グレイト・ギャツビー, フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド

第六章


このころのとある朝、ニューヨークの野心に燃える若手記者がギャツビーの屋敷にやってきて、何か言うことはないかと尋ねた。

「何に対してですか?」とギャツビーは礼儀正しく問い返した。

「そのまあ――たとえば声明とか」

五分ほどの要領を得ないやりとりの後わかったのだが、どうやらこの男は会社で人伝手にギャツビーの名前を耳にしたらしい。といってもその伝手について、どういう伝手かを明らかにしようとはしなかったし、そもそも完全には理解していなかったのだろう。その日は休みだったその男は、「百聞ひゃくぶん一見いっけんかず」というわけで、まったく熱心なことにロング・アイランドまで飛んできたのだ。

それは闇夜やみよの鉄砲とでもいうべきものだったけど、記者の本能は正しかった。ギャツビーの悪名は、かれのもてなしを享受きょうじゅしたがゆえにかれについていっぱしの権威になっていた何百という連中によって喧伝され、もはや話題にも何にもなりようがないところまできていた。たとえば、「カナダへのアンダーグラウンドなパイプライン」みたいな現代的伝説がかれの身辺にまつわり、また、ギャツビーはひとところに住んでいるわけではまったくなくて、屋敷のように見える船舶に住みこみ、ロング・アイランドの海岸を密かに上り下りしているのだと、しつこく噂されていた。こうした突拍子とっぴょうしもない思いつきがなぜにノース・ダコタのジェイムズ・ギャッツを満足させるにいたったのか、語るのはたやすいことではない。

ジェイムズ・ギャッツ――それがかれの本当の名前だ。というか、戸籍上の名前はとりあえずそうなっている。十七才のかれは、自分のキャリアのスタートを目の当たりにしたその刹那せつな、名前を変えたのだ――つまり、ダン・コーディーのヨットが、スペリオール湖でもっともいやらしい浅瀬に投錨とうびょうするのを見たときに。あの午後、破れた緑色のジャージにデニムのパンツという格好で海岸をうろついていたのは確かにジェイムズ・ギャッツだったが、借り出したボートをツオロミー号に漕ぎよせ、そこに停泊したまま三十分も経てば風にやられてしまうと通知したのは、ジェイ・ギャツビーだった。

かれは、その当時すでに、ずいぶん長いことその名前を胸に温めていたのだと思う。無気力な敗残の百姓である両親――かれの想像力は、かれらを己の両親としてはけっして受けいれようとはしなかった。本当のところ、ロング・アイランドはウェスト・エッグのジェイ・ギャツビーは、自ら思い描いたプラトニックな構想から生まれでたのだ。かれは神の御子みこだった――もしこのフレーズになんらかの意味があるのだとしたらつまりそういうことなのだ――その父である神の御技みわざ、つまりは俗悪な美のために、どこまでも尽くさなければならない。だからかれはジェイ・ギャツビーというまさしく十七才の少年が思いつきそうな人格を考案し、その構想に最後まで忠実だったわけだ。

一年以上、蛤を掘り、鮭を釣り、そのほか、寝食をあがなってくれる仕事をなんでもこなしながら、スペリオール湖の南岸をさまよいつづけていた。かれの引き締まった褐色の肉体が、過酷ながらも惰性に満ちた仕事をこなしつつ、アクティブな日々を生き抜いてみせたのは当然のことだ。かれは早くから女を知っていたけれど、女たちがかれをちやほやしてからというもの、かれは女たちを軽蔑するようになった。というのも、若い処女は無知だし、若い処女でなければ、ひたすら自分のことにかまけているかれにとってすれば当然のことにヒステリックに反応するものだから。

けれども、かれの心はずっと騒然とした状態にあった。なによりファンタスティックで、なによりグロテスクな自負心が、夜、ベッドに入ったかれを襲った。洗面台に置かれた時計が時を刻み、月が床に脱ぎ散らかされた服を照らし出す中、かれの頭の中では筆舌ひつぜつに尽くしがたくけばけばしい世界がとぐろを巻いていた。まどろみの抱擁ほうようを受けて描かれる鮮やかな情景にいつともなく幕が下ろされるまで、夜ごと、己の妄想に新たなパターンを付け加えていったのだ。こうした夢想は、しばらくの間、かれの想像力のけ口になっていた。なんとなくでも現実が非現実的に思えてくるのは心が満たされたものだし、岩のように思える世界が実は妖精ようせいの羽の上にあるのだと請けあってもくれた。

それより何ヶ月か前、将来の栄光に導かれ、南ミネソタ州のセント・オーラフにある小さなルーテル派の大学の門をたたいたことがある。そこには二週間滞在したが、かれの運命の鼓動に対し、かれの運命そのものに対し、大学は、学費を支払うために警備員をやるよう指示し、その仕事を軽蔑したかれは、大学の恐ろしく冷淡な態度に幻滅してしまった。それからふたたびスペリオール湖に流れ、ダン・コーディーのヨットが浅瀬に投錨したときも、その日やることを探しているところだった。

コーディーは当時五十、ネバダの銀床やユーコンの砂金といった、一八七五年以来のありとあらゆる貴金属ラッシュが生み出した人物だ。かれを一介の百万長者どころでない金満家にしたてたモンタナでの銅取引では、肉体的にはたくましいかれも、精神的にはもう少しで柔和にゅうわといえそうなところがあるのが見出され、それに感づいた女たちは、数限りなくよってたかってかれとかれの金とを引き離そうとした。その中でも、エラ・ケイという、コーディーの弱さに対してマダム・ド・マントノンの役割を演じた女記者が、コーディーをヨットに乗せて海に送り出すのに用いたあまりにもけしからぬ手管てくだは、一九〇二年の声ばかり大きいジャーナリストたちの共有財産となっていた。そしてコーディーは、五年にわたってひどく居心地のよい港町に片っ端から寄ってまわるうち、期せずして、リトル・ガール湾でジェイムズ・ギャッツの運命と交わったのだ。

若き日のギャッツが、オールを漕ぐその手を休め、欄干らんかんが設けられたデッキを見上げる。かれにとって、あのヨットはこの世界の美しさと華やかさをあらわすものだった。たぶん、かれはコーディーにほほえんでみせたことだろう――おそらくそのときはもう、自分のほほえみに人々が好意を寄せてくれることに気がついていただろうから。ともかく、いくつか質問をしてみたコーディーは(その質問のひとつに答えて、真新しい名前が飛び出したわけだ)、その若者の利口さや弾けんばかりの野心に気づいた。数日後、かれをダラスにつれていったコーディーは、青い上着と六着の白い麻のズボンとヨット帽を買い与えた。そして、ツオロミー号が西インド諸島やバーバリー海岸目指して帆を上げたとき、ギャツビーもまたその地を去った。

かれは特に決まった形で雇われたわけではなかった――コーディーに付き従っている間、給仕にもなったし、船員にもなったし、船長だったこともあるし、秘書を務めたこともあれば、果ては看守にさえなったことがある。というのも、素面のダン・コーディーは、酔ったダン・コーディーがどんなに馬鹿げたことをしでかすかとくと心得ていて、そういう不慮の事態に、ギャツビーへの信頼を深めていくことによって備えておこうとしたからだ。こうした状態が五年間続き、その間、船は大陸を三周した。もしも、エラ・ケイがボストンで乗りこんできた夜から一週間後につれなくもコーディーが死んでしまうようなことがなかったとしたら、それはいつまでも続いていたかもしれない。

ぼくはギャツビーの寝室にかかっていたダン・コーディーの肖像をまだ覚えている。近寄りがたく、無表情な赤ら顔で、髪には白いものが混じっている――放蕩無頼ほうとうぶらいの開拓者、アメリカ史の一時期に、フロンティアの売春宿や酒場といった粗野な代物を東部へ持ちかえった連中である。ギャツビーがほとんど酒を飲まないのも、間接的にはコーディーのせいだった。ときに、女たちが酔った勢いでシャンパンをかれの髪にすりこんだりしたものだ。かれ自身は、酒には一切手をふれないようにしていた。

そしてかれが相続した金もまた、コーディーのものだったのだ――二万五千ドルの遺産だ。かれはそれを手にしていない。自分に対してどんな法律的術策が用いられたのか、かれにはまったく理解できなかったのだけど、遺された数百万の遺産はそっくりそのままエラ・ケイの手に渡った。かれには妙に自分にあった教養だけが残された。ジェイ・ギャツビーという輪郭りんかくだけのおぼろな人格が、一人の男の骨頂こっちょうで満たされたというわけだ。


以上の話をかれから聞いたのはかなり後のことだけど、最初に述べた、かれの過去についてのでたらめな噂をくつがえすため、ここにはさみこんでおくことにする。あの噂は少しも本当のことではない。しかも、この話を聞かされたときは、何もかもが混乱こんらんしていた時期であり、ギャツビーに関する何もかもが信じられそうで、何もかもが信じられなさそうな、そんな時期だった。だからぼくはこの小休止を利用し、言うなれば、ギャツビーが一息ひといき入れているすきをついて、上の誤解を明確にしておこうと思う。

休止といえば、ぼくとかれとの関係もしばらくの間空白があった。何週間か、ぼくはかれを見かけなかったし、電話で声を聞くこともなかった――ほとんどの時間をジョーダンとニューヨークで過ごし、彼女の叔母に気に入られようとやっきになっていた――けれどもそのうちとうとう、ある日曜日の午後に、ぼくはギャツビーの家に出向いた。ぼくがきてから二分もしないうちに、だれかがトム・ブキャナンをつれて飲みにやってきた。ぼくはとうぜんのことながらぎくりとしたけれど、この事態がいまさらに出来しゅったいしたことこそがほんとうに驚くべきことだった。

馬に乗ってやってきた三人の内訳は、まずトム、それからスローンという名前の男、最後に、茶色の乗馬服に身を包んだ綺麗な女。女は以前にもここにきていたことがある。

「よくいらっしゃいました」とギャツビーはポーチに立って言った。「お立ち寄り頂き嬉しく思います」

この連中が気を使ってくれているとでも?

「どうぞお座りください。煙草か葉巻でもどうぞ」かれはきびきびと部屋の向こうに歩いていって、りんを鳴らした。「すぐにお飲み物を用意いたしますので」

ギャツビーは、トムがいるという事実に間違いなく影響されていた。だが、まずなすべきことは、どうやら何かを求めてやってきたらしいこの連中にその何かをくれてやることであり、それまでは何を考えるゆとりもなかっただろう。ミスター・スローンはなにも欲していなかった。レモネードでも? いえ結構です。ではシャンパンなどは? なにもいりませんよ、ありがとう……どうもすみません――

「馬は楽しめましたか?」

「このあたりは道がいい」

「たぶん、自動車は――」

「そうですね」

耐えがたい衝動しょうどうに襲われたギャツビーは、初対面なものとして紹介されたトムに向き直って、言った。

「以前にもどこかでお会いしたはずですよね、ミスター・ブキャナン」

「ああ、そうでした」とトムはしわがれ声で丁寧ていねいに答えたが、明らかに覚えてなどいなかった。「確かにお会いしました。よく覚えていますよ」

「二週間ほど前に」

「そのとおりです。あなたはここにいるニックと一緒でした」

「私はあなたの奥さまを存じ上げております」とギャツビーはほとんど切りこむような口ぶりだ。

「それはそれは」

トムはぼくのほうを向いた。

「ニックはこのあたりに住んでいるわけか?」

「隣だよ」

「それはそれは」

ミスター・スローンは会話には加わらず、椅子にふんぞり返って座っていた。女もまた一言も口を利かなかったが、ハイボールを二杯干した後、不意に饒舌じょうぜつになった。

「次のパーティーに私たちもきていいですか、ミスター・ギャツビー。何も問題がなければですが」

「問題ありませんとも。大歓迎ですよ」

「ありがたいことです」とミスター・スローンは言ったが、あまりありがたそうではなかった。「さて――そろそろ引き上げたほうがよさそうですな」

「そう急がないで下さい」とギャツビーはしきりに言った。いまや自制心をとりもどしたかれは、もっとトムのことを知りたいと思っていたのだ。「なぜまた――なぜまた夕食までお残り頂けないのですか? きっとニューヨークからどなたかお出でになりますよ」

「私のところの夕食においでになりませんか?」と女が熱心に言いつのった。「あなたがたお二人で」

ここにはぼくも含まれていた。ミスター・スローンは立ちあがった。

「行こう」と言った――が、これは女だけに向けられたものだ。

「私は本気よ」と女は食い下がった。「あなたがたと一緒に夕食をとりたいの。人数に余裕はあるし」

ギャツビーはぼくに問い掛けるような眼差まなざしを向けた。かれは行きたがっていた。けれどもかれにはミスター・スローンの、きてほしくないと思っている気配が読めていなかった。

「残念ですけど、ぼくは行けそうにありませんね」とぼくは言った。

「じゃあ、あなただけでも」と女はなおもギャツビーを誘う。

ミスター・スローンが何事かを女の耳元でささやいた。

「いまから出れば間に合うわよ」と大きな声で言い張る。

「私は馬を持っておりません。軍隊にいたころはよく乗っていたのですが、自分で買ったことはありませんでね。車でついていくしかありません。少々お時間を頂けますか」

ぼくらは外のポーチでギャツビーを待った。そこで、スローンと女は激しく言い争いはじめた。

「参ったな、あいつ、間違いなくくるつもりだぜ」とトム。「彼女がきてほしくないと思っているのが分からないものかね?」

「きてほしいって口では言ってたわけだしね」

「大きなパーティーなんだよ。あいつの知った顔などあるものか」と言って、眉をしかめる。「いったいどこでデイジーと会ったんだろう。まったく、おれの考え方が古いのかもしれんが、近頃の女はふらふらと出歩きすぎて気に入らん。妙なのと片っ端から会ってやがる」

とつぜん、ミスター・スローンと女がステップから降りてきて、それぞれ自分の馬にまたがった。

「行こう」とミスター・スローンがトムに言う。「おそくなった。もう行かないと」それからぼくに向かって、「あのひとには待ちきれなかったと言っておいてください。よろしいですか?」

ぼくとトムとは握手した。あとの二人とはそっけなく会釈えしゃくを交わした。かれらは軽やかに私道を駈けてゆき、ギャツビーが帽子と薄手のコートを手に玄関前に出てきたときは、ちょうど、八月の葉群はむらの下に消え去ろうとしているところだった。

デイジーがひとりで出歩くのを、トムは明らかに不安がっていた。というのも、きたる土曜日の夜にギャツビーが開いたパーティーに、デイジーについてやってきたからだ。トムがきているということがその夕べに妙な圧迫感を与えていたのだろう――その夏のギャツビーのパーティーのなかでも格別に記憶に残っている。顔ぶれはいつもと同じ。というか、少なくとも同じ種類の連中で、シャンパンの大盤振舞おおばんぶるまいもいつもどおり、雑多な色彩と音調が入り乱れているのも相変わらずだったけど、それでもぼくは、以前には見られなかったとげとげしさがたちこめたその場の雰囲気に不快感を覚えた。あるいは、ひょっとしてぼくがギャツビーのパーティーになじんでしまい、ウェスト・エッグという、独自の基準と独自の英雄像を持ち、そうであることを自覚していないからこそ他の追随ついずいを許さない土地を、それ自体で完結したひとつの世界として受け容れるようになっていたところが、いまそれを改めて見なおすにあたってデイジーの視点を借りたためなのかもしれない。ぼくらが一生懸命いっしょうけんめいに順応してきたなにかを新しい視点で見直していくのは、いつだって悲しみを呼ぶものだ。

トムとデイジーが到着したのは黄昏時たそがれどきだった。ぼくとギャツビーを伴って何百という精華せいかの間をうように歩き回る間、デイジーの声はささやくような無駄口を喉の奥で奏でていた。

「ここにきてからとってもわくわくしてる」とデイジーはささやくように言った。「今晩もしわたしにキスしたくなったらね、ニック、いつでもそう言って。よろこんで応えちゃうから。わたしの名前を口に出すだけでいい。じゃなきゃ、緑のカードを出すこと。わたし、緑のカードを配って――」

「あたりをごらんなさい」とギャツビーが言った。

「いま見てるところ。とっても素敵な――」

「名前くらいはお聞きの顔がたくさんあると思いますが」

トムは傲然と群集を見まわした。

「ぼくらはあまり外に出ませんでね。実際、見知った顔などひとつもないように思っていたところです」

「ひょっとしたらあの女性はご存知かもしれません」ギャツビーは白李しろすももの下に座っている女性のことを言っているのだ。人間ばなれした、らんの花みたいに絢爛けんらんな女だった。トムとデイジーは目を見張った。その眼差しには、それまで映画の中でしか見たことのなかった著名人を眼前にしたときに特有な、現実を疑うような気持ちがこめられていた。

「きれいなひとね」とデイジーは言った。

「あのひとに屈みこんでいるのはあのひとの映画を撮っている監督ですよ」

ギャツビーは儀式ばってトムとデイジーをいろんなグループに紹介していった。

「ミセス・ブキャナン……ミスター・ブキャナン――」それから一瞬ためらって、こう付け加えた。「かのポロ・プレイヤーの」

「まさか」とトムはあわてて否定した。「ぼくは『かの』なんてものじゃありませんよ」

だがその響きは明らかにギャツビーを悦に入らせていたのだ。その晩ずっとトムは「かのポロ・プレイヤー」として紹介されつづけたのだから。

「わたし、こんなにたくさんの有名人に会ったのはじめて」とデイジーは叫ぶように言った。「あのひと、気に入ったな――名前はなんだったっけ?――あの、ちょっと真面目ぶったひとなんだけど」

ギャツビーはその男の名前を言い、力のないプロデューサーだと付け加えた。

「そう。でもとにかくわたしは気に入った」

「ぼくはどっちかというと、かのポロ・プレイヤーでないほうがありがたいんですけどね」とトムが弾むような声で言った。「この高名な方々をただひたすらに見ていたいものです――すっかり忘れられた状態でね」

デイジーとギャツビーが踊った。かれの、古めかしいフォックス・トロットの優美さに驚かされた覚えがある――ぼくはそれまでかれの踊るところを一度も見たことがなかったのだ。それからかれらはパーティーを抜け出してぼくの家まで歩き、ステップに半時間ほど座っていた。ぼくはデイジーの求めに応じて庭の見張りに残った。「火事とか洪水とか」とデイジーの説明にいわく、「その他の天災が起きたらあれだから」

トムがかれの言うすっかり忘れられた状態から姿をあらわし、ぼくらが夕食の席を囲んでいるところにやってきた。「向こうの連中と食べることにしてもかまわないかな。妙な話をしてるのがいるんだよ」

「どうぞ」とデイジーが愛想よく言った。「だれかのアドレスを書きとめたくなったときは、わたしの金色の色鉛筆でも使えばいい」……デイジーはしばらくあたりを見渡してから、ぼくに向かい、その娘を「どこにでもいそうだけど、でも綺麗」と評した。デイジーは、ギャツビーとふたりきりで過ごした三十分を除けば、今夜のパーティーをさっぱり楽しんでいないのだと、ぼくは悟った。

ぼくらは異様に酔ったテーブルに座っていた。ぼくのミスだ――ギャツビーが電話がかかってきていると呼び出された後、ほんの二週間前に席を囲んだのと同じ顔ぶれの連中と楽しみたいと思ったのだ。けれども、あのときは面白く思ったものが、今回はただれた雰囲気にすりかわっていた。

「気分はどう、ミス・ベーデカー?」

話を振られた若い女は、ちょうど、ぼくの肩にしなだれかかろうとし、なかなかうまくいかずにいるところだった。問いかけを受けて、椅子に腰を下ろし、目を見はる。

「は?」

図体の大きい鈍重そうな女、これはデイジーを明日のローカルなクラブでのゴルフに誘っていた女だが、それがミス・ベーデカーの弁護をはじめた。

「ああ、大丈夫よ。いつもカクテルを五、六杯ひっかけるとあんなふうにわめきだすんだから。お酒はやめたほうがいいって、あたし、言ってるんだけどね」

「やめてるってば」とこれは形ばかりの反駁はんぱくだ。

「あんたが大声でわめいてるのが聞こえてきたからね、あたしはここにいるシベットせんせに言ったんだ。『せんせ、あんたの力を必要としてるのがいるんだ』って」

「感謝すべきだな、まったく」ともうひとりの友人が言ったが、あまりありがたそうではない。「でもあんた、あのひとの頭をプールに突っこんでドレスまでずぶぬれにしてしまったこともあったしね」

「なにが嫌って、自分の頭をプールに突っ込まれることほど嫌なものはない」とミス・ベーデカーが舌の回らない喋り方で言った。「一度なんか、あの連中、ニュージャージーであたしを溺れさせるところだったんだから」

「じゃあ酒をやめることですな」とドクター・シベットが反撃した。

「自分はどうなのよ!」とミス・ベーデカーは猛然と叫んだ。「手が震えてるくせに。あんたの手術なんて、あたしは絶対にお断りだね!」

こんな感じだった。ぼくの記憶では、最後あたりはデイジーと並んで立って、映画監督とそのスターとを眺めていたはずだ。二人はまだ白李しろすももの下にいて、お互いの顔を触れんばかりに近づけている。顔と顔の間には、月からの細い光が流れこんでいるだけだ。ふとぼくは思った。かれは一晩かけてごくゆっくりと彼女の方へと身をかがめていき、ついにこの距離にまで達したのではないか、と。ぼくが見守っているうちに、かれは最後のひとかがみを極め、彼女の頬にキスをした。

「あのひとのこと、気に入ったな」とデイジーが言った。「きれいなひとだと思う」

けれどもその他はデイジーの気に触った――その理由は、議論の余地もなく、身振りや仕草の問題ではなくて、感情的な問題だった。ブロードウェイがロング・アイランドの一漁村にこしらえたウェスト・エッグという先例のない「場所」に、彼女は恐れをなしていた――昔ながらの回りくどい会話の皮下にある生々しい精力や、無から無へと通じる近道に人々を群がらせる、あまりにも押しつけがましい運命観に、恐れをなしたのだ。自分には理解できない単細胞さに、デイジーは何かおぞましいものを見出していた。

トムとデイジーが車を待つ間、ぼくもかれらと並んで玄関前のステップに座りこんでいた。あたりは真っ暗で、ただ戸口から漏れくる明かりが三平方メートルほどの光を夜明け前の柔らかな闇から打ち出していた。時折、頭上の更衣室に下ろされたブラインドの向こうで人影が動き、もうひとつの人影に場所を譲った。ここからは見えない鏡に向かってルージュをひき、パウダーをはたくひとたち。

「とにかく、ここのギャツビーってのはどういうやつなんだ?」と不意にトムが絡んだ。「派手に酒の密造でもやってるのか?」

「どこでそんなことを聞いたんだ?」とぼくは訊ねた。

「聞いたわけじゃない。想像だよ。最近の成金どもは大抵酒の密造をやってるもんだからな」

「ギャツビーは違う」ぼくは短く答えた。

かれはちょっとだけ黙った。私道に敷き詰められた砂利じゃりがかれの足元で擦れ合う音をたてた。

「まあ、ここまで妙な生き物を揃えてみせたんだ、さぞ苦しみもあったはずだな」

かすかな風が吹き、デイジーの首もとの、煙るような灰色の毛皮のえりをそよがせた。

「少なくともわたしたちが知ってるひとたちより面白いとは思ったけど」とデイジーは無理してそう言った。

「言うほど面白がっていたようには見えなかったがね」

「ふうん。わたしは面白がってたんだけど」

トムは笑い飛ばしてぼくのほうに向き直った。

「気がついてたか、あのとき、あの娘からシャワー室までつれていってくれって頼まれたときのデイジーの顔?」

デイジーは、かすれた律動的なささやき声で口ずさみはじめた。一語一語に、これまでにない、そしてこれからくりかえされることもなさそうな意味をこめて。曲が高い音域に達するとデイジーの声音は甘く乱れ、コントラルトとしては常のやり方ながら、それに合わせてキーを変えるたび、デイジーが持つ人間的魅力という魔法があたりに切り出されてゆく。

「招かれもしないのにやってくるひとがたくさんいるのよ」とデイジーはふと言いだした。「あの子だって招かれてたわけじゃない。ああいう、無理やりやってくるひとたちを、あのひとは礼儀正しすぎて追い帰せないだけ」

「あのひとってのが何者で何をやってるのか、それを知りたいものだね」とトムはなおも言う。「いまにきっとつきとめてやる」

「知りたいならいまここで教えてあげる」とデイジー。「ドラッグストアとかを持ってたの、ドラッグストアをたくさん。あのひとが自分で作った」

すっかり遅くなったリムジンが私道をこちらに向かってきた。

「おやすみなさい、ニック」とデイジーが言った。

デイジーの視線がぼくを離れ、ステップの光があたっているところを探った。そこに、開いたドアから、その年流行った聞き心地のいい悲しげな小ワルツ、『スリー・オクロック・イン・ザ・モーニング』が溢れだしていた。結局のところ、ギャツビーのパーティーのさりげなさにこそ、デイジーの世界にはまったく存在していないロマンティックな可能性があったのだ。家の中にもどってくるよう、デイジーに呼びかけるあの歌の中に何がこめられていたのか? この先、見当もつかないほど遥かでおぼろな未来に、いったい何が起きようというのか? あるいは、信じられないようなゲストが到着し、それが驚いてしかるべきかぎりなく珍しい人物、若く美しい女性で、ギャツビーをほんの一目、見る。その超常的な邂逅かいこうの瞬間、揺るぎなく愛を捧げつづけた五年間は消し飛ばされてしまうかもしれないのだ。

ぼくは夜遅くまで残った。ギャツビーから、自分の手が空くまで待っていて欲しいと頼まれたからだ。ぼくは庭に居残った。やがていつもどおりに泳ぎに行っていた連中が、冷えきり、ほろ酔い加減で、暗いビーチから駈けあがってくる。二階の客室の電気が消える。それからやっとギャツビーがステップを降りてきた。日焼けした顔にはいつもと違った緊張の色が見え、瞳はぎらぎら光って、いかにも疲れているようだった。

「デイジーは気に入らなかった」とかれは前置きもなく言った。

「気に入ってたに決まってるじゃないか」

「デイジーは気に入らなかった」と言い張る。「楽しく過ごせなかった」

かれは黙りこんだ。口には出せないほどに気落ちしているのだと思われた。

「あのひとが酷く遠く感じられるのです。中々分かって貰えない」

「つまりダンスのこと?」

「ダンス?」かれは自分が踊ったダンスというダンスをまとめて払いのけるように指を鳴らした。「尊公、ダンスなんて大したことではありません」

ギャツビーがデイジーに望んでいたことは、他でもない、トムのところに行って「あなたのことなんか愛したことない」と言ってのけることだった。その発言で四年の歳月を解消した後、採るべき現実的手段を決める。そうした計画のひとつは、自由になって実家にもどった彼女とルイビルで結婚するというものだった――ちょうど、五年の歳月を巻きもどすようにして。

「でも、あのひとは分かってくれない。昔は分かってくれるひとだったのに。私達は何時間も一緒に座って――」

そこでかれは口を閉ざし、果物の皮、破棄はきされた贈り物、ひしゃげた花々で散らかっている小道を、行ったり来たりしはじめた。

「ぼくだったらそんなに多くは求めないけどな」ぼくは思いきって言った。「過去はくりかえせないよ」

「過去はくりかえせない?」とギャツビーは疑わしげに叫んだ。「何を言うのです、勿論もちろんくりかえせますよ!」

かれは勢いよく周囲を見まわした。過去はこの家の影に潜んでいて、ただ手の届かない場所にあるだけだとでも思ったのか。

「私は何もかもを以前と同じ状態に直すつもりです」と言い、断固としてうなずいた。「あのひとも分かってくれることでしょう」

ギャツビーは過去のことを延々と話した。ぼくはいろいろと考えあわせ、かれは、自分自身のとらえ方などといった、かれにデイジーを愛させた何かをとりもどそうとしているのだ、と結論した。デイジーを愛するようになってからというもの、かれの人生は混乱し、無秩序に進行していったけれども、いったん特定の場所まで立ち返ってそこからゆっくりと全体をたどりなおすことができたならば、かれにも見つけ出せただろう、かれにデイジーを愛させたものの正体を……。

……とある、五年前の秋の夜、枯葉の舞い散る中、通りを散歩していた二人は、やがて一本の樹木もない場所に出た。足元の道が月光に白く照り輝いている。二人はそこで立ち止まり、お互いに顔を見合わせた。その夜のひんやりとした空気は、なぜか胸騒ぎを覚えさせるような、年に二度訪れる変化のときにおなじみのものだった。家々の静かな灯りがやみに向けてハミングし、星々はせわしなく動きまわった。ギャツビーは、その瞳の片隅で、歩道のブロックが本物の梯子はしごのように伸びて、木々の上に隠された秘密の場所へと通じているのを認めた――かれはそれを昇ることができた、もしひとりで昇るのならば。昇りさえすれば、その先にある命のパン粥をすすり、比肩するものなき驚異のミルクを飲みくだせたことだろう。

デイジーの白い顔がかれに近づくにつれ、ギャツビーの心臓の鼓動はますます速くなっていく。かれは知っていた。目の前の娘に口づけを与え、己の語りようのないほどのビジョンと娘のはかない吐息といきちぎらせてしまえば、もはや、かれの精神は神の精神のようには飛び回ることができなくなるのだ。だからかれはじっと待った。もうしばらくだけ、星を打つ音叉おんさの響きに耳を傾ける。それから、口づけした。唇がふれたとたん、ギャツビーの胸中におけるデイジーはみごとに花開き、生身なまみの存在であることをやめたのだ。

ギャツビーの話を聞きながら、そのおぞましいほどの感傷を感じていると、ぼくの頭の引出しの中から何かが飛び出してきそうになった――難解なリズム、なくした言葉の断片、ぼくがずっと昔にどこかで耳にしたもの。一瞬、それが言葉として形をとりそうになったけれど、ぼくは声を失ってしまったかのように、ただ口を開くことしかできなかった。そこに、一介の空気の振動どころではない、もっと苦闘を要する何かがこめられていたのだろうか。だが、それは音になりえず、ぼくがもう少しで思い出せたものが伝えられる機会は永遠に失われてしまった。


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