その夜、見つかることも疑われることもなく、グラハムは休暇中の風向観測所の下級職員の服を着込んで、労働局のキャンバス地の服のアサノに付き添われながら、かつて暗闇に閉ざされていた時にさまよった都市を見て回った。とはいえ今度はそこは明るく、目覚めていて、生命が渦巻いていることが彼にもわかった。革命の力が高まり揺れ動き、常ならぬ不満が渦巻いているにも関わらず、また最初の反乱はさらに大きな戦いの序曲に過ぎないとささやかれる噂にも関わらず、無数の商いの小川はいまだ広く力強く流れていた。今ではこの新しい時代の持つ規模と性質について彼もいくらかわかっていたが、その詳細な光景の引き起こす無限の驚きや色彩の洪水、目の前でわき起こり通り過ぎていくあざやかな印象には心の準備ができていなかった。
これがこの新しい時代の人々と彼との最初の本当の接触だった。公共の劇場や市場を垣間見たことを別にすれば、これまで起きたことの全ては隔絶された要素による、比較的狭い政治の世界の中での動きであったことに彼は気づいた。これまで体験したことの全ては自分の地位の問題を中心にくり広げられていたのだ。しかし、ここは夜の最も騒がしい時間帯の都市であり、人々の大部分は自身の当面の利益、再開された本当の日常生活、新しい時代の一般的な生活へと戻っていた。
最初に踏み出した通りの反対側の道はあの青いキャンバス地のお仕着せでごった返していた。グラハムが目にしたこの群衆は行進する人々の一部分だった――座ったまま都市を行進する行列を見ると実に奇妙な気分になった。彼らはざらざらした黒い布に赤い文字が書かれた横断幕を掲げていた。「武装解除反対」横断幕にはそう書かれていた。大部分は乱暴に書き殴られた文字で、書かれた言葉もさまざまだった。「なぜ武装解除しなければならないのか?」「武器を取り上げるな」「武器を取り上げるな」次から次へと横断幕が現れ、奔流となって流れ過ぎていき、それがようやく終わるとあの反乱の歌と奇妙な楽器からなる騒がしい楽隊が現れた。「彼らはみんな仕事に戻るべきです」アサノが言った。「この二日間、彼らは食事をしていません。仮にしていたとしても盗んだものでしょう」
しばらくするとアサノは回り道をした。ときおり通り過ぎる、病院から死体置き場へと運ばれる最中の死体をぼうぜんと見つめる密集した群衆を避けるためだ。彼らは最初の反乱で死んだ者たちの死体を回収しているところだった。
その夜、眠っている者はわずかだっただろう。誰もが外に出ていた。広がる興奮と絶えることのない群衆は絶えず変化しながらグラハムの周囲を取り巻き、ひっきりなしの騒ぎに、叫び声、そしてまだほんの始まりに過ぎない社会的争いの謎めいた断片に彼の頭は混乱し、暗澹となった。いたるところに黒い花綱や横断幕、奇妙な飾りつけがあって、それらが彼への支持の大きさをさらに強めるようだった。いたるところで彼はぞんざいな強い訛りの話し声を耳にした。それは無学な階級が使う言葉だった。つまりこの階級は蓄音機の文化が届く範囲の外にいて、会話でやり取りするのがあたりまえなのだ。いたるところでこの武装解除の問題が叫ばれていて、その切迫した緊張感は彼が風向観測所に引きこもっていた間にはまったく気がついていなかったものだった。戻ったらできるだけ早くこのことについてオストログと話し合う必要があると彼は感じた。このこととそれが示唆するさらに大きな問題について、これまでやってきたよりもはるかに断固としたやり方でだ。その夜ずっと、それどころか都市を歩き回りはじめた最初の頃でさえ、不穏な反乱の雰囲気に彼の注意は奪われ、そうでなければ気づいたであろう無数の見慣れないものは関心の外に追い出された。
こうして別のものに注意を奪われていたせいで彼の印象に残ったのは断片的なものだけだった。とはいえこれほどの新奇さとあざやかさのただ中では、たとえそれが身近な強く主張してくるものだとしても、どんなものも完全な影響力を及ぼすことはできなかっただろう。革命運動が彼の頭から完全にぬぐい去られ、まるでカーテンが脇に引かれるようにこの時代の驚くべき新しい側面が目の前に現れるまでには、少しの間があった。ヘレンは彼の心を揺さぶってこの熱心で真剣な視察へと赴かせたが、彼女のことさえも意識の外へと遠のく瞬間があった。たとえばある時、彼は自分たちが宗教的な地区を横切っていっていることに気づいた。都市内を容易に移動できるよう引かれた動く道はもはや必要のなくなった散在する教会や礼拝堂の間を走っていた――そしてあるキリスト教教団の一つの建物の外観が彼の注意は強く捉えたのだった。
一行は速度の速い上の方の道の一つに座って移動していたのだが、その建物は曲がり角のところで彼らに向かって飛び出すように姿を現し、どんどん近づいてきた。てっぺんから基礎まであざやかな白と青の碑文で覆われていたが、一部には新約聖書の場面を写実的に描いたまばゆいばかりの大きな映像が重なるように映し出されていた。また文字に覆いかぶさるように吊り下げられた大きな黒い花綱はこの大衆的な宗教が民衆の政治意思に従うことを示していた。グラハムはすでのこの表音式の書き方に慣れていて、この碑文が彼の目を引きつけた。彼の感覚からするとその大部分はほとんど信じがたいほど冒涜的なものだった。多少ましなものの中から挙げれば「救済は上階にあります、正しい方向へどうぞ」「汝の金を汝の創造主へと納めよ」「ロンドンで最も鋭敏な改宗者、熟練の相場師たちよ! ぐずぐずするな!」「キリストだったら眠れる者に何と言うだろうか――最新の聖人へと加われ!」「キリスト教徒になろう――現在の職業に支障をきたすことはありません」「今夜は最も聡明な司教たちが控え席に勢ぞろい、お値段はいつも通り」「忙しいビジネスマンに身の引き締まる祝福を」といった具合だった。
「しかしなんてひどい有り様だ!」頭上にそびえる商業主義に侵された信仰心の耳をつんざくような叫びの中でグラハム言った。
「何がひどいのですか?」彼に付き従っていた小柄な役人が尋ねた。この不快なエナメルメッキに普段と違う何かがあるのかと虚しく目をさまよわせている。
「これです! 宗教の本質が崇拝であることは確かですな」
「ああ、これですか!」アサノはグラハムを見た。「驚かれましたか?」何か新しい発見をした者のような調子で彼が言った。「もちろんそうでしょうとも。忘れていました。最近では関心を引くための競争が実に激しくて、ご覧のように、人々は昔みたいに自分の霊魂に注意を払う暇がまったく無いのです」彼は微笑んだ。「昔は静かな安息日や田園地帯があったそうですね。しかしどこかで読んだことがありますが、日曜の午後には――」
「しかしあれは」遠ざかっていく青と白の色彩をちらりと振り返りながらグラハムは言った。「あれは間違いなく、たんにそういっただけのものでは――」
「何百もの異なるやり方があります。しかし、もちろんのことですが、教団がああ言わなければ、支払いがされないのです。もっと静かな方法をとる高級な教団もありますよ――高価な御香だとか個人的に払われる配慮だとかそういったものですね。そうした教団の人々はとても人気があって裕福です。自分たちの居所のために数ダース・ライオンを評議会に支払っています――いや評議会ではなくあなたにと言うべきですね」
グラハムはいまだにこの貨幣制度をややこしく感じていて、この数ダース・ライオンという言葉で唐突にその問題が彼に降りかかった。一瞬、あの叫び声をあげる礼拝所やそこで群れ動くやかましい勧誘人のことを忘れて、この新しい関心事に頭がいっぱいになったのだ。耳にした言い回しとその答えからすると、金や銀はともに貨幣としては廃止されているようだった。フェニキアの商人の中でその治世を開始した刻印された金貨はついにその王座を追われたのだ。その変化は漸進的ではあったが迅速なもので、小切手制度の拡張によってもたらされたものだった。過去の彼の生活においてさえそれはすでにあらゆる大規模な商取引で実質的に金に取って代わっていた。都市での一般的な取引は、受取人が空白で印刷された、小さな茶色や緑色やピンク色の評議会発行の少額用小切手によって処理されていて、それがまさに世界の共通通貨だった。アサノはそれをいくらか持っていて、最初にその機会が訪れた時にはそれで足りない分を穴埋めしてくれた。そいつが印刷されているのは破れる紙ではなく、シルクのように柔軟な半透明の布地で、実際にシルクを織り込んでいるのだという。それら全てにグラハムの署名の複製が大きく書かれていて、彼はそこで二百三年ぶりにこのよく見慣れた自筆の曲がりくねった線に出会ったのだった。
いくつかの体験が割り込んだが、それは武装解除の問題が再び彼の思考に浮かび上がるのを妨げるほどには鮮烈な印象を残すものではなかった。揺らめく炎で大きく書かれた「奇跡」を約束する神智学の礼拝堂のぼやけた光景は次第に薄れ、次に現れたのはノーサンバーランド・アベニューにある食堂の姿だった。これはとても彼の興味をそそった。
アサノががんばって知恵を絞ってくれたおかげで、彼はテーブルを囲む侍従たちのために用意された、ついたてで隠された小さな空中廊下からその場所を眺めることができた。建物全体に遠くからのくぐもった叫びや甲高い声、怒鳴り声が響いていて、最初、彼はその意味を理解できていなかったのだが、それは彼が一人でさまよい歩いたあの夜にライトが復旧した後で耳にした謎めいたしわがれ声を思い出させた。
広大さととてつもない数の人には彼も慣れてきていたが、それでもこの壮大な光景は長い時間、彼を捕らえて離さなかった。まさに真下でテーブルに運ばれている食べ物を見守りながら、気になった細かな点に関してたくさんの質問と答えをやりとりしているうちに、数千人が集まるこの祝宴の重要性に彼は気づいた。
最初から鮮明な印象を与えてしかるべき事柄を見過ごし、取るに足らないささいな細部が唐突に不可解な謎として形を取って、自分が見落としていた明白な事実を指し示して初めてそれと気づく、そうしたことが起きるたびに彼はいつも驚いた。彼は今になってわかった。この都市の連綿と続くさま、天候の排除、巨大な広間と通路、そしてまた家庭の消失。典型的なヴィクトリア朝時代の「家庭」、つまり台所や食器洗い場、居間や寝室のあるささやかなレンガの小部屋は、田園地帯を彩る廃墟を除けばかやぶき屋根の小屋と同じくらい完全に消え失せていた。しかし今、彼は最初から間違いなく一目瞭然だった事実に気づいたのだ。居住地として見た時、ロンドンはもはや家屋の集合体ではなく、とてつもなく巨大なホテルに変わっていた。千もの等級の宿泊設備を備えたホテル、数千の食堂、教会、劇場、市場、集会場を備えた企業の統合体であり、彼はまさにその所有者なのである。人々は自分の寝室を持っていて、そこには控えの間もあったりはするだろう。快適さとプライバシーの点ではともかく、少なくとも部屋は常に衛生的であり、その他の点に関してはヴィクトリア朝時代に新しく作られた巨大ホテルで暮らしていた大勢の人間と同じように暮らしているのだ。食事、読書、思考、遊び、会話、全てが公共の保養地でおこなわれ、都市の産業地区へ働きに出かけ、あるいは商業地区にあるオフィスで商売をおこなうのである。
ヴィクトリア朝時代の都市がこうした状態へと発展を遂げた必然性を彼はただちに悟った。近代都市を根本で支える理由は常に経済の協調だった。彼の世代において各々の家庭の統合を妨げていた一番の理由はたんに人々の文明的洗練がいまだ不完全であったこと、つまり強烈で野蛮な自尊心、熱情、偏見、嫉妬、対抗心、中流階級と下層階級の暴力であり、それによって隣り合う家庭は完全な分離を余儀なくされていたのだ。しかし人々の従順化という変化は当時でさえ急速に進んでいた。わずか三十年ほどの彼の以前の人生でも、外食の習慣が大きく広がっていくのを彼は目にしていたし、よくひいきにしていた馬車式のコーヒーハウスは例えば、誰でも入れる、人でごった返したエアレーテッド・ブレッド・ショップ(一八六二年にロンドンで創業したエアレーテッド・ブレッド・カンパニー社が経営していた喫茶室。社名は空気混和(エアレーション)を使用した無発酵のパンを提供していたことに由来する。一九六四年から開始した喫茶室は当時は一般的だった男性の付き添い無しで女性が利用できる点が人気を呼んだ。)の喫茶室にとって変わられていた。女性のための社交クラブが産声をあげ、読書室、ラウンジ、図書館のとてつもない発展は社会的信頼の高まりの確かな証拠だった。そしてこうした兆候はこの時代に至ってその完璧な充足を達成したのだ。錠前と鉄格子の取り付けられた家庭は消え去ったのである。
彼が教えられたところでは下にいる人々は下位中流階級に属していた。青服の労働者のすぐ上の階級であり、ヴィクトリア朝時代ではプライバシーを守るためにあらゆる予防措置を講じることを習慣としていた階級で、その構成員は公衆の面前で食事しなければならない時には馬鹿騒ぎやひどく好戦的な態度でそのきまり悪さを隠すのが常だった。しかし下にいるこの陽気な軽装の人々は、元気に忙しく動き回ってあまり会話はしていなかったが、礼儀正しく、互いにリラックスしていることは間違いなく確かだった。
彼は少しばかり重要なことに気づいた。見る限りではテーブルは実に気持ちよく整っていて、その状態を維持している。無秩序なもの、つまり、まき散らされたパンくずや飛び散った食べ物、調味料、ひっくり返った飲み物や放り出された装飾など、ヴィクトリア朝時代の食卓の荒々しい食事の仕方を特徴づけていたようなものは一切無かった。食卓の作りもひどく異なっている。装飾や花は無く、クロスの敷かれていないテーブルは彼が教えられたところによるとダマスク織と同じ手触りと外見の固い物質で作られていた。このダマスク織状の素材には優雅にデザインされた商品広告が模様として描かれていることを彼は見て取った。
食事をする者のそれぞれの前には凹みがあって、そこに陶磁器と金属の複雑な形の器具が置かれていた。白い陶磁器製の皿が一枚だけあって、温冷の揮発性の液体が出る蛇口を使って食事をする者がコース料理の合間に自分で皿を洗うのだ。彼も必要に応じて自分の優雅な白い金属製のナイフやフォーク、スプーンを洗った。
スープと化学合成ワインが飲み物としては一般的で、それらは同じような蛇口から供される。それ以外の料理は上品に皿に並べられて銀色のレールに沿ってテーブルまで自動的に運ばれるのだった。食事をする者は自分の好みに合わせてそれを止めて取るのだ。食事はテーブルの一方の端にある小さな扉から現れ、反対側の扉へと消えていく。民主主義的な感情の衰え、お互いに待つことを等しく嫌う単純作業者の醜い自尊心、ここにいる人々の間でそれらがいかに強烈であるかに彼は気がついた。こうした光景の細部に気を取られていたので、遠近感を強調された巨大な広告画が壁の上部に沿って威風堂々と行進し、今一番注目すべき商品を宣伝していることに彼が気づいたのはその場所を離れる時になってのことだった。
その場所のさらに先、人でごった返すホールへと一行は進んでいき、そこで彼は自分を当惑させていた騒音の源を発見した。彼らは回転式ゲートの所で立ち止まってそこで支払いをした。
グラハムの注意は荒々しい大音量の叫び声と、それに続く大きなしわがれ声に即座に奪われた。「主は心安らかに眠っておられる」そう大声で叫ばれていた。「彼の方はすばらしく健康である。残りの人生を航空飛行に捧げるおつもりである。女たちはかつてよりもずっと美しいと言われた。速報! ああ! 我々のすばらしい文明は彼の方を計り知れないほど驚かせた。まったく計り知れないほどである。速報。彼の方は指導者オストログに大きな信頼を寄せている。指導者オストログを完璧に信任しているのである。オストログは彼の方の首相となるだろうし、役人の解任・復職の権限を与えられている――あらゆる任命権は彼の手に委ねられるだろう。あらゆる任命権は指導者オストログに委ねられるのだ! 評議員たちは評議会議事堂の上の自分の牢獄へと送り戻されている」
最初の言葉でグラハムは立ち止まった。見上げるとこの言葉をわめきたてる馬鹿みたいなトランペットの姿が見えた。これが汎用情報マシンだった。しばらくの間、それは息を吸い込んでいるかのように見え、それからその円筒形の体から放たれる規則正しい拍動が聞こえた。そして「速報! 速報!」と甲高く叫ぶと、再び話し始めた。
「今やパリは制圧された。あらゆる抵抗は終わったのである。速報! 黒警はその都市の重要な位置を全て掌握した。彼らはとてつもなく勇敢に戦った。詩人キプリングによって書かれ、自らの祖先に称えられた歌を歌いながらである。一、二度は手に負えなくなり、彼らは負傷して捕らえられた反乱者をその男女を問わず拷問し、手足を切り落とした。教訓はこうである――反抗するな。ははは! 速報、速報! 彼らは精力的な仲間である。精力的で勇敢な仲間である。これをこの都市で騒ぎを起こしている猿どもへの良い教訓とすべきである。ああ! 猿どもめ! 地球の汚物どもめ! 速報、速報!」
声が止んだ。群衆からは不明瞭な不支持のざわめきがあがっていた。「くそったれの黒人どもめ」近くにいた一人の男が熱弁をふるい始める。「これが世界の主人のやることか、兄弟? これが世界の主人のやることなのか?」
「黒警だって!」グラハムは言った。「いったい何のことです? あなたたちはそんなことは――」
アサノが彼の腕に触れ、警告するように彼を見た。すぐさまあの機械の別の一つが耳をつんざかんばかりの叫び声をあげ、甲高い声で話し始めた。「あー、あー、あー! 現場からお報せします! 現場からです。あー! パリで衝撃的な暴動が発生。あー! 黒警に激怒したパリ市民による暗殺が頻発。恐るべき報復行為です。野蛮な時代が戻って来ようとしています。流血! 流血! ああ!」近くのバブル・マシンが「速報! 速報!」とけたたましくわめき声をあげてその言葉の最後をかき消し、さっきよりもずっと単調な調子で騒乱の恐ろしさについて新しい論評を読み上げた。「法と秩序は維持されなければなりません」近くのバブル・マシンは言った。
「しかし」グラハムは言いかけた。
「ここでは質問しないでください」アサノが言った。「さもないと口論に巻き込まれます」
「それでは先に進みましょう」グラハムは言った。「このことについてはもっと詳しく知りたいですしね」
降り注ぐ声の下を群れ動く興奮した群衆をかき分けて道連れとともに出口に向かって進むうちに、グラハムはこの部屋の大きさと外観をさらに明確に把握した。この巨大な空間には大小あわせて千近くの柱が立っていて、そこから甲高い声や野次、怒鳴り声、たわごとが流れ出している。そしてそのそれぞれに興奮した聴衆が群がっていて、その大部分は青いキャンバス地の服を着ていた。そこにはあらゆる大きさのマシンがあった。人の少ない片隅で機械仕掛けの皮肉をくすくすと笑いながら話す小さなゴシップ用マシンから、最初にグラハムにわめきちらしたような五十フィートの巨大なものまで、さまざまな等級がある。
この場所が普段になく混み合っているのは、パリでの出来事がどのように進んでいるかについて人々の関心が高まっていたためだった。明らかにそこでの争いはオストログが説明したよりもずっと野蛮なものになっていた。全ての機械がその話題について話していて、「リンチされた警官たち」だとか「生きたまま焼かれた女たち」だとか「黒人の兵隊」だとかいった人々の繰り返す言葉が大きなざわめきになっていた。「しかし世界の主人はこんなことをお許しになるだろうか?」近くにいた男が尋ねた。「これが世界の主人による統治の始まりなのか?」
これが世界の主人による統治の始まりなのか? その場所を離れた後もずいぶん長い間、野次や金切り声、機械からのしゃべり声は彼の後を追って来た。「速報、速報」「あーあーあー、あーあー、あー! あーあー!」これが世界の主人による統治の始まりなのか?
道へ出るとすぐに彼はアサノにパリ市民の戦いがどのようなものなのか詳しく尋ね始めた。「武装解除ですって! 問題は何なのです? いったいどうなっているんです?」どうやらアサノは「まったく問題ない」と彼を安心させることに必死なようだった。
「しかし暴動ですよ!」
「卵の殻を割らなければ」アサノは言った。「オムレツは作れません。乱暴な人間が騒いでいるだけです。しかも都市のごく一部でです。その場所以外は全てまったく問題ありません。パリの労働者たちは世界で最も荒っぽいんです。私どもの労働者を除けばですが」
「何ですって! ロンドン市民が?」
「いいえ、日本人のことです。とにかく秩序を保たなければなりません」
「しかし生きたまま女たちが焼かれていると!」
「コミューンですよ!」アサノは言った。「やつらはあなたからあなたの財産を奪おうとしているのです。所有権を廃止して、世界を暴徒による統治に委ねようと企んでいるのです。あなたこそが主人であり、この世界はあなたのものです。ともかくここにはコミューンはできないでしょう。黒警も不要です。
それに懸念事項は全て明らかになっています。あれは彼らのところの黒人なのです――フランス語を話す黒人です。セネガルの連隊、それからニジェールとティンブクトゥです」
「連隊ですって?」グラハムは言った。「私はてっきり、いるのはほんの一部隊かと――」
「いいえ」アサノは言って彼の方にちらりと目をやった。「複数の部隊がいます」
グラハムは不快な無力感を感じた。
「思ってもみなかった」言いかけて彼は不意に口をつぐんだ。彼は話を脱線させてあのバブル・マシンについて詳しく尋ねた。ほとんどの場所で、その場にいる群衆は粗末な、あるいはぼろぼろとさえ言える服を着ていた。グラハムが教えられたところによれば、もっと裕福な階級の者たちは皆、この都市の快適でプライバシーの守られたアパートにいて、レバーを引けばすぐに話し出す固定のバブル・マシンを持っているのだという。アパート居住者はそれを大きなニュース通信社のどれにでも好みに合わせてケーブルでつなぐことができる。それを聞いてしばらくした後、彼は自分のアパートの家具にそうしたものが無い理由の説明を求めた。アサノは困惑した。「思ってもみませんでした」彼は言った。「オストログが取り外したに違いありません」
グラハムは驚いて目を見開いた。「そんなこと私にはわかりようがないじゃないですか?」彼は叫んだ。
「たぶんあなたをいらいらさせると思ったのでは?」アサノは答えた。
「帰ったらすぐに元に戻してもらわなければ」しばしの沈黙の後、グラハムは言った。
このニュース・ルームやダイニング・ホールはさして大きな中心地でもないと聞いてもグラハムはなかなか理解できなかった。こうした施設は都市全体に数え切れないほどたくさんあるのだと言う。しかしその夜の視察の間、ときおり彼の耳はさわがしい街路から指導者オストログの組織に対するそれとわかる野次の叫びを拾った。「速報、速報!」だとか甲高い「あー、あー、あー!――現場からお報せします!」といったたくさんの声がそれに対抗していた。
またいたるところにたびたび現れるのが今、彼が足を踏み入れているような保育所だった。エレベーターに乗った後、ダイニング・ホールの上にかかるガラスの橋を渡り、わずかに上に向かって傾斜する道を進むとそこにたどりついた。その場所の最初の区画へ入るにはアサノの指示に従って支払いの署名をする必要があった。すぐさますみれ色の服に金色の留め具、資格を持った医療従事者であることを示すバッジをつけた男が彼らに付き添った。この人物の立ち居振る舞いから、どうやら自分が何者なのか知られているのだと彼は悟り、この場所の奇妙な立地について彼は遠慮なく質問を重ねた。
柔らかな詰め物がされた静かな通路はまるで足音を殺そうとするかのようで、片方の壁には細く小さな扉が並んでいて、その大きさや配置はヴィクトリア朝時代の刑務所の牢獄を思わせた。しかし、それぞれの扉の上部はどれも、彼が目覚めた時に周囲を囲んでいたのと同じ緑がかった半透明の物質で出来ていて、どの部屋もぼんやりと見える内部にはクッション製の小さなベッドに横たわるとても小さな赤ん坊がいた。複雑な装置が空気を監視していて、最適な温度と湿度から少しでも外れると、遠く離れた中央オフィスでベルが鳴らされる。こうした保育システムによって古い世界の養育における有害な危険性はほとんど完全に取り除かれていた。しばらくするとあの付添人が乳母役の機械仕掛けの人形の姿にグラハムの注意を向けさせた。それは驚くほどリアルな形状、関節、質感の腕や肩、胸を備えていたが、下半身は簡素な真鍮製の三脚で、顔の位置には母親が興味を持ちそうな広告が掲載された平らな円盤が取り付けられていた。
その夜にグラハムが出会った奇妙なものの中でもこの場所ほど彼の慣れ親しんだ考え方をかき乱したものは無かった。抱かれることも愛情をかけられることもなく、弱々しい手足をはっきりしない最初の動きに従ってふらふらと振り動かす、小さなピンク色の生き物たちの光景は彼をひどく不快にさせた。しかし付き添いの医者は異なる意見を持っていた。彼の統計的な証拠は議論の余地が無いことを示していた。ヴィクトリア朝時代において人生で最も危険な時期は母親の腕に抱かれている時期であり、その時期に人間の死亡率は最も恐ろしいものとなるのだ。一方で、この保育企業、国際保育企業連合ではこうした風変わりな養育法で育てられた百万人ほどの赤ん坊のうち失われる者は〇・五パーセントにも満たない。しかしそうした数字を受け付けないほどグラハムの偏見は強いものだった。
その場所にあるたくさんの通路の一つに沿って進むうちに彼らは見慣れた青いキャンバス地の服を着た若いカップルと行き当たった。カップルは半透明の窓の奥を見つめ、二人の最初の子供のつるつるの頭を見てヒステリックに笑い声をあげていた。グラハムの顔に二人に対する思いが浮かんだに違いない。二人は笑い声をあげるのを止め、きまり悪そうに見えた。しかしこのちょっとした出来事によって、自分の慣れ親しんだ考え方とこの新しい時代のやり方との間にある断絶を彼は不意に強く感じたのだった。困惑と動揺の中、彼は赤ん坊がはいまわる部屋と幼稚園を通り過ぎていった。彼は気づいた。果てしなく長い遊戯室には誰もいない! この時代でも少なくともまだ子供たちは夜は眠って過ごすのだ。こうして進む間に、あの小柄な役人がおもちゃの本質的性質を指摘してみせた。それらは霊感を受けた感傷家であるフレーベル(フリードリヒ・フレーベル(一七八二年四月二十一日-一八五二年六月二十一日)。ドイツの教育者。幼稚園を創始したことで知られる。また「恩物(Fröbelgaben)」と呼ばれる積み木状の幼児教育教材を開発した。)が考案したものの発展形なのだという。ここには保育士もいるが、歌ったり、踊ったり、あやしたりするための機械がほとんど全てをおこなっていた。
グラハムにとっては多くのことがまだ明瞭ではなかった。「しかしこれほど孤児が多いとは」彼は困惑しながら言った。最初の思い違いをまたしていたのだ。そして再びこの子供たちは孤児ではないのだと教えられた。
保育所を離れるとすぐに、彼は保育器に入った赤ん坊たちが自分に感じさせた恐怖について話し始めた。「母性は消え去ったのですか?」彼は聞いた。「そんなものはたわごとなのでしょうか? 間違いなく本能のはずです。こんなのはとても不自然に思える――ほとんど忌まわしいとさえ思います」
「ここをずっと行くとダンス場へと出るはずです」答える代わりにアサノは言った。「人混みでごった返していることは確実です。どんな政治的騒動があろうとここは人でいっぱいなのです。女性たちは政治にはさして関心を持っていません――あちこちにいる少数を除けばですが。母親たちに会えますよ――ロンドンにいる若い女性のほとんどは母親なのです。この階級の人間にとって子供を一人持つことは実に誇らしいことなのです――活力の証ですから。中流階級の人間で複数の子供を持つものはまれです。労働局では話が違いますがね。母性ですか! 彼女たちは今でも子供に対しては計り知れないほどの誇りを持っています。子供の様子を見るために本当に頻繁にここを訪れています」
「それではつまり、世界の人口は――?」
「減少しているかですか? ええ。労働局の下にいる人々に関しては別ですが。科学的統制にも関わらず彼らは見境がなく――」
突然、周囲の空気が音楽で震え始めた。彼らが斜めに進む先の道には透明なアメジストでできているように見える豪華な柱が立ち並び、道は、陽気な人々が集まる、明るい叫び声や笑い声が大きく響く中央広場へと続いていた。巻き毛の頭、花輪で飾られた額、そして光景全体に栄えるように楽しげで複雑な軌跡を描いて飛び回る黄色い染料が彼の目に飛び込んできた。
「見えるでしょう」アサノがかすかな笑みを浮かべて言った。「世界は変わりました。今、あなたが目にしているのが新しい時代の母親たちなのです。こちらへどうぞ。あの人たちにはあそこですぐにまた会えます」
彼らは高速エレベーターでかなりの高さまで上り、それからもう少し遅いエレベーターに乗り換えた。上昇していくに従って音楽は大きくなり、ついにはすぐ近くではっきりとすばらしい旋律が聞こえた。その美しく複雑な音楽の中を移動している間にも無数の踊る足の刻むビートがはっきりと聞き取れた。回転式ゲートのところで支払いをした後、一行はダンス場を見渡す広い空中廊下へと出て、その音と光の魅力の全てを堪能することとなった。
「ここにいるのが」アサノが言った。「あなたが目にした小さな子供たちの父親と母親です」
このホールはアトラスの大広間ほどには豪華に飾られていなかったが、それを別にしても、大きさに関して言えばグラハムが目にした中でも最も壮大なものだった。空中廊下を支える美しい白い手足を持った像は復元された壮麗な彫像を一度ならず彼に思い起こさせた。それらは愛想のよい態度で身をよじっているように見え、その顔は笑っていた。この場所を満たしている音楽の源は隠されていて、実に広い光り輝くフロアは踊るカップルで覆われていた。「彼女たちを見てください」あの小柄な役人が言った。「彼女たちがどれほど母性的かがわかるでしょう」
彼らが立っている空中廊下は巨大な間仕切りの上辺に沿って走っていて、その間仕切りがダンス・ホールとその入場口ホールとを区切っていた。外側のホールの広いアーチ門の向こうにはひっきりなしに人の行き交う都市の道路が見えた。この入場口ホールには少し地味な服をした人々からなる大群衆がいて、その数は中で踊っている人間と同じくらいだったが、その大部分は今やグラハムにもおなじみになった労働局の青い制服を着ていた。あまりに貧しくて回転式ゲートを通ってお祭りに参加することができないのだが、それでもその誘惑するような音から離れられずに彼らはそこに留まっていた。中には周囲から人を遠ざけて空間を作り、自らのぼろぼろの服をはためかせながら一緒に踊っている者もいた。踊りながらグラハムには理解できない冗談や奇妙な言葉を叫ぶ者もいた。一度、誰かがあの革命の歌のメロディーを口笛で吹き始めたが、どうやら始まるやいなや即座に止めさせられたようだった。その隅の方は暗くてグラハムには見通すことができなかった。彼は再びホールの方に向き直った。女像柱上に、この時代における偉大な道徳的解放者や先駆者として尊敬される人物の大理石の胸像が置かれていた。その名のほとんどはグラハムには見知らぬもので、彼にわかるのはグラント・アレン(グラント・アレン(一八四八年二月二十四日-一八九九年十月二十五日)。カナダ出身のイギリスの科学作家、小説家。)、ル・ガリエンヌ(リチャード・ル・ガリエンヌ(一八六六年一月二十日-一九四七年九月十五日)。イングランドの作家、詩人。)、ニーチェ(フリードリヒ・ニーチェ(一八四四年十月十五日-一九〇〇年八月二十五日)。ドイツの思想家、文献学者。 )、シェリー、ゴドウィン(ウィリアム・ゴドウィン(一七五六年三月三日-一八三六年四月七日)。イングランドの思想家、作家。)だけだった。大きな黒い花綱と言葉巧みな文句がダンス場の天井近くの一部に彫られた巨大な碑文を飾り立て、「目覚めの祭り」が進行中であることを告げていた。
「大勢の人間が休暇を取ったり仕事を休んでいるのはこいつのせいなんです。戻るのを拒絶している労働者はまた別ですが」アサノが言った。「ここの人間はいつも休暇に余念がありません」
グラハムは手すりへと歩み寄り、立ったまま身を乗り出して踊る人々を見下ろした。遠く離れた所でこっそりとささやきあっている二、三組のカップルを別にすれば、その空中廊下にいるのは彼とその侍従たちだけだった。むっとするような香水の香りと生命力が彼のところまで立ち昇って来る。下にいる男たちと女たちはどちらも薄着で、腕をむき出しにし、襟元は大きく開いていた。どこにいようと暖かいこの都市がそれを可能にしているのだ。男たちの髪は多くの場合、女性的な長い巻き毛で、顎はどれも剃り上げられていて、頬紅をさしている者が大勢いた。女の多くはとてもかわいらしく、皆、複雑でなまめかしい服装をしている。下ですばやく動き回る彼らの、喜びに目を半ば閉じた恍惚とした顔が見えた。
「ここにいる人たちはどういう身分なのです?」唐突に彼は尋ねた。
「労働者――裕福な労働者です。あなた方が中流階級と呼んでいたものですよ。小さく分かれた事業に携わる自営業者はずっと以前に消えましたが、店舗従業員、経営者、何百種類にもわたるエンジニアはいます。もちろん今夜は休日なので都市のどのダンス場も人混みでごった返しているでしょう。それからどの礼拝所も」
「しかし――女性たちは?」
「同じです。今は女性の労働形態は千種類もあります。ですがあなたの時代でも独立して働く女性は現れ始めていたはずです。今ではほとんどの女性が独立しています。形の差はあれ、ほとんどの者は結婚しています――婚姻契約のやり方はたくさんあるのです――そうすることで収入が増え、楽しむことができるようになるのです」
「なるほど」グラハムは言って、紅潮した顔やフラッシュライト、跳び回るような動きに目をやり、このピンク色の頼りない手足の悪夢についてじっと考え込んだ。「そしてここにいるのが――母親だと」
「ほとんどがそうですね」
「こうしたものを目にすれば目にするほど、あなたたちの問題はいっそう複雑になっていく気がします。これは驚かされた一例ですが、パリからのニュースにも驚かされました」
再び彼が口を開くまで少し間があった。
「これが母親たちとは。だんだん物事を理解するための現代的なやり方がわかってきたように思います。私の体には古臭い思考習慣がまとわりついているようだ――思うに、とうにその役目を終えた要求に基づいた習慣が。もちろんのことですが私がいた時代では女性は子供を生むだけでなく、その子供を抱いて、献身的に面倒を見て、教育するものだと思われていました――道徳的、精神的な教育の本質的なところ全てを子供は自分の母親から授けられていたのです。さもなければそれ無しでやっていかなければなりませんでした。そうしたもの無しでやっていっている者が大勢いたことは認めざるを得ません。現在では明らかにそうした世話の必要は蝶々の子育てほどにもありません。それはわかります! ただ理想があったのです――真面目で忍耐強い女性、物静かで落ち着き払った家庭の女主人、母であり人間を作り上げるその姿――それを愛することはいわば崇拝だった――」
そこで彼は言葉を止めて繰り返した。「いわば崇拝だった」
「理想は変わるです」あの小柄な男が言った。「必要なものが変わるのに応じて」
グラハムがつかの間の夢想から目覚めると、アサノはその言葉を繰り返した。グラハムの思考は目の前のものに戻っていった。
「もちろん、これが完璧に合理的であることはわかります。自己抑制、冷静さ、成熟した思考、無私の行為、そうしたものは野蛮な国家、危険と隣合わせの暮らしでこそ必要とされるものです。粘り強さは征服されざる自然に対する人間の貢ぎ物です。しかし人間は今や全ての実用的目的において自然を征服した――政治的問題は黒警を連れた指導者によって管理されている――そして人生は喜びに満ちている」
彼は再び踊る人々を見た。「喜びに満ちている」彼は言った。
「疲れ果てる瞬間もあります」あの小柄な役人が考え込むようにして言った。
「彼らはみんな若々しく見えます。下に降りれば私はきっとひどく年老いた男に見えるでしょう。私のいた時代では私は中年を少し過ぎたあたりだったはずです」
「彼らは若いのです。この労働都市のこの階級では高齢者はわずかしかいません」
「どうしてです?」
「高齢者の暮らしはかつてほど楽しいものではないのです。愛人や介助者を雇えるほど豊かでなければ。そして我々には安楽死場と呼ばれる施設があります」
「ああ! あの安楽死のことですね!」グラハムは言った。「安らかに死ねるという?」
「安らかに死ねます。それが最後の喜びなのです。安楽死会社は実にうまくやっています。人々はずっと以前に支払いを済ませておいて――費用のかかる作業なのです――どこかの歓楽都市へ行き、金を使い果たした後で疲れ切って戻ってきます。とても疲れ切って」
「まだまだ理解できていないことがたくさんあります」少し押し黙った後でグラハムは言った。「ですがそうしたものがどんな論理で成り立っているかはよくわかります。私たちの持つ一連の怒りに対する徳目と厳しい自己抑制は危険と不安の結果でした。ストア派や清教徒は私の時代でさえ消えつつある類型だった。古い時代では人間は苦痛に対して武装していましたが、今では快楽を渇望しています。そこに違いがある。文明は苦痛と危険を追い払った――裕福な人間に関してはですが。そして今では裕福な人間だけが重要なのです。私は二百年間、眠ってきた」
しばらくの間、彼らは手すりにもたれて、複雑に移り変わっていくダンスを目で追った。確かにその光景はとても美しかった。
「神に誓って」グラハムが突然、言った。「私だったら、この化粧した愚か者の一人となるより雪の中で凍えている傷を負った番兵になる方がましだ!」
「雪の中では」アサノが答える。「考えが変わるかも知れませんよ」
「私は文明化されていない」聞き入れずにグラハムは言った。「問題はそこなのです。私は原始人――旧石器時代の人間なのです。彼らの激情や恐怖や怒りの泉は封印され閉ざされていて、生涯の習慣が彼らを陽気でおおらかで愉快なものにしている。私の十九世紀的な驚きと嫌悪はご容赦ください。ここにいる人たちは高度な技術を持った労働者やなんやだとあなたは言いました。ここでダンスがおこなわれている間にも、人々は戦っているのです――世界を守るためにパリでは人々が死んでいっています――彼らが踊るための世界を守るために」
アサノはかすかに微笑んだ。「それに関して言えば、人々はロンドンでも死んでいっています」彼は言った。
しばらく静寂の間があった。
「ここにいる人たちはどこで眠るのですか?」グラハムは尋ねた。
「上下の階に――入り組んだウサギ小屋があるのです」
「それでは彼らはどこで働いているのです? これは――私的な生活でしょう」
「今夜、ちょっとした仕事の様子を見られますよ。労働者の半分は外にいるか兵役に就いています。もう半分のここにいる人たちは休暇中なのです。ですが、もしお望みでしたら仕事場へ行きましょう」
しばしグラハムは踊る人たちを見つめ、それから唐突に顔を背けた。「労働者を見たいです。ここはもう十分だ」彼は言った。
アサノがダンス・ホールに架かる空中廊下を先導していった。しばらくすると新鮮な冷たい空気が吹く横断通路へと出た。
通り過ぎる時にアサノはこの通路をちらりと見やってから立ち止まり、それからそこへ戻って笑顔でグラハムの方を向いた。「閣下、こちらに」彼は言った。「面白いものがあります――少なくともあなたのよく知っているもののはずです――しかも――。いえ、言わないでおきましょう。どうぞこちらへ!」
次第に寒くなっていく窓の無い通路を彼は先導していった。足音の反響はこの通路が橋であることを告げていた。やがて円形の空中廊下へと出た。そこは外気を遮断するガラス張りになっていた。さらにたどり着いた先の円形の部屋はどこか見慣れたものに思えたが、グラハムは自分が以前、いつそこに足を踏み入れたのかはっきりと思い出せなかった。そこにははしごがあった――彼が目覚めてから一番最初に見たはしごだ――それを登って高くて暗く寒い場所へ出ると、そこにはまた別のほとんど垂直なはしごがあった。彼らはそれを上がっていったが、グラハムはまだ混乱していた。
しかし一番上にたどりついた時に彼は理解し、自分がしがみついている金属製の棒の正体もわかった。彼はセント・ポール大聖堂の丸屋根の下のケージの中にいたのだ。丸屋根は、都市全体の輪郭から少し離れたところで静かな夕闇の中にそびえ立ち、遠くにあるわずかな明かりに照らされて油をまとったように輝きながら、周囲を取り巻く暗い雨受けへと傾斜しながら消えていっていた。
鉄格子の間から風の強い雲一つ無い北の空へ目を向けると昔とまったく変わらない星座が見えた。カペラは西の地平線近くにあって、ベガは昇りつつあり、大熊座のひときわ輝く七つの点は頭上で北極星の周囲を厳かに巡り動いていた。
彼は澄んだ空に浮かぶこうした星々を見つめた。東と南ではうなり声をあげる風車の巨大な丸い影が天を覆っていて、同様に評議会議事堂のあたりの光も覆い隠されていた。南西ではオリオン座が水平線近くに掛かっていて、鉄格子の網目とライトのまばゆいきらめきに照らされた複雑な形を通して見るとまるで青白い幽霊のように見えた。飛行ステージから聞こえる轟音とサイレンの叫びは飛行機の一機が飛び立とうとしていることをこの世界に告げていた。しばらくの間、彼は光り輝くステージにじっと目を凝らしていた。それから彼の目は北の方角の星座へと戻された。
長い間、彼は押し黙っていた。「これは」影の中で微笑みながらようやく彼は口を開いた。「今までで一番奇妙なことのように思えます。セント・ポール大聖堂の丸屋根に立って、もう一度このよく見慣れた静かな星々を見ることになるとは!」
それからグラハムはアサノに連れられて曲がりくねった道に沿って進み、賭博とビジネスのための巨大な地区へとたどり着いた。そこはこの都市の富の大部分が失われ、また生み出されている場所だった。彼に強い印象を与えたそこは、とても天井の高いホールが果てしなく続くかのように思えた。その周囲を開放的な何千ものオフィスにつながる何階層もの空中廊下が取り巻き、入り乱れるように架かるたくさんの橋や歩道、空中機関車軌道、空中ブランコや移動用ケーブルが縦横に走っていた。そしてこの場所は他のどこよりも熱狂的な活気や制御不能なせわしない活動の雰囲気に満ちていた。どこもかしこも派手派手しい広告だらけで、この光と色彩の喧騒に彼の脳がくらくらするほどだった。とりわけ鼻につく調子の声をあげるバブル・マシンがこれでもかというほどあって、激しい金切り声と愚かしい俗語がそこら中に満ちていた。「目を離さず滑り込め」「わお、大当たり」「うわさ好きは寄って聞け!」
その場所はひどく興奮している人々や隠した狡猾さで膨れ上がった人々でごった返しているように思えたが、教えられたところによればいつもより人は少なく、ここ数日の大きな政治的混乱で取引は前代未聞なほど少なくなっているのだという。巨大な空間の一つにはルーレット台が並ぶ長い大通りがあって、そのそれぞれを興奮したむさ苦しい群衆が取り囲んでいた。また別の場所では顔を白く塗った女たちと日焼けしたしわがれ声の男たちが騒々しく怒鳴りあいながらまったく実体の無い事業の株を売り買いしていた。それによって五分ごとに十パーセントの配当が支払われたり、くじ引きで決まった株の一定割合が紙くずに変わったりするのだ。
こうしたビジネス活動は容易に暴力へと変わるエネルギーで駆動されていて、グラハムが密集している群衆に近づくと、中心にいる数人の著名なビジネスマンが歯と爪を使ってビジネス上のしきたりの細かな点について激しく言い争っているのが見えた。いまだ人生には戦うに値する何かが残っていると言うわけだ。さらに彼を驚かせたのは、それぞれが人間の背たけの倍ほどもある真紅の燃えあがる表音文字で書かれた「我々は所有権者に保険をかけています、我々は所有権者に保険をかけています」という大きな告知だった。
「所有権者とは誰のことです?」彼は尋ねた。
「あなたです」
「しかし彼らは私の何に保険をかけているのです?」彼は尋ねた。「いったい私の何に対する保険なのです?」
「生保に入っていらっしゃったことは?」
グラハムは考えた。「生命保険のことですか?」
「そう――生命保険です。昔の呼び方はそうでしたね。彼らはあなたの生命を保証しているのです。数千の人間が保険に加入して、あなたには数百万ライオンの金額が掛けられています。さらには年金を掛けている者たちもいます。少しでも有名な人物であれば誰に対してもそういうことをするのです。ほら見てください!」
人々の群れが沸騰し叫び声があがった。グラハムが見ると、巨大な黒いスクリーンが不意に明るくなっていっそう大きな燃えるような紫色の文字が浮かんだ。「所有権者に対する年金保険――x五prG」人々はこれにブーイングとわめき声をあげ、息の荒い狂ったような目つきの男たちが何人か、曲げた指で空中をひっかくようにしながら走り過ぎていった。小さな出入り口の周囲では激しい騒動が巻き起こっていた。
アサノは手短に概算してみせた。「年十七パーセントがあなたに対する彼らの年金投資額です。もし今あなたがいることに気がつけば、それほど高い割合を支払おうとはしないでしょうね、閣下。しかしそれも彼らには預かり知らぬことです。あなたの年金保険はかつては非常に安全な投資だったのですが、今ではあなたはまったくのギャンブルの対象だ。それも当然ですが。これはたぶん絶望的な付け値でしょう。人々が自分の金を手に入れられるかは疑問に思いますよ」
周りには年金加入者とおぼしき群衆がますます増えていき、ときに前にも後にも動けなくなるほどだった。こうした投機家のうちのかなりの割合が女性であるように見えることに彼は気づいたが、そこでこの時代では性別に依らず経済的自立が図られていることを再び思い出した。こうした人々は人混みの中で実に巧みに立ち回ることができているようだった。代償を払って習得した特別な腕前で繰り出される肘が物を言った。押しつ押されつされながら隙間を求める一人の巻き毛の人物が何度かはっきりと彼のことを見た。まるで彼が誰なのか気がついているかのようだった。それから明らかにじりじりと彼に向かって近づいてきて、偶然とは思えないやり方で彼女の腕が彼の手に触れた。まるでカルデア人のように古風なその姿ではっきりとわかったのは、彼女の目に好意が浮かんでいることだった。次の瞬間、灰色のあごひげをたくわえた痩せた男が、気高い自助の情熱に大量の汗をかきながら、その光り輝く釣り餌の他にはこの世にある何物も目に留まらぬ様子で魅惑的な「x五prG」に向かって破滅的突進を試み、二人の間に割り込んだ。
「ここから抜け出しましょう」グラハムはアサノに言った。「私はこんなものを見に来たのではありません。労働者たちを見せてください。青い服を着た人たちを見たいのです。こんな寄生虫みたいな狂人たちは――」
気がつくと彼は争う大勢の人々の中にくさびのようにはまり込んでいた。