眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

華々しい人々


風向観測所管理者の公舎は、もしグラハムが十九世紀の生活からすぐさまそこに足を踏み入れたなら彼を仰天させたことだろう。しかし彼はすでにこの新しい時代の尺度に慣れてきていた。彼は、今ではおなじみになったスライド式のパネルの一つを通って、とても幅の広い緩やかな階段に続く踊り場に出た。これまで見た誰よりもきらびやかに着飾った男女が一緒にその階段を昇ったり降りたりしていた。その場所から彼は、つや消しされた白色や藤色や紫色の、繊細で多種多様な装飾で飾られた光景を見下ろした。陶材と金線細工でできているらしい橋が渡され、それは遠くに見える曇った神秘的な壁に穿たれた通路へと続いていた。

上へ目をやると、上空へ延びる何層もの空中廊下が見え、そこには彼を見下ろすたくさんの顔があった。空気はくぐもった無数の声と降り注ぐ音楽で満ちていた。陽気な、気分を引き立たせるような音楽だったが、それがどこから流れてくるのか彼には見当もつかなかった。

中央通路は人でいっぱいだったが、それは決して不愉快な人混みではなかった。全て合わせればそこに集まった人々は数千にも及ぶことは間違いない。人々はきらびやかで、幻想的とすら言えるような服を着ていて、女性同様、男性も想像を超えた装いだった。男性の装いは威厳がなければならないという清教徒的な真面目くさった考え方はずっと以前に消え去っていた。男性の髪もまた、長髪こそ珍しいものの、多くは理髪店で整えられたであろうやり方で巻かれ、禿げた頭は地球上から消え去っていた。ロセッティダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(一八二八年五月十二日-一八八二年四月十日)。イングランドの画家、詩人。を魅了させるような縮れたストレートカットの人々が大勢いたし、「好色家」という謎めいた肩書きでグラハムに紹介された紳士は、髪を二つに結んで三つ編みにしてマーガレットの花で飾っていた。弁髪もたくさんいた。中国系の市民はもはや自分の血筋を恥じてはいないようだった。着ている衣服の形には統一的な流行はほとんど見られない。多くの伊達男たちは膨らませた半ズボントランク・ホーズで均整美を誇示し、こちらではパフやスリットが、あちらではマントやローブが見られた。おそらく最も流行していたのはレオ十世の時代のファッションだったが、極東の美的コンセプトもまた顕著だった。ヴィクトリア朝時代には男性の肥満体はボタンを弾け飛ばす危険や、手足にぴったりと貼りつく夜会服による無慈悲なまでの誇張にさらされていたものだった。今でも肥満体はいたが、それは威厳ある風格の基礎となって衣服のひだの奥に隠されていた。優雅な痩せた姿もまた多かった。典型的な堅物の時代の典型的な堅物だったグラハムからすると、こうした男性たちはあまりに優雅すぎる姿をしているだけでなく、あまりによく変わる実に生き生きとした表情をしていた。彼らは大きな身振り手振りで驚きや興味や楽しさを表現し、とりわけ、周囲の婦人たちによってかき立てられた頭の中の感情を驚くほど率直に表現した。ひと目見ただけでも女性が大きな多数派を構成していることは明らかだった。

こうした紳士たちと一緒にいる婦人たちは服装や振る舞いや態度こそよく似ているものの、おおげさなところが少なく、もっと複雑さに富んでいた。ある者はフランス第一帝政時代のファッションに倣ったクラシックでシンプルなローブと繊細なひだ折りを好んでいて、グラハムとすれ違う時に力強い腕と肩を見せつけてきた。また別の者はウエストに縫い目もベルトも無い体にぴったりとフィットした服を着ていて、一部の者は肩から長いひだを垂らしていた。夜会服の楽しげで堂々とした姿は二世紀が経過した後も減ってはいなかった。

全ての人の身のこなしが優雅なものに思われた。グラハムがリンカーンに、ラファエロのカルトンラファエロ・サンティ(一四八三年四月六日-一五二〇年四月六日)によって描かれたヴァチカン宮殿の儀典用タペストリの下絵(カルトン)。新約聖書の場面を描いている。に描かれた人間が歩いているようだと言うと、リンカーンは彼に、一連の適切な振る舞いを習得することは裕福な者たち全員の教育に組み込まれているのだと教えた。世界の主人の登場は忍び笑いの交じる拍手で迎えられたが、そこにいる人々は彼の周りに群れ集まったり、しつこく凝視して彼を悩ませたりせずにその卓越した礼儀作法を示して見せ、彼は階段を降りて通路へと続くフロアへ向かった。

こうした人々が現在のロンドン社交界のリーダーたちであることはすでにリンカーンから教えられていた。その夜、そこにいるほとんど全ての人間は権力ある役人か、権力ある役人と直接のつながりを持つ関係者だった。大勢の人間がヨーロッパの歓楽都市からわざわざ戻って来て彼を出迎えようとしていた。航空局の者たちはその離反によって評議会の打倒でグラハムに次ぐ重要な役割を演じたが、彼らはとても目立っていたし、風向観測制御局の者たちも同様だった。他の人間の中では、食糧省の役人の何人かが一際目立っていた。ヨーロッパ養豚場の管理者はとりわけ憂いと興味をたたえた表情を浮かべ、品性と皮肉に満ちた態度を取っていた。完璧な正装に身を包んだ司教がグラハムの視界を横切った。その話し相手となっている紳士は伝統的なチョーサージェフリー・チョーサー(一三四三年頃-一四〇〇年十月二十五日)。イングランドの詩人。の姿と完全に同じ服装をしていて、月桂冠まで被っていた。

「あれは誰です?」ほとんど無意識に彼は尋ねた。

「ロンドン大司教です」リンカーンが答える。

「いえ――もう一人の方です」

「桂冠詩人です」

「ええっと、つまり――?」

「詩を作ったりはしませんよ、もちろん。彼はウォットン――評議員の一人――のいとこです。ですが紅薔薇王党派レッド・ローズ・ロイヤリスト――愉快な友愛組織――の一員でもあります。彼らはそうした伝統を維持させているんです」

「アサノが教えてくれたのですが王がいるとか」

「王はその地位にはありません。彼らは王を退位させざるを得なかった。スチュワート家の血筋だったと思いますが、しかし実のところ――」

「ひどすぎた?」

「まったくひどすぎました」

グラハムはその全てを詳しく聞いたわけではないが、それはどうやらこの新しい時代に起きた全面的な逆転現象の一部のようだった。最初に紹介を受けた時には彼は尊大な態度でお辞儀をしてみせた。こうした集まりにおいてさえ細かな階級の分断が存在していることは明らかで、リンカーンが彼に紹介するだけの価値があると判断したのは招待客のごく一部、内輪のグループだけだった。最初に紹介されたのは航空局長で、日焼けした顔のこの人物は周囲の優美な姿と奇妙なコントラストをなしていた。評議会に対して決定的な離反をおこなったことで今まさに彼は非常に重要な人物になっていた。

グラハムの考えるところでは、彼の立ち居振る舞いは一般的な振る舞い方とは好対照をなしていた。彼はよくある言葉をいくつか述べた。忠誠を誓い、世界の主人の健康状態について率直な言葉で尋ねた。その立ち居振る舞いは快活で、口調にはこの時代の英語に特徴的なぞんざいな歯切れの良さが無かった。彼は自分がぶっきらぼうな「航空の犬」――彼はそう表現した――であることを驚くほどはっきりとグラハムに告げた。自分は御託を並べたりしない実に男らしい、その点に関しては昔ながらの人間で、知識もあまりなく、知らなくていいことは知らないのだと語った。卑屈さを見せるつもりは無いとでも言いたげな飾り気のないお辞儀をして彼は去っていった。

「ああした質実剛健な人に会えて嬉しいです」グラハムは言った。

「蓄音機と映写機」少し意地悪くリンカーンは言った。「彼は人生から学んでいるのですよ」グラハムは再びそのがっしりした姿に目をやった。それはどこか奇妙に懐かしさを感じさせた。

「実際のところ、我々は彼を買っています」リンカーンは言った。「ある程度はね。それにある程度のところ、彼はオストログを恐れていた。全ては彼にかかっていました」

彼は鋭く振り向くとパブリックスクールの検査監督官を紹介した。この人物は青灰色の学者風のガウンを着た柳のように痩せた姿をしていて、ヴィクトリア朝式の鼻掛け眼鏡の向こうからグラハムに微笑みかけながら、美しく手入れされた手を振り回して自分の言葉を強調してみせた。グラハムはたちまちこの紳士の職務に興味を抱き、実に率直な質問をいくつか尋ねた。検査監督官は世界の主人の根っからの遠慮の無さを静かに楽しんでいるようだった。自身の組織が保持する教育の独占に関しては彼は少し言葉を濁した。それはロンドンの多数の自治体を運営する企業連合との契約によっておこなわれていたが、彼はヴィクトリア朝時代からの教育の進歩については熱くなった。「私たちは詰め込み教育を打ち破ったのです」彼は言った。「詰め込み教育を完璧に亡きものにしました――この世界には試験は一つ足りとも残されていません。喜ぶべきことではないでしょうか?」

「どうやってそれを成し遂げたのですか?」グラハムは尋ねた。

「私たちはそいつを魅力的なものにしたのです――できる限り魅力的なものに。もし魅力的でなければ――私たちはそれに取り組もうとはしない。私たちは計り知れないほどの領域を網羅しています」

彼は細部へと話を続け、二人は長い間、話し続けた。グラハムは大学の公開講座制度が形を変えながらいまも存在していることを教えられた。「例えば、ある種の若い女性がいます」自分の有能さを誇るように検査監督官は言った。「いくつかの学問領域に強い情熱を持っているのです――もちろん難し過ぎるようなものではありません。そうした要求に応じるための講座を私たちは千ほど持っています。今この瞬間にも」ナポレオンのような口調で彼は続けた。「五百近い蓄音機がロンドンのさまざまな場所でプラトンやスウィフトの及ぼした影響、シェリーパーシー・ビッシュ・シェリー(一七九二年八月四日-一八二二年七月八日)。イングランドの詩人。ヘイズリットウィリアム・ヘイズリット(一七七八年四月十日-一八三〇年九月十八日)。イングランドの作家、ジャーナリスト。バーンズロバート・バーンズ(一七五九年一月二十五日-一七九六年七月二十一日)。スコットランドの詩人。の恋愛遍歴について講義をおこなっているのです。それが終わると受講生は受けた講義についての小論文を書き、成績順の名前リストが目立つ場所に掲示されます。あなたの時代の小さな芽がどうやって育っていったか、おわかりでしょう? あなたの時代の無学な中流階級は完全に消え去ったのです」

「公立小学校についてはどうなのですか」グラハムは言った。「あなたが管理しているのですか?」

検査監督官はうなずいた。「完全に」今、この民主主義の時代にきたグラハムはこうした問題に強い関心を持ち、疑問を抱くようになっていた。暗闇の中で語り合ったあの老人が何気なく言った言葉が不意に思い出された。実際のところ検査監督官は老人の言葉を裏付けていた。「わたしたちは小学校を小さな子供たちにとってとても快適なものにしようとしています。子供たちはすぐさま学ばなければなりません。ほんのいくつかのシンプルな原則――つまり服従――そして勤勉をです」

「あなた方は子供たちにほとんど何も教えないのですか?」

「なぜその必要が? そんなことをしても面倒事と不満を増やすだけです。私たちは子供たちを楽しませるのです。まあそれでも――面倒事はありますがね――扇動が。労働者たちがどこからそうした考えを手に入れているのか、誰にもわかりません。口伝えで広まるのです。社会主義的な夢想が存在するのです――無政府的とさえ言えるような! 扇動者たちが彼らの間で動きまわり始めるでしょう。備えはしてあります――私は常に備えを怠らないのです――私の最優先の使命は人々の不満と戦うことなのです。なぜ人々は不幸へと追いやられるのでしょう?」

「なぜでしょうね」グラハムは考え込むようにしながら言った。「しかし私には知りたいことが山ほどあるのです」

会話している間ずっと立ったままグラハムの顔を見守っていたリンカーンが口を挟んだ。「他の方もいますので」声をひそめて彼は言った。

学校の検査監督官は立ち去るそぶりを見せた。「おそらく」何気ない視線を捉えてリンカーンは言った。「ここにいるご婦人方の何人かとも挨拶をされたいのでは?」

養豚場経営者の娘はとりわけ魅力的な小柄な人物で、赤い髪と生き生きとした青い瞳をしていた。彼女と会話する彼を残してリンカーンはしばらく席を外したが、彼女は「懐かしい日々」と彼女が呼ぶものにかなりの思い入れがある様子で、それが指すのはどうやら彼の昏睡が始まった時代のようだった。話している間も彼女は笑顔で、その目は互恵関係を求めるように微笑んでいた。

「やってみたんですよ」彼女は言った。「幾度となく――あの古いロマンティックな時代を思い描いてみようと。あなたにとっては――それは記憶の中のことなんですね。あなたにとって、この世界はどれほど奇妙で目まぐるしいことでしょう! 昔の写真や絵画は見たことがあります。焼いた泥のレンガで出来た小さな家がぽつぽつと建っていて、暖炉の煤で真っ黒になっていて。鉄道橋だとか、シンプルな広告だとか、おかしな黒いコートを着て真面目な顔をした野蛮な清教徒の人たちとその長い帽子だとか。頭の上の鉄の橋を鉄道列車が走っていて、通りでは馬や牛や、放し飼いにされた犬が走り回っていて。そこから突然、あなたはこの世界にやって来たわけですね!」

「この世界に」グラハムは答えた。

「あなたの生活を後に残して――見慣れたもの全てを後に残して」

「昔の生活は幸福なものではありませんでしたよ」グラハムは言った。「それを惜しむ気持ちはありません」

彼女がすばやく彼に目をやった。しばらく言葉が途切れる。勇気を振るうように彼女が息をついた。「本当に?」

「ええ」グラハムが答えた。「取るに足らない生活――無意味なものでした。しかしここでは――私たちはこの世界を複雑で目まぐるしい、実に文明的なものと思っています。そして思うに――この世界に来てからまだ四日ほどですが――自分の生まれた時代を振り返るとなんと奇妙で野蛮な時代だったことか――この新しい秩序はわずかに芽吹いたばかりでした。私の知識がどれほど乏しいか、あなたには理解しがたいほどでしょう」

「何でもお好きなことを尋ねてくださってよろしいのですよ」彼に笑いかけながら彼女は言った。

「それではここにいる人々のことを教えてください。彼らについては私はいまだに何も知らないままなのです。まったく困惑させられます。大物連中はいるのですか?」

「羽飾りがついた帽子を被ってるような方々のことですか?」

「まさか。違います。私が言っているのは巨大な公的企業の舵取りをおこなっているような人間のことです。あの目立つ姿の男性は何者です?」

「あれ? 彼は最も重要な地位にいる役人です。モーデンと言います。抗不快薬局の最高経営責任者です。私が聞いたところではあそこの労働者は時には二十四時間にミリアッド・ミリアッド十兆近くもの錠剤を生産するのだとか。とてつもない量ですわ!」

ミリアッド・ミリアッド十兆近く。彼が偉そうなのも不思議じゃないですね」グラハムは言った。「錠剤とは! なんてすばらしい時代でしょう! あちらの紫の服の男性はどうです?」

「彼は本当のところは内輪の仲間ではありません、ええ。ですが皆、彼を好いています。本当に賢くてとても愉快なんです。我らがロンドン大学の医学部教授陣の一人ですわ。ご存知のように医療関係の方は全員、あの紫の服を着ます。ですがもちろん、何かをやってお金を受け取っている人間というのは――」彼女はそうした人々の社交的装いを笑い飛ばして見せた。

「だれか著名な芸術家や作家はここにはいないのですか?」

「作家はいません。彼らのほとんどはとても変わった人ですから――自分自身のことで頭がいっぱいなのです。それにとてもひどい言い争いをします! 中には階段座席で誰が上の席に座るかを巡って争う者もいますの! ひどいでしょう? ですがレイズバリーはいたと思いますわ。流行りの毛細切除師キャピロトミストです。カプリ島の」

「毛細切除師」グラハムは言った。「ああ! 思い出しました。芸術家ですか! もちろんそうでしょう」

「私たち、彼とお近づきにならなければ」彼女は弁解がましく答えた。「私たちの頭は彼の手の中にあるのですから」彼女は微笑んだ。

グラハムはその誘うような世辞にためらったが、その視線は多くを物語っていた。「文明化された色々なものと一緒に芸術が発達したわけではないのですか?」彼は言った。「この時代の著名な画家はどういった人なのですか?」

彼女はいぶかるような目で彼を見つめ、それから笑い出した。「ちょっとの間」彼女は言った。「私、あなたが言っているのは――」再び彼女は笑い声をあげた。「そう、もちろんあなたが言っているのは、大きな白いキャンバスを油絵具で覆えるという理由で優れた人だとあなた方が考えていた人たちのことですね? あの大きな長方形の。みんな、金色の額縁にそれを入れて四角い部屋に並べて掛けていたとか。私たちはそんなことはしません。みんな、そういうものには飽き飽きしてしまったんです」

「ですが、私が何のことを言っていると思ったのですか?」

疑いようもなく赤くなった頬に彼女は意味ありげに指を頬に置いて微笑み、その様はからかうようで、とても可愛らしく魅力的だった。「それからここ」そう言うと彼女は自分のまぶたを指さした。

グラハムは少しどぎまぎした。それからどこだったかで見た「トビーおじさんと未亡人」の絵チャールズ・ロバート・レスリー(一七九四年十月十九日-一八五九年五月五日)によって描かれた油絵。小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』の登場人物であるワドマン未亡人が目に入ったごみを取り除く手伝いを求めてトビーを誘惑する場面を描いている。のグロテスクな記憶が脳裏をよぎり、古めかしい羞恥心が彼を襲った。自分は興味津々な大勢の人々に見られているということを彼は思い出した。「なるほど」彼はどうにか返事をした。彼女の魅力的な肢体から不器用に顔をそむける。まわりを見渡すとたくさんの目と目が合ったが、どれもさっと他の物に逸らされた。彼の顔は少し赤くなっているかもしれない。「あのサフラン色の服の御婦人と話しているのは誰です?」彼女と目を合わさないようにして彼は尋ねた。

尋ねた人物は彼が教えられたところによるとアメリカの劇場の重要なまとめ役で、ちょうどメキシコでの大規模な上演から戻ったところだった。彼の顔はグラハムにカリギュラの胸像を思い出させた。もう一人の人目を引く容貌の男性は黒人労働長だった。この言葉はその時にはたいして印象に残らなかったが、後になってよみがえることになった――黒人労働長とは? 話し相手の若い御婦人はまったく恥ずかしがる様子も無く、彼に一人の魅力的な若い女性を指し示して、ロンドンの英国国教会の司祭の従夫人の一人だと教えた。彼女はこの司祭の勇気を称える言葉を付け加えた――これまでは聖職者には一夫一婦制の規則があった――「それは物事の自然な条件でも便宜上の条件でもありません。なぜ愛情の自然な発達が妨げられたり制限されたりしなければならないのでしょう、司祭だからといって?」

「それだけの話でしょう」彼女は付け加えた。「あなたは英国国教会の信徒なのですか?」グラハムは「従夫人」の身分について質問するかどうかためらった。それが明らかに婉曲的な呼び方だったからだ。この実に思わせぶりで興味深い会話はリンカーンが戻ってきたことで打ち切られた。彼らは通路を渡って深紅の服を着た背の高い男性のいるあたりへと進んだ。そこではビルマ風の衣装(彼にはそう見えた)を着た二人の魅力的な人物が遠慮がちに彼を待ち受けていた。彼らの礼儀正しい挨拶を受けた後、彼は他の出席者の方へと歩いて行った。

しばらくするうちに出会った大勢の人たちから受けた印象が全体的なものへとまとまり始めた。最初、集まった人々のきらびやかさにグラハムの平等主義的感情はひどく憤り、彼は敵意と軽蔑の感情を抱いた。しかし礼儀正しく敬意ある雰囲気に抗うのは人間の本性に反したことだった。すぐさま、音楽や光、色彩の奔流、周囲の飾りに輝く腕や肩、手の感触、微笑む顔に浮かぶ関心、巧みに調子を合わせる声の泡立つような音、称賛や関心、敬意の雰囲気が疑う余地のない喜びの生地を織りなした。グラハムはしばし自身の壮大な決意を忘れたのだった。彼は与えられた地位への陶酔に知らず知らずのうちに屈服し、その振る舞いはますます威厳のあるものに変わり、自信に満ちた足取りで歩き、黒いローブは重く垂れ下がり、その声には誇りが満ちていた。結局のところ、ここはすばらしい魅力に満ちた世界なのだ。

ふと見上げると陶材の橋を渡る通行人が自分を見下ろしていることに彼は気づいた。その顔はすぐに隠れたが、それは昨夜、評議会から逃れた後で劇場の外れの小部屋で彼が見た少女の顔だった。彼女が彼を見つめていたのだ。

しばらくの間、彼は自分がどこで彼女を見たのか思い出せなかった。それから最初に出会った時の渦巻く感情のぼんやりとした記憶が思い出されたのだ。しかし周囲で踊り跳ねるメロディーの網が、あのとてつもない行進の歌が持つ雰囲気を彼の記憶から遠ざけた。

話し相手の女性が自分の言葉を何度も繰り返し、グラハムは自分が目下、王侯のような戯れの最中であることを思い出して我に返った。

しかしどうしたわけか、漠然とした落ち着かなさ、高まっていく不満の感情が彼の心にわき起こった。何か忘れかけている責務があるような感覚、この光と輝きの中で大切なものが自分から抜け落ちていくような感覚に彼は悩まされた。周囲に群れ集まっていた女性たちの持つ魅力はその力を失い始めていた。今では自分に対しておこなわれていると確かに言えた、どことなくなまめかしい誘いに、あいまいではぐらかすような返事をすることももはややめて、彼の目はあの最初の反乱の時の少女をもう一度見つけようとさまよっていた。

正確にはどこだったろう、彼女を見たのは……?

グラハムは上の方の空中廊下の一つで、一人のぱっちりとした目の女性とイーダマイトについて話をしていた――この話題を選んだのは彼であって彼女ではなかった。個人的な献身を受けあう熱のこもった彼女の言葉を彼はたんたんとした質問でさえぎった。その夜、これまでに会った他の何人かのこの時代の女性と同じく、彼女はかわいらしいだけであまり知識は無いようだった。突然、近くで流れるメロディーの渦を押しのけるようにして、あの反乱の歌が、ホールで彼が聞いたあのすばらしい歌が、かすれた大きな音となって彼に押し寄せた。

ああ! 今、思い出した!

彼ははっとして上を見上げ、頭上の丸窓からその歌が流れ出していることを見て取った。その向こう、ケーブルの上には青いもやが漂い、公道の光が差し込んでいた。騒がしい声の中に歌が割り込むのが聞こえ、それから止んだ。動くプラットフォームのうなるような騒音と大勢の人間のつぶやき声がはっきりと聞き取れた。なぜかは説明できなかったが彼はいわば本能的な感覚でもって確信した。この通路の外では大群衆が自分たちの主人が楽しく過ごしているこの場所を見守っているに違いない。

歌が不意に止んで、この集会のための特別な音楽がまた戻ってきたというのに、あの行進の歌のモチーフが再び彼の頭の中で始まっていつまでも残り続けた。

劇場で目にした少女を再び見つけた時、あのぱっちりとした目の女性はまだイーダマイトの謎と格闘していた。彼女は彼に向って空中廊下をやって来るところで、彼女が気づく前に彼が彼女に気づいた。彼女はほのかに明るい灰色の服を着ていて、眉のあたりにかかったその黒い髪は雲のようだった。見ていると丸窓から通路に差す冷たい光が彼女のうつむいた顔に落ちた。

イーダマイトについて思い悩んでいた女性は彼の表情が変わったのに気づき、逃げ出すチャンスに飛びついた。「あの少女に興味がおありですか、閣下?」大胆にも彼女は尋ねた。「ヘレン・ウォットンですわ――オストログの姪です。本当にたくさんの重要なことを知っています。生きている中では最も重要な人物の一人です。きっとあなたのお気に召しますわ」

次の瞬間にはグラハムは少女に話しかけていて、あのぱっちりとした目の女性は逃げ去っていた。

「あなたのことはよく憶えています」グラハムは言った。「あの小さな部屋にいましたね。みんなが歌って足踏みをしていた時に。あのホールを私が歩いていく前のことです」

しばし彼女の顔に浮かんでいた困惑が消えた。彼女は彼を見上げたが、その顔は落ち着いていた。「あれはすばらしかったです」彼女は言って、少しためらってから、勇気を振り絞るようにして話し出した。「あそこにいた人たちはみんな、あなたのために死んだのだと思います、閣下。数えきれないほどの人があの夜、まさにあなたのために死んだのです」

彼女の顔が赤くなった。彼女はすばやく左右を見て、誰も自分の言葉を耳にしていないことを確かめた。

空中廊下のどこからかリンカーンが姿を現し、人混みをかき分けるようにして二人に向って来た。彼を見ると、彼女は妙に真剣な様子でグラハムに向き直って、その態度は信頼に満ちた親密なものにすばやく変わった。「閣下」彼女は口早に言った。「今ここでは詳しくお教えできません。ですが市民は不満に満ちています。彼らは抑えつけられているのです――不当なやり方で統治されているのです。人々のことを忘れないでください。彼らは死を覚悟しました――あなたを生かすための死を」

「私には何のことか――」グラハムは言いかけた。

「今はお教えできません」

リンカーンの顔が二人に近づけられた。彼は頭を下げて少女に詫びた。

「この新しい世界を楽しんでおられますかな、閣下?」リンカーンが笑顔でうやうやしく尋ね、その場と、そこに集まった人々のきらびやかな姿を大きな身振りで指し示した。「いずれにせよ、おおいに変わったものでしょう」

「ええ」グラハムは答えた。「変わりました。しかし結局のところ、そう大きな変化ではないようです」

「まあ飛んでみるまで待ってください」リンカーンが言った。「風が落ち着いてきました。今も飛行機があなたを待っています」

少女の態度は解放されるのを待つそれだった。

グラハムは質問しようと彼女の顔をちらりと見たが、そこで警告するような彼女の表情に気づいた。彼は彼女に頭を下げると向きを変えてリンカーンについていった。


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