眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

底辺


ビジネス地区からようやく彼らは抜け出して、走る道で都市の離れた地区へと向かった。そこは製造業の大部分がおこなわれている場所だった。そこに着くまでにプラットフォームは二度、テムズ川を渡り、北から都市へと入ってくる巨大な道路と交差する、広々とした高架橋を通り過ぎた。どちらの時も彼には一瞬の出来事に感じられたが、どちらもとてもあざやかな印象を残した。川は、黒い海水の広い水面にきらきらと光を反射させながらさざめき、頭上には建物のアーチが掛かっていて、どちらの時も遠ざかるライトに照らされながら暗闇の中へと姿を消していった。黒いはしけがいくつも海の方へと通り過ぎ、そこには青い服の男たちが乗り込んでいた。道路の方は長く延びたとても広くて高いトンネルに覆われていて、大きなタイヤをつけた機械が道に沿って音もなく高速で走っていた。ここにもはっきりそれとわかる労働局の青色がたくさん見えた。二つの車線のなめらかさ、車体と同じくらい大きな空気タイヤの巨大さと軽快さが最も強くグラハムの心を打った。何百頭もの羊の、血の滴る死骸をぶら下げた縦長の金属製の竿がついた、ひょろ長くとても背の高い貨物車が彼の注意を強く引いた。不意にアーチ道の端がその光景を切り取って覆い隠した。

しばらくすると彼らは道から離れてエレベーターで下に降り、下り坂の通路を横切ってから再び下へ降りるエレベーターへと乗った。周りの様子が変わっていく。見せかけの建築装飾さえ姿を消し、ライトの数と大きさも貧弱なものとなり、工場地区へ近づいていくに従って、空間に占める建築物の割合はますます多くなっていった。陶工たちのほこりっぽい素焼き工場、砕石工場、金属工の炉室、イーダマイト原石の白熱する溶鉱炉のそばで、あの青いキャンバス地の服を男や女や子供が身につけていた。

この場所の巨大でほこりっぽい空中廊下の多くは機械の並ぶ静かな大通りとなっていて、ひどく灰の積もった炉が革命的転覆の証言者となっていたが、仕事がおこなわれている場所ではどこでも、仕事は青いキャンバス地の服を着た動きの遅い労働者によっておこなわれていた。青いキャンバス地の服を着ていないのは作業場の監督とオレンジの服を着た労働警察だけだ。ダンス・ホールでの紅潮した顔やビジネス地区での自発的な活力を目にした直後のグラハムが気づいたのは、現代の労働者の多くがやつれた顔と弱々しい筋肉、疲れ切った目をしていることだった。仕事の様子を見ていて彼が気づいたのは、わずかにいる労働者たちに指示を出す派手な服装の管理者や女性の作業監督と比べても彼らの体格が明らかに劣っていることだった。過去のヴィクトリア朝時代のたくましい労働者は、馬車馬といった動力源となるあらゆる生物の後を追って滅び去ったのだ。維持費の高い筋肉の地位は巧妙な仕組みの機械によって取って代わられていた。現代の労働者は、女性と同様に男性も、機械管理者や燃料供給者、下僕、侍従、あるいは命令下に置かれた芸術家なのだ。

女性は、グラハムの記憶に残るそれと比べると、階級がはっきりそれとわかり、平たい胸をしていた。清教徒的な宗教の道徳的制約からの二百年にわたる解放は、青いキャンバス地を着た大衆から女性的な美しさや活力という気質を消し去る仕事を成し遂げていた。肉体的・精神的に洗練されるための、形はどうあれ魅力的・卓越的なものとなるための確実な方法は、かつても今も変わらず、単調な労働からの解放だった。歓楽都市へと逃げ出して、その豪華さと楽しさを味わい、最後は安楽死によって平穏へと逃避するのが順路なのだ。そうした誘惑を断固として拒絶することは貧しい糧しか与えられていない人間にはほとんど期待できなかった。かつてのグラハムが暮らしていた若々しい都市では新しく集められた労働者の集団は様々な種類の群衆からなっていて、まだ個人の誠実さや高い道徳の伝統に揺り動かされていた。今ではそれは一つの生まれながらの階級へと分化し、独自の道徳と肉体的な特徴――さらには独自の方言まで持っていた。

彼らは下へ、さらに下へと、労働がおこなわれている場所へ向かって降りていった。動く道の街路の一つの下を通り過ぎた時には、はるか頭上でレールの上を走るプラットフォーム、その横方向に走る隙間から差す何本もの白い光の筋が見えた。稼働していない工場にはほとんど光が無く、グラハムにはそうした工場とその巨大な機械で覆い隠された通路は陰鬱に沈み込んでいるように思われた。また稼働して明かりが灯っている場所でさえ、都市の公道と比べればずっと光が少なかった。

赤々と光るイーダマイトの熔鉱炉を通り過ぎ、彼は宝石職人の入り組んだ作業場へとたどり着き、いくらか面倒はあったが署名をしてその空中廊下へ入る許可を得た。そこは天井の高い、暗くて、ひどく寒い場所だった。最初に出会ったのは金線細工の装飾を作っている数人の人間で、それぞれが自分用の小さな腰掛けに座って、小さな影を落とすライトを使っていた。ところどころにライトが灯された長細い光景、きらりと光る黄色いらせんの周りを動き回る明るく照らされたすばやい指、まるで亡霊の顔のように張りつめた顔、そのそれぞれに落ちる影は実に奇妙な印象を与えた。

作品の出来は実に見事なものだったが、造形や描画の力強さはまったくなく、その大部分は複雑でグロテスクなものか、幾何学的なモチーフをわずかに変化させたものだった。そこで働く者たちはポケットも袖も無い独特の白い制服を着ていた。それを着て出勤するのだが、夜になって労働局の施設から出る前には服を脱がされて身体検査を受けるのだ。労働警察が声をひそめて説明したところによると、あらゆる予防措置にも関わらず、労働局での窃盗は珍しくないのだという。

その先にあったのは女性たちが忙しく人工ルビーの厚板を並べて切断している空中廊下で、その隣では男女が一緒に七宝焼きのタイルの素地となる銅網の厚板を加工していた。そうした労働者の多くは唇と鼻孔が鉛のように白かったが、それは最近たまたま大流行しているある紫色のエナメルによって引き起こされる病気のせいだった。アサノはグラハムにこの不快な光景について謝り、この道を行くと都合が良いのだと言い訳がましく言った。「これこそ私が見たいと思っていたものです」グラハムは言った。「これこそが見たいと思っていたものなのですよ」まったく衝撃的なほどひどい姿に驚きを表さないよう努力しながらそう繰り返した。

「彼女ももっとまともに振る舞えるでしょうに」アサノは言った。

グラハムはいくらか憤慨の声をあげた。

「しかし閣下、あの紫色のことが無ければ我々はこんな状況にはまったく耐えられません」アサノは言った。「あなたのいた時代であればこうしたひどい状況に人々も耐えられたのでしょうが。彼女たちは二百年前と同じくらい野蛮ですよ」

この七宝焼き工場となっている下層の空中廊下の一つに沿って彼らは進み続け、やがて丸天井の部屋に架けられた小さな橋に出た。欄干から覗くと、下にこれまで見たどれよりも巨大なアーチ屋根の架かった船着き場があるのがグラハムには見えた。粉状の埃に息を詰まらせるようにした三艘のはしけから粉まみれになった積荷の石材が、咳をする大勢の人間によって陸揚げされている最中で、それぞれの者が小さな荷車を引いている。息を詰まらせる霧となって埃がその場所を満たし、電灯の光を黄色く変えていた。彼らの足元で労働者のぼんやりとした影が身振り手振りし、長く延びた白しっくい塗りの壁に沿って忙しく行ったり来たりしていた。ときおり一人が立ち止まって咳をする。

インクのように黒い水から突き出してそびえる陰鬱で巨大な石造りの建物を見て、グラハムは自分と空の間に何階層にもわたって存在する道や空中廊下やエレベーターのことを思い起こさずにはいられなかった。ここにいる者たちは沈黙の中、労働警察の二人の監視下で働いているのだ。彼らが行ったり来たりする薄板の道が、歩くのに合わせて虚ろで大きな音をたてた。その光景を見ているうちに、暗闇の中で誰かの低い声が歌を歌い始めた。

「やめろ!」警官の一人が叫んだがその命令は無視され、最初の一人の後を追うように、その場で働く白く汚れた者たち全員がその力強い旋律に続き、反抗的な調子で歌った――あの反乱の歌だ。今や、薄板の道がたてる足音は歌のリズムに合わせて鳴り響いていた。だん、だん、だん、と。叫んだ警官は仲間の警官の方へ目をやり、その肩がすくめられるのがグラハムには見て取れた。警官はそれ以上、歌をやめさせようとはしなかった。

そんな風にして彼らはこうした工場やつらい仕事がおこなわれている場所を通って、多くの苦しく暗鬱としたものを見ていった。この道のりはグラハムの頭に記憶の迷路を残していった。幕の降ろされたホールの揺れる光景、埃のもやの向こうに見えた人で埋め尽くされた丸天井の部屋、複雑な機械、機織り機を走る糸の束、刻印機械の重たい槌音、ベルトと電機子のたてる轟音とカタカタという音、寝床となっている光の少ない地下通路、ところどころに明かりが灯った無限に続く景色。こちらではなめし革の匂いがし、こちらでは醸造の匂いが、またこちらではこれまで嗅いだことのない匂いがした。いたるところに柱や交差したアーチ天井があり、そのどれもがこれまでグラハムが目にしたことのないほど巨大なものだった。油にぬれて輝くレンガ造りのぶ厚い巨人がこの複雑な都市世界のとてつもない重みの下で押しつぶされていたが、それと同時にこの血の気を失った何百万もの人々もまたその複雑さに押しつぶされていたのだ。そうしていたるところに青白い顔、やせた手足、ひずみと零落があった。

この場所の長く不快な調査の間にもう一度、そしてさらにもう一度、三度に渡ってグラハムはあの反乱の歌を耳にし、また一度は通路の先で激しい争いが起きているのを見て、たくさんの奴隷的労働者が仕事を終える前に自分の食べ物を奪い取ろうとするのだと教えられた。地上の道に向かってグラハムが再び上へあがっていっている時、青い服を着た大勢の子供たちが横断通路を走ってくるのが見えた。しばらくすると子供たちがなぜ慌てていたのかがわかった。警棒で武装した労働警察の一団が何かわからないが騒動に向かって小走りに駆けていったのだ。遠くの方で騒ぎが起きているようだった。しかし他の仕事場のほとんどでは絶望の中で仕事が進められていた。零落した人々の中に残った気力ある人間は全て、その夜、頭上の通りで世界の主人を呼び、激しく、そして騒々しく武装解除の拒絶を叫んでいた。

視察の巡行を終えた彼らは、明るいライトに照らされてプラットフォームの中央の通路に再び立った。遠くから、総合情報局の一つでマシンがあげている野次と金切り声が聞こえるのに彼らは気づいた。突然、走る人々が現れ、プラットフォーム上と道の周囲全体で叫び声と悲鳴が起きる。それから押し黙って恐怖に顔面蒼白となった女性、さらもう一人の息を切らせながら金切り声で叫ぶ女性が走って通り過ぎた。

「今度は何事です?」困惑しながら彼は言った。人々のこもったような話し声を聞き取れなかったのだ。それから不意に英語が聞こえ、皆が叫んでいることがわかった。男たちは互いに怒鳴り合い、女たちは悲鳴をあげていた。それはまるで雷嵐の最初の前触れである冷たい突風が都市を駆け抜けたかのようだった。声はこう言っていた。「オストログが黒警をロンドンに招集した。南アフリカから黒警が来る……黒警が。黒警が」

アサノの顔は驚きで蒼白になっていた。彼は少しためらってからグラハムの顔を見て、すでに彼の知っていることを彼に教えた。「しかしどうやって知ったのでしょう?」アサノが尋ねた。

誰かが叫ぶのがグラハムに聞こえた。「仕事を全て止めろ、仕事を全て止めるんだ」それから、緑と金の服を着たおかしなほど派手な、日に焼けた猫背の男が彼に向かってプラットフォーム上を跳ねるように駆け下りて来ながら、何度も何度も発音の良い英語で吠えたてた。「これがオストログのやることだ。悪党のオストログめ! 世界の主人は裏切られた」その声はかすれ、その叫び声をあげる醜い口からあごへ泡が滴っていた。男は黒警がパリでおこなった筆舌に尽くしがたい恐怖を叫び、金切り声をあげながら通り過ぎていった。「悪党のオストログめ!」

しばらくの間、グラハムは立ち尽くしていた。これは夢なのではないかという思いが再び彼の頭に浮かんでいたのだ。彼は両側に建つビルの巨大な絶壁を見上げた。それは最後にはライトのさらに上の青いもやへと消えていっていた。それから轟音をあげている何層ものプラットフォームへと目を落とす。それから大きく身振り手振りしながら通り過ぎていく、叫び声をあげて走る人々の方を見た。「世界の主人は裏切られた!」彼らは叫んでいた。「世界の主人は裏切られた!」

突然、彼の頭の中でこの状況が形を取り、現実の緊急のものへと変わった。心臓の鼓動が速く大きなものになる。

「とうとうだ」彼は言った。「私にはわかっていたのかも知れない。時が来たんだ」

彼はすばやく考えた。「私は何をすべきだろう?」

「評議会議事堂へ戻るのです」アサノが言った。

「訴えの声をあげてみてはどうだろう――? ここにいる人たちに」

「時間の無駄ですよ。本当にあなたなのか疑われるでしょうから。ですが彼らは評議会議事堂の周りに集まるはずです。そこでなら彼らのリーダーを見つけられます。あなたの強みはそこです――彼らとともにある時なのです」

「これがたんなる噂に過ぎない可能性もあるのでは?」

「本当らしく聞こえます」アサノは言った。

「事実を確かめよう」グラハムは言った。

アサノは肩をすくめた。「評議会議事堂へ向かった方がいい」彼は叫んだ。「彼らもそこに集まります。今でも廃墟は通行不能なはずです」

グラハムは疑わしげに彼を見つめたが、その後に従った。

一行は階段状のプラットフォームを最も速いところまで登り、そこでアサノは労働者の一人に声をかけた。質問への答えは聞き取りづらいぞんざいな言葉だった。

「彼はなんと言ったのです?」グラハムは尋ねた。

「詳しくは知らないそうですが、黒警は皆が知る前にここに到着したかも知れなかったと――もし風向観測所の誰かが察知していなかったらそうなっただろうと。ある若い女のことを言っていました」

「若い女? まさか――?」

「若い女と言っていました――彼女が誰なのかは知らないそうです。評議会議事堂から大声で叫びながら出てきて、廃墟で働いていた男たちに教えたそうです」

その時、別の叫び声があがり、何かが当て所無く起きていた騒ぎを明確な動きへと変えた。それはまるで通りに沿って一陣の風が吹いたかのようだった。「守りを固めろ、守りを固めるんだ。みんな、武器を取るんだ。みんな、守りを固めろ!」


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