めるし、その名前を並べたてるほうが、あの夏にギャツビーのもてなしを受け、それでいてギャツビーについてはまったくなにひとつ知りはしないという報いるところの薄い人々のことを、ぼくが大雑把にまとめてしまうよりも、イメージとして分かりやすいだろう。
イースト・エッグからきていたのは、チェスター・ベッカー夫妻にリーチ夫妻。それからブンセンという男。かれについてはぼくもイェール時代に知っていた。ドクター・ウェブスター・シベット。こちらは昨年夏にメーンで溺死した。ホーンビーム夫妻、ウィーリー・ボルテール夫妻。それからブラックバックという名の一族郎党。かれらはいつも隅に席をとり、近づくものがあると鼻を山羊みたいにつんとそらした。イズメイ夫妻、クリスティ夫妻(というよりむしろヒューバート・アウアバッハとクリスティ夫人というべきだろうか)。エドガー・ビーバー。かれの頭髪はある冬の午後わけもなにもなく突如真っ白になったという噂だ。
クラレンス・エンディブもイースト・エッグからきていたように記憶している。やってきたのは一度だけで、白のニッカボッカー姿で現れたかれは、庭でエティという放蕩者と喧嘩をやらかした。ロング・アイランドのはずれからやってきたのはシードル夫妻、O・R・P・シュレーダー夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャクソン・エイブラム夫妻、フィッシュガード夫妻、リプリー・スネル夫妻。スネルは刑務所行きの三日前にもきて、さんざん飲んだあげく砂利敷きの私道に寝そべり、ミセス・ユリシーズ・スウェットの自動車に右手を轢かれた。ダンシー夫妻もいたし、S・B・ホワイトベイトもいた。これは齢六十をゆうに超える老人だ。モーリス・A・フリンク、ハンマーヘッド夫妻、煙草輸入商ベルガ、それからベルガの娘たち。
ウェスト・エッグからはポール夫妻、マーリーディー夫妻、セシル・ローバック、セシル・ショーエン、ガリック上院議員。ニュートン・オーキッド、これはフィルムズ・パー・エクセレンスの支配者だ。エクホースト、クライド・コーエン、ドン・S・シュワルツ(息子のほうだ)、それからアーサー・マッカーティー。ここまでは何らかの形で映画界にコネのある人々。続いてカトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、G・アール・マルドゥーン。後に細君を絞め殺したマルドゥーンの兄弟にあたる。映画界のパトロンであるダ・フォンタノもきていたし、エド・レグロスにジェイムズ・B・(“安酒”)フェレット、ド・ジョング夫妻、アーネスト・リリーもいた――かれらはギャンブルをやりにきていて、フェレットがぶらりと庭に出てきたときはつまりかれがすってんてんになったということであり、それと同時に、翌日のアソシエイテッド・トラクション株は上向きになると見て間違いなかった。
クリップスプリンガーという名の男はしょっちゅうギャツビー邸にきて、しかも長々といつづけるものだから、「下宿人」として知られていた――かれには他に帰るところがなかったのではないかと思う。演劇人としては、ガス・ウェイズ、ホレイス・オドネイバン、レスター・マイヤー、ジョージ・ダックウィード、フランシス・ブル。またニューヨークからはクロム夫妻、バックヒッソン夫妻、デニッカー夫妻、それからラッセル・ベティーにコーリガン夫妻、ケルハー夫妻、デウォー夫妻、スカリー夫妻、S・W・ベルチャー、スマーク夫妻、それに、クインという、いまはもう離婚した、若夫婦。それからヘンリー・L・パルメトー、後にタイムズ・スクウェアで地下鉄の正面に飛び出し、自殺。
ベニー・マクレナハンはいつも四人の女の子を連れてきた。顔ぶれはいつも違っていたはずなのに、ひとりひとりが似通っていたもので、これは以前もきていた娘だと思えてならなかった。名前はもう覚えていない――ジャクリーンとかコンスエラとかグローリアとかジュディとかジューンとか、そういう名前だ。ラストネームは花とか月とかの響きのよいものでもあったように思うし、あるいはアメリカを代表する富豪と同じいかめしいものだったようにも思う。突っ込んで聞いてみれば、従弟にあたるという自白が得られたかもしれない。
加えて、たしかフォースティナ・オブライエンもすくなくとも一度は顔を見せたし、ベデッカー家の娘たちもいた。それからブリュワー青年、これは大戦で鼻を吹き飛ばされた男だ。ミスター・アルバックバーガーとその婚約者ミス・ハーグ。アーディタ・フィッツビーターズ。ミスター・P・ジュウェット、米国在郷軍人会の前会長。ミス・クローディア・ヒップは自分のお抱え運転手という噂の男を連れていた。それからなんとかの王子。ぼくらはかれのことを公爵と呼んでいたけど、名前のほうは聞いたことがあるにしても忘れてしまった。
こういった人々が、あの夏のギャツビー邸にこぞって押しかけてきたのだ。
七月下旬のある朝、九時にギャツビーの豪華な車が我が家の砂利だらけの私道に入ってきて、三和音のクラクションを派手に鳴らした。ぼくは二回かれのパーティーに行き、水上機にも乗り、しきりの要望を受け、ビーチを頻繁に使わせてもらっていたけれど、かれのほうから訪ねてきたのはこれがはじめてだった。
「おはようございます、尊公。今日は御一緒に昼食でも如何ですか。車で御一緒にと思いまして」
かれは車のダッシュボードに手をついてバランスをとりながら、アメリカ人に特有なあのひっきりなしの身振りをしめした――これは、ぼくが思うに、若いころに力仕事をやらなかったせいであり、さらには、ぼくらが秘める神経質で発作的な勝負心が不定形の優美さをともなって現れたものでもあるのではないか。この特質は、かれの堅苦しい仕草のそこかしこに、落ち着きのなさという形で絶えず飛び出してきた。かれはひとときもじっとしていなかった。足元をとんとんと踏み鳴らしたり、じれったそうに手のひらを閉じたり開いたり。
ぼくが車に見とれているのにかれは気づいた。
「綺麗でしょう、尊公?」車がぼくによく見えるようひょいと飛びのく。「以前、お目に掛けた事はありませんでしたか?」
見たことはあった。だれだって見ていた。優雅なクリーム色、ニッケルがきらりと輝き、そのおそろしく長大な車内のあちこちには帽子箱や弁当箱や道具箱が積みこまれており、太陽を一ダースも映しこんでいる段々状の複雑な風除けが備わっている。幾層も重なるガラスを前とする一種の温室の緑の革椅子に腰を下ろしたぼくらは、街へと出発した。
かれと対話の場をもったのはここまでで六回ほどだろうか、がっかりしたことにギャツビーは口数の少ない人物だった。だからぼくの第一印象、これはなにかひどく重要な人物に違いないと思ったところがだんだん薄れ、隣の豪華な娯楽施設の単なる所有者に過ぎないと思えてきていた。
そこにきたのがこの謎めいたドライブだ。やがてぼくらがウェスト・エッグ・ビレッジへの道をなかばまでも行かないうちに、ギャツビーの優雅な口ぶりはまとまりのないものになり、心を決めかねるといった雰囲気でキャラメル色のスーツの膝を叩きはじめた。
「ところでですね、尊公」と、不意に口を開く。「私のことを、どうお考えですか?」
これにはちょっと参った。そこでぼくは、この手の質問の答えにふさわしい非具体的な一般論を述べはじめた。
「いえね、私は私の過去についてすこしお話しようと思っております」とさえぎられた。「いろいろお聞き及びと思いますが、そのような噂話から私を間違って理解して頂きたくないということなのですよ」
ということは、かれの大広間に興を添えた、かれに対する奇抜な告発に、当の本人も気づいていたわけだ。
「神に誓って本当のことをお話ししますよ」と、宣誓の作法にのっとり、とつぜん右手をあげた。「私は中西部の資産家の息子です――いまはみな亡くなってしまいましたが。アメリカで幼少期を過ごしましたが、オックスフォードで教育を受けました。私の先祖はもう何世代もみなあそこで教育を受けているものですから。それが我が一族の伝統なのです」
かれはぼくを盗み見た――そのときぼくは、ジョーダン・ベイカーがかれの言葉を嘘と見込んだ理由がよく分かった。かれは「オックスフォードで教育を受け」というフレーズを急ぎ足でというか、飲みこむようにというか、喉にひっかかったように話すのだ。嫌な思い出を話しているみたいだった。いったんこのように疑ってしまうと、かれの言葉すべてがばらばらに崩れ落ち、つまりは、そこに伏せられている裏みたいなものがなかったかと思いをめぐらす自分がいた。
「中西部はどちらで?」と、ぼくはさりげなく尋ねた。
「サン・フランシスコ」
「なるほど」
「一族は全員亡くなりましてね、私は相当の財産を相続することになりました」
その声は厳粛そのもので、一族を襲った悲劇にいまだ苦しめられているような口ぶりだった。一瞬、ぼくはかつがれようとしているのではないかと思ったものの、横目でかれを見てみると、どうもそのようには思えない。
「それから私は若いラジャのような暮らしをヨーロッパの各都市で送りました――パリ、ベニス、ローマ――宝石、主にルビーを集め、猛獣を狩り、人に見せるようなものではありませんが、絵を描いてみたりもしました。そうやって、遠い昔のとても悲しい出来事を忘れようとしてきたのです」
ぼくは不信の笑いを必死の思いでなんとかこらえた。一語一句がどろどろに手垢まみれで、そこから思い起こされるのは、せいぜい、ターバンを巻いた「キャラクター」がブーローニュの森で虎を追いまわしながら、ことあるごとに馬脚をあらわすといったイメージくらいのものだった。
「そこにあの戦争が起こったのですよ、尊公。私は大変に安堵し、早速死に場所を求めて回りましたが、どうやら私の命には魔法がかかっていたらしい。開戦当初、私は中尉に任官されました。アルゴンヌの森で私は、突出してしまった機関銃部隊の指揮を任せられました。どちら側にも半マイルに渡って敵が押し寄せていて、歩兵部隊による救出ができなかったのです。私の部隊はそこで二日二晩奮闘しました。百三十名の兵士と十六丁のルイス式軽機関銃。ようやく歩兵部隊がたどりついたときは、山と折り重なった死体がつけていたドイツ軍の記章は三師団にも及んでいました。私は少佐に昇進し、連合国は争って勲章をくれました――モンテネグロさえも、アドリア海のちっぽけなモンテネグロも!」
ちっぽけなモンテネグロ! かれは宙に浮かべられたその言葉に向かってうなずいてみせた――例のようにほほえみながら。そのほほえみにはモンテネグロの多難な歴史への理解があり、モンテネグロの人々による奮闘への同情があった。そしてモンテネグロの温かい心づくしから与えられた記念品を引き出した国際情勢の連鎖への感謝にあふれていた。そのあまりの魅力にぼくの不信はなりをひそめた。ずらりと並んだ雑誌をあわただしく拾い読みしているような感じだった。
かれはポケットに手を入れてリボンをつまみだした。その先にぶらさがっていた金属片を、ぼくの手のひらに載せる。
「それはモンテネグロからのものです」
驚いたことに、見たところそれは本物のようだった。「Orederi di Danilo」と縁に沿って円く刻まれている。「Montenegro, Nicolas Rex」
「めくってごらんなさい」
「ジェイ・ギャツビー少佐」とぼくは読み上げた。「その比類なき武勇に」
「もうひとつ、これも常に持ち歩いております。オックスフォード時代の思い出の品ですよ。学寮の中庭で撮ったものでしてね――私の左手に写っているのが、いまのドンカスター伯爵です」
それは一葉の写真で、六人の若者がアーチ道にたむろしていた。歩道の向こうには尖塔が見える。ギャツビーもいた。いまより大幅にとはいえないまでも若干若い――手にはクリケットのバットを握っている。
ではすべては本当のことだったのか。ぼくはグランド・キャナルに建てられたかれの宮殿に赤々とした虎の革が敷かれているのを見た。そしてかれがルビーの小箱を開け、そこに深々とたたえられた深紅の光をもって、打ちひしがれた心を癒さんとするところを見た。
「私は今日、大切なお願いをするつもりです」かれは思い出の品々を満足げにポケットにしまいながら言った。「ですから、私のことを多少とも知っておいて頂くべきだと思いました。どこぞの馬の骨などとは思って頂きたくなかったのです。お分かりでしょうが、常日頃から私の周囲にいるのは他人ばかりです。私は三年もの間私の身に起きた悲しい出来事を忘れるため、あちこちをさすらっていたものですから」そこでかれは一瞬ためらった。「それについては今日の午後お聞きになることと思いますが」
「ランチの席で?」
「いえ、午後です。あなたがミス・ベイカーをお茶に招かれたことを偶然耳にしまして」
「つまり、あなたがミス・ベイカーの恋人なのだと?」
「いいえ、尊公、それは違います。ですが、ミス・ベイカーが、この問題をあなたにお話する役割を引き受けて下さいましたから」
ぼくには「この問題」がどういう問題なのかさっぱり分からなかったが、だからといって興味を引かれたというわけではなく、むしろ苛立ちが先行した。ぼくはミスター・ジェイ・ギャツビーを論じあうためにジョーダンをお茶に呼んだのではない。ぼくはそのお願いとやらがなにか突拍子もないことにちがいないと確信し、しばらく、かれの人口過多な芝生に足を踏みいれてしまったことを悔いた。
かれはもう口をきこうとはしなかった。町に近づくにつれ、自分の計画の正しさに自信をつけていったようだ。ポート・ルーズベルトを通りすぎる。赤帯の外洋船が見えた。がたがた道をスピードをあげながら疾走する。道沿いには、一九〇〇年代の残影というべき薄暗い酒場が、見捨てられもせずに軒を並べていた。それから、灰の谷がぼくらの左右に開けてきた。そうして走るうちに、息を切らして威勢良くガソリンポンプを操るミセス・ウィルソンの姿が垣間見えた。
フェンダーを翼のように広げ、ぼくらは光を撒き散らしつつアストリアに至るなかばまで車を走らせた――なかばというのは、高架柱を縫うように進むうちに、耳に馴染んだ「ドッ、ドッ、ブオン!」がぼくの耳に飛びこんできたからだ。一人の警官がバイクで飛ばしてきて、ぼくらの車に横づけした。
「大丈夫ですよ、尊公」とギャツビーは声を張り上げた。減速する。財布からとりだした白いカードを、警官の目の前でひらひらと振ってみせた。
「結構です」と警官は言い、帽子に手をあてた。「次回はお見それしません、ミスター・ギャツビー。失礼しました!」
「なんです、それ?」とぼくは尋ねた。「さっきのオックスフォードの写真?」
「以前にお偉い方に力を貸して差し上げたことがありましてね。毎年クリスマス・カードを頂くのです」
大橋の向こう、梁の影に見え隠れする、過ぎ行く車がきらめかせる陽の光。河の向こう岸にそそり立つのは、角砂糖のような白亜のビルディング。どれも、願いよ叶えと浄財を積み、築きあげられたのだ。クイーンズボロー橋から眺める街はいつだってはじめて見る街のように新鮮だった。そこにあったのは、全世界の神秘と美麗がはじめて野合した姿だったからだ。
華を盛大に手向けられた霊柩車に乗って、死者がぼくらのそばを通りすぎた。二台のブラインドを引いた車がそれを追い、そこに故人の友人たちを乗せた、先行車と比較すれば陽気な車が続く。かれらは悲しみをたたえた目でぼくらを見ていた。鼻と唇の間の短さからして東南ヨーロッパ系らしい。ぼくはかれらのために喜んだ。気が滅入るような休日にギャツビーの豪華な車を目にできたのだから。ブラックウェルズ・アイランド通過中には一台のリムジンがぼくらを追いこしていった。白人の運転手と、流行かぶれの黒人が男二人に娘一人の合計三人乗っていた。かれらがライバル意識むきだしでぎょろりとにらみつけてくるのを見て、ぼくは大声で笑いだした。
「この橋を渡りきったいま、なにが起こっても変じゃない」とぼくは思った。「まったくどんなことが起こったって……」
ギャツビーのような男が出てきてもなお、そこにはなんの不思議もなかった。
狂乱の正午。換気扇がほどよく回っている四十二番街の地下店舗で、ぼくは昼食の約束をしたギャツビーと合流した。表通りの眩さを目をしばたかせて追い出すと、待合室にいるギャツビーの姿がおぼろに浮かびあがった。誰かと話をしている。
「ミスター・キャラウェイ、こちらは私の友人で、ミスター・ウルフシェイムです」
小柄な、鼻のひしゃげたユダヤ人が大きな頭をもたげて、両の鼻腔を盛大に飾る鼻毛の束をぼくに向けた。その後で、薄暗がりの中に小さな瞳を発見した。
「――そこでわしはあいつをひとにらみしてだな」とミスター・ウルフシェイムは、ぼくの手を力強く握りつつ、言った。「なんと言ってやったと思う?」
「え?」ぼくは礼儀正しく訊ねた。
が、明らかにかれはぼくを相手に話をしているのではなかった。ぼくの手を離すとすぐにその特色ある鼻をギャツビーにつきつけたから。
「あの銭をカッツポーに握らせて、言ってやったのさ。『おうよ、カッツポー、やつが口を閉じるまで一ペニーたりとも払ってやるな』ってな。するとやつはその場で口を閉じやがったよ」
ギャツビーはぼくらを両脇に抱えるようにしてレストランの中に移動した。するとミスター・ウルフシェイムは言い出しかけた言葉を飲みこみ、びっくりしたようすで、放心状態にある夢遊病患者みたいにふらふらと中に入った。
「みなさんハイボールで?」とヘッドウェイターが聞く。
「結構なレストランだな」とミスター・ウルフシェイムは言った。天井に描かれた長老主義風の乙女たちを見上げながら。「ま、わしは向かいの店のほうが好きだがね!」
「そう、ハイボールを」とギャツビーがうなずく。それからミスター・ウルフシェイムに向かって「向かいは暑すぎますから」
「暑いし狭い――そのとおり」とミスター・ウルフシェイムが言った。「だが思い出でいっぱいだ」
「どこのことです?」とぼくは尋ねた。
「あの古ぼけたメトロポールですよ」
「あの古ぼけたメトロポール」ミスター・ウルフシェイムは沈んだようすで言った。「死んでいなくなった連中の顔がぎっしり詰まってる。いまはもう二度と帰らない友だちがぎっしり詰まってる。あの日、ロージー・ローゼンタールが撃たれた夜のことは死ぬまで忘れられそうにない。わしらのテーブルには六人いてな、ロージーは一晩中飲み食いしてやがった。朝まであとすこしって時分だったな、妙な顔をしたウェイターがロージーのところにやってきて外で待ってる人がいるなんて言った。『わかった』ってロージーは言ってな、立ちあがろうとしたもんだからわしはあいつをひっぱって椅子に座らせた。
「『ほっとけ、あのチンピラどもが本当におまえに会いたいんなら中まで入ってくるだろうさ。だがな、いいか、絶対におまえのほうからこの部屋の外に出ちゃいかん』
「時刻は朝の四時だったな。もしブラインドを開けてみたら、夜明けの光が射しこんできたろうな」
「かれは出たんですか?」ぼくは無邪気に聞いた。
「ああ、そうとも」ミスター・ウルフシェイムの鼻がぼくに向けられ憤然と膨らんだ。「あいつはドアのところで振りかえって言った。『あのウェイターにおれのコーヒーを片付けさせるなよ!』それから歩道に出ていったところで連中はやつのどてっぱらに三発ぶちこんで車で逃げていきやがったんだ」
「四人は電気椅子行きでしたね」とぼくは思い出して言った。
「五人だ、ベッカーをいれて」かれはぼくに気をひかれたように鼻を向けてきた。「あんた、ビジネスのゴネグションを探してるんだったな」
そのふたつの発言はあまりにも脈絡がなくて、ぼくはまごついてしまった。そんなぼくに代わってギャツビーが答える。
「いや違う、それはこの人じゃない」
「違うのか?」ミスター・ウルフシェイムはがっかりしたようすだ。
「こちらはただの友達ですよ。その件はまた別の機会に話し合うことにしておいたじゃありませんか」
「失礼」とミスター・ウルフシェイム。「人違いをした」
汁気たっぷりの細切れ肉野菜料理が運ばれてきた。ミスター・ウルフシェイムは古ぼけたメトロポールを想う感傷的な雰囲気はどこへやら、とんでもなく無作法にぱくつきはじめた。口を動かしながら、ゆっくりと部屋を三百六十度眺めわたす――その動きを、体をひねって真後ろの人々を見やることで終える。たぶん、ぼくさえいなければ、ぼくらのテーブルの下も一目見ておこうとしたのではなかろうか。
「ところでですね、尊公」とギャツビーがぼくのほうに身を乗り出しつつ言った。「今朝のドライブ中、私は多少尊公を怒らせてしまったのではないでしょうか」
そこには例によってあの微笑が浮かんでいたけれども、今度ばかりはぼくもその魅力にひきこまれなかった。
「秘密めいたやりくちは好きじゃないですからね。それに、どうして直接頼みごとをおっしゃってくれないのか、理解に苦しみます。どうしてなにもかもをミス・ベイカー経由でやろうとするんです?」
「ああ、別にやましいことがある訳ではないのです」とぼくを安心させようとする。「ミス・ベイカーは立派なスポーツ選手です。ですから、胸を張って言えないようなことをあの人がなさる筈はありません」
ふとギャツビーは自分の懐中時計を確かめると、慌てて椅子から立ちあがり、テーブルにぼくとミスター・ウルフシェイムを取り残していく形で、部屋を飛び出していった。
「電話せにゃならんかったんだな」とミスター・ウルフシェイムが眼でギャツビーの姿を追いながら言った。「立派なやつだよ、そう思わんか? 顔立ちもいいし、非のうちどころのない紳士だし」
「そうですね」
「あれはオグスフォード出でな」
「ほう!」
「イギリスのオグスフォード・カレッジに行っておったんだよ。知っとるかな、オグスフォード・カレッジは?」
「聞いたことはありますね」
「世界でいちばん有名なカレッジのひとつだ」
「ギャツビーのことはずいぶん前からご存知で?」とぼくは訊ねた。
「数年前からだな」かれはうれしそうに言った。「知りあう機会に恵まれたのは戦争後のことだからな。だが、一時間も話さんうちにこれは育ちの立派な男を見つけたもんだと気づいたよ。わしは誰に聞かせるでもなく呟いた。『これはぜひ家に連れて帰っておふくろや妹にぜひ紹介してやりたいような人間だ』」ここでかれは言葉を切った。「ほう、わしのカフスボタンが気にかかると見える」
ぼくはべつに気にかけてもいなかったけど、改めてそれを見つめた。どこか不思議と見なれた感じのする意匠の象牙細工だ。
「人間の奥歯そっくりにしてある」とぼくに教える。
「ふむ!」ぼくはそれをじっくりと眺めてみた。「これは面白いアイデアですね」
「だろう」とかれは言って、袖をめくってコートの下に隠した。「そうそう、ギャツビーは女にはひどく注意深くてな。友達の奥さんをじっと見つめるような真似は絶対にせん」
この本能的な信頼の対象がもどってきてテーブルにつくと、ミスター・ウルフシェイムはコーヒーをがぶりと飲み干して立ちあがった。
「結構なランチだった」とかれは言った。「好意に甘えて長居しすぎる前に、お若いのを二人残して退散するとしよう」
「もっとゆっくりなさっては、メイヤー」とギャツビーは言ったが、熱のこもった言い方ではなかった。ミスター・ウルフシェイムは祈祷でもはじめるみたいな格好で右手をあげた。
「礼儀正しいことだ。だがわしは世代が違う」とかれは重々しく告げた。「さあ、この席で意見を交わすといい。話すことはいろいろあろうさ、仲のいい連中のこととか若いご婦人方のこととか――」かれは手を振ることでその続きをはしょった。「わしのほうはといえばもう五十だ、あんたたちの間に割って入ろうとはもう思わんよ」
ぼくらと握手して去って行ったかれの鼻は悲しみをたたえて震えていた。ぼくはなにかかれを傷つけるようなことを言ってしまったのではないかと思案した。
「あの人は時々ひどく感傷的になるのですよ」と、ギャツビーは説明した。「今日も感傷的になっていました。ニューヨーク周辺ではかなり名を知られた男です――ブロードウェイの住人でしてね」
「どういう人です? 俳優?」
「いいえ」
「歯医者?」
「メイヤー・ウルフシェイムが? いえいえ、博打うちですよ」ギャツビーは一瞬ためらい、そっけなく付け加えた。「一九一九年のワールドシリーズに八百長をしかけた男です」
「ワールドシリーズに八百長を?」
その話にぼくはたじろいだ。もちろん、一九一九年のワールドシリーズが八百長試合だったのは覚えていたけれど、あまり深く考えてみたことはなかった。かりに考えてみたとしても、ただ何か不可避の事情が連なったその結果としてそうなってしまったのだとしか思えなかっただろう。一人の男がそんな勝負にでるなんて、ぼくには到底思いつけそうになかった――金庫破りを敢行する夜盗のような無頼心が、五千万のファンの信頼の向こうを張るなんて。
「それはまたどうやってそんなことを?」ぼくはしばらくたってから尋ねた。
「機を見てやっただけのことですよ」
「どうして刑務所に入ってないんです?」
「捕まえられないんですよ、尊公。抜け目のない男ですからね」
ぼくは自分が勘定をもつと言いはった。ウェイターが釣銭を持ってもどってきたとき、混みあった部屋の向こうにトム・ブキャナンがいるのが見えた。
「ちょっと一緒にきてもらっていいですか?」とぼく。「挨拶していきたいひとがいるんです」
ぼくらを目にしたトムは飛びあがるように席を立ち、ぼくらの方へと六歩ほど足を進めた。
「きみはどこにいたんだ?」と勢いこんで問い詰めてきた。「デイジーはきみが電話をよこさないんでひどくおかんむりだぜ」
「こちらはミスター・ギャツビー、ミスター・ブキャナン」
二人は淡白に握手した。張り詰めた見なれない色が、ギャツビーの困惑した顔に浮かんでいた。
「それはともかく、どういうわけでここにいるんだ?」とトムがぼくの答えを求める。「いったい何があったっていうんだよ、こんな遠くまで食事にくるなんて?」
「ミスター・ギャツビーとランチをね」
ぼくはギャツビーのほうに向き直ったが、もうそこにかれの姿はなかった。
あれは一九一七年の十月のこと――
(あの日の午後、プラザ・ホテルのティーガーデンの椅子に背すじを伸ばして座ったジョーダン・ベイカーはそう語りだした)
――わたしはあちこち、歩道と芝生を行ったりきたりしていた。芝生を歩くのはイギリス製のゴム底の靴が柔らかい地面にめりこむみたいですごく気持ちよかった。真新しいチェックのスカートをはいてたんだけど、それがときどきそよかぜにはためいてた。風がくるといつでもね、家という家の門前に掲げられた赤・白・青の旗が、立ち向かうみたいにばさばさばさばさいってたっけ。
なかでも、デイジー・フェイの家の旗がいちばん大きかったし、芝生もいちばん広かった。あのひとは十八になったばかり、わたしより二つ年上でね。それに、ルイビルにいた女の子の中ではずば抜けて有名だった。白いドレスを着て、白いロードスターを持ってて、あのひとの家にはキャンプ・テイラーの若い将校たちからの、その晩にあのひとを独占する特権をくれっていう興奮した電話がひっきりなしにかかってきてた。「とにかく、一時間だけでも!」ってね。
わたしがあのひとの家のお向かいにやってきた朝のことなんだけど、あのひとの白いロードスターがカーブのそばに停まってて、中にはあのひとと、それまで見たこともなかった中尉さんとが座ってた。二人はお互いにひどく夢中でね、あと二メートルっていうところまで近づいてはじめてわたしに気づいたくらい。
「こんにちは、ジョーダン」と意外にもあのひとから呼びかけてきたんだ。「ねえ、ちょっとこっちにきて」
あのひとがわたしと話をしたがってると知って、わたしは得意になった。だってわたし、年上の女のひとの中でもあのひとのことをいちばん敬愛してたんだもの。あのひと、赤十字に包帯作りに行くのかって聞いた。もちろん。じゃあね、今日はわたし行けないって伝えといてくれる? 将校さんはデイジーがしゃべってる間ずっとデイジーを見つめた。若い女の子ならだれだっていつかきっとわたしにもってあこがれるような見つめ方でね。ロマンティックだなって思って、それでそのときのことをずっと覚えてたってわけ。将校さんの名前はジェイ・ギャツビーっていった。でもそれを最後に四年間ずっと見かけなかった――それで、ロング・アイランドであのひとと出会った後でさえ、このひととあのひとが同一人物だとは気づきもしなかったのよ。
それが一九一七年。その次の年にはわたしもすこしは男友達を作るようになって、トーナメントにもでるようになったから、デイジーにはあんまり会えなくなった。あのひとはすこし年上の人たちと出かけてたのよ――だれかと一緒に出かけるときはね。デイジーの周りには無茶苦茶な噂が飛び交ってた――あのひとが、ある冬の夜、ニューヨークに行ってこれから海外に行く軍人さんにお別れを言おうと荷物をまとめてるところを母親に見つかったって噂。結局それには横槍が入ったんだけど、数週間は家の人とまったく口を利かなかったらしいのね。それからのあのひとは軍人さんたちと遊びまわるようなことはもうしなくなって、相手にするのはただ街に残ってる偏平足に近眼といったほんのわずかな若者だけになってた。軍隊には入れっこないような連中よ。
次の秋にはあのひともまた遊びまわるようになった。以前と同じようにね。休戦後社交界にデビューして、二月にはたしかニュー・オリンズ出身の男と婚約したんじゃなかったかな。六月にはシカゴのトム・ブキャナンと結婚、そのお祝い騒ぎときたらルイビルはじまって以来の盛大さでね。花婿さんは百人もの人たちを四台の自家用車で連れてきて、ミュールバッハ・ホテルのフロアを一階分全部借り切って、しかも結婚式の前日には三十五万ドルの真珠の首飾りを花嫁に贈ったりしてさ。
わたしが花嫁の付き添いだった。ブライダルディナーの三十分前にあのひとの部屋に行ってみたら、あのひと、花柄のドレスを着くずしたしどけない格好でベッドに横たわってた――へべれけに酔っ払ってね。片手にソーテルヌのボトル、反対側の手には手紙を一通にぎりしめてた。
「お祝いしてよ」ってあのひとはつぶやくように言った。「いままでお酒なんて飲んだことなかったけど、ああ、すごくいい気持ち」
「どうしたのよ、デイジー?」
わたしは正直言っておびえてた。あんなになった若い女を見たことなかったんだもの。
「ねえあなた」あのひとはベッドの側に寄せてあったごみ箱をひっかきまわして真珠の首飾りを引っぱりだした。「これを持って下に降りてって、だれでもいいから持ち主のところに返すように言ってきて。デイジーは気が変わったからって。ちゃんと言うのよ、『デイジーは気が変わりました』って!」
あのひとは泣きだした――泣いて泣いてもう手がつけられなかった。わたしは部屋を飛び出してあのひとのお母さんのメイドを捕まえてきて、ドアをロックしてから二人がかりで水浴びをさせた。あのひとは手紙を離そうとしなかった。そのまま浴槽につかったものだから湿ってぼろぼろに丸まってしまってね、結局雪みたいな破片になってしまったのを見てやっと離してくれたから、わたしはそれを石鹸箱にしまわせてもらったんだ。
でもそれ以上はもうごねたりしなかった。わたしたちはアンモニアをかがせたり、額に氷を乗せてやったり、ドレスの背中のホックを留めてやったりして、それで三十分後、三人そろって部屋を出たときは、真珠の首飾りもあのひとの胸元に収まって事は終わった。翌日五時にはトム・ブキャナンと身震い一つせずに結婚、南洋に向けて三ヶ月の旅行に出発。
こっちにもどってきたあのひとたちとはサンタ・バーバラで再会した。あのひとほど結婚相手に夢中な女なんて見たことないと思った。トムがちょっと席を外しただけでデイジーはあたりを不安そうに見まわして、「トムはどこにいったの?」なんて言って、トムがもどってくるまでの間ひどくぼんやりしてるのよ。トムに膝枕をしてあげたりして何時間と砂地に座ってたりもしてた。トムのまぶたを指でなぞり、喜びこの上ない様子で見つめながら。二人を見てるといかにもいじらしかったな――ほんともう、おかしくって笑い声を抑えるのがたいへんだったんだから。それが八月。わたしがサンタ・バーバラを出てから一週間後のある晩、トムは、ベンチュラ道路でワゴンと事故って、自分の車の前輪をひとつもぎとられた。それで一緒に乗ってた娘さんまで新聞に出ちゃったの、その娘の腕が折れてたからなんだけどね――しかもそれが、サンタ・バーバラ・ホテルのルームメイドのひとりで。
次の四月には女の子が生まれもした。それから一年間、家族そろってフランスで過ごした。わたしも春のころにカンヌで会ったっけ。一年たったら今度はシカゴに舞いもどってきて腰を落ちつけた。デイジーは若くて無茶な金持ち連中によく知られていたけど、悪い噂なんてこれっぽっちも聞かなかったな。たぶん、お酒が飲めないからよ。しこたま飲む連中に混じって酒を飲まないってのはすごく有利なことでね。ほら、酔って口を滑らすこともないし、それに、ハメをはずしたくなったときはだれも気にしてないようなタイミングを見計らってはずすことができるし。たぶん、デイジーは浮気なんてまったくやったことないんじゃないかな――声色にはどこか変だなと思わせるところがあるけどね……。
で、六週間前、あのひとはここ数年来はじめてギャツビーの名前を耳にした。あなたもきてたあの晩のことよ――覚えてる?――わたしがウェスト・エッグのギャツビーを知ってるかどうか、あなたに尋ねたとき。あなたが帰った後すぐ、部屋にあがってきたデイジーがわたしを叩き起こして「なにギャツビー?」って聞いたの。わたしが――半分寝てたけど――ギャツビーの風采を説明してやったら、まったく聞いたこともないような声音で昔知っていたひとにちがいないって言った。そのときはじめて、このギャツビーというひととデイジーの白い車に乗っていたあの将校さんとがわたしの中で結びついたってわけ。
ジョーダン・ベイカーがここまでを語り終えたのはぼくらがプラザ・ホテルを出てから三十分経ってのことで、そのときぼくらは、馬車でセントラルパークを通過中だった。陽は西区五十番台街に並ぶムービースターたちの豪邸の影に隠れ、宵の入りの空には、草むらの蟋蟀の歌のかわりに、そこいらの子供らの歌う、甲高い、ませた歌が染み広がっていく。
'I'm the Sheik of Araby.
Your love belongs to me.
At night when you're asleep
Into your tent I'll creep - '
「めずらしい巡り合わせもあったもんだね」とぼくは言った。
「ところがまったく巡り合わせなんかじゃなくてね」
「どういうこと?」
「ギャツビーがあの家を買ったのはデイジーが向こう岸に住んでるからなんだもの」
すると、六月の夜にかれが見ていたものは星どころではなかったのだ。ギャツビーが、無軌道というまばゆい母胎の外に飛びだしてきて、ぼくの内に生きた人間として活動しはじめた。
「あのひとが知りたがってるのはね、あなたがそのうちデイジーを自分のうちでの午後のお茶に招いてくれるか、そして、そのときかれが顔をだしてもかまわないかどうか、ってこと」
その要求のつつましさにぼくは衝撃を受けた。五年もの間ずっと待ちつづけ、屋敷を買い、そこを訪れる蛾の群れに光を分け与えてやった――それは、他人の庭での午後のお茶会にそのうち「顔をだす」ためだったのか。
「いま聞いた話を全部知らせたうえでないと頼めなかったってわけ? 些細な頼みじゃない」
「あのひとも気が弱くなってるのよ、ずっと待ちつづけてきたんだから。あなたが侮辱されたと感じるんじゃないかって思ったわけ。ほら、ああ見えても人付き合いがうまくないひとだしね」
なにかが心に引っかかっていた。
「話はわかったけど、きみに直接再会の場を作ってくれるよう頼まなかったのはどうして?」
「あのひと、デイジーを自分の家に呼びたがってるから。お隣でしょ、それであなたってわけ」
「なるほど!」
「たぶん、あのひとはパーティーを繰り返してればそのうちひょっこりデイジーが出てくるんじゃないかと期待してたところがあったんじゃないかな。でも、そうはならなかった。そこで、いろんな人にデイジーを知らないかってさりげなく尋ねるようになって、最初に見つかったのがこのわたし。話があるって呼びにきたあの晩のことよ。そこで聞かされたのがまた、手のこんだ話でね。もちろん、わたしはすぐ、じゃあニューヨークで一緒にランチでもって提案して――そしたらもう、あのひとったら気がふれるんじゃないかと思った。
「『変な真似はしたくない、変な真似はしたくない、変な真似はしたくないんです! 私はただあの人の姿を少し離れた所から一目見られればそれでいいんです!』
「あなたとトムは特に仲がいいんだって教えてやったら、自分の考えをぜんぶ諦めはじめた。あのひと、トムのことはよく知らないのよ。デイジーの名前を一目見ようとシカゴの新聞を何年も読んでいたそうなんだけど」
あたりが暗くなっていた。ぼくらを乗せた馬車が小さな陸橋の影に入ったところで、ぼくはジョーダンの黄金色の肩に腕をまわし、自分のほうに引き寄せ、夕食にさそった。気がつくと、頭の中からはデイジーのこともギャツビーのことも消えうせ、ただ、潔癖で手厳しくて料簡が狭くて、この世の何事をも懐疑的にとらえる癖のある、ぼくの腕の中で肩を反らす人物のことだけを考えていた。「世の中にいるのは、追う者、追われる者、忙しい者、そしてくたびれた者、ただそれだけだ」という激しく興奮した声が頭の奥で響きはじめた。
「デイジーの人生にだって何事かがあって当然じゃない?」
「デイジーもギャツビーに会いたがってるわけ?」
「あのひとはなにも知らないの。ギャツビーは知られたくないらしくて。あなたがデイジーをお茶に招いてくれればって、ただそれだけを思ってる」
黒々として視界をさえぎる木立を通りすぎる。青白い光の塊と化した五十九番街の正面が、公園をひそやかに照らしあげていた。ギャツビーやトム・ブキャナンとは違い、ぼくは看板や広告に浮かんでいるような実体のない顔だけの女とは縁がなかったから、ぼくは、ぼくのかたわらにいる女、ぼくの腕をとらえてはなさない女を抱きよせた。その色の悪い、軽蔑をたたえた口元がほころんだ。だからぼくはもう一度彼女を抱きよせた。今度は前よりもっとそばにと。