あの夜、ウェスト・エッグへの家路にあったぼくは、一瞬、我が家から火が出ているのではないかと思った。二時。半島全体を包む焼けつくような光が低木の茂みに落ちかかり、そして道路横の電線は細長くきらめいていた。角を曲がったところで、ぼくはそれがギャツビーの家の、塔からはもちろん、地下室からまでも溢れだしてきた光だというのを見てとった。
最初、ぼくはまたパーティーかと思った。でたらめな連中が寄り集まって、隅から隅まで遊技場として明渡された家を舞台に「かくれんぼ」なり「おしくらまんじゅう」なりをやっているのだろう、と。ところが、なんの音も聞こえてこなかった。木々を抜ける風の声だけが聞こえてきた。風に揺れる電線はくりかえし光を反射する。まるで家全体が闇にまたたいているようだった。乗ってきたタクシーが走り去りつつたなびかせる排気音が響く中、ぼくは、ギャツビー邸の芝生を横切ってぼくのほうにやってくるギャツビーの姿を認めた。
「お宅はまるで万国博覧会ですね」とぼくは言った。
「そうですか?」ギャツビーは形だけ自分の家に目を向けた。「部屋を一つ一つ覗いて回っていたところでした。さ、コニー・アイランドに行きましょう、尊公。私の車で」
「もうこんな時間ですし」
「ふむ、ではプールでひと泳ぎするのはどうです? 私はこの夏、まだあれを使っていないのですよ」
「ぼくは寝ないと」
「そうですか」
かれは、いまにも聞きたいという想いを押し隠しつつぼくを見つめ、待った。
「ミス・ベイカーと話をしてきました」とぼくはしばらく間を置いてから言った。「デイジーをここまでお茶にくるよう誘っておきますよ、明日にでも電話して」
「ああ、それはよろしいのです」とかれはぞんざいに言った。「尊公を煩わせたくはありませんから」
「都合のいい日はいつです?」
「そちらこそ、都合のいい日はいつです?」とかれはあわててぼくの言葉を言い換えた。「私としては尊公を煩わせたくはないのですよ」
「明後日はどうですか?」
かれは少し考えこんだ。それから言いにくそうに、
「芝を刈っておきたいのですが」と言う。
ぼくらは揃って庭に目線を落とした――我が家のみすぼらしい芝生の端と、そこから始まるかれの家のみごとに手入れされた芝生との境目は、くっきりとした直線を描いていた。かれは我が家の芝生のことを言っているのだろう。
「それともう一つ、ちょっとした問題がありまして」とあやふやなためらいがちの口調で言った。
「つまり、二、三日様子を見たいということですか?」
「あ、その事ではありません。少なくとも――」かれはしどろもどろに切り出した。「まあその、多分ですね――何と言いますか、ほら、尊公はそう大金をお稼ぎになっておられるわけではないのでしょう?」
「ええ、それほどには」
この返事に安心したらしい、前よりも自信に満ちた口調で話を続けた。
「そうだろうと思っておりました、いや、お許し下さい――そのまあ、私はちょっとした仕事を片手間にやっております。サイドビジネスとでも申しますか。そして私は考えてみたのですが、もし尊公の稼ぎがあまり宜しくないということでしたら――今、証券をお売りになっているのですよね?」
「売ろうとしている段階ですけどね」
「では、この話にも興味がおありかと思います。たいして時間を取られるわけでもありませんし、それでいて悪くない小遣い稼ぎになりますよ。多少内密を要するようなこともありますが」
あのときは気づかなかったけれど、この会話を交わした当時、ぼくはむずかしい立場に立たされていたのだ。返事のしようによっては人生が大きく変わっていたかもしれない。でも、その提案はぼくをとりこもうとする意図が見え透いた無粋なものだったから、ぼくは迷わず払いのけた。
「ぼくはいま手一杯なものでしてね」とぼくは言った。「ご厚意はとてもうれしいんですが、いま以上の仕事をお引き受けするのは無理です」
「ウルフシェイムとはまったく関係を持たずにすむのですが」要するにかれはランチの席で口にされた「ゴネグション」なるものにぼくが尻ごみしていると見たわけだけど、そういうわけではないことをぼくははっきりかれに伝えた。かれはしばらく待っていた。ぼくが会話の口火を切るのを期待していたのだと思う。だが、ぼくはそれに気づかないくらいぼうっとしていた。かれはしぶしぶ自邸に引きかえしていった。
あの日の夕方の時点で、ぼくはもう、ふらふらの、ご機嫌な状態になっていた。ぼくは家の玄関を開けたとたん、深いまどろみの中へと歩みこんでいったように思う。だから、ギャツビーがあれからコニー・アイランドに行ったのかどうか、どれくらいの間屋敷中の照明をつけたまま「部屋を覗いてまわっていた」のか、ぼくはまったく知らない。翌朝ぼくは職場からデイジーに電話し、お茶を飲みにくるよう誘った。
「トムは連れてこないで」ぼくは念を押した。
「え?」
「トムは連れてこないで」
「だれよ、『トム』って」とデイジーはあどけなく言った。
調整のすえ決まったその日の天気はどしゃぶりだった。十一時、レインコートを着、芝刈り器を引きずった男がぼくの家の玄関をノックした。ミスター・ギャツビーに言われて芝生を刈りにきたということだった。そのとき、ぼくのフィンランド人家政婦にあとでまた出てくるように言っておき忘れていたのを思いだし、ウェスト・エッグ・ビレッジに車を走らせ、雨に濡れそぼつ漆喰の横丁を駈けまわって彼女を探し、それからカップとレモンと花を買って帰った。
花は必要なかった。二時になるとギャツビーの家から温室ごと花が到着したからだ。花を飾る器も数えきれないほど届いた。一時間後、ひどく神経質にドアをノックする音がして、ギャツビーが飛びこんできた。白いフランネルのスーツ、シルバーのシャツ、金色のネクタイ。顔は真っ青で、目元には不眠がもたらした黒い隈ができている。
「準備は万全ですか?」とかれはだしぬけに尋ねた。
「草のことなら見違えるようですよ」
「何の草が?」と当惑した顔で言ったあと「あ、お庭のことですね」と続け、窓の外に目を向けたけれど、あの態度からして、実際にはなにひとつ見ていなかったのだと思う。
「結構ですね」とかれは曖昧に言った。「どこかの新聞が雨は四時ごろにあがると予想しておりましたよ。『ジャーナル』だったように思います。必要なものはみな揃いましたか? お茶会という形にですね」
ぼくにつれられて食料品室に入ったかれは、そこで会ったフィンランド人の家政婦に、これはちょっと芳しくないと言いたげな目を向けた。ぼくらは一緒に、デリカテッセンから買ってきた十二個のレモンケーキを念入りに調べた。
「これでかまいませんよね?」とぼく。
「勿論、勿論です! 立派なものですとも!」それからうつろに言い足す。「……尊公」
雨は三時三十分ごろにじめじめした霧に変わって、時折その霧の中に、露のような小雨が降った。ギャツビーはうつろな目つきで、キッチンの床を揺らす家政婦の足音にはっとしながら、クレイの『経済学』に目を通していたが、ときどき、霞みがかった窓の外を覗きこんだ。目に見えない恐ろしいハプニングがそこで起きているとでもいうように。やがてかれは立ちあがり、聞き取りにくい声で、家に帰ると言い出した。
「どうしてです?」
「だれもお茶にはきませんよ。もうこんな時間ですもの!」どこか別の場所に差し迫った用事があるみたいなようすで自分の時計を見た。「一日中は待っておれません」
「馬鹿言わないでください、まだ四時二分前じゃないですか」
まるでぼくに突き飛ばされたように、かれは椅子にへたりこんだ。それと同時に、表車道からエンジン音が響いてきた。ぼくらは二人とも飛びあがった。ちょっと悩んだけれど、ぼくは庭に出て出迎えることにした。
ぽたぽたと水滴を降すライラックの木々の下をくぐりぬけながら、一台のオープンカーがこちらに向かってきている。停車。デイジーが顔をすこし傾け、うっとりするような明るい笑顔を浮かべて、三つ折り帽子の下からぼくを見つめた。
「ねえニック、ここが本当にあなたの住んでるところなのね?」
デイジーの声は、雨の中、天然の酒となって爽快な波紋を起こした。ぼくは一瞬、全身を耳にして、その響きを追って昂ぶり、鎮まり、それからようやく単語を認識した。湿り気を帯びた彼女の髪がひとふさ、青い絵の具で一筆されたダッシュ記号みたいな格好で頬にはりついていた。きらめく雨露に濡れたその手を取って、車から降りるデイジーを支えてやる。
「あなた、わたしに恋でもしちゃったの?」と低い声でぼくの耳にささやきかける。「じゃなきゃ、なんでひとりでこいなんて言うわけ?」
「ラクレント城の秘密でございましてね。運転手にどこか遠くで一時間ほど潰してくるように言ってやってくれ」
「一時間したらもどってくるのよ、ファーディー」それからまじめくさったささやき。「運転手の名前、ファーディーっていうの」
「かれの鼻はガソリンにやられるのかな?」
「まさか」とあどけなく言う。「どうして?」
ぼくらは中に入った。ぼくは唖然とした。リビングは無人だったのだ。
「あれ、こいつは変だな」とぼくは大声をあげた。
「変ってなにが?」
玄関を軽くゆったりとノックする音に、デイジーは首だけ振りかえった。ぼくは出ていって玄関を開けた。そこに死人みたいな顔色をしたギャツビーが、両手を重りみたいにコートのポケットに突っこんで立っていて、かれの足元の水たまりがぎらぎらと放つ光に、ぼくは、悲劇の影を見たように思う。
両手をコートのポケットに突っこんだそのままの姿勢で、ギャツビーは、ぼくの横をすりぬけてホールに入り、マリオネットのようにがくっと向きを変え、リビングに消えた。それがちっとも変ではなかった。ぼくは自分の心臓が激しく鼓動するのを感じながら、ふたたび勢いを増してきた雨を前に玄関を閉ざした。
三十秒ほど、まったくなんの物音もしなかった。そして、居間から喉を詰まらせたような囁きと断片的な笑いが聞こえてきて、デイジーのあきらかに作った声がそれに続いた。
「わたしほんとにもう嬉しくて嬉しくて。またあなたに会えるなんて」
間。それが恐くなるほど続く。ぼくはホールにいても手持ち無沙汰ということで室内に入った。
ギャツビーは、いまだポケットに両手を突っこんだまま、どこをとっても落ちついている、むしろ退屈ですらあるという風を装って、マントルピースにもたれかかっていた。後ろに大きくそらされた頭は動いていない置時計を抑えつけている。その位置からかれの不安げな瞳は、怯えながらも優美な態度で堅い椅子にちょこんと腰を下ろしたデイジーに向けられていた。
「私たちは以前にも会ったことがあるんですよ」とギャツビーは口にした。ぼくのほうをちらりと見て笑おうとしたけれど、口を開けただけに終わった。幸いにも、かれの頭の圧力に耐えかねた時計がこのときがたりと傾いたのを受け、かれは振り向き、震える指先でそれを元にもどした。それからぎくしゃくとソファに腰を下ろし、肘掛に肘をのせ、あごに手を当て頬杖をつく。
「時計のこと、どうもすみません」
ぼくの顔は真っ赤に高潮した。頭の中にはいくらでもあるはずのお決まりの返答が、ひとつも浮かんでこなかった。
「あれは古い時計だから」とぼくは馬鹿みたいなことを言ってしまった。
たぶんその瞬間、その場にいただれもが、時計は床に落ちてばらばらに壊れてしまったものと信じこんだのではないだろうか。
「もうずいぶんお会いしませんでしたね」というデイジーの声はいつになく素直なものだった。
「十一月で五年です」
ギャツビーの返答に含まれていた機械的な調子がぼくらをしばらく硬直させた。ぼくはやけになり、お茶の準備を手伝って欲しいから、と言って二人を立たせようとしたものの、そこにアラビアの魔神ならぬフィンランドの家政婦が、茶菓をトレイに載せて入ってきた。
あれこれ騒ぎながらカップやケーキを並べているうちに、ある種、場の形式的な雰囲気が固まってきた。ギャツビーは、デイジーとぼくとが言葉を交わしている間、影に控え、緊張と不安のないまざった面持ちでぼくらをかわるがわる見つめた。が、まだ場に落ちつきがでてこないうちに、最初の機会を得たとたんぼくは中座を詫び、立ち上がった。
「どちらに行くのです?」とギャツビーが即座に尋ねてきた。
「すぐにもどりますよ」
「その前に少しお話ししておかないといけない事が」
かれはぼくを追ってキッチンに入り、ドアを閉めてから呟くように言った。「いやはや、参りました!」みじめな口調だ。
「どうしました?」
「これはひどい手違いです」と、首をはげしく左右に振りながら言う。「ひどい、ひどい手違いです」
「とまどってらっしゃるんでしょう、それだけですよ」それからうまい具合にこうつづけることができた。「デイジーもとまどってます」
「あのひとがとまどってる?」と、信じられないという口ぶりで復唱する。
「あなたと同じくらいにね」
「そんな大きい声を出さないで下さいよ」
「ねえ、子供みたいな真似はやめてくださいよ」ぼくは苛々してきた。「それだけじゃない、無作法です。デイジーはひとりぼっちでテーブルに残されてるんですからね」
かれは片手を挙げてぼくの言葉をさえぎると、忘れがたい非難の眼差しでぼくを見つめ、それから慎重にドアを開いて、隣の部屋にもどっていった。
ぼくは裏口から外に出て――ちょうどギャツビーが三十分前に神経質に裏から表に回ったように――こぶのある黒い巨木めがけて走った。鬱蒼と広がるその葉が雨をさえぎっていた。ふたたびぽつぽつと雨が降りはじめ、ギャツビーの庭師がきれいに刈りこんでいった我が家の起伏に富んだ芝生には、泥水がたまった小さな水たまりが散らばり、ところによっては有史以前の沼地みたいなありさまだった。木の下からはギャツビーの広大な屋敷のほかに見るべきものがなかった。だからぼくは、教会の尖塔を見つめるカントのごとく、三十分ばかりその屋敷を見つめていた。十年ほど前、「昔風」が熱狂的にもてはやされるようになったころに、ひとりの酒造業者が建てた屋敷だ。そこにまつわるひとつの物語がある。この酒造業者は、もし近隣の家々の所有者が自宅の屋根を藁葺にしてくれれば向こう五年の税金を払おう、と言ったそうだ。おそらく、自分の提案が人々から拒絶されたことが、家を起こそうという男の野心を傷めつけたのだろう――男はあっという間に衰えてしまった。そして子供たちは家のドアに掲げられた喪章も外されないうちにその家を売却した。アメリカ人は、農奴たることはときに積極的に望みさえする一方で、小作農たることはいつもいつも断固として拒むものなのだ。
三十分後、ふたたび太陽が輝きはじめ、食料品店の自動車が使用人用の食材を積んでギャツビー邸の私道に入っていった――ギャツビーはスプーン一杯分も口にしようとすまいとぼくは見ていた。一人のメイドがギャツビー邸の上の窓を開けはじめた。窓を開けるたび、その姿を外にさらす。中央の湾曲した窓を開けたところで、そこから大きく身を乗り出し、なにか物思いにふけりながら、庭に唾を吐いた。そろそろぼくは家にもどることにした。雨が続いている間は雨音が、二人の、ほとばしる感情のままに響き高まる囁き声のように思えていた。けれども、いまの静寂の中においてぼくは、その静寂が家の中にも垂れこめているのではという気がしていた。
ぼくは室内に入った――入る前にキッチンで、コンロをひっくりかえすのだけは遠慮しておいたけれど、ありとあらゆる騒音を立てておいた――が、二人の耳に届いていたとは思えない。寝椅子の両端に座った二人は、どちらかが質問を口にしたばかりだとか、あるいはその質問の答えが待たれているかのように、黙ったまま見つめあっていた。あのとまどいはもう微塵も残っていなかった。デイジーの顔には涙の跡が光っていた。ぼくが入ってくるのを見たデイジーは飛びあがるように席を立って、鏡に向かい、ハンカチで顔をぬぐった。だが、ギャツビーに訪れていた変化はただただ困ったものだった。顔をまさしく輝かせ、喜びの言葉ひとつ口にせず、喜びのそぶりひとつみせないうちにも、手にしたばかりの幸福感を全身から発散しては、小さな部屋を満たしていたのだ。
「ああ、よくお帰りになりました、尊公」まるでぼくと何年も隔てられていたような挨拶だ。一瞬、握手するつもりかと思った。
「雨はあがりましたよ」
「そうなのですか?」ぼくが言っていることを、室内に射した陽光を見て認識したギャツビーは、天気予報のにっこりマークそっくりな笑顔を浮かべ、このニュースをデイジーに向かってくりかえした。「どう思いますか? 雨はやみましたよ」
「うれしい、ジェイ」という声は、苦痛に満ち、可憐な嘆きを含んだものだったけど、それはただ予期しなかった喜びを告げるものにすぎなかった。
「お二人とも、私の家に顔を出して行って貰えませんか? デイジーにいろいろと見せて差し上げたい」
「本気でぼくにもきて欲しいと思ってるんですか?」
「無論ですとも、尊公」
デイジーは顔を洗うため二階に上がった――ぼくはタオルの状態を思い出し、しまったと思ったが、もう遅い――その間、ギャツビーとぼくとは芝生で待った。
「私の家、見事なものでしょう?」とギャツビーが言った。「ご覧なさい、正面全体が光を浴びているあの様子」
ぼくもその壮麗さを認めた。
「そう」とギャツビーは、アーチ型の扉ひとつひとつを見、角張った塔ひとつひとつを見た。「買い取る資金を作るのに丁度三年かかりましたよ」
「財産は相続したんだと思ってました」
「そうですとも、尊公」と反射的な答え。「ですが大恐慌で殆ど失くしてしまいましてね――大戦後の恐慌で」
かれは自分が何を言っているのか分かっていなかったのではないかと思う。というのも、かれがどんな仕事をしているのか尋ねてみると、「あなたには関係のない事です」と言ってから、改めてその返事の不適切さに気づいたようだった。
「いや、色々とやって参りました」と前言を訂正する。「薬の仕事をやり、その後、石油の仕事もやりました。ですが、今はそのどちらにも携わっておりません」そう言うと、前よりも注意をこめてぼくを見つめた。「いつかの晩に私から提案させて頂いた件を考え直して下さったという事ですか?」
ぼくが答えを返す前に、デイジーが家から出てきた。縦二列に並んだ真鍮のボタンが陽光にきらめいた。
「あそこの、あそこの大きなところ?」と指差しながら叫んだ。
「気に入りましたか?」
「とっても。でもひとりでどういうふうに暮らしてるの?」
「昼も夜も面白い人達で一杯にしているのですよ。面白いことをやっている人達。著名人ですね」
ぼくらは海峡沿いの近道をとらず、道に出て、大きな裏門から中に入った。デイジーは聞き手を惹きつける囁き声で、屋敷全体が大空を切り取るそのシルエットの封建時代風の趣きを称え、黄水仙の弾けるような香り、いまが盛りの山査子と李が放つ泡立つような香り、さらには大毛蓼の淡い金色の香りただよう庭を称えた。違和感があったのは、大理石のステップにまできても、戸内外に華麗なドレスのはためきも見えず、物音はといえば木立から鳥のさえずりしか聞こえてこなかったせいだ。
中に入り、みんなでマリー・アントワネット風の音楽室や王政復古時代風のサロンをさまよい進みながら、ぼくは、どの寝椅子、どのテーブルの影にも客人たちが隠れていて、命令に従い、ぼくらが通り抜けるまでひっそりと息を殺しているような感じを受けた。ギャツビーが「マートン大学図書館」のドアに近づいたときは、確かに、梟目の男の亡霊じみた笑い声がぼくの耳朶をうった。
ぼくらは二階にあがり、薔薇色や藤色の絹布でつつまれ、つみたての花々で色鮮やかに飾りたてられた時代風なベッドルームを通り抜け、いくつもの化粧室やビリヤードルームや、浴槽が床に埋め込まれたバスルームを抜けた――またある部屋に入り込んだところ、そこにはパジャマを着ただらしない格好の男が、床で強肝体操をやっていた。ミスター・クリップスプリンガー、別名「下宿人」だった。あの朝ぼくは、かれがひもじそうにビーチを歩き回っているのを目撃していた。やがて、ぼくらはギャツビー自身の部屋にきた。ベッドルームとバスルーム、アダム様式の書斎。ぼくらはそこに腰を落ち着けて、ギャツビーが壁の戸棚から取り出してきたシャルトリューズらしきものを、グラスに注いで飲んだ。
ギャツビーは片時たりともデイジーから目を離さなかった。たぶんかれは、自邸にあるものひとつひとつを、それがデイジーからうっとりした眼差しをどれくらい引き出せたかという基準でもって、再評価していたのだと思う。時折、かれも一緒になって周囲にある自分の財産を呆然として見つめた。まるで、デイジーがここにいるという驚く他ない事実の前に、そのうちひとつとしてリアルには思えないと言わんばかりに。一度など、すんでのところで階段を踏み外すところだったのだ。
かれの寝室はいちばん質素な部屋だった――ドレッサーの中に見える、鈍い黄金色の光を放つ化粧道具のセットをのぞいては。デイジーは大喜びでブラシを手に取り、髪を梳いた。するとすぐ、ギャツビーは腰を下ろし、眉の辺りを手で抑えながら笑い出した。
「変なことですよね、尊公」とかれは浮かれたようすで言った。「私はどうしても――わたしがやろうとするといつも――」
かれは、見た目からも明らかに、第一、第二の状態を抜け、第三の状態に移行していた。戸惑いと理非もない喜びの末、いまやかれはデイジーがここにいるということに胸を高鳴らせつづけることにくたびれていた。長い間、かれはこのことを目一杯考え、その正しい道筋を結末まで夢み、言うなれば、思いもつかないほどに堅く歯を食いしばって待ちつづけてきたのだ。いまやその反動がやってきて、すりきれた時計のように止まってしまっていた。
間もなく自分をとりもどしたギャツビーは、二つの大きな特製キャビネットを開き、ぼくたちに中が見えるようにした。スーツ、ガウン、ネクタイがひとまとめにしてあり、それから、シャツの束が煉瓦みたいにうずたかく積み上げられていた。
「イギリスにいる知り合いが私に洋服を買ってくれるのですよ。毎シーズン、春と秋の頭にこれはというものを選んで送りつけてくるのです」
ギャツビーはワイシャツの束を取りだし、一枚一枚、ぼくらの目の前に放り投げはじめた。薄手のリネンのシャツ、厚手のシルクのシャツ、洒落たフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、テーブルの上に彩り豊かに散り積もっていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投じ、ふかふかの山はさらに高く伸びる――横縞・縦縞・格子の模様、珊瑚色・青林檎色・藤色・薄橙色の布地、インディアン・ブルーの飾文字。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。
「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」
家を見た後は、庭やプールやモーターボートや真夏の花々を見物することにしていた――が、窓の外ではふたたび雨が降りはじめたため、ぼくらは窓際に一列に並んで海峡の波打つ水面を眺めた。
「もし霧がかっていなければ、湾の向こうにあなたの家が見えたのですけどね」とギャツビー。「いつもいつも、緑色の光が一晩中桟橋の先に灯されている」
デイジーは唐突にギャツビーの体に腕を伸ばしたけれど、ギャツビーはいま自分が言ったことに気を取られていたように見えた。もしかしたら、あの灯りの巨大な意味が永遠に消滅してしまったことを思わずにいられなかったのかもしれない。かれとデイジーを隔てていた長大な距離と比べれば、その灯りとデイジーとは、近くも近く、ほとんど触れんばかりの距離にあるように思えたのだろう。星から月までの距離と同じくらいの近さに。いまふたたび、それは桟橋にある緑色の灯りにすぎなくなった。かれの心を魅了していたものが、ひとつ、減ったわけだ。
ぼくは部屋の中を歩き回っては薄暗がりの中のぼんやりとした物体の数々を調べはじめた。ヨット用の服装をした中年男の大きな写真がぼくの心に引っかかった。その写真は机が寄せられている壁に掛かっていた。
「これはどなたです?」
「あれのことですか? あれはミスター・ダン・コーディーですよ、尊公」
耳馴染みのある名前のような気がした。
「もう亡くなりました。何年か前までは、私の一番大切な友達でしたよ」
小箪笥の上に、同じくヨット用の服装に身を包んだギャツビーの小さな写真が置かれていた――頭を挑戦的に後ろに反らしたギャツビー――十八のころの写真だろう。
「いいなあ」とデイジーが叫んだ。「ポンパドール! こんなの持ってるって言ってなかったじゃない、ポンパドール――というかヨットを」
「これをご覧下さい」とギャツビーはあわてて言った。「切り抜きが沢山あるのですよ――あなたについての」
それをじっくり見ようと、二人は肩を並べて立った。ぼくがルビーを見せて欲しいと頼もうとしたとき、電話が鳴り、ギャツビーは受話器を取った。
「そうです……いや、いまはお話しできませんね……いまはお話しできないのですよ、尊公……私は、ち・い・さ・な・町と申し上げました……小さな町といえばどこか、あの方には分かるはずです……ふむ、あの方が小さな町と言われてデトロイトを思い浮かべるようでは、我々としても始末に困ってしまいますね……」
電話を切る。
「こっちきて、はやくはやくぅ!」とデイジーが窓の外を見つめながら叫んだ。
雨足は相変わらずだったけど、闇には西のほうから切れ目が走り、もこもこ、ふわふわとうねる雲は、ピンク色と黄金色の大渦になって、海上の空に広がっていた。
「あれ見て」とデイジーは呟くように言い、しばらくしてから、「あのピンク色の雲をひとつ捕まえて、その中にあなたを押しこんで、あちこち連れまわしてみたいな」
ぼくは帰ろうとしたのだけど、二人はどうしても聞き入れなかった。ひょっとしたら、二人だけでいるよりも、ぼくが一緒にいたほうがいっそう満足できそうな気分だったのかもしれない。
「そうだ、こうしましょう」とギャツビー。「クリップスプリンガーのピアノをみんなで聞くのです」
ギャツビーは「ユーイング!」と呼びながら部屋を出ていった。それから間もなく、戸惑ったようすの、若干疲れが見える青年を伴ってもどってきた。鼈甲縁の眼鏡をかけた、薄い金髪の男。いまは、襟の開いた「スポーツシャツ」にスニーカー、ぼんやりした色合いのズボンというきちんとした服装になっている。
「運動のお邪魔ではなかったでしょうか?」とデイジーが礼儀正しく訊ねた。
「寝ていました」とクリップスプリンガーは、当惑をあらわに叫んだ。「つまりですね、ぼくは眠っていたんです。それから起きて……」
「クリップスプリンガーはピアノを弾くのです」とギャツビーはクリップスプリンガーの言葉をさえぎった。「ね、ユーイング、そうですよね」
「うまく弾けませんよ。弾けません――ピアノ、ほとんど弾いてないんですから。まったくの練――」
「下に降りましょう」と言ってギャツビーはスイッチを入れた。家中に光が満ち、灰色の窓は消え去った。
音楽室に入ったギャツビーは、ピアノの傍らのランプだけを灯した。震える手につまんだマッチでデイジーの葉巻に火をつけ、二人一緒に部屋の離れた場所にあった寝椅子に腰を下ろした。そのあたりまでには光が届いておらず、ただ、床の反射光がホールから漏れこんできているばかりだった。
クリップスプリンガーは『愛の巣』を弾き終えると、椅子に座ったままふりかえり、辛そうなようすで、薄暗がりにギャツビーの姿を探しもとめた。
「まったく練習してないんですよ。弾けないって言ったでしょう。まったく練――」
「そうごちゃごちゃ言わないで下さいよ、尊公」とギャツビーは頭ごなしに言った。「弾くんです!」
'In the morning,
In the evening,
Ain't we got fun - '
外では風が音を立てて吹き荒れ、海峡沿岸にかすかな雷鳴が響きわたった。ウェスト・エッグの各戸に明りが灯りはじめ、人間を運ぶ電車はニューヨークを発ち、雨中、家路を驀進する。人間が意味深い変化を遂げる刻限であり、あたりには興奮した雰囲気が作られつつあった。
'One thing's sure and nothing's surer
The rich get richer and the poor get - children.
In the meantime,
In between time - '
別れの挨拶をしようと近づいてみたぼくは、ギャツビーの顔に途方にくれたようすがもどってきているのに気づいた。まるで、今現在の幸福感の質にふとした疑問がわきあがったかのように。五年近い歳月! あの午後ですら、デイジーがギャツビーの夢をうち欠いた瞬間が何度かあったに違いない――それはデイジーの過ちからではなく、ギャツビーの幻想がもつ桁外れのバイタリティのせいだ。それはデイジーよりも先まで、なによりも先まで突っ走っていってしまう。ギャツビーは我が身をクリエイティブな情熱をもってその幻想に投入し、日増しにその幻想に新たな要素を描き足しながら、思うまま、鮮やかな羽根すべてでもって飾りたてた。いかに情熱を捧げたとしても、いかに溌剌と向き合ったとしても、男が己の心に築き上げる幻に挑むことなど叶わないのだ。
そう思いながら見ているうちに、どうやらギャツビーは少し気をとりなおしたようだった。手を伸ばしてデイジーの手を握り締める。デイジーがその耳に何事かを低くささやくと、かれは、思いのたけをぶつけるように、体ごとデイジーに向きなおった。思うに、情熱的な暖かさを帯びて上に下に揺れるあの声は、なによりもギャツビーを捕らえていたはずだ。というのも、それは夢にすら見られないものだったから――あの声は滅びを知らぬ歌だった。
二人はぼくのことを忘れていた。デイジーは視線を上げ、手を差し伸べた。ギャツビーの目にぼくはまったく映っていなかった。ぼくはもう一度二人を見つめた。人生のもりあがりに夢中になっていた二人はぼくをよそよそしく見つめかえした。ぼくは部屋を出て、大理石のステップを雨の中に向かって降りていった。二人をそこに残したままで。