眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

単葉機


ロンドンの飛行ステージはテムズ川の南岸にいびつな三日月を描くように群れ集まっていた。二つずつ組になって三つのグループを作り、そこに古い郊外の丘や村の名前を留めていた。名づけられた順に挙げればローハンプトン、ウィンブルドン・パーク、ストリーサム、ノーウッド、ブラックヒース、シューターズ・ヒルである。どれも同じ構造で普通の建物の屋根の頭上はるかな高さにそびえたっていた。それぞれ四千ヤードほどの長さで千平方ヤードほどの広さを持ち、鋼鉄の建材に取って代わったアルミニウムと鉄の化合物でできていた。高層は大梁を組み合わせた構造でその間をエレベーターと階段が上へと延びている。均一な上面が広がり、その一部――発射輸送台――が持ち上がるようになっていて、それがゆるやかに傾斜したレールの上を構造体の端まで走行するようになっていた。

公道を通ってグラハムは飛行ステージへと向かった。日本人の侍従アサノを連れていた。リンカーンは行政上の問題に忙殺されているオストログに呼び出されていた。風向観測所の外ではその警備隊の屈強な護衛が世界の主人を待ち構えていて、動くプラットフォームの上層で彼のためのスペースを確保した。彼が飛行ステージに行くことは誰にも知らされていなかったが、それにも関わらずかなりの人間が集まって目的地まで彼についてきた。道すがら、人々が彼の名前を叫ぶのが聞こえ、青い服を着た無数の男女や子供が中央通路の階段から群れになってわき出しては大きく手を振りながら叫んでいるのが見えた。彼らが何を叫んでいるのか彼には聞き取れなかった。この都市の貧しい人々の間に低俗な方言が存在していることがはっきりして彼は再び衝撃を受けた。最後にプラットフォームを降りる時になって、彼の護衛たちは密集する興奮した群衆にたちまち取り囲まれた。後になって、その何人かは手を伸ばして彼に請願書を手渡そうとしていたのだと彼は思い当たった。護衛たちは何とか彼のために歩く道を確保した。

飛行士が乗り込んだ単葉機が西の方のステージで待っているのを彼は見つけた。近くで見るとその機械装置はもはや小さくはなかった。広大な飛行ステージの上の発射輸送台に乗っていると、そのアルミニウムの骨格構造は二十トンのヨットの船体と同じくらい大きかった。横に伸びる支持翼は、まるで蜂の羽根に走る神経のような金属製の神経で支えられたガラス質の人工膜でできていて、何百平方ヤードにもわたってその影を落としていた。機関士と乗客のための座席は、胴体のかなり後方に配置されたフレーム製の保護ケージの中で、複雑な機構に吊るされて揺れていた。乗客席は風防に守られ、周囲をエア・クッションの付いた金属フレームで保護されている。もしそうしたければ完全に周囲を覆うこともできたが、グラハムは新しい体験を熱望していたのでそれを開け放ったままにしたいと要求した。飛行士は顔を守るガラス風防の後ろに座っていた。乗客は自分の座席にしっかりと体を固定できて、これは着陸の時にはぜひとも必要なことだった。また短いレールと手すりに沿って機体の前部にあるロッカーまで移動することもできる。そこに個人的な手荷物や毛布、座席にも備えられている気付け薬が置かれている。そうしてそれが後部にある、プロペラを突き出した中央エンジン部分と釣り合いを取るための重りとして働くのだった。

周囲の飛行ステージにはアサノと侍従の一団以外には誰もいなかった。飛行士の指示のもと、彼は座席に腰を下ろした。アサノは機体についたはしご段を降りていき、ステージの後方に立って手を振っていた。ステージに沿って彼の姿が右に流れ去り、やがて消えた。

エンジンが大きなうなり声をあげてプロペラが回転し、しばらくの間、ステージとその上の建物がグラハムの目の前を水平にすばやく滑り去っていった。それからそれらが不意に上方に傾いたように見えた。本能的に彼は自分の左右の小さな手すりを握りしめた。上に向って自分の体が動くのを感じ、風防の上端が風を切る音が聞こえた。力強いリズミカルな拍動音をたてながらプロペラが回転を続ける――一、二、三、しばしの間、一、二、三――機関士が実に繊細なやり方でそれを制御しているのだった。機体が痙攣するように振動を始め、それは飛行中ずっと続いた。屋根の並ぶ地面はあっという間に機体の右へと流れ去り、みるみるうちに小さくなっていった。機体の骨組みの間から機関士の顔が覗くのが見えた。横を見ても目に映るものの中にはそれほど驚くようなものは無かった――高速のケーブルカーに乗っているのと変わらないように思えた。彼は評議会議事堂とハイゲート・リッジを見て取った。それから彼は自分の足の間からまっすぐに下を見下ろした。

一瞬にして肉体的な恐怖が彼を捕らえた。激しい不安感だ。彼はしっかりと手すりを握りしめた。少しの間、彼は視線を上げることができなかった。数百フィートかそれ以上の高さにいる彼の真下にロンドン南西部の大きな風向計の一つがあり、その向こうに小さな黒い点の群がる最南端の飛行ステージがあった。そうしたものが彼の手元から下に落ちていくように遠ざかる。しばらく彼は地面へ戻りたいという衝動に襲われた。歯を食いしばって苦労して視線を上げるとパニックはおさまった。

しばらくは歯を固く食いしばったままで、彼の眼は空を見つめていた。ドッ、ドッ、ドッ――エンジンが拍動音をたてている。ドッ、ドッ、ドッ――拍動が続く。手すりを固く握って飛行士をちらりと見ると、その日に焼けた顔に笑みが浮かんでいるのが見えた。彼は笑い返した――たぶん少しぎこちなかっただろう。「最初はちょっと変な感じですね」叫んで彼は体裁を取り繕った。しかし、しばらくの間はあえて再び下を見ようとはしなかった。飛行士の頭越しに彼は、空に這いよるぼんやりとした青い地平線を見つめた。少しの間、事故が起きる可能性を頭からぬぐい去ることができなかった。ドッ、ドッ、ドッ――拍動が続く。もしどこかのちっぽけなねじがこの補助エンジンの中でおかしなことになったら! もし――! 彼はひどく努力してそうした想像の全てを振り払った。しばらくすると少なくとも意識の表層からはそうした考えを追い払うことができた。そうして澄んだ空気の中で彼は着実に高度を上げていった。

何の支えもなく空中を動いていくという精神的ショックがいったん終わって不快な興奮が収まると、すぐに楽しくなってきた。飛行機酔いについては彼は警告を受けていた。しかし彼が気づいたところでは、かすかな南西風を受けながら進む単葉機の脈打つような動きは、穏やかに吹く風の中を大きくうねる波に向って進むボートの縦揺れとたいして変わらなかった。そして彼は生まれついての優秀な船乗りだったのだ。さらには上昇とともにますます薄くなっていく空気の鋭さが軽快感と高揚感を生み出した。見上げると上には巻雲けんうんが立ち込める青空が見えた。彼の目は慎重に下へと向けられ、骨組みや構造材、さらに下方の空を飛んでいくまばゆい白い鳥の群れへと移された。しばらくの間、彼はそれを見つめていた。それから少し大胆になってさらに下に目を移すと、風向観測所管理者の展望台のほっそりとした姿が、日光を受けて黄金に輝きながら時々刻々と小さくなっていくのが見えた。今度はさらに自信をつけて彼の視線が落とされると、丘陵の青い稜線が見え、それからすでに風下へと消えつつあるロンドンの、屋根が複雑に入り組んだ土地が見えた。その近い方の境界はくっきりと明瞭で、驚いたショックで残っていた不安は消え去ってしまった。ロンドンの境界はまるで壁か断崖のように、三、四百フィートの高さの切り立った面になっていた。あちらこちらからテラスが突き出しただけの境界の面、その正面には複雑な装飾がほどこされていた。

郊外の広大な緩衝地帯を経て田園地方へと徐々に移り変わる風景は十九世紀の大都市に特徴的なものだったが、それはもはや存在しなかった。そこには荒れ果てた廃墟を除けば何も残されてはいない。かつてその地域の庭園を飾っていた様々な植物の茂みが、色とりどりに密集し、平らにならされた畑の茶色の土地と緑色に生い茂った常緑の低木が広がる土地の間に散らばっていた。後者は家屋の名残りの周囲にも広がってはいる。しかし土地のほとんどでは廃墟の砂州や岩礁、小道や街道の周囲に立ち並ぶ郊外住宅の残骸が、平らに広がる緑色や茶色の土地に浮かぶ奇妙な島々となって浮かんでいた。住人から捨て去られてから何年も経っていることは間違いなかったが、この時代の大規模な耕作の仕組みに合わせて取り除くにはあまりに頑丈すぎたのだろう。

この荒れ地の植物は崩れかけた家々の壁からなる無数の小部屋の中で波打って泡立ち、イバラ、ヒイラギ、ツタ、ナベナ、背の高い草木となって都市の壁の足元まで伸び、そこで途切れていた。ヴィクトリア朝時代の貧相な遺構に囲まれるようにしてあちらこちらにけばけばしい歓楽施設がそびえ立ち、都市からそこに向かって空中ケーブルが斜めに走っている。この冬の日にはそこには誰もいないようだった。廃墟に囲まれた人工の庭園にも人はいないようだ。古代、夜が来るとともに門が閉め切られて壁のすぐそばまで野盗や外敵がうろつきまわっていた時代のように、都市の境界ははっきりと定められていた。巨大な半円形の喉からはイーダマイト・バース・ロードに大量の交通が吐き出されていた。こうして都市の外の世界に対する最初の眺望がグラハムの脳裏にひらめき、それから消えていったのだった。ようやく彼がまた直下へ目をやれるようになった時、眼下に広がっていたのはテムズ・バレーの野菜畑だった――無数の赤茶色の小さな長方形が、輝く細い筋となった下水溝と交差しているように見えた。

すぐに高揚感が増し、それはほとんど陶酔感へと変わった。気がつくと彼は深く息を吸って声をあげて笑っていて、叫び出したい欲求に駆られた。少し時間が経つとその欲求は抑えがたいほど強いものに変わり、彼は叫んだ。彼らは南に向かって弧を描いていた。風下にわずかに傾きながら彼らは飛び、それから動きにゆっくりとした変化が加わった。最初に短く急上昇し、それから下向きの滑空が長く続く。とても敏速で心地よい滑空だった。この下向きの滑空の間、プロペラは完全に停止していた。上昇は努力が実った時に感じるすばらしい気分をグラハムに感じさせ、薄い空気の中での下降はあらゆる経験を凌駕するものだった。この上空の空気の中から離れたくないと彼は思った。

しばらくの間、彼はすばやく北へと飛び去っていく足元の風景を注視していた。その間もその明瞭に見える一つ一つが彼をひどく喜ばせた。田園地帯に点在しているかつての邸宅の廃墟に感動し、全ての農場や村々が消え去り、崩れかけた廃墟の他には何も無い木々の生えていない広い田園地帯に彼は感銘を受けた。わかってはいたことだったが、実際にそれを目にするのはまったく別のことだった。眼下に広がるこの世界の空っぽの盆地から彼は見知った場所を探そうと試みたが、今となっては後に残されたテムズ・バレーから何かを見分けることはできなかった。しかし、まもなく彼らは急峻な白亜の丘の上を飛び越し、それがギルフォード・ホッグズ・バックであることを彼は見て取った。その東端の峡谷の見慣れた地形や峡谷の両方のふちにそそりたつ街の廃墟からもそれは明らかだった。それをきっかけに彼は他の場所も見分けられるようになった。リース・ヒル、オールダーショットの砂地の荒野、まだまだあった。走り回る黒い点で厚く覆われた、かつての鉄道の軌跡に沿って走る幅の広いイーダマイト・ポーツマス・ロードを別にすれば、ウェイの峡谷は茂みで覆われていた。

灰色のもやを見通せる限りの遠くまでダウンズの断崖の全域には風車が並んでいた。それらに比べれば都市にある最大の風車はその弟分にも満たないだろう。風車は南西風を受けて威風堂々とした動きで回転していた。またあちらこちらにイギリス食料企業合同体ブリティッシュ・フード・トラストの羊が点群となって散らばり、あちらこちらに馬に乗った羊飼いが黒い点となって見えた。それから単葉機の尾翼の下にハインドヘッド、ピッチ・ヒル、リース・ヒルが連なるウィールデン・ハイツが急に現れた。そこには二列目の風車が並んでいて低地の風車からそよ風の分け前をいただこうとしていた。紫色のヒースに黄色いハリエニシダがまだらに散らばり、遠くの方では黒い雄牛の群れが馬に乗った数人の人間の前を駆けていた。それらはあっという間に背後に流れ去り、小さくなって色を失い、わずかに動く点となってもやの向こうに飲み込まれていった。

そうしてそれらが遠くへと消え去った時、グラハムはすぐ近くにタゲリの鳴き声を聞いた。自分は今、サウス・ダウンズの上空にいるのだと彼は気づき、肩越しに見ると、ポーツダウン・ヒルの尾根にそびえ立つポーツマス桟橋の胸壁が見えた。次の瞬間に視界に飛び込んできたのは、まるで水上都市のような船の群れ、日の光に照らされた小人のように小さなニードルズ島の白い崖、イギリス海峡の灰色でぎらぎらと光を反射する海面だった。ソレント海峡を一瞬にして飛び越え、数秒のうちにワイト島が後ろに流れ去り、眼下に広大な海が広がった。こちらには雲の影の紫色が、そちらには灰色が、あちらには磨き上げられた鏡のような水面が、そしてこちらには濁って緑がかった青色が見える。ワイト島はどんどんと小さくなっていった。さらに数分が経つと一筋の灰色のもやが雲の間の筋から離れて空から降りてきて、海岸線へと変わった――日の光に照らされた心地よさそうな海岸線――フランス北部の海岸だ。それは次第に浮き上がり、色味を帯びてくっきりと細かいところまで見えるようになり、眼下では対岸のイングランドの草原に覆われた丘陵地帯が疾走していた。

パリが水平線の上へと姿を現すまでにはそう時間はかからなかったように思う。それはしばらくの間、そこに浮かんでいて、それから単葉機が北へ向かって弧を描くのに合わせて再び視界の外へと沈んでいった。しかし彼はエッフェル塔がいまだに建っていて、その脇には点のように見える巨像を頂いた巨大なドームがあるのを見て取った。また、その時にはそれが何なのかはわからなかったが、斜めに立ち上る煙も見えた。飛行士が「進行中の問題」について何か言ったが、グラハムは気にかけなかった。しかし都市の風向計の上の空に、モスクの尖塔やタワーや細長い構造物が伸びているのを見て取って、少なくとも優雅さという点においてはパリはいまだその巨大な好敵手と対峙し続けているのだと彼にはわかった。さらに見ていると、淡い青色の何かがまるで強風に巻き上げられた落ち葉のようにその都市からとてつもない速さで上昇しているのがわかった。それは弧を描きながら自分たちに向かって上昇を続け、みるみる大きくなってくる。飛行士が何か言っている。「何だって?」グラハムはそれから目を離せないまま尋ねた。「ロンドンの飛行機です、閣下」指さしながら飛行士は大声を張りあげた。

それが近づいてくる間も彼らは上昇し、北に向かって弧を描いていた。近づいてくるに従って、そいつはますます大きくなってくる。ドッ、ドッ、ドッ――単葉機の飛行に合わせて聞こえる拍動音、それは力強く迅速なものに思えたが、このとてつもない急襲と比べると突然、ゆっくりしたものに思われた。あの怪物のなんと力強く、なんとすばやく、ゆるぎないことか! それは彼らの下のすぐ近くを通り過ぎ、静かに並走していった。金網状の半透明の翼を大きく広げ、まるで生きているかのようだ。グラハムは外殻に包まれた乗客の並んだ列を一瞬、垣間見た。彼らは風防の背後の小さな座席に座って吊られていた。強い風に逆らって梯子段を這い進む白い服の機関士、一斉に拍動音を吐き出すエンジン、回転するプロペラ、翼の広い平坦な表面。その光景に彼は歓声をあげた。そして瞬く間にそれは通り過ぎていった。

そいつはわずかに上昇を始め、その翼の煽りを受けてこちらの機体の小さな翼が揺さぶられる。やがてそれも収まって、機影は次第に小さくなっていった。見た限りではそれはほとんど動いているようには見えなかったが、やがて空を背景に小さくなって再び薄っぺらい青い影へと変わった。それはロンドンとパリの間を往復する飛行機だった。天候の良い平時には一日に四回、行き来がおこなわれているのだった。

彼らはイギリス海峡を越えていった。変化に順応したグラハムからすると今やそれは実にゆっくりとしたものに思えた。そうして左の方に灰色のビーチー岬が浮かび上がった。

「着陸します」飛行士が呼びかけたが、その声は風防に当たる風の風切り音にかき消されて小さく聞こえた。

「まだだ!」グラハムが笑い声をあげながら大声で叫んだ。「着陸はまだだ。この機械についてもっとよく知りたい」

「しかし――」飛行士が答える。

「この機械についてもっとよく知りたい」グラハムは繰り返した。

「そっちへ行くよ」彼は言うと自分の座席から立ち上がって、両者の間に渡された手すりに沿って踏み出した。しばらく彼は立ち止まった。顔色が変わり、両手がしっかりと握られる。さらに一歩を踏み出し、彼はなんとか飛行士に近づこうとした。彼は自分の肩にかかる力を感じた。風圧だ。帽子は吹き飛ばされて背後で舞い踊る点に変わっていた。風は突風となって風防の上に吹きつけ、彼の髪をはためかせて頬に打ちつける。飛行士が急いで何かを調整して重心と風圧を移動させた。

「こうしたものについて説明して欲しいんだ」グラハムが言った。「エンジンを始動させる時には何をやっている?」

飛行士はためらい、それから答えた。「とても複雑なのです、閣下」

「構わない」グラハムは叫んだ。「構わないよ」

一瞬、間が空いた。「航空学は機密の――特権的な――」

「わかっている。だけど私は主人で、知りたいんだ」彼は声をあげて笑った。こんな上空で自身に与えられたこの新たな権力を振るうことになるとは。

単葉機は弧を描いて飛び、激しく吹く新鮮な風がグラハムの顔を切りつけ、機体の頭が西に向くに従って服が彼の体にまとわりついた。二人の男は互いに目を合わせていた。

「閣下、規則がありまして――」

「私には関係ないね」グラハムは言った。「君はどうやら忘れているようだ」

飛行士は彼の顔をまじまじと見つめた。「いいえ」彼は言った。「忘れてはいません、閣下。しかし世界のどこであれ――宣誓をしていない飛行士はいないのです――そんなものはいない。乗客としてやって来た人は――」

「そんなようなことは何か耳にしたな。しかしそれに関して議論するつもりは無い。私がなぜ二百年もの間、眠っていたと思う? 飛ぶためだ!」

「閣下」飛行士が言った。「規則があるのです――もし私が規則を破れば――」

グラハムはその刑罰を脇に払いのけた。

「それでは私のやることを見てくだされば――」

「いいや」再び機首を持ち上げた機体に揺さぶられて手すりを握り直したグラハムは答えた。「私はそんなことがしたいんじゃない。自分でやってみたいんだ。それで墜落しようと自分でやってみるぞ! 断固、私はやる。ほら、今からそこに行く――そっちへ寄って座席を半分譲ってくれ。落ち着け! 最後に墜落しようとも私は自分の思い通りに飛んでみせるぞ。睡眠の対価として何かは手に入れなくちゃな。他の何よりも――。空を飛ぶことは昔から私の夢だったんだ。さあ、バランスを取るんだ」

「一ダースものスパイが私を見張っているんです、閣下!」

グラハムの我慢も限界に達していた。なるようになれだ。彼は決心した。進路を邪魔するレバーの群れを彼は回り込み、単葉機が揺れた。

「私はこの地球の主人だろう?」彼は言った。「それとも君の所属団体のかな? さあ、そのレバーから手を離して私の体をつかんでろ。ああ――そうだ。さて、機首を下げて滑空するにはどうしたらいいんだ?」

「閣下」飛行士が言った。

「なんだ?」

「私を守ってくれますね?」

「ああ! もちろんだ! たとえロンドンを火の海に変えなければならないとしてもな。さあ!」

この約束によってグラハムは飛行の最初のレッスンを受けることになった。「この旅が君にとっての利益になることは明らかだな」彼は声をあげて笑いながら言った――空気はまるで強いワインのようだった――「すばやくうまいこと私に教えてくれればね。これを引けばいいのか? ああ! そら! やっほー!」

「後ろです、閣下! 後ろに!」

「後ろ――いいだろう。一――二――三――よし! ああ! 上へ進んでいるぞ! しかしこいつは生きているようだ!」

そうするうちに機体は空中でまったく奇妙な格好で踊り始めた。どうやら直径百ヤードほどのらせんを描いて滑空しているようで、それから空を駆け上がり、再び急降下した。急な角度をつけて、とてつもない速さでまるで鷹のように落下し、それから体勢を立て直して猛スピードで弧を描いて再び高く舞い上がった。こうした繰り返される急降下のうちの一度では、機体が南東の漂う気球の群れに向かってまっすぐに飛び込むかに思えたが、急に機敏さが戻ったおかげで弧を描いてそれらを飛び越えていっただけだった。その動きの並外れた速さと滑らかさ、そして薄い空気が彼の体に与えた並外れた影響によってグラハムは浮ついた激情に投げ込まれた。

しかし最後には奇妙な出来事が彼を落ち着かせ、暗く不可解な謎に満ちた眼下の人混みでごった返す生活へと彼を再び降り立たせた。急降下していると音がして何かが通り過ぎたのだ。雨粒のしずくのようだった。それから下に向かううちに後方で白い布切れのような何かがはためいているのが見えた。「あれは何だ?」彼は尋ねた。「気がつかなかった」

飛行士はちらりと見ると、徐々に下がっていた高度を戻すために操縦桿をつかんだ。単葉機が再び上昇すると彼は深く息をついて返事した。「あれは」そう言ってまだぱたぱたと揺れながら落ちていく白い物を指さした。「白鳥です」

「こんなものこれまで見たこともなかった」グラハムは答えた。

飛行士は返事をせず、グラハムは額に小さなしずくが当たるのに気づいた。

激しく打ち付ける風を避けてグラハムが乗客席へと這い戻っている間、機体は水平に飛行した。それからすばやく急降下し、プロペラが降下を示すように回転数をあげたかと思うと、眼前に飛行ステージが大きく黒々と迫ってきた。太陽は西に見える白亜の丘に沈みつつあり、日が落ちるとともに空には金色の輝きだけが残された。

すぐに人間が小さな点として見えてきた。自分を出迎えるざわめきが近づいてくるのが聞こえる。まるで小石の浜辺に打ち寄せる波の音のようだった。そして飛行ステージの周りの建物の屋上に、自分の無事の帰還を喜ぶ人々が大勢集まっているのが見えた。ステージの下では黒い群衆が押し合いへし合いしている。その黒いかたまりは無数の顔で点描されたもので、打ち振られる白いハンカチと手で細かく震えていた。


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